では、アイデンティティに及ぼした父親の影響は、

どのようなものだろう。
以前カウンセリングにおいて、

2004年8月15日(日)
(途中略)
知的でないこと、勤勉でないこと、弱いことを、自分は軽蔑し、そのような性質を持つ人を差別する傾向がないか。そして、差別の対象に自分が入っているのではないか。

という話題があった(このブログを始める以前のこと)。自分が差別する対象は、まさに父親が持っていた属性を見出し得る人なのだ。というのは、父親は勤勉ではなく、弱い人間であったし、自分から見れば文化的に洗練された人とはとても言えなかった(自己愛の強い人特有の感覚なのだろう、本人は洗練されているつもりなところが、なおのことみっともない感じであった)。教養のある振りをした、およそ教養のない人物であったのだった。
あたかも、父親を憎むように、父親と似た性質を持つ人を憎み、差別する。
そして悲しいかな、差別の対象に自分自身も含まれている。
自分は、弱く、勤勉ではなく、文化的に洗練されていない、と見えるのだ。そのような自分を認めることはあまりにも辛い。一方で、自分がそのような人物であることは薄々判っているから、自分は自分自身を多いに蔑むのである。
そして、もう一つの心の動き、強く、勤勉で、文化的に洗練される人になるように、自分にとっては過剰で、精神的にすっかり消耗するような努力をしようとする、そういう心の動きも生じる。
この滑稽なまでの努力の結果、自分が自分を蔑まなくなるということは実際にはない。どんなに努力しても、自分のどこかに、弱く、勤勉でなく、文化的に洗練されていない部分が残るから。自分はそこを目ざとく見つけ、指弾してしまうのだ。
自分のアイデンティティには、以上のようなプロセスから生じている部分が少なからずあるように思う。他人からみれば、勤勉、意思堅固、文化的に洗練された紳士、でも自分の自分に対する評価は理想の自分と、最悪な自分の間をいったりきたり。

アイデンティティってなんだっけ?

アイデンティティに親の影響が占める割合は少なくないが、親自体はアイデンティティではない。
「親」と「親の影響」を区別すべきだ。
そもそも、自分の出自を「正当化する」必要はあるのか。自分は父親とは別の人間である。彼は親だったから、彼の悪影響を自分は大いに受けている。で、他にも良い影響、悪い影響を自分に及ぼした物事は色々とあるはずだが、なぜに父親?
あるいは、被差別部落の出身者がいたとして、彼はどう考えるのか。差別をしたのは社会であって、彼等はその被害者である。それは恥ずべきことか?
同様に、機能不全家庭の出身者がいたとして、彼はどう考えるのか。機能不全を生じた原因は親であって、彼等はその被害者である。それは恥ずべきことか?
逆に、自分が受けた良い影響もあったろう。それこそ、機能不全家庭に育ったからこを身に付けることのできた我慢強さや、気配りの良さ、人の気持ちを推し量る能力などは、優れた能力だろう。
このように、「出自」というのは本質ではない。自分がコントロールできない要因が、自分の人格形成に悪影響を及ぼした、ということが本質だ。
「出自」と「アイデンティティ」を区別すべきだ。「出自から影響を受けた自分」がアイデンティティなのだ。

なぜに父親が問題?

他の研究者が良い仕事をすると、つい、その人の親はどういう人なのか、ということが気になってしまう。多くの場合、親も学者だったりする。あるいは、それなりの社会的地位のある人だったりする。
他人とうまくコミュニケーションを取れている人がいたとする。「きっとこの人の家庭は健全だったんだなぁ」と勝手に想像して羨しく思う。
自分がコントロールできず、持っていないものについて、それを他人が持っていて、そのことを羨しく思うとしたら、その羨みは決して消えることのないものとならざるをえない。だから辛い。
でも、誰でも、その人がコントロールできず、持っていないものはあるだろう。たまたま自分の場合は、健全な家庭であり、世間に出して恥ずかしくない父親であった。
父親が自分が受けた悪影響の中でも最悪のものを私に及ぼしたとしよう。だが、それはたまたま最悪な影響を父から受けたということ以上のものではない。人によっては、立派な父親を持ち、例えば幼いころに虐待を近所の大人から受けた、などという人もいるかもしれない。その人にとっては、出自は全く問題ではない。

過度の一般化

そもそも、「誰しも、出自など、自分がコントロールできないアイデンティティを正当化したいものだ。」という文章にある種の歪んだ見方がある。「誰しも」ではない。「自分は」なのだ。過度の一般化である。
だから、「自分は、立派な父親の息子である誇りを持ちたいが、それは金輪際無理であることが世間に対する引け目になっている」と書き直そう。

今日のも、とんでもなく長い

のだ。いくつか前の日記で、

誰しも、出自など、自分がコントロールできないアイデンティティを正当化したいものだ。自分の父親は文字通りの犯罪者であるため、そのことが自分にとって深刻なアイデンティティ危機となっている。

と書いたが、それについて批判的に考えてみる。

カウンセラーの意見

下り坂を下って行く過程は、より深い心理へと、すなわちより無意識に近い心の領域へと、自分が近付いてゆく道程を表しているかもしれない。坂がきつくて、下るのが怖い、あるいはゆっくりと下らざるを得ない、という状況は、カウンセリングの場において、あまり性急に心の深い部分を扱って欲しくなく、ゆっくりと進んで行くのがいいと感じているのかもしれない。
夢の中で女性と会うことは、しばしば、自分自信の女性的な(あるいは感情的な)部分とコンタクトすることを表している。その女性とは、まだうちとけていなく、どことなくよそよそしい感じ、というのは、自分の女性的な部分、例えば感情と、まだ「親しくない」ということなのかもしれない。

自分の感じたこと

この夢はもと来た場所に戻りたいという夢なのではないか。丘の上が「聖」だとするとその下は「俗」。俗界に帰ろうにも、もときた道がない。いや、正確には車では行けない。歩いていくしかない。決して嫌な気分や、重い気分の夢ではない。なぜ、キャンプ場に自分は留まり、荷物を下し、女性に出会ったのか、良く判らない。その女性は親しみを込めて私に接していた。大層明るい性格の人であった。