だいたい二週に一度のペースで図書館に行っている。むつかしい本を読むと眠くなるから、睡眠薬代わりにちょうどいいのです。
時おり、借りた本が思いのほか面白くて眠くならなかった時などは、これは当たりなのか?それともハズレなのかどっちなのだろう?という不思議なこころもちになる。
魯迅の「藤野先生」を読んだ。別れの際、藤野先生から便りをくれと頼まれたのに、なんとなく手紙を出しづらく、時間がたつと今更という気も起きて連絡せずじまいとなる魯迅を見て、彼ほどの人物でもそうなのだから、わたしがなんとなくで返信を怠るのも、それはしごく当然なことで仕方がないことなのね・・・と、強い味方を得たこころもちになった。
それでやっと返事をださないままにすておいてしまった古い手紙と向き合う勇気が出た。年末の大掃除の時に発掘されて、そのままわざと忘れたふりをしていた手紙。日焼けした紙からは少しほこりっぽい匂いがする。昨日はベッドに寝転がって手紙を読みながら午後の陽だまりを溶かした。
手紙を読みながら、親密さについて考えていた。たとえば恋愛が厄介だなと思うのは、同じ思い出を共有することに重点がおかれちだったりすることで、それは記念日だったりクリスマスだったりが何か特別な価値をもつみたいなことによく表れていると思う。そして結婚や出産に幸せの形を代表させている大きな流れみたいなものも、全部その延長線にあるような気がしている。でも、親密であるということを同じ思い出の共有だとしてしまうと、その親密さはいつの間にか個人的なことから離れて、社会のなかでしか価値をもてなくなってしまう。そこに一抹の不安を感じてしまうのです。まぁ、かといって駆け落ちして誰も知らないところへ、みたいなのも違うし。結局親密さというのは、自分が忘れている自分のことを相手が覚えていて、相手が忘れている相手のことを自分が覚えていて、その思い出のすれ違いの積み重ねなんじゃないかなと思う。自分がすっかり忘れていたことを言われると、何か自分の存在が分け持たれているような感じがするのです。
アイドルだった頃にファンの人とどんな会話をしたか思い出そうとすると、断片的な言葉はいくつか覚えていてもその人との会話は覚えていないことにうっすらと罪悪感を感じる。そして同時にファンの人は私の言葉ではなく私との会話を覚えているのではないかと思いもする。人を理解していない場合はその人の言葉だけが記憶に残り、人を理解している場合はその人との会話が記憶に残る、という話を聞いたことがある。今となっては確かめるすべはないし、確かめられたとしてそれでどうするべきなのか。まぁ、どうもしないのだけども。
そんなせんのない事を考えながら手紙を読んでいるうちにストンと寝てしまって、気が付くと夜だった。自罰的なこころもちでベランダに出ると冬の夜風に肌がピンと張り詰めた。こんな冷たい信号機に額をこすりつけるような新月の夜には発砲がしたいし、誰かの発砲に死にたい。なにがどこまで嘘だって、死んだふりくらいしていたい。ファァン・・・という遠くを走る電車の気の抜けた音が何かを語り掛けるように藍色の空に響いた。そこに愛の言葉はあっただろう。凍えた街で突然に信じるような慰めの言葉。一回、二回、大きく胸を反って肺に空気を送る。それだけですっかりわたしは気をとりなおし、ほとんど陽気にさえなった。悲しみに飽きたものが、ほとんど陽気になるように。