Emma's Moving Speech

久しぶりの記事になります。本当に続けるのって大変ですね。


昨日はセミナーで講師を務めました。発表をされた私以外のお二人がビッグネームだったこともあり、90名ほどの先生方の前での発表ということになりました。私のことを知っている先生がどのくらいいるか手を挙げてもらいましたが、おそらく10名程度でした。つまり、この先生は何者?という状態で始まったということになります。ですが、みなさんとても協力的で、発表中何度も素晴らしい瞬間がありました。授業と同じで、前に立っている私と参加されている先生方全員で授業は作り上げるものだと実感しました。


さて、本題ですが、そのセミナー会場に向かう電車の中で、ずっと気になっていたフロリダのschool shootingの高校生によるスピーチを見ることができました。ニュースキャスターのa moving speechという紹介から始まったそれは、電車の中で何度も泣きそうになってしまう、とても素晴らしいものでした。その時から、このまま何もせずに2年生の授業を終えていいのかというモヤモヤした気持ちになりました。


そして今日、試験の返却と最終成績の算定作業という、気も時間も使う作業をしながら頭のどこかでレッスンプランを考えていました。彼女のスピーチは8分弱という長いものですし、使っている単語や表現も生徒になじみがないものが多いです。何よりアメリカの銃社会について、生徒がどのくらいの知識を持っているのかも分かりません。実は明日以降の授業ではやる内容が決められているので、最後の授業は明日なのです。何度もあきらめようかと思いました。でも大学入試という言葉しか聞こえてこないようになってしまった生徒に、今この授業をしなければもうチャンスはないかもしれません。


ようやく明日の授業の準備ができました。You can make a difference. その言葉が彼らの胸に残るよう、明日は頑張ってみようと思います。

学習者の先輩として

つい先日、18年前に教え始めた時と最近とで教え方がどう変わったのかを聞かれた。その後も気になって何度か考えていたら、ふと気づいたことがあった。いつの頃からか、英語学習者としての言葉が増えているような気がする。


おそらく、私自身教師として英語を教え始めた最初の頃は知識の伝達しかしていなかったので、英語学習についてのアドバイスや自分の経験なんか全然授業で話すことはなかった。それが今ではしょっちゅう自分自身が学習した時のことを生徒に話している。例えばある単語を紹介した時に、「なんだか覚えにくくて苦労したんだよね」とか「こういう風に理解してみたら覚えられた」みたいなことも伝えている。いつからそうなったのか覚えていないけど、授業中にそんな話をすると決まって生徒の顔が上がり、いつもとは違う表情を(いい意味だと思うけど)する。


教師として生徒の前に立っているけど、英語に関してはあくまでもNon-Native Speakerなわけだから、一学習者でしかない。だからこそ、彼らより前にその道を通った者としての言葉を伝えることも私の役目なのかもしれないと思ったりします。

「教えること」と「話合い活動」

この10月はとてつもなく忙しかった。その理由の一つが校務分掌における大きな山場だった。それが私だけでなく学校にとっても初めて立ち上げる事業だったので、どのくらいの業務になるのか全然分からなかった。そのため、よりによってその10月に研究授業を入れるなどという暴挙に及んでしまった。本当に大変でした。


その研究授業に向けて、いろいろ迷ったけど、そうは言っても何かに挑戦しようと決めました。普段通りの授業をしてもそれなりの評価をしてもらえるくらいには経験値は上がっているので、それでもいいかなんて気持ちが揺らぐことが何度もあったけれども・・・・。ということで何に挑戦したかと言われると、大それたことでもなんでもないのですが、「話合い活動」にやっと挑戦しようと思ったということです。


ということで研究授業でその時間を作ってみましたが、その時に思ったことを備忘録として書いておこうと思います。もちろん話合い活動は大変だという漠とした感想は持ちましたが、最も心に引っ掛かったことは「教師による道筋に乗せて話合いを進めること」に対する思いでした。授業のシミュレーションをしながら、おそらくこういう展開になるんじゃないか、じゃあ次はこういう風に誘導して、なんて考えてしまっている自分に対し疑問を感じることがありました。まぁ、結果としてその通りに進んだわけですが・・・。


そして先日ふと大村はま先生の本を読み返すことがあり、今はその内容から少し気持ちが整理されたような気がします。つまり、授業での話合い活動はシミュレーションとして機能していて、生徒が自分でゼロから思考するための練習なんだろうなぁと、今は考えています。自由に考えるための土台作りとしての授業や学校、というスタンスは私には納得がいきます。もちろん私の授業の良くない点でもある、「レールのひき過ぎ」には注意しなければならないとも思っています。


まだまだ力不足で話合い活動がうまくいかないことも多々あるのですが、言語の教師としてやっぱりできるようになりたいし、それこそが生徒が英語を使う場面であるべきだと思っています。ということで私の決意表明でした。

San Francisco Days 1

 最近になってよくSan Francisco State Universityで勉強していた頃のことを思い出します。以前はあえて思い出さないようにしていたこともあります。というのも、日本に戻ってきてアメリカでの生活とのギャップにちょっと困っていて、その頃の写真を見ると戻りたい気持ちになるからでした。あれから8年経ってようやく懐かしく思い出すことができるようになりました。ということで、唐突ですが備忘録として、あの頃のことを書いておこうと思います。



 8年前の今頃は授業が始まって約1ヶ月が経ったところでした。8月に渡米し、前任校で一緒だったALTの自宅に泊めてもらいながら、アパート探しを始めました。とはいえ、大学の回りにはアパート的なものはほとんどなく、予算の関係で一軒家の1部屋を借りてその他の部分をシェアするタイプのみを探しました。渡米するまで全く知らなかったのですが、San Franciscoは家賃が全米一高い場所だったのです。元々狭い地域なのにアメリカ人にとって人気がある都市のため多くの人が集まってきます。そのため住む場所は限られているし、家賃をどんどん上げても借りたい人がいくらでもいる状況でした。今はとんでもなく高騰しているらしいので、あの時思い切って行って良かったなぁと思っています。それでも、一ヶ月9万円という、それまでの人生で最も高い部屋を借りることになったのですが・・・。



 その部屋というのは、In-Lawと呼ばれる1階部分のガレージを改造して部屋にした場所でした。当然窓もなく日光が入らないので、ものすごく寒い部屋でした。そんな部屋に決めた理由はただ1つ、専用のキッチンとバスルームがついていたことです。普通のシェアルームを散々見て回りましたが、やっぱりキッチンとバスルームをシェアすることになると暮らしにくいだろうなぁと感じていました。絶えず自分の権利やテリトリーを主張していなければならないように思いました。なので、窓がなくても独立した部屋になっていることが、何ものにも代えがたいものでした。結果として、家賃もあとから聞くと実は安めでしたし、勉強が大変で日光を楽しむ暇もほとんど無かったので、この部屋に出会えてよかったです。


 この部屋に決まったのが大学でのオリエンテーションが始まる2日前で、それまで全然いい部屋に巡り会わなかったので、最後の方は本当に焦りました。日本と違って不動産屋さんが情報を一括して持っているのではないので、1軒1軒アポイントの電話をして現地を訪れて直接交渉して、という作業を毎日繰り返していました。この作業でだいぶ英語力が上がったので、大学の授業への良い練習になりましたが、ほんと、間に合ってよかった!

Quality or Quantity, That is a question.

 学校が始動した途端、連日暑い日が続いていて、生活リズムが狂った生徒そして私自身もものすごく疲れています。今の勤務校は(たぶん電気代削減の方法なんだろうけど)冷房を入れたいときは逐一事務室に電話を入れて、そこから遠隔操作をしてもらわないと冷房が入らない仕組みなんです。設定温度も遠隔操作されるので、とても暑い日は微妙に生ぬるい状態にしかならず・・。。でも冷房のオフだけは教室側でできるという、ちょっとしたコメディな環境です。



 そんな状態でも一生懸命勉強に向かっている生徒を見て思うことがあるのですが、学校や塾そして予備校でも結局「理解」までしか担保できていないような気がします。でも何か身に付けるときには、それと同じくらいの時間や労力を「定着」に費やさないと、せっかく理解したものが消えて行ってしまうのではないでしょうか。そしてその大事な「定着」の部分を、生徒に丸投げしてしまっていることが多いような気がします。「ここ大事だから復習しておいてね」なんて簡単に言ってしまうのですが、それを確実にさせるのも教師の役目なんじゃないか、と反省しています。



 そして、「定着」まで面倒を見てあげられない理由は、もしかしたら「全部カバーするためには時間がない」と教師が思い込んでいることかもしれません。まぁその気持ちも分かるのですが、英語に関しては、あやふやなものをいっぱい持っている状態よりも、量は劣るかもしれないけど確実に使えるものを持っている状態の方がいいんじゃないかなぁと思うわけです。


 「とにかく量をこなす」という言葉が飛び交っている今の職場ですが、こういう考えの人もまぁなんとか生きていけるゆるさがあるのが救いではあります。あ、そうか、量より質を取るって教師側の責任が重くなるわけか。だからそういう・・・・。じゃあ私にその覚悟はあるのか?そして、やっぱり量をこなせないと不安に思うだろう生徒の気持ちをくみ取る努力が私にできるのか?


また明日から頑張ります。涼しくなるといいなぁ。

課外

 課外はホントに苦手だ。その理由は何かなと考えてみると、まず生徒と私の間に微妙な距離があることが一番だと思う。授業と違って希望者対象の課外だったりすると初めましてな生徒が数名混じっていることも多い。また、定期的に開講されていないことも多いので、前回から日が経っていてやっぱり微妙な距離感になる。それでも課外は避けては通れないので、この夏はとにかくいつも通りにやってみることにした。


 生徒を名簿順に座らせてから、英語の授業を「英語力をつけるために」受ける方法について話した。進学校とはいえ、休み中に授業を受けるのはしんどいと思っている生徒も普通にいる。それでもちゃんと学校に来たのだから、力がつく意味がある授業にしませんか?と投げるところから始めた。そしてそのためには自ら動くことが不可欠であること、つまり動画での学習ではできないことをやるのが大切であり、そのためにLearning Partnerの存在がMustであると続けた。ここまでだいぶ時間をとってしまったが、生徒は(いろいろ思うところはあるだろうけど)積極的にパートナーと関わろうとしてくれた。課外だからこそ、改めてこういう話もできるかなと思った。

 
 2日間計6時間の課外を終えて最後に感想を書いてもらった。結果としてはおおむね生徒の英語力アップに貢献できたようだった。自分の英語力がついたと感じる瞬間が何度かあったと答えた生徒もいたし、勉強方法に悩んでいた生徒がこれからこの方法でやってみたいと答えてくれるなど、それぞれの生徒に何らかのものが残ったようだった。(こういうアンケートは無記名であっても鵜呑みにできないものだけれども)


 でも他の教室の様子を見ると基本的に先生がひたすら話をしていて、生徒は黙って聞いているか板書を写しているか、または問題を解いているかのどれかだ。私だけ違ったことをしているようで、そうはいっても不安になる。生徒の英語力が伸びればいいんだ!と余裕でいられたらいいのだけれど。そのためには私のやり方を貫いて、結果を出していくしかないんだろうなぁ。それまで気持ちが続くでしょうか・・・・。

研修

 この夏、いわゆる悉皆研修と民間団体が実施している研修の2つを、奇しくも2日間連続で受けました。どちらも朝から夕方まで行われるものだったので連続で受けたのは大変でしたが、それよりも連続だったことでその2つの違いがより鮮明になり、それからずっとモヤモヤしています。


 一番腑に落ちないなぁと思っていることは、英語教員向けの研修っていまだにNative Speakers of Englishにプログラムを作ってもらうべきものなのだろうか、ということです。というのも、もう長いこと日本人は学校教育の中で英語を学んでいますし、日本人が英語を教えている歴史や積み重ねも相当なものがあると思うんです。ですから、そういったものを検証したり体系化したりすることで、日本人による日本人のための英語教授法がある程度見えてくるんじゃないかと感じているのですが、実際は民間のセミナーにおいて個人レベルでの試行錯誤の成果を個人レベルで学んでいくか、もしくはNSEが作ったものを受講者のレベルや現状に関係なく全員で学ぶかという2種類でした。


 日本全国に素晴らしい取り組みをしている先生方がたくさんいます。その成果が研究紀要に載せられたり、DVDになって全国に配布されたり、いろいろな方法がとられながらも結局いつしか埋もれていっているのは大変もったいない話ですし、そうやって消えていってしまうことで、これまでのものを一歩進めた改善ができないことも考えられます。つまり、同じような取り組みが実は10数年前に誰かがすでに提唱しているものだったなんてこともあるかもしれません。


 もちろん、これまでそういった試みがされているのに私のような1教師の段階には届いていないだけという可能性もありますし、そもそもそんなこと不可能だという考えもあるかもしれません。でも少なくとも今回の悉皆研修の内容は、日本の現場で実際に生徒に関わっていらっしゃる先生に作っていただくことも可能だったんじゃないかと思いました。日本人のための英語教育を自前で作るといった動きが今後あるといいなと思った2日間でした。