猫な存在論(cat4)ー 猫は「家畜化」した存在か?

猫は、「我が輩は猫である」と、かの夏目漱石先生に勝手に宣名させられるはるか以前から、まがうことなくこの地球上に存在している。

では、猫は、はるか以前の、この地球上の「どこに?」存在し始めたのか?

猫は、かの「Wikipedia」によると13万1000年前(?1)から、リビアヤマネコを「原種」(元首?)としてこの地球上に存在していたということだ。ということは、「リビア」(正確には「大リビア・アラブ社会主義人民ジャマーヒリーヤ国」というらしい。国旗が緑一色で、アメリカに反抗的だったころの「カダフィ大佐」の名前で有名。)が、その発祥の地、ということなる。

「猫が家畜化された起源は、紀元前2000年頃、エジプトにおいてと言われている。家畜としての猫は、北アフリカの野生の猫がエジプトにおいて家畜化されたのと、東南アジア系で中国において家畜化されたのと、2つの系統がある。」(?2)そして「史家の説によれば、猫が中国で家畜となったのは西暦400年ころだったという」ことだ。(?3)
ということは、おおよそ12万9000年のあいだ、リビアヤマネコを祖先とする猫の一族は、ニンゲンに家畜化されることもなく、自然のなかで自由に暮らしていた、という推測が成り立つ。

「猫な世界 それは 生きものの 自然の 自由 ・・・ E=mc3(乗)」(?4)

というのが、ここ「猫な哲学」であきらかにすべき最終的なテーマでありますが、「生きもの」として「自然」な存在であり、しかも「自由」であったはずのネコが、ではどうして「猫」としてニンゲンによって「家畜化」されたのか?「家畜化」の意味も考えながら、戸川幸夫先生のご高説とクマゴローの私見をあいまぜながら要約すれば、つぎのようになる。(かな?)

犬と猫は、牛や馬、それから豚や羊などとはちがって「自ら進んで人間の世界に近づき家畜となった」。その理由は、
人間の近くにいた方が大型動物の危険から身を守りやすかったし、人間が食べ残した獲物にもありつくことができたからだ。もちろん、人間に守ってもらうどころか食べられもした。(特に犬は・・・)が、種族全体としては、人間と共生する方がいい、と彼等は判断(?)したようだ。

犬は、その集団的な性格から人間を主人(リーダー)と見なすようになり、人間が望む特殊な家畜(例えば、「番犬」とか「狩猟犬」とか「警察犬」とか「介護犬」とか・・・)へと進化した。要するに犬は、「人間のいうことをよく聞く」ということで可愛がられてきたのだ。

では、猫の方は?というと、ネズミを捕るという特別の能力から、「家畜化の発祥の地」といわれているエジプトにおいては、猫神様(「バスト神」)として崇められたりはしたけれど、特に人間が望む家畜へと進化したわけではない。むしろ逆に「適度に人間に甘え、適度に人間と距離を保ち、適度にいうことを聞かない」という絶妙なバランス感覚によって、人間に可愛がられてきたのだ。
そして猫は、その自然でしなやかな動作と自由なふるまいによって、むしろ人間に「自然」と「自由」ということについて考えさせる「高度な哲学的存在」になったのだ。(犬の方は、「忠心」ということを人間に考えさせる存在になった)

こうして犬と猫の人間との付き合い方を見ていると、かれらが単に「食べられるだけの家畜」ではないことが分かる。(特に「犬が食べられていた」という証拠は、日本でも縄文時代の遺跡から出ている)
もちろん牛や馬も、豚や羊も、人間との付き合いのなかでそれぞれ特殊に進化していった。それぞれ人間に食べられもするが、人間が望む生きものとしてそれぞれ特殊な役割も担っている。その人間とのかかわり方は、奴隷的な「家畜」という一面と、お互い助け合っている「共生者」という一面との、ふたつの関係の仕方があるようだ。

ランがこのところ、毎朝クマゼミを捕まえて来て、得意げにしている。クマゴローがなにやら難しげなことを云々しているが、猫のランにはまったく関係ない。「クマったものだ・・・」とかいうヘンな駄洒落もにゃんのこと?だ。ランは人間から餌をもらっているが、あきらかに「家畜」では、ない。

ランという猫は、毎日、自由にふるまい、自然に、自然やニンゲンと共に、そこにそうして存在している。

                   *  *  *

(?!)現世人類(ホモ・サピエンス)の起源は、いまのところ「ミトコンドリア・イブ」の遺伝子考古学の所見とエチオピアで発見されたという化石からおよそ15万年〜20万年前の範囲で諸説がある。35億年という生命史からすれば、ネコとニンゲンの起源は、ほぼ同時期だと言ってもいい。
(?2)河合隼雄『猫だましい』新潮文庫
(?3)戸川幸夫『イヌ・ネコ・ネズミ』中公新書
(?4)「E=exisit(存在)m=matter(物質)c3=cat(生きものという存在者)・catch(把握するという認識・create(なにか新しいものを作るという創作」。特に難しい数式はないが、難しげな(へ?)理屈はある。因に、
アインシュタイン特殊相対性理論では「E(エネルギー)=m(質量)c(光速)2(乗)」というちゃんとした数式がある。これは「質量とエネルギーの等価性とも言われ」「質量が消失するならばそれに対応するエネルギーが発生する(エネルギーが発生する時にはそれに対応する質量が消失する)ことを示す。」(wikipedia)らしい。「4次元の時空の力学」ともいわれている。クマゴローの「公式」らしきものは「無次元の空力学」と思ってもらっていい。

猫な存在論(cat3)ー 猫は「可愛いもの」として存在している?

猫が、カワイイ?・・・

もちろん、ある種のニンゲンにとっては、猫のどこが「カワイイ」のか分からないだろうし、「可愛い」どころか「可嫌い」なのであるから、「猫嫌い」といわれてるわけだが、かならずしも「ネコ科嫌い」というわけでもない。
(別に、調査したわけではないけど、猫は嫌いでも、ライオン、トラ、ヒョウ、ジャガーチーターなど、そのたくましい姿に憧れるニンゲンは、ありうるであろう。)

だが、そんな「猫嫌い」の人でも、知らず知らず「キャッ!」と?か「ね〜ぇ?(にぇ〜?)」とかの「猫なで声」を出して、ニンゲンのだれかに甘えている姿を目撃することがある。
ここに、ハイデッガー先生のおっしゃる「猫嫌い」と命名された「存在者」と「猫なで声」を出して存在する、その「存在」(の仕方)とを区別しなければならない所以がある。(なにやらクマゴローが、ちょっと得意げな顔をしている。笑ってやってください。)

ところで、ニンゲン(特に、その?性)が思わず(あるいは意識して)「猫なで声」を出してしまうのは、ニンゲンと猫との付き合いが、いかに長いか、ということの証であり、その現れでもある。(と、クマゴローはますます得意げだ。ふむふむ。)その長い歴史を通じて「猫はニンゲンを感化している!」というのは、あながちクマゴローの勝手な思い込みではないのかもしれない。
あの名高い「グレシャムの法則」(「悪貨は良貨を駆逐する」)にちなんで、これは「シャムネコの法則」と名付けても良いであろう。(ふむふむ・・・。)

すると、「シャムネコは気品の高い猫なんだから、ニンゲンに猫なで声なんか出して媚びたりしないわよ!」とおっしゃるご婦人がおられるような気もしてくる。
確かに「シャムネコ」(タイ王国原産。つまり「王国」由来の猫様ということだ)は気品が高い、というか、近寄りがたい猫だ、という印象をクマゴローも抱いている。というのは、身近に飼われていた血統書付きの「シャムネコ」が、そんな感じの「鼻でヒトを食ったような」猫だったからである。

しかし、たった1匹の「シャムネコ」で「気品が高い」だとか「近寄りがたい」だとかの結論を引き出す勇気は、例証の乏しい現在のクマゴローには、ない。ただ、「グレシャム」の「シャム」と「シャムネコ」の「シャム」で「語呂遊びの法則」をクマゴローが得意げに披露しているのだと思ってもらえるなら、手前味噌が美味しくなり、「にゃ〜?」と啼きたくなるというものだ。

今は亡き初代の「ミンカ」は、シャム猫ではなかったけど、気品の高い猫だった。「おいで、おいで」と手で招いても、プライドがあるのか、すぐには来なかった。手招きしたニンゲンが忘れた頃、知らぬ間にそのニンゲンの膝の上で、なに食わぬ顔をして寝ていた。

それから、知る人ぞ知る?突然いなくなった「みん」ちゃんは、だれからも愛される、どちらかといえば、ニンゲンに対してあまりにも無防備な猫だった。全身全霊に「可愛さ」が満ち触れていて、こんな猫は未だ見たことがない!
クマゴローの店(?1)は、この「みんちゃん」の存在でもっていたようなものだ、とみなさん思っている(らしい?)。

思い出話ばかりしていても仕方ない。いま、目の前にいる猫たちは、どうなのか?
「ノン」・「ロン」・「ラン」は、まあ、それぞれの「可愛さ」を持っているとは言えるが、「みん」には遠く及ばない。「みん」は、立ち上がって「ぽんぽん」と胸のあたりを軽くたたいて見せると、軽業師のようにクマゴローの肩に上に飛んできた。「ノン」や「ラン」や「ロン」は、「猫にこんなことが出来る能力があるんだ」ということさえ知らないようだし、知ったとしても、それをするほどの愛嬌は持ち合わせていない、ように見える。(母親の「ノン」は一度ニンゲンに飼われたことがあったのかもしれない、と思わせる気品を感じさせるが、それでも「野良」の生活が長かったのか、いまだに、どこかニンゲンを警戒しているところがある。

「みん」は、だから、いまや「伝説の猫」として語り継がれている。(実際、みん(店)のお客さん(当時小学校1年生の女の子)が、お母さんと一緒に、なんと素敵な「立体絵本」を作ってくれたことか。これは、クマゴロー一家の「一生の宝もの」になるであろう!)

しかしそれにしても、どうしてこんなにも、同じ親猫から生まれた猫ちゃんたちの性格や「可愛さ」の在り方が、ちがってしまうのだろうか?それは、ニンゲンの兄弟姉妹が同じ親から生まれても、まるでちがう「個性」を発揮するようなるのと同じことなのだろうか?ニンゲンも猫も「性格」のレベルでは「同族」ということなのだろうか?

ランやロンが、ちょろちょろ動くトカゲを捕まえたり、ひらひら飛ぶモンシロチョウを追いかけたりするのとおなじように、クマゴローも、ちらちらする赤いモノについ眼がいったり、ひらひらするスカートのようなものをわれ知らず追いかけたりしてしまうのは、ランやロンとクマゴローの遠い祖先は「おなじである!」ということを意味するのであろうか?

おそらく、断言はできないが、ニンゲンとおんなじように、ネコには猫の「存在と時間」がある!
(この証明は、実は途方も無く困難を極めるであろう。かのハイデッガー先生の「現存在」の定義に触れる問題だからである。)

さて、ところで、そうであるとして、では、ニンゲンと猫との付き合いは、いつ頃から始まったのか?

(?1)みんちゃんがいた頃は、「Soba House みん」という名前の蕎麦屋。いまは、移転を機に「蕎麦茶房 みん」と名前を変更しています。広島では、いまだ「希薄な存在」で、細々とやっております。来られる人は、一度ひやかしに寄ってみてください。「猫な哲学」の主人公たちに会えるかもしれません・・・(ちゃっかりと、宣伝?)

猫な存在論(cat2)ー 猫は「 ケモノ」として存在している?

猫は、あきらかに「毛織物」ではないが、「毛物」でおおわれた存在である。

そう、そうしてこの時期、その「毛物」のなかに「ノミ」といわれる吸血虫を寄生させながら、猫は、ニンゲンの家にうまく住み着いて、存在している。お陰で、いま、クマゴローの家には3匹の猫のみならず、星の数ほどの「ノミ」がいわゆる「住み込み」を決め込んでいる。
(「痒い!」と、おなじ「ネコ目」でもあるらしいクマ科のクマは、この悲鳴のようなコトバを発することがあるのだろうか?クマの研究者に訊いてみたい。)

だが、とクマゴローはなにを思い出したのか、羆(ヒグマ)のように立ち上がる。
猫の「ケモノ」は、「毛物」だけでは、ない!
猫の鋭い歯や爪を見ればわかるように、猫は、「獣」(ケモノ)としても存在しているのだ。

ノンやロンやランが、クマゴローの野菜畑や草むらや石垣などを探検して、毎日のように捕まえてくる生き物がいるのを、みなさんはご存知だろうか?
(もちろん、猫好きのみなさんには、ご存知どころか、当たり前過ぎて、わざわざ?の話かもしれない・・・)

そう、ト・カ・ゲ、だ。トカゲは可哀想に、この猫たちに捕まると必ずといってよいほど、なぜかニンゲンが寝泊まりする部屋のなかに連れて来られる。ニンゲンへのデモンストレーションなのか、見せびらかしにされ、いたぶられ、食べられもせず、有り難がられずもせず、あげくの果ては放置され、干涸びてミイラになる。
むろんその前に、トカゲはみずから「尻尾切り」をすることで、せめてもの自尊心を主張してはいる。それは、ある時代の、どこかの国の「サムライ」と呼ばれていたニンゲンとおんなじ気持ちのようだ。
トカゲにも「一分」の魂はあるらしい。(それはそうだろう。彼(彼女)らは、われわれ(ネコやクマやニンゲンなどの)哺乳類よりも、この地球上でずっと長く生きている爬虫類の一族なのだ。プライドがあって、当たり前だろう!)

ところで、猫が「ケモノ」だということは、「ネコ」という音に、中国の漢の文字がネコの首に鈴でもつけるように、いかにも意味ありげにつけられていることからも分かる。
この時代の中国では、猫は「獣」、つまりは「食肉目」の生き物として、あの「狸」(イヌ科)と同族の動物だと思われていたようだ。(猫はネコ科、当たり前!、というのは今日の知識。)
その「狸」と同族であると間違って思い込まれた猫が、田畑の作物の「苗」を食い荒らす野鼠を捕まえてくれるということから有り難がられ、敬意を込めて?「豸」(ムジナ)ヘンに「苗」という文字が添えられた、というまことしやかな説(?1)も、在るのではある。

はっきりしていることは、猫は「ネズミ」あっての「ネコ」だということだ。(このことについては、そのうち、その歴史的事実が詳細にあきらかにされる日がくるであろう。)

「存在者」と「存在」は、厳密に区別されて考察されなければならない、というのは、ドイツのかの大哲学者、ハイデッガー先生のご高説(?2)ではありますが、ニンゲンは自分が関心する存在者には「名前」という徴(しるし)のようなものをつけたがる性癖があるようだ。(この性癖が、ニンゲンの「徴(しるし)」でもありますね。)

とりあえず、ある日、ある国で、「ネコ」は「猫」というりっぱな「名前」をつけられることによって、その「存在」が「存在者」として「認識」(最近流行のコトバで言えば、「認知」)されたのである。

(?1): 戸川幸夫『イヌ・ネコ・ネズミ』(中公新書 P89)
(?2): マルティン・ハイデッガー存在と時間』(ちくま学芸文庫 「序論 第1章」)

猫な存在論(cat1)ー 猫は「ネコ目」として存在している?

ワタクシの家に、猫が3匹、「ネコ目」という共通の「目」を戴きながら、それぞれ異なる性格をもった生き物として存在している。

1匹目の猫は、「ノン」という。
残り2匹の親猫で、クマゴロー(ワタクシのこと)が広島の「黄金山」という新天地(実際はカミサンの親が住んでいた家)に蕎麦屋を移転する準備をしてる頃、もともとその家の庭の小道が猫族の通り道になっていたことから、会うべくして出会った猫のひとり(一匹?)だ。
「なかなか気品のある猫だなー」というのが、クマゴローとカミサンの一致した意見だった。
それで、「自然にここに居着いてくれるなら、飼ってもいいね」と言いながら、えさをやっていた。
「だいぶなついてきたかな?」という頃、ノンが家の中に入って来たので入れてやり、なんとなく入って来た戸を閉めたところ、ノンはどうしたことか、出口を求めて大パニックになり、鳴きながら右往左往して必死になってかけずりまわっていた。ノンが、出口を閉めたクマゴローをうさん臭い目で見、えさをもらう時以外はなんとなく警戒している風情でいるのはそれからだ。(そのときのクマゴローに、なんの悪気もないことは、みなさん周知の事実なのではありますが・・・)

2匹目の猫は、「ロン」という。
顔つきはどこかネコ族の仲間であるライオン族の眼をしていて、一見凛々しいのだが、クマゴローに対しては、ノン以上に警戒心を抱いており、恐れてもいる。家の中で、ごろんと気持ち良さそうに寝ていても、クマゴローが入って来ると、いまにも捕って食われそうな顔をして、そそくさと出て行ってしまう。
「なんでオレはこんなに嫌われているのだ?」ということついては、クマゴローじしんに思い当たるフシがある。
ロンが、クマゴローが思いつきで植えていた野菜畑(ナスやピーマンやトマトなどを植えていた)に入り込んで、あろうことか、小の用を気持ちよさそうにしていたところ、「ネコの小便=もう臭くて我慢のならない臭い」という単純な方程式にアタマを占領されたクマゴローが、ロンを軽い脅しのつもりで追いかけ回したことが、それだ。
クマゴローは、ほんのちょっと脅したつもりであったが、ロンにしてみれば、命がけの出来事だったのであろう。猫のアダルト・チルドレンというか、すっかりトラウマを刻み込んでしまったという感じで、以来クマゴローには心を許してはいない。(このときもクマゴローは、そんなに目くじら立てて脅したつもりではなかったのだけど・・・)

3匹目の猫は、「ラン」という。
ロンと性格は真反対で、恐れるものを知らない。というか、「恐れる」という心の有り様(クマゴローは猫にも「心」があると思っている)を知らない風なのだ。もちろん、ランがニンゲンにとって(ほとんどは、クマゴローにとって)なにか悪いことをすると軽く叩いたり、追いかけたりするのだが、それで別にロンのように、トラウマになるわけでもない。「トラウマ」ということに関しては、「ノン」と「ロン」と「ラン」のクマゴローに対する反応および態度を緻密に比較考量することで、「比較トラウマ学」という新しい学問の道が開かれるかもしれない・・・
それはさておき、いつもトボケたような目つきをしているランの出自は、あの「ライオン族」とおなじ「ネコ科」にあるのではなく、なにか別の「ヒトを食ったような科」(よくわからないので、こんな風に言っておきます)に所属するように思えてならない。
特にその声が、つまりは、「にゃ〜にゃ〜」(源氏物語の頃は「ネウネウ」)という鳴き声が「にゃ〜と鳴く子」(ネウと鳴くコ)ー「にゃん子」(ニャンコ)ー「にぇ子」(ネウコ)ー「ねこ」(ネコ)という風に、鳴き声由来のことばがどんどん転化していって「ネコ」という名前になったのだ、というかなり有力な学説(?1)があるにもかかわらず、「わおわお」とか「うえっうえっ」とか、ホントは表記不能なだみ声で、しかも毎朝枕元で鳴くものだから、うるさくてかなわず、目覚まし時計以上に目が醒めてしまう。
が、しかし、ランは天性のどうしようもなく憎めない可愛さをもっている猫だ。

(?1):戸川幸夫『イヌ・ネコ・ネズミ』(中公新書 P91)

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以上、今現在、クマゴローの家に居着いて存在する猫はこの3匹の猫たちなのですが、クマゴローやクマゴローの家族(カミサンと息子一人)の心には、今は亡き初代の「ミンカ」と、ある日ぷいと家を出てしまった(のかどうか、未だによくわからない)「みん」という猫が存在しています。
この2匹の猫のことについて語り出すととても長くなるので、これから折に触れて登場してもらうことにして、今回はこの3匹の猫の存在の有り様の一端について記しておきます。

はてな?猫な?

これから、自分の猫的で、いかにも哲学めかした文章を書いて行くのに、どうしてここ「はてな」を選んだのか?

もともと「哲学」の語源である「Philosophy」ということばは、「知を愛する」などといわれているけれど、本当は「はてな?」と猫のように首を傾げ、全宇宙のことどもやことばについて、耳をそばだてている姿のことをいうのではないか?と思ったからであります。

猫はどうして、ここにいるのか?
猫はどのように、世界を見ているのか?
猫がなにかを創作しているとしたら、それはいったいどんなものなのか?

いわば「哲学的」といわれている言い草をするならば、猫の「存在論」、猫の「認識論」、猫の「創作論」とでもいうほかない三つのテーマが、これまた「猫のように気まぐれに」、ここ「はてな?」で語りつがれていくことでしょう。

人ごとならぬ、猫ごととしてお付き合い願えれば、「哲学」と銘打った本人としては、いささか気も楽になるというものであります。

ところで、この「わたくし」は、いったい何者なのでしょう?
ときにニンゲンを名乗り、ときにクマを名乗り、はてはネコになりすましたりもする、不定(不逞?)の輩とでも言っておきましょうか。

「瓢簞から駒」ではなく、「猫に小判」でもなく、「瓢簞から猫が出てくる」ようなお話になるやも知れませぬ。(本人も実に「知れませぬ」です。)

これから、長い長い「はてな?猫な?」の物語が始まるでことでしょう、という当てにならない前口上にて、ご挨拶のことばとさせていただきます。