Mission Hill School(Boston)への閉校命令について

 個人的に、このGWはDWとかBWとか呼ぶしかないものになってしまった。GoldenではなくGloomyなら、頭文字はそのままでいいのかもしれないが。

 

 パンデミック前におよそ10年間、毎年2回、1週間ずつボストンに滞在して訪問してきた幼小中一貫校の公立学校Mission Hill School(MHS)が今年度いっぱいで閉校措置となることが決まった。

https://www.youtube.com/watch?v=l5RDhZ3x_nM

https://www.youtube.com/watch?v=irwzVHndvhY

https://www.nbcboston.com/news/local/boston-school-committee-votes-to-close-troubled-mission-hill-school/2713034/

 2年前に前校長からその地位を引き継いだ2人の共同リーダー(一昨年度から1人の校長をおかず、2人校長のような体制を取り、校長という役職名ではなくco-leadersという呼び方をとっていた)が、一部生徒間のいじめ問題や性的非行問題に適切に対応できていないという理由で昨年9月に入る前(現地での新学期開始直前)に休職を言い渡され、その他にも2名の教員が休職扱いになった。

 その後の弁護士らによる調査で、このいじめ問題や性的非行問題が、前校長時代から適切に対処されてこなかった点が指摘され、保護者からの訴えにもかかわらず、いじめ加害者に十分な措置が取ることもなく、また、そうした問題に関する報告書の作成や報告義務も怠ったことが明示された。報告書を読む限り、また、MHSに好意的である学校外の私の知る複数の人の話を聞く限りでも、前校長の判断や動き方に無視できない過ちがあったことを否定することはいまや難しい。

 関係者一同ショックを受けている。私はショックを受けているだけでなく、報告書を読み、上述の知人とメールでやり取りをしつつ、事態の理解が徐々に進む中で、大きな反省も強いられている。私は、MHSに冒頭に述べたように何度も訪問してきたし、この学校の在り方やそこでの実践を称賛的に日本に紹介し、前校長を日本に招いて、本務校や他大学で講演会やセミナーを企画・実施したことさえあるからだ。その上、昨年度には、私は、MHSの共同リーダーの解任を取り消すための署名活動に個人として賛同するのみならず、SNSなどを通じて多くの人に賛同署名への協力を呼びかけたという経緯もある。

 実は、数年前MHS訪問時のある日の学校運営評議会で、少数の保護者が当時の校長(前校長)の解任動議を提出した時に、その場面をあっけにとられながら目撃したこともあった。結局、反対多数でその動議は否決されたのだが。この時の問題を丁寧に調べようとしてもできなかったとは思うものの、それでも、今回の報告書の調査結果が真実なら、当時の校長や学校側に肩入れしすぎて目が曇っていたのだと指摘されても反論することができない。私たちが学ぶに足る実践を重ねている学校として私が何度も訪問してきた学校を率い、日本に招きまでした校長への敬意は今でも変わらないが、その校長が誤った判断・行為(不作為を含む)をとったことをもはや認めざるを得ないのである。

 4月27日に上記報告書が公開され、教育長がMHSへの今年度限りの閉校を勧告予定だという談話を含めて、この問題がマスメディアで大きく報じられてから、私は信じられないという気持ちを抱きながらも、とにかく分厚い報告書を読み進め、関係各方面に可能なコンタクトを試みてきた。

https://www.documentcloud.org/documents/21749098-mission-hill-school-equity-impact-statement-1

https://www.msn.com/en-us/news/us/scathing-investigation-prompts-boston-superintendent-to-recommend-closing-e2-80-98failed-e2-80-99-mission-hill-school/ar-AAWFzai?ocid=uxbndlbing

https://www.nbcboston.com/news/local/boston-superintendent-recommends-closure-of-mission-hill-k-8-school/2705535/

 予想されたように、当事者や現在も教員として同校に勤めている方からは今のところ返信はない(もちろん、返信を求めてもいない)。しかし、この学校を支援してきた外部団体の専門家、あるいはMHSで教員を務めた経験があり今は研究者として大学で教えている方とは、頻繁にメールでやり取りをして意見交換をしてきた。ショックの大きさは変わらないものの、こうしたやりとりができたことは、1人だけで考えるよりは、辛いながらも次を見据える上で大きな助けになっている。

 現段階では、次の2点のことだけを補足的に述べておこうと思う。1つは、弁護士調査団がまとめた報告書の全てを是認しなければならない(と私が思っている)のか?という点について。この問いに対する答えは明確にNoだ。校長や管理職の判断に誤りがあったとしても、同報告書が、今回の不祥事の原因がMHSの教育理念や学校風土・運営体制という根本にあるという結論はあまりに短絡的だと考えざるを得ない。もしそのような結論が正しいとするならば、多くの保護者と子どもがずっと前にこの学校から去ろうとしていただろうし、抽選で入学者が決まるこの学校に移ってきたくて欠員待ち名簿に多くの家庭が名を連ねるということもなかっただろう。この報告書には、自律的で民主的で、やや「緩い」文化を持つ学校への敵意にも見える論調が目立つように思われる。今回の不祥事を、そうしたそもそも論に還元することが適切だとは思えない。ただ、私自身、上述のように少なくとも部分的に事態を見誤ったという経緯がある以上、今回のこの報告書の論調や結論づけの仕方、その報告書の教育長による受け止め方等の妥当性に関しては、その記述・発言を精査した上で、私の印象論の妥当性とともに改めて検証する必要がある。あえてさらに付言すると、現在の教育長は、ボストンのパイロット・スクールの自律性の意義に懐疑的であることは間違いなく、今回の問題をきっかけにさらに教育委員会による統制が強化される可能性があるだけに、この点も注視したい。

 もう1つは、私だけではなく、広く注目され賞賛もされてきたMHSで、なぜこのような問題が生じてしまったのかという点に関してである。これも、今はもちろん仮説とも言えないような可能な推論として示すことしかできないが、上に触れた最近の比較的長文のメールでのやりとりの中で、同校でかつて務めていたある研究者が示唆してくれたことでもある。まず、初代校長Deborah Meierという巨人なしには、この学校の設立(1997年)も絶対になかったわけだが、同等のリーダーシップ(ただし、全く強権的でも権威主義的でもない)を彼女以外の誰に期待することもあまりに酷ではあるものの、こうした特徴的な(言い換えれば、州の方針とは異なるスタイルの教育を実践するだけに、攻撃を受けやすい)学校の持続可能性には、そのようなリーダーの存在が無視できないのかもしれないということだ。巨人的リーダーが去った後のこうした先進的な学校は、常に存続の危機に直面すると言っても過言ではない。しかも、同校が、2012年に現在の場所に移転して、フルインクルーシブ教育を目指すことになったものの、人的・物的リソースが限られ、様々な種類の特別支援教育への対応に伴う困難さは簡単に解決できなかったことにより管理職にも教職員にも負担(神経をすり減らさねければならない問題)が増す中で、目の前の問題を直視したり、問題の優先順位を的確に判断したりすることを、自らの高い理想と努力への自負が妨げていた可能性がある。これは伴奏すらできずに、ただ支援的に観察していたすぎない自分の在り方・感覚にも符号する。特別支援を要する子どもが多い中での対応の不十分さは、それこそスクール・クオリティ・レビューと呼ばれる訪問調査の結果報告書(2014年)でも明確に指摘されていた。しかし、その批判的指摘は、自分たちの取り組みを見直す上で非常に有意義で学校側として大変ありがたいのだと力説してくれた当時の校長の言葉を、私は尊敬の念を持って聞き、大きな疑問は感じなかった。

 こうした諸点に関して、日本にいながら、どこまで学術的議論に耐える水準で検討を重ねることができるかという点では甚だ心もとないけれども、この学校における教育実践を学会報告等でも取り上げ、その積極的意義を強調してきただけでなく、その意義は、今回のスキャンダルを受けた後でも基本的には変わらないのではないかと考えてもいる私にとって、自分に利用可能なデータや資料に基づいて、本当にそう言えるのか、言える(あるいは言えない)とすればどういう意味でなのか、どうしてなのか、と改めて問い直していく必要がある。

 以上、全く簡略で不十分だけれども、この学校を研究対象としてきた者として、私のような者の仕事に多少なりとも関心をお寄せいただいたことがある方々への、現時点でさしあたり私に可能なご報告とさせていただきたい。

 

仕事で書いた小文⑥:図書紹介を兼ねた卒業生(教職課程履修者)向け挨拶文 [2021年度]

 以前も同様の小文をアップしたことがある。昨年度はアップするのを忘れていた模様。本務校の教職・学芸員課程センターでは毎年度末ニューズレターを発行していて、その部署の責任者として、冒頭に挨拶文を書かなければならないのだが、最近は、図書紹介も兼ねている。今回は、STEAM教育について少しだけ書いた。

 脱稿した1月初旬の時点では、ウクライナ問題はまだ今のような事態として立ち現れておらず、全く触れていない。パンデミックだけでなく、ロシアによる侵攻によって、時代のフェーズが大きく変わるような事態が相次ぎ、本当はそうした新たねフェーズにおける教育の問題を考えるべきなのだがまだ何か書ける状態ではなく、もっと勉強が必要だ。

 以下、書影は全てリンクになっていて、クリックすると密林に飛ぶので、あしからず。

 

---------再録開始---------

 

教職に就くみなさん、教職を目指すみなさんへ

教育時事と若干の図書紹介とともに

 

 今年度も、教員採用試験に合格し来年度から教職に就くことが決まったみなさんを祝し、そうした卒業生や本学教職課程関係の先生方からのご寄稿も得て、このニューズレターを発行できることを担当部署責任者としてたいへんうれしく思います。近年はリーマショック後に比べるとやや経済が持ち直し、大学生の一般企業就職が比較的順調に推移してきたことで、また、教職の実態に見られる過酷さが問題視されることが多いという状況も影響したためか、教職履修者や教員志望学生がひと頃に比べると減少傾向にあります。そのような中で、いろいろな迷いや困難を乗り越え、来年度から晴れて教壇に立たれることになったみなさんには、改めて声を大にしておめでとう!とお祝い申し上げたいと思います。

他方で、これも毎年触れていることですが、残念ながら志望を十全に叶えられなかった方もいます。これまでの大きな節目でほぼ成功体験しかなかった方には、それはとりわけ大きな痛みを伴うつらい経験かもしれません。しかし、そのような挫折の経験は、実は教師にとっては図らずも大きな財産にもなるという点を強調しておきたいと思います。自らが学校現場で支援・ケアすることになるもっと若い人たちも、時にそうした困難に直面することがあるからです。その時、類似の経験を持つものだからこそ共感的に接し、自らの経験に基づいた身のある助言ができるのではないでしょうか。私自身も、高校受験や大学受験時のつまずきは、その時の感情の落ち込みを含めて重要な意味を持つ経験になり、そうした負の経験が結局は貴重な財産になりました。ぜひ気持ちの切り替えを図りつつ、粘り強く次を目指してほしいと思います。

 さらに付言するならば、教職を履修して本学を卒業した多くの方々を見ていて感じるのですが、みなさんの人生には、まだまだ大きなターニングポイントが訪れても全くおかしなことではないでしょう。一度教職に就いたからといって一生そのままでいなければならない理由はないですし、逆に、卒業後すぐに教員にはならなくても、どこかで教員を目指すことになるということもあり得ます。あるいは、教職を続けているとしても、何らかの壁に突き当たったり、大きな疑問を抱いたりするということもあり得るでしょう。この種の分岐点やある種の正念場は、当然自分自身のパーソナルな問題として直面するわけですが、こうした局面で重要な意味を持つのが、自分以外の人とのつながりではないでしょうか。悩みや迷いというのは、自分一人で考え込んでいると同じところをぐるぐる回って袋小路に陥ってしまうということもあるだけに、新たなヒントを得たり、自らを相対化したりする上で、豊富な対話の回路を備えているかどうかが大きな違いを生むことがあるように思われます。

課程センターでは、教職に関して必要な時に気軽に相談や情報交換ができるそうした回路の1つをみなさんに手に入れてもらえるよう、毎年2回、本学を卒業した現役教員の方々を含む教職関係者と教職課程を履修している在学生が参加する交流会を催してきました。この交流会をきっかけにSNSアカウントを交換し、相談をしたり相談にのったりというインフォーマルな交流が続いているようです。来年度も、春学期はAll Sophians Festivalに当たる529日(日)の午後に、秋学期は1217日(土)の午後に「教職交流会」を開催予定ですので、ご関心のある方はぜひ今からカレンダーに書き込んでおいていただければと思います。オンラインなのかオフラインなのか、あるいはハイフレックスなのかという開催形式その他詳細に関しては、在学生には学内web掲示Loyolaを通じて、卒業生のみなさんには、課程センターにメルアドを登録していただいている方々にメールでお知らせする予定です。

 

 さて、毎年この機会に、普段の授業で時間がなく取り上げる余裕がないものの、公教育にプロとしてこれから携わろうとしている学生のみなさんや、すでに教職に就かれている方々とも改めて共有しておきたいトピックに触れながら、比較的最近公刊された読みやすい書籍を紹介しているので、今回もさらに紙幅を費やしておきたいと思います。取り上げる本はほんの2冊プラスα(とはいえα>2で、 しかもこのα冊はすでに授業や授業用プラットフォームですでに紹介済みかもしれない)ですが、その2冊のうちの1冊はブックガイド本なので、さらに多くのオススメ本は信頼に値するその著者たちにおまかせしたいと思います。

ここで、図書紹介の糸口として触れておきたい話題とは、文部科学省の諮問機関である中央教育審議会により取りまとめられ、昨年度終盤の2021126日に公表されたた答申「『令和の日本型学校教育』の構築を目指して〜全ての子供たちの可能性を引き出す,個別最適な学びと,協働的な学ひびの実現〜」で触れられている“STEAM教育についてです。この言葉は、同答申の「新時代に対応した高等学校教育等の在り方について」と題された節で中心的に取り上げられています。官報告示として法的拘束性を有する学習指導要領とは異なり、その策定に向けた指針となる文書に過ぎないのがこうした答申なので、今後このSTEAM教育の高校教育への導入がどの程度本格化されるのか、現段階では必ずしも定かではありませんが、答申の内容が最終的に学習指導要領に盛り込まれることは当然十分な蓋然性があるだけに、その意味について簡単にでも整理しておくことは無意味ではないでしょう。

この用語は、一部教職課程科目でも解説しているように、もともとSTEMと呼ばれていたものにAが加わってSTEAMになったものです。STEMとは、ScienceTechnologyEngineeringMathematicsの頭文字をとった略語で、STEM教育とは、これら各分野を別個に分離した教科・科目として学ぶのではなく、それらを関係付け、総合的に学ぶ学際的・教科領域横断的な探究的学習領域の設定を意味し、1990年代に全米科学財団(National Science Foundation)により定式化されました。近年はこれにArtAが加えられてSTEAM教育として再編され、その意義に注目が集まってきています。ただし、ここで注意しなければならないのは、このAが単に芸術を意味するのではなく、また単数系のartでもなく、(the) artsと複数形で表現される内容を指すということです。これは要するに、いわゆるリベラル・アーツを意味します。自由学芸、時には、一般教養という日本語も当てはめられるこのリベラル・アーツのうち、STEMに含まれている科学・数学という理系教科を除くならば、ここで特に意識されているのは芸術を含むいわゆる「人文学(humanities)」なのです(cf. De la Garza, Armida, and Charles Travis, eds. The STEAM revolution: Transdisciplinary approaches to science, technology, engineering, arts, humanities and mathematics. Springer, 2018.)。人文学といえば、その代表格として、哲学や文学、歴史学などが思い浮かぶかもしれません。では、もともとSTEMだったものが、なぜA=リベラル・アーツあるいは人文学を含むSTEAMへの転換が標榜されるようになったのでしょうか(ちなみに、かなり話題になったので既読の方も多いでしょうが、初等中等教育課程の基礎となる学問・科学の、つまり「親学問」の歴史に関しては、コンパクトで読みやすい新書ですが密度の高い好著、隠岐さや香『文系と理系はなぜ分かれたのか』星海社新書、2018がオススメです)。

STEMという理系分野の教科領域横断的な学習は、端的には産業界におけるイノベーションを支える人材育成に寄与することが期待できる教育のあり方として注目を集めてきました。後期近代になると、前期近代の大量生産、すなわち少品種大量生産(low-mix high-volume production)から、多品種少量生産(high-mix low-volume production)へと軸足が移るようになることにも表れているように、「新しさ」や「差異」というものが持つ価値が飛躍的に高まることになります。一定程度物質的豊かさが達成されると、消費者のニーズは多様化しますし、およそ必要なモノをすでに所有している人々にさらに商品・サービスが購入されるようにするには、今までにない「新しさ」や他との「差異」という高付加価値が重要な意味を持つからです。イノベーションとは、まさにこうした価値を生み出し、それまでにない局面を切り拓くことを意味しますが、それが既製の枠組に収まらない革新的創造であるならば、分離教科型という従来的なカリキュラムの枠組に囚われない学際的アプローチによる探究型学習に期待が寄せられるとしても不思議ではないでしょう。革新的なアイデアや技術は、別々に分かれた個別的領域の中からというよりは、その隙間、あるいは融合からこそ生み出される可能性が高いと考えられるからです。

では、ここにリベラル・アーツあるいは人文学が組み込まれることの意味は、どのように理解できるのでしょうか、それは、イノベーションの方向や方法にもはや「単純な正解は存在しない」という点にあると言えるかもしれません。ここにこそ人文学を組み込むSTEAM教育が脚光を浴びる所以があります。なぜなら、芸術とともに哲学や文学はもともと、単純な正解のない問いを立て、簡単に答えが得られないという見通しの悪い状態に対する耐性を保ち、自己を相対化しつつも、より説得力のある方向に向かって探究を進めるという営為を積み重ねてきたからです。くわえて、従来大別されてきた文系領域と理系領域の融合という側面も、STEAM教育に含まれていると捉えることが可能かもしれません。いずれにせよ、このように、STEAM教育の勃興はリベラル・アーツの再興と軌を一にしていると言えます。近年、本学もその例に漏れませんが、大学で高学年向け教養科目、あるいは後期教養教育が重視されるようになったことも、こうした動向と無関係ではありません。

ただし、ここで注意しておきたいのは、産業上の利益を生みだすイノベーションに資する人材の育成(だけ)が公教育の目的であるわけではないという点です。たとえば、民主主義の危機と言われる事態をどう乗り越えればいいのか、環境・エネルギー問題や格差問題等を含むSDGsをどのように実現していけばいいのかといった諸課題は、私たちが一市民として生きていく上で誰にとっても避けて通れない以上、試行錯誤を通じてこれらの課題を漸次的に解決していくという営みは、全ての人に実質的に開かれている必要があるでしょう。とすれば、民主主義社会を構成する一市民としての、あるいはグローバルな諸問題に直面している一市民としての私たち一人ひとりにとって、そうした単純な正解なく多様な学問分野を横断するような問題に取り組めるようになるための学習機会を得ることが重要な意味を持つことになるでしょう。そのような機会として、人文学的教養をも含む教科領域横断的な探究学習としてのSTEAM教育は、産業上のイノベーションに寄与するという以上の積極的意義を孕んでいるとみなすことができるわけです。

実際、上記中教審答申でも、「STEAM 教育の目的には,人材育成の側面と,STEAM を構成する各分野が複雑に関係する現代社会に生きる市民の育成の側面がある。」と断った上で、「STEAMの各分野が複雑に関係する現代社会に生きる市民として必要となる資質・能力の育成を志向するSTEAM 教育の側面に着目し,STEAMAの範囲を芸術,文化のみならず,生活,経済,法律,政治,倫理等を含めた広い範囲(Liberal Arts)で定義し,推進することが重要である。」と述べています(p.56-7)。くわえて、上記答申は、STEAM 教育がエリート人材育成に偏重する危険性にも自覚的であるようにも見えます。曰く、「学習に困難を抱える生徒が在籍する学校においては実施することが難しい場合も考えられ,学校間の格差を拡大する可能性が懸念される。教科等横断的な学習を充実することは学習意欲に課題のある生徒たちにこそ非常に重要であり,生徒の能力や関心に応じた STEAM 教育を推進する必要がある。」と(p.56)。その意味では、今後公教育へのSTEAM 教育の本格的導入が検討されるにしても、広く市民的教養の形成に寄与する可能性にこそ力点を置くべきであると言えるでしょう。

さて、以上のように、教職関係者にとって看過できないSTEAM教育の動向についてその最小限の内容を確認できたので、そのカナメとしてここで着眼してきたリベラルアーツ、あるいは「教養」というものの現代的意義について視野を広げ知見を深めていくために格好の入門書を2冊だけ紹介しておきましょう。

1冊目は、軽妙洒脱な文体でありながら明晰な筆致で著者戸田山和久氏がぐいぐいと読者を引き込む、その名もずばり『教養の書』と題された本です(筑摩書房2020年)。科学哲学の日本における代表的な研究者である著者は、専門書ばかりではなく、大学生向けの論文の書き方に関するこれも超オススメ本『新版 論文の教室 レポートから卒論まで』(NHKブックス、2012年)や、最近の初等中等教育における授業研究で時に話題にのぼる「トゥールミン・ロジック」で知られるスティーヴン・トゥールミンがこれについて徹底的に論じた著作の翻訳『議論の技法―トゥールミンモデルの原点』(東京図書、2011年)などでも知られるので、すでによく知っているという方もいるかもしれません。これらに関してはさておき、『教養の書』は、それを読むことで、リベラル・アーツあるいは教養とは何か、教養はなぜ必要か、教養を豊かにするには具体的にどうすればいいか、教養は自らの生とどう関係するのかといった諸点について、目からウロコ体験を伴いながら楽しく学ぶことができるでしょう。同書の元となった文章が出版前に同出版社刊の雑誌で連載されていた頃から耳目を集め、出版後瞬く間に話題の一冊となっただけに、出版社には特設webサイトまで立ち上げられており、目次詳細その他の関連情報の参照や本文の一部試し読みができるようになっているので、ぜひ同サイトを覗いてみことをお勧めします。このサイトからも垣間見えますが、教養バンザイだけではない本書の論調からも、重要な学びの1つを得られるのではないでしょうか。

  

もう1冊ご紹介しておきたい書籍は、山本貴光・吉川博満『人文的、あまりに人文的』(本の雑誌社、2021年)です。これは漫才形式(失礼!)ならぬ対談形式のブックガイドになっています。学生時代の同級生である間柄のお二人です(ますます漫才師っぽい!)が、両者ともその読書量と博覧強記ぶりには舌を巻く在野研究者(大学など研究機関に所属しない研究者)でした。が、山本氏は、ゲーム作家から転身され、立命館大学大学院先端総合学術研究科講師を経て、2021,年度から東京工業大学リベラルアーツ研究教育院教授に就任されています。吉川氏は、最近は晶文社で出版編集にも携わり、大学で非常勤講師を勤めながら精力的な執筆活動を展開している常に注目の文筆家です(文庫化された『理不尽な進化 遺伝子と運の間』ちくま文庫、2021は、まさに理系的要素と人文学的要素とが絶妙にアーティキュレートされた「進化論」論で、これも超オススメです)。

 

こうした著者ペアによる案内書なので、非常に幅広い内容の多彩な人文書が取り上げられており、しかも、高校生や大学初年時生にこそ読んでほしいと思えるほど噛み砕かれた言葉で(ところどころ軽妙なボケとツッコミも織り交ぜられながら!)親しみやすく各書への魅力的な道案内がなされています。先に、簡単な正解が得られないことを見通しの「悪い」状態と表現し、そうした状態への「耐性」を身につけられることに、人文学の意義を見出せるという趣旨のことを記しましたが、むしろそうした状態の妙味、楽しさをも味わえる可能性を示唆してくれているところに、ここでドンピシャのタイトルが付されているというだけではない本書オススメの理由があります。くわえて、人文学とか、哲学や文学などと言うと、自分や自分の生きる時代とは縁遠い古典ばかりが話題になるような印象を与えかねませんが、本書は、「古代ローマからマルチバースまで」というサブタイトルが付され、最先端の宇宙論にまで話題が及ぶことからも類推きるように、最新の社会事情や思想的課題を扱う書物も豊富に取り上げられその上、「実用的」人文書と言えるものまで紹介されています。しかし、これでも読書への心理的距離が遠い方もおられるかもしれません。あるいは、たとえ大学生や教職に就いているみなさんがそうではなくても、みなさんが読書に誘おうとするもっと若い人たちにはまだ触手を伸ばしてもらえないかもしれません。そういう方に朗報があります。この著者お二人はユーチューバーでもあり、本書と同タイトルの書籍紹介連載動画が無料で視聴できるからです。この動画が人文書の世界へのとば口になるかもしれません。

このニューズレターが発行される頃は、大学生は春休みでしょうか。いずれにせよ、みなさんの余暇の一部を、ここで紹介した本の読書にあてられてはいかがでしょう。そして、どこかでまたみなさんと再会できたら(といっても、教職履修在学生はイヤでもまた私と顔を合わせなければならない時が来るわけですが)教職に関することだけでなく、みなさんの人文書読書体験に関してもお聞きできればと思います。相変わらず、パンデミックは完全収束まで程遠い状況が続きそうですので、みなさん、どうかくれぐれもお大事に。

---------再録終了---------

 

最近の教育評価・学習評価論におけるassessの語源に関する誤解について

 学校教育における学習評価論の転換を図る文脈で、近年よく取り上げられるのが、assessmentの元の動詞assessの語源です。いわく、assess の語源は「そばに座る(sit by/beside) 」の意なのだから「学習者に寄り添う」という意味こそ教育評価・学習評価の本義であるべきだと。これは日本に限ったことではありません。米国でも同様の例が多く見られます(“assess”+“sit beside”+“education”をキーワードとして検索エンジンにかければ、その手の記事がいくつもヒットするでしょう)。

 しかし、これには問題があると言わざるを得ません。もちろん、学習者(被評価者)に対するある種の支援的ないし共感的な評価の、あるいは、臨床的評価論と呼ぶべきものの重要性を唱えること自体に異論を唱えるつもりはありません。むしろ、その可能性は大いに議論されるべきだと思われます。けれども、その根拠として「語源」を持ち出すのであれば、その語源的理解が正確でない限り、語源を持ち出すことによる学術的権威性も、したがって、それに依拠した主張の有効性も掘り崩されてしまうことになるのではないでしょうか。

 結論から言えば、私の調べた限りで、assessが語源的に「そばに座る(sit by) 」という意味を持っていたことに誤りはないとしても、それは「被評価者のそばに座る」の意ではなく、「(別の主たる)評価者のそばに座る」という意味しかないと判断せざるを得ないのです。したがって、「学習者に寄り添う」という意味こそがassessの本義なのだという主張は成立しそうにありません。むろん、私の調べ方が足りないだけかもしれないので、以下の整理に誤りがあれば、ご批正をお願いできれば幸いです。

 手元にある電子辞書の1つ『リーダーズ英和辞典第2版』でassessを引くと、たしかに、[F<L assess‐ assideo to sit by]という標記が見られ、ラテン語由来で「そばに座る」という意味であったことが示されています。しかし、別の辞書『研究者新英和辞典第7版』のassessの項には、“〖F<L=そばに座る, (裁判官を)補佐する<AS―+sedere, sess― 座る (cf. session)〗”と、また『ジーニアス英和大辞典』でも、“〔初15c;ラテン語 assidēre. 「as-(…に)+-sess (座る)=(補佐として)判事の横に座る」. cf. session, sit〕”と記されており、assessの主語(評価主体)が「そばに座る」対象は「被評価者」の方ではなく、「(別の主たる)評価者」の側であることになります。この点を無視すべきではないでしょう。

 さらに別の資料も参照しておきたいと思います。ネット上にある『語源英和辞典』 https://gogen-ejd.info/assess/ でも、 “㋙㋫assesser(査定する)→㋶assesso(税金を決定する)→㋶assessus(裁判官の職を補佐した)+-to(反復動詞)→㋶assideo(裁判官の職を補佐する)→㋶ad-(~の近くに)+sedeo(座る)→㋑sed-(座る)が語源。「裁判官の近くに(ad-)座って(sedeo)課税額を決定すること」がもともとの意味。㋓session(議会)と同じ語源をもつ。”という記述があります。また、アメリ英語圏の最も主要な辞書ウェブスターのオンライン版 https://www.merriam-webster.com/dictionary/assess にも、“History and Etymology for assess Middle English, probably from Medieval Latin assessus, past participle of assidēre, from Latin, to sit beside, assist in the office of a judge — more at ASSIZE”と示されており、あくまで「裁判官室で補佐する」ことであるとされています。最後に、オンライン上の語源辞典として有名なOnline Etymology Dictionary https://www.etymonline.com/word/assess によると、

 

assess (v.) early 15c., "to fix the amount (of a tax, fine, etc.)," from Anglo-French assesser, from Medieval Latin assessare "fix a tax upon," originally frequentative of Latin assessus "a sitting by," past participle of assidere/adsidere "to sit beside" (and thus to assist in the office of a judge), "sit with in counsel or office," from ad "to" (see ad-) + sedere "to sit," from PIE root *sed- (1) "to sit." One job of the judge's assistant was to fix the amount of a fine or tax. Meaning "to estimate the value of property for the purpose of taxing it" is from 1809; transferred sense of "to judge the value of" (a person, idea, etc.) is from 1934. Related: Assessed; assessing.

 

というさらに詳細な情報を参照することができます。これによると、「裁判室で判事の仕事を助ける」「課税目的で財産の価値を見積もる」の意味が転じて「(人や思想などの)価値を判断する」ことを意味するようになったというわけです。

 以上に鑑みると、assessが語源的に「被評価者=学習者に寄り添う」ことを意味していたと考えることはできないことになります。要するに、従来の教育評価・学習評価を批判して、いまやより支援的・共感的で臨床的な評価が必要なのだという主張を補強する目的で、評価を意味する英語として、最近evaluationに代わってよく使われるようになったassessmentの語源を引き合いに出すことは端的に誤りだということになるでしょう。

 しかしながら、教育学においてeducational evaluationに代えてeducational assessmentを用いるようになったことの価値づけとして、このassessの語源に着目することが無意味であるというわけではないでしょう。この言葉がもともと「主たる別の評価者の補佐を務める」ことを意味していたのであるとすれば、評価者の側の「複数の視点」が含まれてよいという点の、すなわち、評価(の視点や規準)の多面性・多角性という点の重要性を強調する上で有効な知見として援用することは不可能ではないからです。実際、「環境アセスメント(EIA) 」とは、ある種の事業が環境に及ぼす影響(impact)を多面的・多角的に検討することを意味します。同様に、現代および将来の教育評価・学習評価においても、その多元性が重視されるべきだとすれば、そうした意味合いを読み込むことが可能な語源を有するassessmentをevaluationに代えて用いることの積極的意義の根拠として据えることは可能だと言えるからです。

「個別最適化された/個別最適な学び」という用語の意味理解と実践化をめぐる諸課題(その1)

  この記事は、おそらく次期学習指導要領に組み込まれることになると予測される「個別最適」という用語に関する研究メモである。そこには、思わぬ誤解や誤記等が含まれているかもしれないので、ご注意願いたい。そうした誤りを発見された場合には、ぜひご批正いただければ幸いである。

 今回は、この用語の意味理解に必要となる基礎中の基礎と言ってよい最低限の文脈を確認、整理しておくことから始める。その上で、もう少し詳細に立ち入った検討や、そこで整理した論点を敷衍する作業は、機会を改めて行いたい。

 

 「個別最適化された学び」という表現は、2018年6月25日に経済産業省によって公表された「『未来の教室』とEdTech研究会の第1次提言」において初めて登場したものと見られる[1]。ちなみに、EdTech(エドテック)とは、Education(教育)とtechnology(情報技術)を組み合わせた造語で、AIや動画、オンライン会話等のデジタル技術を活用した革新的な教育技法を指す用語として用いられている。この第1次提言が、経産省による「未来の教室」プロジェクトの端緒であった。この提言書における「個別最適化された学び」については、「もっと短時間で効果的な学び方」を可能にするものとして「学びの生産性」という要因が特に強調されているように思われる。

 それに対して2019年6月25日公表の同第2次提言では、「学びの自立化・個別最適化」という表現で、「個別最適化」が「自立化」という言葉と並列的に結合され、「一人ひとり違う認知特性や学習到達度等をもとに、学び方を選べる学び」という定義が与えられ、1. 知識の習得は、一律・一斉・一方向授業から「EdTechによる自学自習と学び合い」へと重心を移行すること、2. 幼児期から「個別学習計画」を策定し、蓄積した「学習ログ」をもとに修正し続けるサイクルを構築すること、 3.多様な学び方(到達度主義の導入、個別学習計画の認定、ネット・リアル融合の学び方の導入)を保障すること、という指針が提起されている。

 文部科学省は、これらを受けて、2019年6月25日に「新時代の学びを支える先端技術活用推進方策(最終まとめ)」と題した政策指針を公表し、その中では、「誰一人取り残すことのない、公正に個別最適化された学び」という表現が用いられるようになった。この「最終まとめ」は、そのような学びの実現に向けて、新時代に求められる教育の在り方や、教育現場でICT環境を基盤とした先端技術や教育ビッグデータを活用する意義と課題について整理したとされている。これ以降、2019年12月に公表されたGIGAスクール構想や「未来の教室」ヴィジョン等では、「個別最適化された」という形容語句には、「公正」さらに、その具体的なイメージを表す「誰一人取り残すことのない」というフレーズが付加されることになる。ちなみに、この「最終まとめ」という政策指針は、中教審の関与は全くなく、2019年5月に公表された教育再生実行会議第十一次提言等を踏まえて、柴山文科省(当時)のリーダシップのもとに公表された文書のようである。

 他方、2021年1月26日に公表された中教審答申「「令和の日本型学校教育」の構築を目指して~全ての子供たちの可能性を引き出す,個別最適な学びと,協働的な学びの実現~(答申)」では、上に概観した経緯を踏まえながらも、それらとは対照的に、より教育学的な文脈に深く根ざし、1996年の中央教育審議会答申(第一次答申)以降の学習指導要領でも用いられている「個に応じた指導」という視点と接続されているとともに、教育学者の加藤幸次がかつて理論化した「個別化・個性化教育」の概念を用いて、その再定式化が図られているところに特徴があると言える[2]。すなわち、全ての子供に確実に育成すべき資質・能力に関しては、子供一人一人の特性や学習進度、学習到達度等に応じ、指導方法・教材や学習時間等の柔軟な提供・設定を行うことなどを「指導の個別化」として、さらに、子供の興味・関心・キャリア形成の方向性等に応じ、教師が子供一人一人に応じた学習活動や学習課題に取り組む機会を提供することで、子供自身が自らの学習を最適となるよう調整することを「学習の個性化」として再定義し、この両者を、教師視点から整理した概念が「個に応じた指導」であり,この「個に応じた指導」を学習者視点から整理した概念が「個別最適な学び」であると定式化したのである[3]。細かい言葉遣いの問題ではあるが、そこでは、「個別最適化された」という表現に換えて「個別最適な」という形容動詞が用いられ、これが「協働的な」という対(つい)となる形容動詞と相互補完的な関係にあるものとして位置付けらえれている。

 経産省ラインの定義とは異なる視点から、この「指導の個別化」及び「学習の個性化」概念と接合するかたちで再定式化された中教審バージョンの「個別最適な学び」が、今後どのように具体化あるいは更新されて、学習指導要領に書き込まれることになるのかという点に関しては、現時点で容易に予想できない。けれども、こうした議論が次期学習指導要領の策定に深く関係する可能性が十分に考えられる以上、「指導の個別化」や「学習の個性化」という概念に関して、改めてその意味を吟味したり、今後の関係省庁における議論の展開に注目したりすることは、ここに見てきた動向を批判的に捉え、私たちが自分たちなりに次の時代の学校教育に関する構想を練って行く上で助けとなるかもしれない。

 

[1] ただし、この「第1次提言(案)」は、2018年6月4日開催の「第4回『未来の教室』とEdTech研究会」で提示されており、それに先立つ2018年5月7日「第3回『未来の教室』とEdTech研究会」におけるゲストスピーカーの1人山口文洋(リクルートマーケティングパートナーズ代表取締役社長・当時)の報告とこれに基づく委員たちによる議論に、その萌芽が見て取れる。

[2]  加藤幸次・安藤慧(編)『講座 個別化・個性化教育(1) 個別化・個性化教育の理論』(黎明書房、1985年)

[3] こうした再定式化には、中教審教育課程部会委員を務める教育学者奈須正裕による2020年7月27日に開かれた部会での発表内容が大きく影響しているとみなすことができる。次を参照。中央教育審議会初等中等教育分科会教育課程部会 「教育課程部会(第118回)配付資料 資料1奈須委員発表資料」https://www.mext.go.jp/content/20200727-mxt_kyoiku01-000008845_2.pdf 及び「同奈須委員当日説明資料」https://www.mext.go.jp/content/20200727-mxt_kyoiku01-000008845_4.pdf((2021年2月18日閲覧) 

9月入学問題に関する資料集

先日、ひょんなことから、たまたまラジオに電話出演して、9月入学問題について「慎重派」として話さなければならなくなった。本番は事前に打ち合わせた台本がほとんど使われなかったので、全く不慣れな自分は焦っているうちに終わってしまったが、出演準備をかねて事前に関連情報を整理してはいた。

 

そこで、このブログ記事では、覚え書きとして、集めた情報を資料集的にまとめておくことにした。

 

今回の9月入学問題は、長期休校が新年度に入っても続くことになったことを受けて、東京都のある高偏差値高校の生徒が4月1日にSNSを通して「新学期の開始を、この機会に諸外国と同じ9月に」というメッセージを発信して多くの注目を集めた(4.1万RT)ことが最初の発端と言えるのかもしれない。
https://twitter.com/hby36/status/1245139751167901696

ただし、報道が加熱したのは、4月29日にオンライン開催された全国知事会でこの問題が俎上に登り、実際には反対派・慎重派(これらの発言は概して大手新聞地方版でのみ掲載)が少なくなかったにもかかわらず、東京都小池知事と大阪府吉村知事による積極的発言が全国紙に目立って紹介されてからだったように思われる。くわえて、この後、萩生田文科相安倍総理による検討の可能性を示唆する発言、国民民主党WTなどの積極的な提言等が続き、国民的注目を浴びることになった。

これらの積極派の動向を受け、これに対抗する慎重派の議論も目立つようになり、特に日本最大の教育系学術団体である日本教育学会も5月11日には「「9月入学・始業」の拙速な決定を避け、慎重な社会的論議を求める ――拙速な導入はかえって問題を深刻化する――」と題する声明(資料[13])を発表したことや、小学校長会が意見書(資料[14])を文科省に提出したもことも注目を集めた。

さらに、賛成反対とは別に、各種の調査・分析も見逃せない。何よりもまず社会調査研究センターが2020年5月6日に実施した世論調査で、賛成派が多いという結果が耳目を引いた(資料[18])。しかし、日本若者協議会室橋氏の独自調査は異なる様相を示している(資料[19][20])。また、賛否の割合とは別に、9月入学問題に関する学術的な検討を加えた論考として、経済学者中里透氏(資料[16][17])や中室牧子氏の知見(資料[22])も非常に参考になる部分を含んでおり、さらに、直近では、教育社会学苅谷剛彦氏研究チームによる分析結果(資料[23])も強い印象を与えるものとなっている。

これらに関する記事や資料を以下に列挙する。ちなみに、個人的には、カリキュラム・教育方法論の立場から見たときに、慶応大教授で教育方法学会理事の佐久間先生が公開された提言書は圧倒的で、この問題の賛否にかかわらず広く読まれるべき労作と考えている。

【積極派】
[1]
今でしょ!橋下徹氏が9月入学に大・大賛成…『ミヤネ屋』生出演で「やるんだよという大号令を」と政府に呼び掛け:
芸能・社会:中日スポーツ(CHUNICHI Web)
2020.4.29
https://www.chunichi.co.jp/chuspo/article/entertainment/news/CK2020042902100072.html
[2]
2020年5月1日 「9月入学・9月新学期」案に関する提言
国民民主党文部科学部門 9月入学検討ワーキングチーム
https://www.dpfp.or.jp/download/48454
[3]
【世界裏舞台】作家・佐藤優 9月入学にかじを切れ
2020/05/10 07:51 産経ニュース
https://special.sankei.com/a/politics/article/20200510/0001.html
http://a.msn.com/01/ja-jp/BB13Qymt?ocid=st
[4]
「9月入学」には即刻政治決断が必要~6月決定では間に合わない
https://news.1242.com/article/222415
[5]
尾木ママが「9月新学期」と小学生「留年」解禁を提言〈週刊朝日AERA dot.
5/13(水) 9:00配信
https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20200512-00000011-sasahi-soci

【慎重派】
[6]
9月入学・新学期は進めるべきではない ― 子どもたちと社会への影響を重く見るべき4つの理由(妹尾昌俊) - Y!ニュース  
妹尾昌俊  | 教育研究家、学校・行政向けアドバイザー
4/28(火) 15:02
https://news.yahoo.co.jp/byline/senoomasatoshi/20200428-00175660/
[7]
休校が長引くことへの対策、政策を比較 ― 夏休み短縮・土曜授業、9月新学期、学習内容削減(妹尾昌俊) - Y!ニュース
妹尾昌俊  | 教育研究家、学校・行政向けアドバイザー
4/29(水) 21:45
https://news.yahoo.co.jp/byline/senoomasatoshi/20200429-00175852/
[8]
緊急事態下での「9月入学制度」の導入には「反対」です!:「学びをとめないこと」に焦点をしぼって、やり切ることの大切さ | 立教大学 経営学中原淳研究室 - 大人の学びを科学する | NAKAHARA-LAB.net2020.4.30 10:34/ Jun
http://www.nakahara-lab.net/blog/archive/11632
[9]
佐久間亜紀・慶応義塾大学教授による政党向け「9月入学制度に関する論点整理および喫緊の対応を求める要望書」
2020.4.30
https://drive.google.com/file/d/1HzfbVfKlVap4hJ0YHHpIXovm_MUtO2M7/view  
[10]
9月入学でますます加速する教育現場のブラック化!子ども・若者にいま政治家が果たすべき責任とは(末冨芳) - Y!ニュース 末冨芳  | 日本大学教授・内閣府子供の貧困対策に関する有識者会議構成員
4/30(木) 11:49
https://news.yahoo.co.jp/byline/suetomikaori/20200430-00176083/
[11]
火事場の9月入学論は危険だ/先進国で最も遅く義務教育を始める「コロナ入学世代」への懸念 - 末冨 芳|論座 - 朝日新聞社の言論サイト
2020年05月03日
https://webronza.asahi.com/national/articles/2020050200001.html
[12]
田中愛治・早稲田大学総長「9月入学」課題多く 現場の声聞き戦略緻密に:
2020/5/10 2:00 日本経済新聞 電子版
https://www.nikkei.com/article/DGXMZO58900020Y0A500C2CK8000/
[13]
日本教育学会声明 2020年5月11日
「9月入学・始業」の拙速な決定を避け、慎重な社会的論議を求める ――拙速な導入はかえって問題を深刻化する――
http://www.jera.jp/20200511-1/
[14]
全国連合小学校長会 令和2年5月14日
9月入学・始業の導入に関わる意見書
https://www2.schoolweb.ne.jp/weblog/files/1350002/doc/169921/4316322.pdf
[15]
畠山勝太 大学国際化のための9月入学を今議論する愚かさ
2020/05/19 08:00
https://note.com/sarthakshiksha/n/ncefcb4203796

[追加-2020.5.22-1]

そろそろ9月入学の議論は延期して、もっと重要な課題に取り組むべき(妹尾昌俊) - Y!ニュース
2020.5.22 
https://news.yahoo.co.jp/byline/senoomasatoshi/20200522-00179635/
 
[追加-2020.5.22-2]
「9月入学・始業制」に関する提言書の提出と記者会見について « 日本教育学会 
 

[追加-2020.5.29]

全国国公立幼稚園・こども園長会

秋季入学についての意見 

https://www.kokkoyo.com/pdf/syuki-nyugaku.pdf


【分析・調査・推計等】
[16]
【SYNODOS】「9月入学」について考える――誰のために? 何のために?/中里透 / マクロ経済学・財政運営
2020.5.7
https://synodos.jp/education/23524
[17]
【SYNODOS】「9月入学」について改めて確認しておきたいこと/中里透 / マクロ経済学・財政運営
2020.5.17
https://synodos.jp/education/23561
[18]
若年層の過半数は9月入学制に賛成コロナ対応で評価できる政治家 トップは吉村大阪府知事、次いで小池東京都知事
時事ドットコム
2020年5月11日
https://www.jiji.com/jc/article?k=000000002.000056820&g=prt
[19]
「9月入学」移行案に当事者の学生はどう思っているのか?【独自調査結果】(室橋祐貴) - Y!ニュース 2020.5.13
https://news.yahoo.co.jp/byline/murohashiyuki/20200513-00178039/  

※室橋祐貴氏は慎重派といってよい。
[20]
未就学児とその保護者にとって「9月入学」はデメリットのみ?保護者からの切実な声(室橋祐貴) - Y!ニュース
https://news.yahoo.co.jp/byline/murohashiyuki/20200515-00178387/
[21]
9月入学で教員2.8万人不足の推計 待機児童も急増:朝日新聞デジタル
2020年5月17日
https://www.asahi.com/articles/ASN5J5W43N5GUTIL052.html
[22]
科学的根拠に基づいて「9月入学」を考える
慶応義塾大学 総合政策学部中室 牧子
2020/5/18  自民党 秋季入学制度検討ワーキングチーム 第3回 配布資料
https://drive.google.com/file/d/1wGoEJPGRlSzFjOrqlQ-p5wsCZJqRiKZf/view?fbclid=IwAR01sOgLldpBzZquMMYzk9qFalfCPtrfjYDzgMmJGeRWDMqVF7auCRg9wSA
[23]
9月入学導入に対する教育・保育における社会的影響に関する報告書
呼びかけ人 苅谷剛彦(オックスフォード大学) 2020 年(令和二年)5 月 19 日発表
http://www.asahi-net.or.jp/~vr5s-aizw/September_enrollment_simulation_200519.pdf

[追加-2020.5.25]

9月入学導入に対する教育・保育における 社会的影響に関する報告書[改訂版](暫定)

呼びかけ人 苅谷剛彦(オックスフォード大学) 2020 年(令和二年)5 月 25 日改訂版(暫定)発表 (5 月 19 日初版発表)

 

[24]

9月入学の「隠れたコスト」――新卒者の「放棄所得」と国の「逸失税収」 / 荒木啓史 / 教育社会学・比較教育学 | SYNODOS -シノドス-

2020年5月20日

https://synodos.jp/education/23575

 

【その他】

[追加-2020.6.10]

「9月入学」なぜ見送り? | 特集記事 | NHK政治マガジン

https://www.nhk.or.jp/politics/articles/feature/39141.html

自民党内での議論の顛末に関する記事

このような各種報道や資料の公表が続く中で、識者による慎重派の意見が目立ってきているようにも見え、一部メディアでは、文科省が次のような意向、すなわち学習内容の遅れを数年間で解消するプランを持っていることが報じられたが、
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休校で学習遅れ、複数年で解消も 小6中3は優先登校、文科省方針(共同通信) - Yahoo!ニュース5/13(水) 11:46配信
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20200513-00000063-kyodonews-soci
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官邸は9月入学への移行を諦めていないようで、学習内容ではなく、9月入学への移行を5年かけて、ずらしながら実施するという学年の分断にもつながる奇妙な案が検討されていることが報じられた。
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「9月入学」5年で移行案 新入生急増を分散―政府:時事ドットコム
2020年05月18日21時50分
https://www.jiji.com/jc/article?k=2020051800919&g=pol
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私が入手した情報では、文科省の教育課程課は、9月入学に関心はなく、学びの保障をどう進めていくかに集中・腐心し、9月入学問題の動向に関しては蚊帳の外という状態のようだ。そもそも、こうした包括的な制度設計に関わる問題を、首相官邸を中心とする一部与党のワーキングチームでの議論を中心に検討されていること自体が大きな問題とも言える。

自分が所属する日本カリキュラム学会では、重要な教育政策の策定が、教育再生実行会議による官邸主導で行われ、さらに、そこに経産省ラインの政策が流入すると同時に、文科省あるいは中教審の自律性が毀損されていることを問題視して、2014年大会(関西大学)で、文部科学省初中局長だった前川喜平氏や教育社会学広田照幸氏を招いて、異例の合同課題研究(課題研究Ⅰ&Ⅱの合同開催)「現代日本の教育課程政策における政治・行政・経営をめぐる諸問題」を開催し、議論したという経緯がある。ここには、中教審委員でもあった当時の学会理事の方が抱いていた危機感(中教審教育再生実行会議の下請け機関化しているという)も強く反映されていた。

今後、日本教育学会でとりまとめられる提言案の内容については関知していないが、9月入学・始業移行案に関して五月雨式に流れてくる具体的な方策への対応だけでなく、こうした政策立案過程の正統性に関する問題を含めてより一般的な諸問題の水準に関する内容も含まれることを期待して良いのではないかとも思う。

他方で、内閣府・子どもの貧困対策検討会構成員、子供の貧困対策に関する有識者会議委員で、現在は、文科省の「大学入試のあり方に関する検討会議」委員も務める日本大学教授末冨芳氏(教育財政学)が立ち上げた署名運動も注目に値する。自分も賛同したが、さらに多くの方の賛同が期待される。
http://ow.ly/6KSa30qHzAT

蛇足になるが、思いつくままにいくつかの論点を補足しておきたい。

9月入学問題は、1980年代中曽根首相時代の臨教審時代から検討され始め、第一次安倍政権の教育再生会議でも議論され、それでもやはり、賛成反対が拮抗してきたこと、また、初等中等教育の入口の手前である就学前教育・未就学児と、出口の後にくる企業・官公庁とをはじめとする社会全体に大きな影響を及ぼすことが障壁になり、導入が困難であったという事情がある。この辺りは、2007年の第6回教育再生分科会の配布資料からも窺える。
https://www.kantei.go.jp/jp/singi/kyouiku/3bunka/dai6/6gijisidai.html
この非常時に、9月入学というアジェンダ設定がなされることで、より優先すべき課題に関する議論がその分後ろに退くことが問題であり、こうした複雑な問題についてショック・ドクトリン(火事場利用)的な議論は避け、子ども・若者に対するケアと学びの保障を最優先課題にすべきだろう。

また、9月入学がグローバル標準というのは端的に虚偽と言わざるを得ない。欧米諸国だけがグローバルでないわけで、入学・始業時期が国によって多様であることは外務省のサイトに行けばすぐにわかることであるということも踏まえておきたい。

https://www.mofa.go.jp/mofaj/toko/world_school/index.html

グローバル化に関してさらに言えば、グローバル化という要因に関して何を念頭に置くかで大きく立場が分かれる可能性がある。国際競争力や世界で活躍するエリート人材育成の方に大きな関心がある場合と、多くの移民や貧困状態に苦しむ人々をはじめとするより社会的に不利な立場にある人々の人権を重視する場合があるように見える。後者の立場は、そこまで9月入学問題を優先しないように思われる。

格差問題・学びの停滞問題にしても、グローバル化対応問題にしても、学校以外の教育リソースを豊富に得やすい環境にある家庭の子ども・若者と、教育リソースを学校教育に頼るしかない環境にある家庭の子ども・若者とでは、大きく立場が異なってくる。後者の方に相対的に高い比重をおいて、より手厚い措置をとるべきというのが私の立場だ。

くわえて、こういう社会全体に影響を与える課題については、結論だけでなく、そのプロセスが非常に重要なので、結論を急ぐあまり、各方面での丁寧な議論の機会をないがしろにすべきではないだろう(「決められない政治」などと結論を急がせ、歪んだリーダーシップを加速させるべきではない)。より丁寧な議論が、民主主義社会としての成熟につながり、かつ結果として成立する新たな制度への信頼を生むはずである。その点で、賛成・反対以上に、その理由を丁寧に付き合わせていくこと大事だろう。9月入学そのものは将来構想として否定されるべきではないが、打出の小槌としてではなく、高卒・大卒一括採用や入試のあり方を含めて包括的制度の再設計の問題として議論していくべきだろう。

最後に、首相官邸は、9月入学問題で文科省を振り回すのではなく、同省が、早期に高校入試、大学入試に関する明確な実施方法・予定を、いくつかの場合に分けて示し、受験生や関係者に一定の見通しを与えて少しでも安心させられるよう、また、繰り返しになるが、何よりも子ども・若者のケアと学びの保障をどうすすめるかに集中できるように配慮することをこそ、自らの責務と考えるべきであろう。

 

[5月27日追記]

意外に早く決着がついた模様。上に掲げた資料に関わられた多くの方の努力の賜物。よかった。これで、子ども・若者のケアと学びの保障に集中できる。あとは、この方面で政府の補正予算措置を望むばかり。

21年度からの「9月入学」は見送り 政府・与党方針 教育現場混乱を回避  毎日新聞

2020年5月27日 21時03分(最終更新 5月27日 22時06分)

https://mainichi.jp/articles/20200527/k00/00m/010/255000c

 

[8月6日追記ー資料追加]

 竹内 健太 (文教科学委員会調査室) 「9月入学導入の見送り ― 新型コロナウイルス感染症拡大を契機とした議論を振り返る ―」『立法と調査』 2020. 7 No. 426(参議院常任委員会調査室・特別調査室)

https://www.sangiin.go.jp/japanese/annai/chousa/rippou_chousa/backnumber/2020pdf/20200731178.pdf

 

 

 

仕事で書いた小文⑤:図書紹介を兼ねた卒業生(教職履修者)向け挨拶文

 本務校の教職課程・学芸員課程を担当する部署(課程センター)では、毎年度末ニューズレターを発行している。その部署の責任者として、冒頭に挨拶文を書かなければならないのだが、最近は、図書紹介も兼ねている。慌ててまとめた駄文ではあるが、紹介した図書はどれも価値のあるものなので、ここに文章まるごと再録しておくことにした。

 なお、書影は全てリンクになっていて、クリックすると密林に飛ぶので、あしからず。

 

---------再録開始---------

教職に就くみなさん、教職を目指すみなさんへ

--フランシスコ教皇来校に寄せて--

 

 今年度も、教員採用試験に合格し来年度から教職に就くことが決まったみなさんをお祝いすべく、このニューズレターを発行できることを、教職課程担当教員としてたいへんうれしく思います。大半の方にとって、自学科の専門科目に関する学業を修めることにくわえて教職課程を履修し、その他の活動にも勤しみながら、なおかつ、様々な個人的事情を抱えつつ採用試験受験に向けた対策を重ねることは、多くの苦労や不安を乗り越えてこそのことだったと推察されます。もしそうだとすれば、喜びもひとしおでしょう。本当におめでとうございます。

  他方で、残念ながら志望を叶えられなかった方もおられるかもしれません。しかし、できれば回避したいそのような不成功や挫折の経験は、もし教師を目指すのであれば、周囲に支えられつつ努力を続けて一定程度克服することで、必ずや大きな財産になります。なぜなら、自らがケアし支援・指導することになるさらに若い人たちの中にも、同様の経験に落胆し、その気持ちを整理できずに困る人たちが少なくないからです。そうだとすれば、そうした類似の経験を持つものだからこそ、その事情や気持ちに対する高い感度をもって共感的に接することができる可能性が高まると考えられるからです。できるだけ早く気持ちを切り替えて、粘り強く次を目指してもらえればと思います。そして最終的には、あの時にあの躓きがあってかえってよかった、あのおかげで自分はまた成長できたと振り返れるような時が訪れるのを待ちたいと思います。

  いずれにせよ、現時点での結果は、長い目で見れば通過点にすぎません。もちろん、その時々の喜びや悲しみはそれ自体として自らにとって大事な意味を持つ経験の一部ではあるわけですが、同時に、そうした経験を自分なりに振り返り整理して、節目をつけ、次の見通しに向かって動き出すことも同様に重要だと言えるかもしれません。みなさんのさらに成長した姿が見られることを楽しみににしたいと思います。

 さて、例年同様、ここで宣伝しておきたいことがあります。来年度もAll Sophians Festival2020531日(日)午後(時間詳細は後日、上智大学ASFwebページに記載される見込み)、及び、年の瀬に近い20201212日(土)午後(詳細は、在学生には授業やLoyolaを通して、卒業生の方には登録されているメルアドに連絡予定)に、上智大学出身で教職に就いている方々と上智大学に在籍する教職履修者との交流会を開催することが決定しています。今からぜひ予定に入れていただければ幸いです。

 教職に就くみなさんも教職を目指すみなさんも、ぜひこのニューズレターに目を通して頂いて、その交流会で、「あ、この方が、あの体験記の」と思い出して頂ければなおうれしく思います。そうして、在学生のみなさんは、この交流会の場を活かして、ぜひ諸先輩に直接いろいろなことを尋ねてみてください。様々な経歴の持ち主がおられるので、参考になる話がたくさん聞けるでしょう。他方、現役教員として参加していただくことになる卒業生のみなさんは、立派なお話しばかりではなく、自分の職場では言えない愚痴をこぼしたり、シンプルに他の現場の様子と自分の現場を比べたりする場としてご活用いただいても結構かと思います。また、上智で教職課程を履修したもののいったん企業等に就職し、それでもやはり教員を目指したいという気持ちも残っている、という方にもぜひこれら交流会の場をご利用いただければと考えています。みなさんのお越しをお待ちしています。

  今回も、せっかくの機会なので、普段の教職の授業では時間がなくほとんど取り上げる余裕がないものの、公教育にプロとしてこれから携わろうとしている学生のみなさんや上智出身で教職に就かれている方々と改めて共有しておきたい話題に触れながら、若干の書籍紹介をしておきたいと思います。

  今年度の上智大学で最も目立つ出来事の一つとなったのは、フランシスコ教皇の来校でした。この大学のヒューマニズムを象徴する“with others, for others”という理念は教職とも親和性の高い視座ですが、アッシジ聖フランシスコにその名を因む教皇は、このothersとして何よりもまず小さき人びと、弱き者に重きを置きます。今回の講演でも「上智大学キリスト教ヒューマニズムの伝統は、すでに述べたもう一つの優先事項と完全に一致します。すなわち、現代世界において貧しい人や隅に追いやられた人とともに歩むことです」という決然たる表現で、そのことを訴えました*1。現代では、単に少数者というだけでなく、社会的に弱い、不利な状況にある人々を時に「マイノリティ」という言葉で呼ぶこともあります。こうした人々ともに、そうした人々のために智恵(sophia)を注ぐよう、教皇は私たちを励まそうとしているのだと言えるでしょう(書影は、故上智大学名誉教授山田經三著『教皇フランシスコ -「小さき人びと」に寄り添い、共に生きる』明治図書2014年)。

  他方で、時に、こうした姿勢を「偽善」ではないかと訝しんだり、揶揄したりする人たちもいます。良識に満ちた理念というものは簡単には実現できないだけに、また、そうした理念を掲げる者とて私利から無縁ではないだけに、理念と現実のはざまで落ち着かない状態でいることに耐えられない人や、自らの利害を優先することを正当化したい人は、偽善という言葉をかざして自らを守ろうとするのかもしれません。夏目漱石も『三四郎』の中で、偽善を嫌うがために「偽善を行ふに露悪を以てする」という複雑な戦略を用いる人が少なくないことに触れて(いると文芸評論家の柄谷行人が紹介して)います。しかし、無視できない格差・不平等が存在する社会では、たとえ偽善と言われようと、露悪的居直りやシニシズムに陥ることなく、自らの限界を見定めつつも、むしろまっとうな綺麗事にコミットすることにあえて開き直る方がずっと望ましいのではないでしょうか。

 そもそも、そのような不平等や格差が歴然と存在するのかという疑問を持たれるかもしれませんが、話題の新書、松岡亮司著『教育格差』(ちくま新書2019年)を繙くと、たしかに、日本ではほぼ全ての人びとが中等教育段階を修了し、過半の人びとが高等教育にさえ進むという状況が達成され、社会階層を問わないメリトクラシーの大衆化状況=「大衆教育社会」(苅谷剛彦)という地点に到達しはしたものの、その中身、つまり、どんな階層の人々がどんな学校・大学で学ぶようになっているのかという点に目を向けてみると、その不平等・格差は近代黎明期以来あまり変化がない、すなわち、伝統的な社会階層が混合しながらも併存してきたことが理解できます。総体としての量的な教育拡大が前景化することで、そうした不平等・格差問題は多くの人々の意識にはのぼらなかったのですが、日本社会は、むしろ「緩やかな身分社会」であり続けてきた、その意味で、諸外国と比較しても「凡庸な格差社会」であったと認めざるを得ないのが実態なのです。しかも、松岡氏は、「教師が生徒の社会階層によって異なる期待・評価をしてそれに指導法を対応させ実際に学力に影響を与える」可能性を、要するに、「教師が社会階層再生産に寄与している可能性」を指摘し、だからこそ、教育格差問題を教職課程の必須項目にすべきだと同書で訴えています。この点で、小さき人びと、弱き者とともに、またそうした人々のために何かをなすということは、単に善意の問題ではなく、知識・認識の問題、つまりは、私たちの勉強・教養の問題でもあるわけです。

 教育格差の問題は、言うまでもなく、貧困問題と密接に結びついています。特に先進国で重要な意味を持つのが相対的貧困(世帯所得が、等価可処分所得=世帯の可処分所得を世帯人員の平方根で割って調整した所得の中央値の半分に満たない状態と定義されます)という問題です。こういう状態に陥ると、他人に恥ずることなく暮らすこと、コミュニテイの活動(学校で言えば、部活なども含まれるでしょう)に参加すること、自尊の念をもつこと等々が非常に困難になります。これらの点で、格差の問題は、学力問題に限られません。そもそも、貧困問題は、学校に通うこと自体に、あるいは、学校で安心して学べるということ自体に困難が生じる可能性を拡大させる十分な可能性があります。こうした貧困問題への対策を教育支援に焦点化して講じる上での重要な視点や問題が整理され、さらに、解決策の具体的事例を紹介した好著が、末冨芳編著『子どもの貧困対策と教育支援─より良い政策・連携・協働』(明石書店2017年)です。

 他方、貧困問題の捉え方に対しては、子どもの貧困に注目が集まることで大人の貧困問題が後景に退き、貧困家庭の子どもへの教育・学習支援がクローズアップされることで、大人への経済的支援の重要性が等閑視されることにつながるという批判的指摘が見られることも事実です。おそらく、このような指摘の重要性を十分に加味しながら、同時に、学校をプラットフォームとした可能な対策を進めるというのがあるべき方向ではないかと思われますが、そうした批判的指摘を明示した上で、幅広いテーマを掲げて編まれた松本伊智朗氏編集代表による「子どもの貧困」全5巻シリーズ(明石書店2019年、第4巻のみ未刊)は教育関係者に広く読まれるべき好編です。関心を引く巻や章から読み始めると、関連する問題に関して視野が広がり、認識が深まることは間違いありません。

 必ずしも貧困問題にのみ関わる問題を扱っているわけではないですが、上述の末冨氏による編著書としてもう一冊オススメしておきたいのが、『学校に居場所カフェをつくろう! ─生きづらさを抱える高校生への寄り添い型支援』(明石書店2019年)です。大阪の西成高校で始まり、その後、大阪府だけでなく神奈川県の田奈高校に導入され、特に同県で大きな広がりを見せている「校内居場所カフェ」。学校内のサード・プレイスとして生徒たちがくつろぐことができ、教育の評価的視線が入り込まない空間、あるいは、教育と福祉が連携する場として注目されている空間でもあります。同書では、様々な困難を抱えている子ども・若者を、規律で縛るよりもむしろ、一人ひとりの生徒の存在を尊重・肯定することに力点を置く学習・生活空間として学校を再編することの一環としての注目すべき取り組みが、具体的にわかりやすく紹介されています。

  このような空間を、よりインクルーシブ(包摂的)な、という形容詞を付して呼ぶことが許されるとすれば、上智大学理工学部出身の西郷孝彦校長が改革を進めて話題になった世田谷区立桜丘中学校も、同様にインクルーシブな空間づくりが目指された学校だと言ってよいでしょう。校則をなくし、定期テストもなくした学校として全国的に名を馳せることになったこの学校を、私も本学で教職を履修する学生数名と一緒に実地に訪問し、西郷先生に直接お話を伺いましたが、生徒の人権と自己決定権を重視、インクルーシブであるだけでなくデモクラティックな空間を、生徒や他の教師たちと一緒に創造されていることに感心しました。この実践は、西郷先生自身の筆で書籍化されています(西郷孝彦『校則なくした中学校 たったひとつの校長ルール: 定期テストも制服も、いじめも不登校もない!笑顔あふれる学び舎はこうしてつくられた』小学館2019年)。

  教育現場の変化に伴って、教職に求められる専門性は間違いなく高度化・複雑化していますが、上に触れた資料や学校を含めて、様々な議論や現場の実践に学びながら、“with others, for others”という理念を教育という営為を通して具現化する仕事に、みなさんとともに今後も取り組んでいければと思います。みなさんのさらなる成長、活躍を祈念しています。

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※これを校了したのが、1月初旬。今のような、卒業式にさえ影響が出る事態が生じるとは予想もしていなかった。この後も予断は許さない状況だけれど、とにかくみんな元気でいてほしい。そして、自分も、政治や社会の動きをできるだけよくウォッチして判断し、行動していければなと。月並みだけど。

 

*1:教皇フランシスコからのメッセージ『叡智の座の大学』で学ぶ者へ」の全文を掲載 | ニュース | 上智大学 Sophia University https://www.sophia.ac.jp/jpn/news/PR/20191129all.html

新学習指導要領の「見方・考え方」に関して

 先日参加したさる研究会で、いわゆる「見方・考え方」について、中教審のど真ん中にいると言っていい研究者に批判的な質問した。"見方・考え方=「(ブルーナーの言った)ディシプリンの構造」"という図式で言われているのなら理解できないこともないが、「総合的な学習の時間」にまで「見方・考え方」ってありえなくね?と。だって、総合的な学習の時間は、そういう特定の見方・考え方がないところにこそ存在意義があるのだからと。

 そうしたら、少なくとも部分的に、どう跳ね返されるのかなと思ったら、全く全面受容。「その通り。"総合的な学習の時間"にも見方・考え方?、なにそれ?ってことで"特別活動"はどうするの?尋ねたくらい。この辺は今後の課題。」という、しごくまっとう、かつ誠実な回答。

学習指導要領を無批判に読むとろくなことはないが、批判的に読む余裕が現場にないとしても、金科玉条のようにそれに服従させようとする教育委員会や校長がいたら、全て偽物であることは、上記のエピソードだけでも確定。

なお、直接関係ないけど、T大附属小の道徳教育専門の先生が、あの「別葉」について、さる研修会で受けた「あれって意味あるのですか?」という質問に対して「無意味」という趣旨の回答をしていたことも銘記されるべき。あたりまえだけど。