人のジツゾン(笑)を笑うな

誰に頼まれたわけでもないのに勝手に20世紀のアメリカ文学を(本当におおまかに)わけると、

(WW1前あたり〜)モダニズム

(20年台の不況期〜)実存主義

(WW2後あたり〜)ポストモダニズム

という感じになるとぼくは理解していて、これは思想的には

マルクス主義

実存主義

フランス系現代思想

という流れに重なってくると思う(ってこれで問題ないですかね>cestichiさん)。

よく言われるように、アメリカが経済的・軍事的覇権を達成した戦間期は後期資本主義/生権力の成熟期でもあり、都市の発展とその中での個人の疎外が文学での重要なテーマになったわけで、大陸でもそうだけどアメリカ文学においてはこの時期は実存主義が大いに流行ったわけです。
僕の師匠はこの間飲みながら「ソール・ベローはユダヤ人だけど、彼の小説には人種/エスニシティのテーマが恐ろしく欠けている」ということを言っていたけど、この発言の妥当性はともかく実存主義ど真ん中な彼にとっては「(都市の中で疎外され、人間性を奪われる中で)誠実な人間はどう生きるべきか、何をなさねばならぬか」(『宙ぶらりんの男』)という実存的なテーマのほうがよりリアリティをもっていたということとは疑いようもない。

現代アメリカ小説―1945年から現代まで

現代アメリカ小説―1945年から現代まで

19世紀末〜現代までを扱った原書の後半(WW1戦後)部分の訳出である本書では、

という目次に沿って戦後アメリカ文学の流れが体系化されている。といってもアフリカ系アメリカ人文学や女性作家、或いはホモセクシュアル作家やアジア系作家の殆ど出てこないいわゆる「白い」文学史の感は否めない(アフロ系や女性作家はその殆どが名前を挙げられるだけで、前者ではラルフ・エリソンと後者では最後の章でのキャシー・アッカーとトニ・モリソンくらいしかまともに取り上げられた記憶がない)。
その一方で、ソール・ベロー、フィリップ・ロス、ライオネル・トリリング、ハーバード・ゴールド、アーサー・ミラー、ジョゼフ・ヘラー、J.D.サリンジャー、E.L.ドクトロウにグレイス・ペイリーと連綿と続くユダヤアメリカ人文学の系譜は非常によく書かれていて勉強になる。とくに戦間期アメリカでの「都市の疎外の中における個人の実存」の主たる担い手としての(前出の)ベローやロス論はあまりによく書け過ぎていて、そのせいで論の「白さ」が際立ってしまっているという気もする。
(とはいえ戦後アメリカ文学は体系だてて論じられた本があまりに少ないこともあって勉強になります)

読書差別解放に向けて

人文学と批評の使命―デモクラシーのために

人文学と批評の使命―デモクラシーのために

今更ながら読みました。今思うと、この本はサイードにとっての絶筆(「まえがきまで本人が書き、完成させた本としては」)であるだけじゃなくって、訳者にとっても最後の本になってしまったなあ。
「知識人」の役割(仕事)としての「世俗批評(worldliness)」、文献学の擁護といわゆる新歴史主義への共感と、これまでのテキストにおけるサイードの立ち位置は本書でも基本的に共通している…といっていいのでしょうか(>もぐらさん?)。
おそらく強調するべきなのは、そうした立場を通じてサイード

「ヨーロッパ中心主義だけでなく、アイデンティティそのものに結びついた複雑な態度全般を、意識的にまた決然と、振り払わなければならないように思える」

と考え、アイデンティティのパワーゲームに堕したカルスタや一部の左翼批評を手厳しく批判しつつ、それを超越した「人文主義(humanities)」の復興を夢見ていたことだと思います。こうやって書くとウォルター・ベン・マイクルズ辺りと言っていることや方法論がわりと似ているような。
個人的には、(誰かも書いていたけど)以下のくだりが大好きです。

性差別やエリート主義、高齢者差別や人種差別が存在するのと同じように、唾棄すべき「読書差別」とでも言ったものが存在しており、読むことをあまりにも深刻かつ愚直に考えると、根本的な問題を作り出すと考えられているのだ。

立ち上がれ、同志!