12年ぶりのマジック・ザ・ギャザリング公式フォーマット大会(モダン)の日々

昨年(2021年)春のMTGアリーナのモバイル版の配信や「懐古スタン」大会への出場をきっかけに、アリーナでスタンダードをプレイしたりカード屋回ってカード買ったりと、初代ゼンディカーあたりで離れて以来*1MTGに触れる日々が始まった。だが本格的に「復帰した」と言う為にはまだ大きな課題が一つ残っていて、それが公式フォーマットのリアル大会への参加だった。

少しずつカードを買い集めて*2昨年秋頃にモダンのデッキは完成したのだが、そのまますんなり「さあ大会出まくろう」とはならないのが何かと腰の重い自分で、しばらくはMTGアリーナモバイル版をきっかけに再度MTGを触り始めた弟(こちらは初代ミラディンブロック以来の復帰)が完成させたモダンのデッキとフリープレイしている日々が過ぎるうちにうっかりお互いパイオニアのデッキも完成させてしまいこちらも含めてフリープレイ、そうこうしているうちにそれぞれのフォーマットの2つ目のデッキも完成してそれもフリーで回して…とかやってるうちになんだか身内プレイが居心地が良くなってしまい、しばらくは弟と2週間に1度くらい会ってモダン&パイオニアをフリーで回す日々が続いていた。

だが「それなりにお金かけてカード買っておいて2人で回してるだけってのもどうか」と流石に今年2〜3月あたりに思い始め、「4月末の晴れる屋TCモダン杯をひとつの目標として4月頭から晴れる屋TCのモダン大会に出て調整していこう」という方針が3月の末に兄弟間で決定されたのであった。

自分がモダンにてメインで使うつもりで初めに完成させたのは、「環境で最強の、火力を詰んだアグロをいつも握りたい」という思いと、¥5000/1枚 超えのカードを使わなくて済むリーズナブルさ(重要)を両立させられるデッキ、赤白バーン。このアーキタイプが強いらしいということが、モダンへの参戦を後押ししたと言ってもいい。

実は以前マジックの構築戦から離れた時に楽しく使ってたのも当時のスタン(ローウィン〜コンフラックスああたり)の赤白バーン寄りのデッキ*3だったのでこのカラーパイには縁があるとも言えるのだが、現代マジックかつモダンともなると色々と桁違いで、何せ当時はノーデメリット3マナ4点火力でビビってたのが、今や1マナで撃てる/撃ち得る3点火力や2マナで生物と本体両方に飛び得る3点火力や2マナでデメリット無しで本体に4点入るインスタント火力といった強力火力が目白押し(一応裂け目の稲妻や稲妻のらせんなど懐かしい面々もリストに名を連ねてはいるのが復帰組的として嬉しい部分ではある)。速攻orヘイト能力持ちのクリーチャーたちが1枚あたり4点程度稼いでくれれば、土地でライフが減りがちな環境である事もあり、あとは本体に火力を投げていけば4ターン目くらいには高確率で相手が倒せるようになっている。
一方、フリープレイ相手の弟がメインで使い始めたハンマータイムもふとした瞬間に人が死ぬ「モダンwith現代マジック」の怖さを体現しているデッキで、フリープレイの段階でモダンのエクストリームな怖さはある程度味わう事が出来た。

…とはいえ偏ったデッキでフリープレイしていただけのモダン経験で、果たしてどこまでモダンの荒波に抵抗出来るのか…

不安をよそに12年ぶりの認定フォーマット大会にして、初のモダン大会(12年前モダンはまだなかったので当然)に参加する日はやって来た。3回戦の大会 FNM(フライデーナイトマジック)。去年懐古スタンの時に自分が存在すら知らずに使えず、紙に対戦表が張り出されることとなったMTGコンパニオンは、今回はちゃんと準備してたぞ。

-1回戦-
1本目、後手だが申し分ないゴブリンの先達スタートのハンドをキープ。相手の初手は…ゴブリンの先達!いきなりミラー!この場合後手ゴブリン先達で殴らないのが正解と動画で見た気がするので素直に実行。大歓楽の除去り合いで除去られた大歓楽の上から2枚目大歓楽貼り直しなどもあり勝利。
ここで後手戦を制したのが大きく、2本目順当に相手先手ゲーで負けた後の3本目順当に自分先手ゲー&相手後手ヴェクの聖別者があまり機能しない流れで勝利。
◯✕◯

-2回戦-
現モダントップメタのイゼットモンキー戦。1本目相手事故で勝ち。
2本目も相手土地詰まり気味だったが、ラガバン宝物スピアー構え粘りからの濁浪という黄金パターンでギリギリ押し切られる、ラガバンの初洗礼を受けた形の敗北。
3本目は個人的にグダグダだったのだが、細かい流れ覚えられないくらい泥臭いゲームになり勝利。予想通り、「お互いが試される」デッキだなという印象。
◯✕◯

-3回戦-
ゴブリン先達スタートで相手トップ部族の炎がめくれ、デッキがドメインズーと分かるのは早かったが、蓋が開き始めると山火事の精霊やボロスの魔除けが入っているかなりアグレッシブな構成。土地が痛いデッキなので圧倒的有利かと思いきや、爆発力で割と際どいところまで追い詰められた上の僅差の勝利。
2本目、サイド跳ね返す掌で5/5カヴーのアタックを返して勝ったと思ったが、フラッド気味のドローでもたついて序盤に黄昏の享楽撃たれた分の差が取り返せず、とどめの一手が打てないまま火力で押し切られてしまう。
3本目は相手が色マナ面の問題で最速でカードプレーしていけないドメインズーらしい展開でこちらが速度勝ち。
◯✕◯
というわけで



12年ぶりの認定大会&初のモダン大会、3-0!
モダン経験のなさを、古の経験の蓄積とデッキリストや記事読むのが好きな事でギリギリなんとかカバー…出来てるのか?
(弟は0−3と苦戦…やはりミラディン以来だとカード知識の面で辛いようだ)

出場までの腰が重かったリアル大会も、いざ出てみれば「これまでなんで離れてたのかが謎」となるレベルで面白く、その後も着々と3回戦大会に参加。

復帰2回目の大会はきちんと「洗礼」を受けることに。
スタン時イマイチ使われなかったゴブリン(ボガートの先触れとか)がモダンでイキイキしてて嬉しくなった。

この日はライブラリーアウトに初手フェッチ切ったら精神壊しの罠3発撃たれて3キルされた(マッチには勝ったが)のが良い思い出に。

ソリューション見つけたい癖でチャンドラの焼却者試したが、やはりモダンではイマイチな印象。
この日はMTGはちょくちょくプレイし続けているものの最近はEDHやってるくらいで大会には出ていないらしいかつての知り合いが、「モダンの大きい大会(MMMなど)が近い」という事で来ていて、2年ぶりの大会でカスケードクラッシュでサラリと3-0していった。マッチングで席隣りになり昔のように並んでマジックしていて「10年跨いで、結局またこうなったかぁ」と変な笑顔に。
余談だが「MTGはプレイし続けてるけどEDHしかやってない(言い過ぎ?)」かつての知り合いは多く、対戦相手に最近復帰したんですよ的な話する度に「帰って来てみたら昔の知り合いはみんなEDHしかやってない!」を連呼しています。

以前負けたゴブリンの人に勝利。火力を当てなきゃいけない生物把握したのが幸いした。
アミュレットタイタンは、バーンでは無理だと思った。
タッチ緑でアタルカの命令を試したが、土地が痛くなるのを埋めるほどのメリットはない印象。

青白コン最終戦はミスりまくった上で(刺殺絢爛で撃てる所で撃ち忘れるとか酷い)勝ってしまったので本当に…でも昔だったらアグロでミスった上でロングゲームにもつれ込む展開だと即自暴自棄になって負けてた気がするので、年取って粘り腰メンタルが身についたとも言える。
で、さしあたっての目標だった4/29モダン杯。ここまで大会出てきて当たった事が無い=対戦経験を積めなかったトップメタのデッキがまだかなりあるのが不安材料。参加者の73人の7回戦!

1回戦 タメシブルーム×◯◯
1本目は生物に当てる火力無い以外は良い初手キープしたら4キルされた
3本目は徴募兵からのブレンタン炉の世話人*43枚乗り越えて勝ち

2回戦 ハンマータイム ××
弟との対戦で散々分からされてるマッチアップ。跳ね返す掌ケアされながら攻められる展開になったら終わり

3回戦 青白コン ◯×◯
チャリスにきっちり粉々当てたり噛み合いがよく勝ち

4回戦 リビングエンド 〇〇
初リビエン戦。1本目相手1ランドキープからサイクリングでも土地引かず勝ち。2本目もブン回りで勝ち。
5回戦 イゼットモンキー(マークタイド) ◯××
2本目後手で相手初手ラガバンをボルトで焼くか迷って焼かなかった他、様々なプレイングが響いて負け。3本目はキープ基準が雑なのが一因となり負け

6回戦 リビングエンド ◯×◯
3本目は白力線出されて終わった(割り切ってサイドにエンチャント破壊積んでませんでした)かと思ったが、なかなか続唱リビエン撃たれないので「!?」となりながら生物で殴り続けているうちに溶岩の撃ち込みを自分に撃ち込めば速槍パンプ出来る事に気づいて決行したりした後、最後はボロスチャームダブルストライクモードで勝ち。やはりリビエン全部引いてしまったとの事。7マナに辿り着かれると青生物素出しモードがあるので、火力自分に撃ち込んで速槍パンプは大正解。本日のハイライト

7回戦 カスケードクラッシュ ◯×◯
1本目は相手初手クラッシュ待機で、計2枚大歓楽貼ったら待機明けのクラッシュで4点入って勝ち。

終結果…5−2。復帰後初のフルサイズな大会で、5回戦目あたりから今何回戦目だっけ?的テンションになる感覚を久々に味わった。あと1勝でベスト8ラインだったが、ひたすら運が良かったマッチもあったし、イゼットモンキー(マークタイド)戦は本当にプレイングで負けた感があるので、負けて清々しい。イゼットモンキー、返す返すも「お互いが試される」デッキだ。

普段は休日大会に出れる機会が少ない生活なので、GW中に5回戦大会 レッツ5モダンにも参加



モダン神挑戦者決定戦は休み取り損ねて参加できず…1ヶ月前にここまで「大会出たい」テンションになってることが予想出来れば取れない事はなかったのだが…なんというか甘かった。

で、GW明けの5月上旬


モダン神挑戦者決定戦に出られなかった分頑張って2回連続で3−0して、心持ち的には復帰譚第一章 -完-

12年の時を越えて公式フォーマットの大会に出る日々を過ごした訳だが、展開が早くて短いターンの間に緊張感が高密度圧縮されてる今のモダンの空気とその中でのバーンのポジションは、もしかすると過去のMTGよりも自分に合ってるかもしれないと思った。昔とは違う次元のMTGに出会えて、復帰したかいがあったというもの。

復帰してみて感じるのは、マジック・ザ・ギャザリングというゲームがこちらの想像を超えて大きなものになっていること。1年中複数フォーマットの大会が開催されている空間が成立しているという事実がまずとんでもないし、自分が以前離れる頃に徐々に流行り始めていた*5カジュアルフォーマット:
統率者戦(EDH)の大発展などもあいまって、競技大会参加だけに囚われずに自由な距離感・スタイルでMTGを遊ぶ空気も昔より醸成されてるように思える。報奨プログラム無くなってたり、全対戦記録が見れたあの素晴らしいポイントシステムが無くなってたり*6思うところは色々あるが、それぞれのペースで遊べるインフラが整って来ているのは素直に喜ばしい。おかげさまで3回戦大会だけとはいえモダンの大会に参戦していく日々は現在も継続中。今後はバーン以外のデッキも触っていき、大会出てないがデッキは何種か組んでるパイオニア*7の大会にも挑戦…出来るかなぁ。とりあえず、次のモダン神挑戦者決定戦には絶対参加したい。

*1:離れている間もトーナメントシーンや環境を支配してるデッキ・カードをネット記事で時々チェックしてはいたが

*2:モダホラ2発売直前のシングル相場落ち着いてた時期に動き始めてたのはデカかった

*3:地獄火花の精霊、火山の流弾メイン4、炎の投げ槍etcで相手の苦花で減ったライフを詰めていく、フェアリーを絶対殺すために作られたデッキ

*4:バーン引退からのバーン復帰組としては「またお前か!」となる生物

*5:当時賛否両論あったのが今となっては懐かしい

*6:この辺コロナ完全収束・紙イベント本格復活の暁に整備される?

*7:モダンよりカードは安めだけどメタが割と早めに回るので意外とついていくのが大変そう

10年ぶりに10年以上前のデッキでMTGの大会に出て来た話

 ゼンディカーあたりでMTGから離れてから、11年ぶりにMTGの大会に出てきました。しかも10年以上前のデッキを使って。

 …と言っても当時のデッキをそのままレガシーやモダンに持ち込んだという訳ではなく、「懐古スタン」なる特殊フォーマットの大会が開催されたのである。

todo.ocnk.net

 マジックから離れている間も再びマジックをやりたいという気持ちが消えた訳ではなく、復帰時に使いそうなカードはある程度残してたり、時折シーン(とカードの価格相場)の様子を遠目に眺めたりしていたのだが、なかなか再びマジックをやる機会は掴めず。

 構築派なのでせっかくなら残してあるカードを活かす形で構築環境でプレイしたいとは思うものの、今やレガシーはおろかモダンもちょっとばかり昔の資産がある程度では易々と参入できるようなフォーマットではないし(11年前の自分に「ゼンディカーのフェッチは集めてから辞めろ」と言いたい)…と燻っている自分にとって、持ってるカードでそのまんま参戦出来る「懐古スタン」はまさにクリティカル。

 スタンダードという環境は「カードプールが最も広い期間=ローテーション直後の頭のエキスパンションからローテーション直前の最後のエキスパンションのカードまでをフルに使って遊べる期間」が非常に短いのが勿体なく感じることがあったので、そのリベンジマッチになるという意味でも良いフォーマットだと思った。

 

 さて、「持ってるカードでそのまんま参戦出来る」とは言ったものの、いざ参戦を決めてみると諸事情によりぽつぽつ手放しているカードがある事により、大会で使用するデッキの完成&楽しいフリープレイを視野に入れたいくつかのデッキの完成の為には思ったよりカードを集める必要がある事が判明。久々にカード屋の様子を覗いてみる。

 店頭PC注文制を導入してる所が増えている以外は、カード屋の雰囲気は思ったより変わってない印象。カードが増えただけあってエキスパンション別にケースにカードを並べてる店は流石に少なくなっていたけど。ストレージに特価カードが入っているスタイルは相変わらずで、10年越しにストレージ漁りの感覚を味わう。漁ってる間に懐古スタン用のカードだけでなく、懐古スタン関係に関係ないMTGから離れていた時期の赤の優良火力とかをついつい買ってしまった。
 そしてMTGwikiや、PWC(東京・神奈川で開催されていた草の根公認大会)の大会結果がまとまった「ストライクと大会」、五竜杯(PWCと並んで東京圏でポピュラーだった草の根公認大会)の結果が載った「DRAGONS GUIDE」などでデッキレシピを掘削。レシピの中身以外にも、知り合いの名前が並んでるのと、デッキ名がイタいのが味わい深い。どちらのサイトも消えないでいてくれてありがとう。

 時のらせんで復帰したての頃は暇さえあればカード屋を巡って特価品漁ったり、徹夜でMTGwiki読んだりしてたのだが、今回の準備期間はその頃の楽しさがちょっと蘇った日々だった。

 

 大会一週間が近づいた休日には、自分より一足先にマジックから離れていた(こちらはカード全売却済)がマジックとは別に今も付き合いのある友人を呼び出し、当時その友人が使っていたタイプのデッキ(青白ヒバリ)を渡して事前スパーリング。

 使用デッキの第一候補として考えていたのは時のらせんの頃にオデッセイで一時離れたMTGに復帰するきっかけになったデッキタイプ、グルール・ビート(9版・ラヴニカ~時のらせんブロック…当時アグロという言葉はまだ定着していなかった)。お気に入りのデッキなので流石にカードは全て残していた…と思いきや、血染めの月のみプロツアー予選で使うという知り合いの方に貸しっぱのまま、その方が遠方に就職してしまっていて今回集め直し。

 青白ヒバリ相手のスパーリングは、相性的に仕方ないが一切勝てず。生物の質が飛躍的に向上したローウィン以降のボードコントロール相手はやはり辛いのか。特別なギミックがあるデッキでもない(生物で攻めるデッキにしても、今のマジックからは考えられないほどシンプルな能力の生物しか入ってない)ので、普通に勝負になってくれないと勝ち負け以前にまず楽しいゲームになってくれるのか…と当日まで謎に不安になっていた。

書くと長くなるので割愛する紆余曲折の末、最終的なデッキレシピは

~メイン~

密林の猿人 4

ノワールのエルフ 4

瘡蓋族のやっかい者 4

タルモゴイフ 4

炎樹族のシャーマン 2


獣群の呼び声 3
裂け目の稲妻 4
炎の印章 4
黒焦げ 4

悪魔火 1

踏み鳴らされる地 4
カープルーザンの森 4

怒りの穴蔵、スカルグ1

ペンデルヘイヴン 1

森 6

山 6

~サイドボード~

血染めの月 4

古の遺恨 3

硫黄の精霊 3

トーモッドの墓所3

喧騒の貧霊 2

 

 密林の猿人有する9版とタルモゴイフが共に使えた時期は非常に短く、タルモ込みの構成は実はあまり練れていない。当時はほとんどのコントロールデッキが印鑑サイクルを使っていたのでメインにブリキ通りの悪党が主流だったが、今回は環境とタルモとの兼ね合いで不採用で、サイドによりアーティファクト対策に特化した古の遺恨(当時のスタンではオーバーキルであまり採用されなかった)を用意。

 

大会当日

 受付後大会開始の前に、主催者の方に「MTGコンパニオン」はご存知ですか?と聞かれるも、老人なのでセラ天コスのねーちゃんしか思い浮かばず。紙に印刷して貼り出されたマッチング見に行くの「懐かしい~」って周囲でどよめいてたけど、自分このスタイルしか知らんから!一応、戦闘ダメージがスタックに乗らなくなったのと、レジェンドルール変わったのと、マリガンルールが変わったのは押さえてますが。

 不安をよそに、着席してみれば「よろしくお願いします」からのダイスロールで先手後手決定と、今も昔も変わらぬ流れに体に徐々にあの頃の感覚が戻って来る。7枚引いてマリガンチェックする頃には既に10年ぶりだという事も忘れて体がMTGの試合モードになっていた。

■1回戦 青黒緑マッドネス (オデッセイ~オンスロートブロック)  ◯◯

1本目 懐古といいつつなんだかんだ自分が離れた後のカード使われまくるのでは?と心配してたので野生の雑種犬やマーフォークの物あさりをプレイされてほっとする。相手ハンド噛み合ってない所ルーター焼いて追い込んで勝ち。

2本目 序盤こそ猿タルモで押すも、除去(燻しとか)と物静かな思索からのワームの咆哮で徐々に押され始める兆し。残りライフ11まで詰めたところでハンドが黒焦げ2枚だったのであとは3点以上の火力をトップするプランに賭ける…と思ったら相手が綿密な研究フラッシュバックして来たのでそのままチャー2枚撃って勝ち 

対戦相手の方は青黒緑マッドネス現役時代はまだマジックやってなかったとの事で、懐古というより温故知新。親戚からもらった昔のカードの中にオデッセイあたりのカードがあって触っていたとか。

 

■2回戦 スワンアサルト (ローウィン~アラーラブロック) ◯✖◯
 

 知り合いとマッチング。一昨年マジック仲間同窓会飲み的なもので会ってはいるが、対戦は11年くらいぶり。
 

1本目 相手ランド事故で勝ち

2本目 普通にスワンに殴り殺される(除去手段がない)

3本目 普通に並べて殴ってチャーYouで決め
 

当時のフェアリーメタで採用されてる全体除去が紅蓮地獄と火山の流弾なので、基本タフネス3なこちらの生物群が落とされず楽だった。

試合後フリプで作って行ったドラゴンストーム(ラヴニカ~時のらせんブロック)を回して遊んでたら、回し慣れてなくてグダグダ。


■3回戦  Delver-Blade(ミラディンの傷跡~イニストラードブロック) ✖✖

 
1本目 デルバー、聖トラフトの霊、修復の天使、ギタクシア派の調査と「(その頃にはもうマジック離れてたけど)知ってる、それすげー強えやつだ…」というカードをどんどん撃たれて気付いたら死んでいた
2本目 上記の布陣にルーン捕えの長槍が加わり秒殺
 

MTGから離れてた間にカバレッジで見て「強えなー」と思ってたやつに見事に轢き殺された感。


■4回戦 ピットサイクル(ウルザ~マスクスブロック) ○○

さっき会場から「ピットサイクルやんけ」という叫びが聞こえてきていたのだが、ここでマッチング。 

1本目 猿厄介者の理想的スタート。相手モノリスからのマナ加速でバーゲン出すも、その時点でライフ11まで詰めていてバーゲンからのドローでコンボスタートせず勝ち。

2本目 相手白マナ出ない事故でレイディアントの竜騎兵素出しに辿り着かれる前に殴り切って勝ち。
 

 流石にサーガ当時のストンピィのクレイドルブン回りには負けるが、エコー無しに1マナパワー2、2マナパワー3も展開できる訳で、ビートの安定打点向上の歴史を感じる。ソリティア系コンボデッキは最近のマジックのデザインでは忌避されているが、導火線に火がついたような勝負も面白い。



■5回戦 赤茶単  (ミラージュ~ウルザブロック)◯◯

1本目 お互い2マリ。相手マナアーティファクトだけ引く展開で普通に殴って本体火力で勝ち。

2本目 またお互い2マリ。ここぞとサイドインしてた古の遺恨で割りまくるが2マリだけあって肝心のクロック展開の方がヌルく、相手の決死のワイルドファイアに辿り着かれる。その後5ターンお互いランド引かず動けない展開も、やっと引いたランドで展開したクロックと遺恨フラッシュバックで完封して勝ち。

 

人気ありそうな茶単系には古の遺恨刺すしかない…と思っていたのでイメージ通り。
 

4-1でプレーオフ進出
 

プレーオフ一回戦 青白ヒバリブリンク(時のらせん~ローウィンブロック) XX
 

事前スパーリングで全く勝てなかったデッキとここでマッチング

1本目 当時セレズニアとかプロジェクトXのクソ教主ことロクソドンの教主に散々やられていた今回のデッキだが、台所の嫌がらせ屋やエイヴンの裂け目追いにブリンクとヒバリというクソ教主どころではないメカニズムを搭載しているのがヒバリな訳で…

2本目 ラスゴ台所エイブンリフトウォッチャーブリンクで死
 

 調整の時も相手が土地事故った時しか勝てなかったので想像通り。当時のタルモガラクカメコロ黒命令に勝つデッキはやはり伊達ではない。

※基本土地はMTG初めて買った時の4版入門セットに入ってたのを使ってます

 賞品でパックと、神河トークンフィギュア(イリュージョン)など貰う(このフィギュアまだ残ってるのか…)。商品のプロモパックから踏み鳴らされる地のプロモFoilが出て、お前は一生グルールしろというメッセージかと。


 ベスト4はゴブリン招集(オンスロートミラディンブロック)、青白ヒバリ(10版・時のらせん〜ローウィンブロック)、 Delver-Blade(ミラディンの傷跡〜イニストラードブロック)(2回戦の方)、グルールビート(自分)。
優勝はゴブリン招集(オンスロートミラディン)。

 なんと参加者14人全員違うデッキタイプだったそうで、その中で最新のデッキは2回戦の方のデルバーブレード。最新でも9年前のデッキということで、懐古スタンというフォーマット名をみんな地で行き過ぎ。ジャンドとかアブザンアグロとかレシピ見て絶対無理だろってなるデッキのレシピを事前に見ていたので、自分が知ってる時代の割と勝負になるデッキが多くて良かった。

 

 この大会をきっかけにまずカード屋巡りの楽しさを思い出してしまい(モダホラ2発売という格好のネタもあったし)、無意識にカード屋に足が向き、モダンのカードが集まっていく日々。少しずつ集めて行こうと思っていたものの、モダン系のカードはモダホラ2発売後の6月下旬あたりから高騰が激しく、5月あたりにいけるだけいっとけば良かった…と少し後悔。

 遊ぶ方ではMTGアリーナをぼちぼち回し、6月はマグダ型グルールアドベンチャーを回しひとまず構築ミシックまで。これは復帰と言っていいのかそれとも半復帰くらいなのか…それはともかく、マジックと少なからず向き合う日々が懐古スタンの大会をきっかけに戻ってきたのだった。素晴らしい大会を開催していただいた事に感謝します。

「意見」から「有り様(ありよう)としての言葉」へ(Twitterの不快感と作品語りのあり方について)

 Twitterでの意見・主張ツイートには納得よりも必要以上の不快感をもたらされる事の方が多いように思われる。その意見・主張はよくよく見返してみれば「まあそう考える人もいるよな」という、ひとまず自分の中で「考えるための材料」としておけばよい、即応の必要があるものではなかったりするのだが、そのようなツイートを見た瞬間はとにかく反射的に、何が何でもその主張に対する対抗案を即打ち出さなければならないという強迫観念に駆られてしまう。
 その反射的な不快感・強迫観念を「落ち着いて客観視してみる」段階に必ずしも移行できるとは限らないのが厄介なところで、ことに反射的な不快感をそれこそ反射的にアウトプットしてしまった場合などは、その自分の発言と一貫性を持とうとして引っ込みが付かなくなる場合もある。
 Twitterでの意見・主張ツイートが駆り立てる不快感の「必要以上」度の高さは、その意見・主張の方向性の読者との噛み合わなさではなく、その「ツイートでの意見・主張」が「ツイートでの意見・主張」であること、そのスタイルそのものによって生み出されていると考えるしか説明のつかない程のものがある。心持ちとしては「Twitterでの他人の意見はすべて、見るとムカつくように出来ている」くらいに考えなければならないのではないか。
 ツイートが人をムカつかせる構造のひとつとして考えられるのは、ツイートでの意見・主張が往々にして読者の前に「全ての読者それぞれに、直接向けているような」顔をして現れるということが挙げられる。誰もに向けられているかのような強い志向性と即応以外を許さないかのような直接性…ツイートによる意見・主張は多くの場合、あまりにも「意見・主張であり過ぎる」のだ。
 ツイートでの意見・主張が持つこのようなラディカルな性質は個々人を反射的な反応へと駆り立てるのみで、その意見・主張が本来それをつくることを目的としているはずの「他者の変化の機会」を著しく損なう結果を生んでいる。人を反射的に駆り立てることに終わらず、ゆっくりと昨日とは違うところへと動かしていくのはおそらく、「こちらを強く向いている」(強い志向性と直接性を持つ)ような意見・主張ではなく、人のひとつの「有り様」(ありよう)がどこを目指しているともなく言葉で差し出されるような瞬間なのだ。Twitter(だけとも言い切れないが)の言葉をめぐる現在の状況は、人の言葉をひとつの「有り様」の表現として存在させることを困難にしている。

 ところで、Twitterでの言葉の論理に引き摺られて、創作物について生産的に何かを語るということが、作品を意見・主張に還元することとイコールに捉えられているケースもあるように思われる。だが作品は、強い志向性・直接性を持った意見が他者にとって受け入れ難いものだからこそ、創作という行為を経てある形式を持った構造物として練り上げられたものだとも言える。〈作品の目的が単なる「意見の伝達」にあるのであれば作品という構造物を拵えるようなまわりくどい手段を取らずに意見そのものとして差し出せばよく、そうでないからこそ作品は「他でもないその形」をしてここに差し出されている…〉というような言い方は、作品の「その形そのもの」を見据えるための戒めとしてしばしば持ち出されるものだが、改めてここで強調しておきたい。
 ナマの意見・ナマの主張が受け入れ難いものだからこそ、そこにあるとも言える作品という構造物。そのような構造物を直接性・指向性を持った意見・主張へと読み換えることは、作品を作品以前の受け入れ難い原型へと押し返し、創作という行為を元の木阿弥へと帰す行為になっていないだろうか。
 作品についての語りを、確かに作品が存在することの震えから生み出されたひとつの「有り様」を語る行為として存在させることが、現在の「作品についての語り」には求められているように思われる。

2020年のテレビアニメ感想


2020年に見たテレビアニメの中から、「面白かったアニメ」と「イマイチだった(ものによっては全部見てない)けど書くこと思いついた」作品について書いてみたい。
なお参考までに

2010年代の傑作は絶対防衛レヴィアタンファンタジスタドール・幕末義人伝 浪漫

 

2018年の良かったアニメは三ツ星カラーズ・音楽少女ほか

 

ribknit.hatenablog.com

 

2019年の良かったアニメは叛逆性ミリオンアーサー・バミューダトライアングルほか 

ribknit.hatenablog.com

 

 と、なっております。では。

どるふろ狂乱編

 癒やし編から続いて放送のショートアニメ。癒やし編からしてあまり話題になっていなかったが、狂乱編では癒やし編のシュールテイストも消え去り、余計に話題にならなくなった印象。

 しかし、ギャグ/コミカル作画・演出の練度では癒やし編に勝るとも劣らない良作。リアル日常芝居と超絶バトル作画以外も話題にして欲しいと心から願う。まあ後半は日本人には分からないギャグなのか単にギャグとして成立していないのか区別がつかない部分が多かったけど。

 毎回違ったショートアニメが流れるエンディング(ループ系をメインとして、1回ただの原作の衣装宣伝アニメだったのも面白かった)が良くて、定期的に繰り返して見てました。

プランダラ

 「こんなアニメ俺以外誰が見るんだ」感を、世界で自分だけが大好きな銀の墓守り(1期)のキャラデザの人が作画にメインで入っている事が加速させていく作品だったが、途中で挫折してしまって申し訳ない。2クールあったというのが凄いし、スケベ観念がひたすら時代錯誤なのにエロ画面の露出度はストイックというバランスも凄い。

 

 はてなイリュージョン

 スーパーアニメーター松尾慎氏(ラムネ&40炎のOPとか。ロボットアニメで名前を拝見することが多い)がここにきて初監督。
 原作が同じメルヘン・メドヘンはまだ「多人数チームバトルとかジュブナイルテイストとかファンタジスタドールに近い部分が所々あるから同じスタッフでアニメ化して…」みたいな企画の意図が推測出来たが、これに関してはもう何でこれをアニメにしたのかもそれがスーパーアニメーターの初監督作になるのかも分からないし、それでいて1話の(一般的にゴージャスさとは捉えられにくい)半端ではないゴージャスな画づくりといい、そのあまりのよく分らなさに応援せざるを得ないという決意を開幕で固くした。

 が、その後画面は壊れ気味で、終わってみると「いや、なんだったんでしょう?」としか言いようがないアニメ。でもこういうの作られる隙間がなくなったら日本のアニメは終わりだよとは思えた。OPアニメーションはほんとにカッコいい。今年のベストOP候補。

 

 ちはやふる3

 競技アニメの面白さはその競技独特の大会形式に演出が引っ張られていく所にあって、ちはやアニメはそれが楽しめる典型例。2期から6年。本当によく作ってくれた。2クールが早過ぎた。願わくば原作と共に最後までやって欲しい。

 

 映像研に手を出すな

 アニメ創作にまつわるどうこうよりも、「アナクロ遺産が眠っているマンモス学校(とその周囲)」という存在に引っ張られて楽しく見れた。なのでアニメ作るより製作環境やロケーションを探索してる所の方が好き。

 

 22/7

 OPの曲や1話で「ヤスシって…」とダメな雰囲気が漂ったが、ちょっと湿っぽい各キャラスポット回が面白くて一転、毎週楽しみなアニメに。アイドルアニメに「ライブパフォーマンスのカタルシスをエピソードの各部が支えていく様」とは別な「何か」を求める自分にとって、湿っぽいドラマのその湿度が「何か」として機能したのか。この期に及んで未だ死ねずにいるアイドルアニメ侮りがたし。

 

球詠

 要求コストが明らかに高い野球という題材を地に足ついたリソースでちゃんと見せられているのは、ここで何か高度な事が行われている証拠と見た。その演出と菊田幸一氏(このすばのキャラデザで知られる)の独特のキャラデザがアニメートしていく様は、崩れや空白をポジティブなものに転化していく力を持っている。いわゆる「良い漫画の良いアニメ化」とは一味違うバランスで成立している良作。スタジオA-CAT作品は近年良作続きなので要注目。

 

サクラ大戦 the Animation

 1話見た時点では案外いけると思ったんだけど…。コンテになかの☆陽氏(自分が好きなのは閃乱カグラ2期5話のコンテでの仕事…今年はウルトラマンZでのコンテ仕事が代表作か)参加の2話のバトルの設計など、画的に面白い所はぽつぽつあった…のだが。

 

邪神ちゃんドロップキック

 レガシー的リミテッドアニメギャグ演出の粋を集めたギャグアニメの2期。基本要素が出揃ってお披露目要素が少なくなりやや飽き始めて来たのも否めないが、ふるさと納税が絡んだ無理矢理な地域観光展開が活路を開いたか。早くも3期が決定するその躍進ぶりに、逆に戸惑う。

 

プリンセスコネクト!Re:Dive

 世の期待度が高い原作のアニメ化に、金崎貴臣監督が割り当てられる時代が来てしまったか。これゾンもこのすばも主人公が独白含めてよく喋るアニメだったので、その辺の作品と比べるとこれは結構異色。

 流石にいろんな部分が胴に入ってるけど、サイゲ原作のアニメにはある枠を絶対に踏み越え(られ)ない感じがあって(一定の下世話さに踏み込めなかったり…)、それがこの監督に合っていたかというとどうだろう。純度が高すぎて自分は最後まで思い入れ切れない…というのは贅沢な感想か?

 


ラピスリライツ

 ゲームリリースを前提としたアニメ先行型メディアミックス。またアイドルアニメ?と思わせつつ、アイドルやるのがメインのつくりでもない。「この世界のアイドルは魔法が使える」がCMのコピーだった気がするが「この世界の魔法使いは時にアイドルになる」と言った方が良い。

 実は退屈になりがちな「みんなでゲームをプレイ」展開を別ラインとの並行で見せる5話など、多キャラ多ユニット制を楽しく見せるセンスが光る。はじめから個がきっちり立つより、全体がわちゃっとしながらそれぞれの存在がぼんやり立ち上がってくるタイプが好きな自分にはピンポイントなアニメ。名作妹ちょの監督がやってくれた感。温かいエピソードをピュアな目線で見守り続けるにはちょっと肉感的過ぎる気がするキャラ作画(全ユニット全メンバーのコスがノースリーブかオフショルダーだし)というバランスも好み分かれそうだが自分としてはツボ。

 自分が面白いと思ったスマホゲーアニメはその後ゲームが速攻サービス終了しがち(あかねさす少女、ぱすてるメモリーズ 他)だが、これはまだゲームがリリースされていないので安心。

 

モンスター娘のお医者さん

 性癖~な感じで進むかと思いきや、案外そういうパートは薄味で、基本的には地味なドラマが展開。性癖~な感じでは出なかったであろう牧歌的テイストに好感を持ったが、牧歌的過ぎて刺激に欠けたきらいもある。なんだか惜しかった作品。

 キャラデザの加藤裕美氏はファンタジスタドールの時もそうだったが、描く人が死なないか心配になるくらいキャラ原案のディティールをアニメキャラデザにも残すなぁと思った。

 

放課後ていぼう日誌

 絶対防衛レヴィアタンのキャラデザ…というか動画工房作品をはじめとした多数のアニメでハイテンションなOP・EDアニメーションに関わり続けてきた大隈孝晴氏の初監督作。

 近年の動画工房のアニメは「カタい」という印象(好きな動画工房アニメは恋姫†無双11eyes)が強くてあまり見れない事が多いのだが、これは海釣りという個人的にすごく興味のあるアクティビティに、ディティールをきっちり抑えつつ取り組んでいくアニメなのでするっと見れました。キャラクター作画にちょっとクセがあるのもいいアクセントになっている。EDの歌詞の気が効いてる感じがちょっとムズっとするんだがこの気持ち分かる人おる?

 この前のダンベルも見れたので、自分が今の動画工房のアニメを見れるかどうかは結局題材次第という事になってしまうのかもしれない。

 

彼女お借りします

 マガジンラブコメがせめてきたぞっ!と防御態勢に構えつつ見始めたが、現代的な洗練もちゃんと有したキャラ作画のなかでベテランを中心とした演出陣が半ば懐かしさも漂うコミカル演出(巨大化するリボン・突然ツッコミ始める熱帯魚などなど)で遊ぶ、マガジンラブコメとしては珍しいテンションのアニメ化がなされており、色々とアレな恋愛?模様を見せられているのにも関わらずなんだか爽やかな気分に。

 

ジビエート

 未だにこういうのブチ込んでくるから全くアニメってやつは。初回OPから既に漂う規格外感。あまりに感染力が強すぎて他のアニメでというか生活の中で何を見てもジビエートを思い出すように(例:「●RECジビエートじゃん」「カツカレー→ジビエートじゃん」「光る棒→ジビエートじゃん」「関越道→ジビエートじゃん」)。OPもヘビーローテーションした。
 何がヤバいかいちいち語ってるとキリが無いし、他所でも散々語られてるので今更何も付け加える必要ない気もするが、所々背景だけは妙に丁寧で関越道の無人と化したサービスエリアの駐車場とか関越道のトンネルとかの入口とかの質感は出ていた(ので逆に笑ってしまった)という事は言っておきたい。あとワーゲンバスが出てくるアニメは今までいくつかあったけどこんな奴ら(ほぼヤクザ)が中に乗ってた作品は他に無え!

 

魔女の旅々

 キノの旅?と思わせつつその手の話はオチに一捻りも二捻りも足りない感じだし、コメディ回で90年代諸国行脚系ラノベ(だけではない)アニメ風のテイストを匂わせつつも、それが魅力というにはいい話は普通にいい話過ぎる*1…丁寧に作ろうとしている事が逆に「色々とやろうとして中途半端」な印象を増幅してしまっているような。細かいアクション(芝居含む)の組み立ての軽快さや、本渡楓ボイスのエロさで最後まで見る事は出来た。

 

いわかける

 あのCHEATING CRAFT(9話は10年代アニメを代表する狂ったエピソード)を送り出したスタジオ・BLADEの初30分アニメ。アナクロさがツボに入るタイプの人をスベるのを恐れずに狙い澄ましたかのようなつくりで、画・演出の方向性共にどちらかといえば好物。ギリギリ「スベってる」寄りなのではというキャラ造形などムズムズする部分はあったが、特徴的な大会形式に作劇が寄っていく所など、競技アニメとしてのツボは抑えてあった。演出力でギリギリなんとかまとめる最終回は「テレビアニメの最終回」感に溢れていてナイス。

 作品のテイストを象徴するかのようなこれまた懐かしい雰囲気のOPアニメーションとEDアニメーションには完全に射抜かれた。鈴木愛奈はどこかにアナクロ要素を含む作品のテーマ曲ばかり歌っている気がするな。そしてED原画のアニメーター小澤和則氏はいくらなんでも今年(も?)描き過ぎで、原画に名前見ないアニメあった?とすら思える。

 

虹ヶ咲学園スクールアイドル同好会

 ラブライブの名を冠しつつも全体的にシュッと今風になって「こうなったかー」と感心はしつつも、葛藤→パフォーマンス収斂型なその盛り上げ方(いや個人的に苦手なだけでアイドルアニメとしてはそれが普通なのだが)には毎回「いや、まだ俺お前らの事よく知らんし…」と感情がついていかない部分も多し。その辺「特に下準備なく初めから思い入れてもらえる事前提」なものを感じてしまったが、人気シリーズに連なる作品としてはその辺は気にしない作り方が正解という事なのか?面白い画面が連続する回(10話*2)もあり、その辺は楽しめた

 

アクダマドライブ

 こんなのダンガンロンパ苦手おじさんが見れるはずないだろ…と思ったが、どんなセンスを見せるにしろ勿体つけずに次へ次へと進んでいく潔さがあり、最後まで見守れてしまった。最終回近くで精神or電脳世界にinチックな絵面が頻出したのは少しガッカリしたけど、最終回にここまで何かが(ちゃんと)終わる空気感がある作品も最近珍しかったのでよし。単発劇場アニメで作るプランも想定されてた企画だったのでは?という気もする。

 

禍つヴァールハイト

 目立った特長のない舞台設計とどのキャラを1話限りのモブと言われても信じそうなキャラ造形というフックの無さ…表面的な創意を見せつける気があんまり無さそうなのと「先に何かあるのでは?」という勿体つけた感じで見せようとしてくる感じは、上のアクダマドライブと対称的な作品なんではなかろうか(「単発劇場アニメも視野に入れてたのでは?」と思わせる所は同じ)。

 その「何かあるのでは?」感にまんまと最後まで付き合ってしまったが、終わり方もこれまたアクダマドライブと対称的に全然何かが終わった感じはなく…

 でも、このご時世にいわゆる「キャラ立て」的なものとは無縁にキャラたちがイキイキしてるバランスは個人的には好みだったし、そこまでのプロセスを勿体つけた割に人の死の余韻の描き方が異様にドライだったり、ツダケンがそんなに重い扱いじゃなかったり、長縄まりあがやっぱり良かったり、この作品特有の空気感は味わえたのでそこまで損した感じはしない。

 

 呪術廻戦とD4DJは未完なので2021年扱いに。終わってたらD4DJがこのシーズンベストだったか。

まとめると今年特に良かったのは

ちはやふる3
・22/7
・球詠
・ラピスリライツ

あたりか。ジビエートは特別賞。こうして見ると今年は「これは俺のアニメだ!」というヘンな気分にさせてくれるタイプの面白さのアニメは少なく(近いのは球詠か)、手堅く面白いものが多かった印象。

*1:胸糞エピソードも諸国行脚アニメ風エピソードも傑作な叛逆性ミリオンアーサーというアニメが去年あったのだ

*2:

最近(2020年1~3月)行った銭湯(船堀 あけぼの湯 、池袋 稲荷湯 他)

幡ヶ谷 第二かねき湯

京王新線初台〜幡ヶ谷の中間あたりにあるマンションタイプの銭湯。ボディソープ・シャンプーはフロントで下駄箱の鍵と交換で借りるというあまりないスタイル。下駄箱の鍵の番号は利用者が記憶する必要が。休憩スペースは十分くつろげる広さがあり、アイスも売っている。立地的に狭そうだとか勝手に思っていたが、そんな事はなく結構ゆったりしている銭湯だった。

新庚申塚 ニュー椿

都営三田線で言えば西巣鴨から巣鴨方向の間、都電荒川線新庚申塚駅のすぐ近くにあるマンション銭湯。白山通りに面した建物壁面に巨大な「ニュー椿」の文字があるので見逃すことはない。壁面の文字に対しエントランスはそれほど大きくないが、脱衣所・浴場は広々。屋外露天には打たせ湯もある。温浴設備重視でサウナ/交互浴勢に評価が高い銭湯らしい。設備に対して意外にもボディソープ・シャンプー設置はない。休憩スペースはソファー&テーブルの必要十分スタイル。銭湯の休憩スペースで最近気づいた事だが、相撲中継の立会いが始まるとなかなか人が離れず混み合いがち。

桜上水 月見湯温泉

桜上水の駅南側、下高井戸方面にある温泉銭湯。笹塚にも温泉銭湯があり、仙川にも銭湯ではないが料金安めの温泉施設があったり、京王沿線はお手頃価格の温泉が充実している。世田谷区で銭湯価格の温泉とくれば…という事で行った日も無茶苦茶賑わっていた。

浴場は都内ではどちらかといえば少数派の、中央にいろんな種類のお風呂が配置され、外周が洗い場というタイプ。ボディソープ・シャンプー設置あり。脱衣場に縁側があり、こういう銭湯はちょっと得した気分になる。休憩スペースも申し分なし。帰路は下高井戸駅へ。駅の構造と運行の都合上桜上水の方が止まる列車は多いが、駅前は下高井戸の方が賑わっている。下高井戸駅は停車する電車が少し傾く感じと脇に世田谷線がくっついている感じが良い。

船堀 あけぼの湯

船堀で温浴施設といえばカラオケまねきねこの系列施設「天然温泉まねきの湯」(以前行った時はビデオゲーム筐体がゲームコーナーにあったが今はどうなっているやら)が有名だが、温泉を生かした銭湯も2カ所あり、あけぼの湯はそのひとつ。

しかしまず荒川沿いを散歩してから当の銭湯に向かう手前で発見した、駄菓子屋が総合メディアショップの皮を被ったような店に心を奪われる。恐らくメイン商材はTCGデュエルスペースに集まる子ども向けの駄菓子、そしてAV。もう単に置いてるだけで一時期から品揃えが刷新されている気配のない新品・中古ゲームや古本の類に囲まれたデュエルスペースで盛り上がっている子供たちから、幕一枚を隔ててAVスペース。店内にはDSの光の4戦士FF外伝の販促タペストリーが。店内のあちこちにそれぞれ違ったポイントで時を止めてしまった空間が偏在している中、TCGと集まる子どもたち、駄菓子、そしてAVだけが現在を生きていた。

本題のあけぼの湯は、面構えからすると明らかに狭そうなのだが、ロビー横にはお食事処完備。そして浴場内部に入ると最初一瞬「これだけ?」と思ってしまうが脇に2階への階段が。「そうか、1階2階の二層式でトントンなんだなー」と思って2階に上がるとトントンどころか2階だけで普通の銭湯以上のスペースがあり、普通にゴージャスな銭湯であることが判明。櫓付きの寝湯や渦を巻く円形牛乳酵素風呂など変わり種もある。帰りは船堀タワーことタワーホール船堀の展望台(無料!空いてる!)から夜景を。件の店といい濃い街だ、船堀。

池袋 稲荷湯

池袋といえば桃仙浴場をはじめ西方面の銭湯が次々と消えていった過去が思い出されるが、駅から歩いて行ける範囲にまだまだ銭湯は残っている。「首都高高架下沿いの古本屋は駿河屋(池袋乙女館)になったか…」などと東池袋の変化に感慨を漏らしつつ目的地へ。乙女ロードの先の串カツ田中を通りがかると中に女性客しか見えず、世界にはこんな串カツ田中もあるんだなとも。

目的地付近には半分が商店になっている銭湯「ゆラックス」もあり、こちらは知り合いが近くに住んでいた事があって何度か行ったことがあるが、今回の稲荷湯は初めて。この周辺は池袋という一大ターミナル駅からの距離にしては「都区内の住宅街」然としているが、この稲荷湯もそれに合わせてか「住宅街のアットホーム銭湯」な雰囲気を漂わせている。脱衣場でボディソープ・シャンプー設置なし…は割と豊島区には多いパターン。番台型の、脱衣場でくつろぐタイプ。池袋散策から思いつきでいける都心のエアポケット。さきの串カツ田中のように、乙女で埋まる日は来るのか。

文京区 大黒湯

戦後復興計画の環状3号線が唯一計画通りに開通した区間(つまり「本来こうあるはずだった東京の道」の姿が見られる)「播磨坂」に桜を見に行った帰りに寄った銭湯。茗荷谷方面からひときわ目立つお茶の水女子大学の国際交流学生プラザの建物を横目に春日通りを新大塚の方へ歩いていくと、大通りに面するザ・銭湯な建物が。大通りに面する銭湯はマンションタイプな事が多いので意外。入口はフロントだが、中は高い天井に脱衣所が広く取ってある旧来式。脱衣所→浴場の扉は衝撃の自動ドア。構えからは望外のシャンプー・ボディーソープ設置も嬉しい。内側から上を見るとトレードマークの八角形の湯気抜きがある。件の播磨坂のような「こんな所が」な散歩スポットが多い文京区散歩のお供に使える本格銭湯だ。

文庫にならないフーコー「言葉と物」―現代思想の文庫たち

 フーコー「言葉と物」現代思想の基本テキストにも関わらず手に取りやすい文庫にならない(或いは廉価版が出ない)事はしばしば話題になる。他の現代思想系著作(厳密には「現代思想」には入らないかもしれないが、大きな影響を与えた20世紀思想も含む)はどうだろう。
 フーコーは長めの著作では「知の考古学」(「狂気の歴史」「臨床医学の誕生」「言葉と物」などの大著の方法論を開示する著作…らしい)は河出文庫に入っている。また大著に比べてマイナーだが、フーコー思想の入門としては最適と言われる講演録(哲学者著作は講演録から入るのが基本)「言説の領界」河出文庫に入っている。長さも程々でフーコーにしては普通に読み通せる本で面白かった。「狂気の歴史」「監獄の誕生」などメインの大著群が文庫にならない(出来ない?)事へのせめてもの抵抗として、入門書的なこれを文庫にしているのかもしれない。ちくま学芸文庫の「フーコー・コレクション」は「ミシェル・フーコー思考集成」からの選集で短~中篇ともいうべき論文が集まっており、各大著の部分的原型になった論考なども含まれているので拾い読みには適している。
 ドゥルーズは近年ほとんどの代表著作が河出文庫でまさかの文庫化を果たした(「ヒューム」「ニーチェなど哲学者別論考の一部はちくま学芸文庫で以前から出ていた)「差異と反復」、ガタリとの共著「アンチ・オイディプス」「千のプラトー」などの大著はもちろん、「ザッヘル=マゾッホ紹介」なども文庫になった。自分のような下手の横好き哲学本読者でも圧倒的に楽しかったのは対談集らしからぬ対談集、「記号と事件 1972-1990年の対話」ドゥルーズ哲学の手引きともなりつつその域を超える名言だらけで、読んだ哲学の本の中で一番好きかも。

  デリダ「声と現象」ちくま学芸文庫で版を重ねているが、一部から熱烈に支持*1されている「死を与える」は入手困難になっている。全体の著作の中で文庫になっている割合は少ない方か。

 バタイユちくま学芸文庫の「エロティシズム」「呪われた部分」などなど、かなり文庫化率が高い印象。日本では異様に人気がある(あるいは一時期異様に人気があった)のではないだろうか。澁澤とか、そっち方面からの切り口もあるのがやはり大きいか。

 ベンヤミンは短かめな論考(あまりにも有名な「複製技術時代の芸術作品」含む)は岩波文庫ちくま学芸文庫河出文庫など複数の文庫に様々な形で収録されている。1巻1巻が分厚い上に堂々7巻刊行済みのベンヤミン・コレクション」が当然のように網羅性は高いがエッセンスが散らばってる感じもあるので、初めて手を出す1冊ということなら岩波文庫(「暴力批判論」「ボードレール(「複製技術時代の…」も入ってます))もエッセンス凝縮度の面でおすすめ出来る。相場も安いし。(なお、岩波現代文庫の「複製技術時代の芸術作品」解説本「ベンヤミン「複製技術時代の芸術作品」精読」は本文も全文収録している)。ちくま学芸文庫のコレクションは順調に版を重ねている印象があるが、長めな著作の「ドイツ・ロマン主義における芸術批評の概念」は品切。「ドイツ悲劇の根源」がこの前復刊されたのが救い。「パサージュ論」岩波現代文庫から出ていたが、巻によって品切中で現在揃いで入手するのは割と困難。

  ロラン・バルトちくま学芸文庫などで結構な数の著作が文庫になっている(「エクリチュールの零度」「表徴の帝国」「映像の修辞学」など)が、文庫になっていないものに限って良著の声が高い(「明るい部屋」「恋愛のディスクール 断章」「サド・フーリエロヨラ」など)。有名な「作者の死」を含む「物語の構造分析」も文庫になっていない。文学よりの人ではブランショも「文学空間」が文庫になっていなかったり(「明かし得ぬ共同体」「来たるべき書物」などはちくま学芸文庫で出ている)、少し穴が。

 その重要度に対して文庫化率が圧倒的に低いのはレヴィ・ストロースだろう。「悲しき熱帯」は「悲しき南回帰線」として講談社学術文庫で出ていたが訳が異常に不評で、読むなら中公クラシックスに頼る事になる。解説などを度外視してどうしても安く読みたいなら、中公「 世界の名著」(函入単行本と少し小さな中公バックス版がある)に収録されている巻があるので、古本屋で安く転がっているのを狙おう。とはいえ、これはどちらかといえば思想寄りの著作ではない。そっちの方の代表作「野生の思考」は、その重要度に対する文庫になってなさの度合いでは「言葉と物」と双璧かもしれない。
 余程じゃなければ概説で済ませておけと話題になるラカンは主著はほとんど文庫になっておらず、著作の中でどのポジションにあたるのかが概説書の類にもあまり出てこないようなものが文庫になっている印象。著作の中では日本語として読める方と言われてた(気がする)「精神分析の四基本概念」は、品切でえらい値段になっていますね。
 レヴィナスは珍しく岩波文庫が手を出している他(「全体性と無限」)、講談社学術文庫ちくま学芸文庫などでぽつぽつと出ている。

 複数著作が文庫化している著作家はこの辺で、その他ボードリヤールなど代表1作が文庫になっているパターンや、クリステヴァなど文庫化を待つ間にあまり読まれなくなってしまったパターンなどがあるか。やはり複数文庫化しているのは流行期のあったフランス系の人が多く、アメリカ系はジョン・サール(セクハラで処分されましたね…)「MiND 心の哲学ちくま学芸文庫で出るなど兆しはあるものの、かなり少ない。アメリカ系の重要著作の文庫になってなさ度合いこそ「言葉と物」や「野生の思考」どころではない状況にある気もする。

 まだまだ振り返り忘れている部分があるような気がするが、とりあえずこの辺にしておこう。

 さて、フーコー「言葉と物」について。初めて読むとなんといってもボルヘスの「シナのある百科事典」の引用(の引用)から始まる序章のドライブ感に惹きつけられる。ベラスケス「ラス・メニーナス」の批評になっている第1章(これの原型になったテキスト「侍女たち」はちくま学芸文庫フーコー・コレクション 3 言説・表象」に収録されている)も読みごたえがある。その後、ミクロコスモスマクロコスモスで錬金術な2章までは楽しみつつ、3章あたりからだんだん顔が引きつってくるのが自分のようなヌルい読者のありがちなパターンではないだろうか。全部を咀嚼するのは容易ではないが、序章やあまりにも有名な末尾の言葉など、そこだけで強く惹きつけられる細部を持っているのが思想プロパー以外にも強く支持される理由か。
 文庫化されている現代思想系著作を振り返ってみると、読み込める人間がそう沢山いそうもない難解な著作までよく(どちらかといえば低価格多売が前提の)文庫になっている方だと思う。思想書の敷居を下げるのに大きく貢献している反面、フーコーのように「手引き的な著作は文庫で」「主著たる大著はいかつい単行本で」という棲み分けが基本になっていた方が、初学者には読む道筋がつけやすくて分かり易い読書界が形成されていたかもしれない。下手すれば一生読めかねない本が数千円するのは当然という考え方もある(「言葉と物」に関しては古本屋で状態に拘らなければ三千円以下で売ってることもそう珍しくはないので、この期に探してみては…何しろ今でも訳変わってないし)。
 とはいえ、自分のような貧乏人とっては安くて軽くて困ることはない(思想書の類は単行本でも文字サイズ別に大きくないし…)ので、まあ文庫になってくれるに越したことはないところはある。単行本を既に持っているものに関しても、文庫で出たら買い直すのも吝かでない。
 余談(現代思想からは少し離れる)だがフィクション論の重要著作は文庫にならないどうこうではなく、入手難度そのものが壊滅的な事になっている。ウェイン・C・ブース「フィクションの修辞学」とかジュネット「物語のディスクール」とか、誰かなんとかしてください。

*1:保坂和志と自分の身の回りで出会った人との二人から、だが。こういう風にある著名な人の支持とそのことを知らない身の回りの人の支持が重なる著作には興味を持たされる

瀬戸際の文章(印象に残る冬・古井由吉の文章)

 一昨年もその前の年も首都圏に印象に残る雪の降った冬だったので、雪の気配のなかった去年の冬(2019年1月2月)は少し物足りないものだったが、今年の冬(2020年1月2月)は雪の気配どころか自分が上京してから恐らく最も暖かい冬になった。逆に寒いことで印象に残っている冬は2006年の1月2月で、毎年冬の度に思い出すという自分の中である基準になっている冬(こんな事で驚いていると寒い地方の人に笑われそうなのだが、外の洗濯機置き場の水が凍って出てこない日があって驚いた)なのだが、年数まで思い出すことが出来るのは作家の古井由吉氏が「辻」(2006年初版)の出版記念公演でその年の冬の話をしていたからだ。
 今年の冬もちょうどその事を思い出していたところ、古井氏の訃報が入って来た。自分に寒い冬を印象づけた作家(「雪の下の蟹」という、大雪を印象づける作品も持つ)が、暖かさで印象に残る冬に亡くなった。文芸誌のインタビューにて氏は、花(桜)の咲いている季節は休むことにしていると言っていた気がする。その桜の季節の目前のことだ。
 氏の文章はなかなか言葉にされる事のない、また、する事が困難な「間」(あいだ)(これまで簡単に言葉にされてきた「あれ」と「それ」の「あいだ」という意味での)の感覚ともいうべき微妙な感覚を描こうとする、無二のものだった。その分読者に与える負担も大きいものだったと思う。自分など、読む度に毎回ぐったりとし「もうしばらくはいいな」どころか時には「もういいな」ともなりつつ、少し経つとやはりあの無二の感覚を味わいたくなり、気づけばその著作をまた手に取っていた(自分は「杳子」のような男女関係が絡む作品はあまり得意ではなく、中~後期の「山躁賦」楽天記」「白髪の唄」のようなエッセイ要素が入ってくるものの方が好き。初期なら「先導獣の話」や「円陣を組む女たち」が素晴らしい)。
 氏の、特に作家歴が進んでからの文章はその無二の凄み・異様さは一読で感じられるものなので世評も高かったが、その評価のもとに読者が安住出来るような性質のものではなかったと思う。自分も初めて氏の文章に出会った時はその文章に酔い(この文章を書く人間が生きているという事が信じられず、何度か講演にも出かけた)信奉者となったものの、やがて単に酔っているだけでは文学に向き合えなくなってきた時、その文章は読者が「覚め」に振れたときに不安定な拠り所しか残さない、心もとないものにも思えてきた。
 「間」(あいだ)の感覚を描く、そのために「酔い」と「覚め」の「間」に読者を置くこの文体が伴ってくる。だがそのために、ここまで行ってしまわなければならないものなのか。読者をここまで連れていかなければいけないものなのか。それは許されることなのか…
 「果たしてこの文章は許されるのか」すなわちこの文章は「アリ」か「ナシ」か…そしてさきに触れた「酔い」と「覚め」の「間」…氏の文章はさまざまな境界にその読者を置き続ける「瀬戸際の文章」であり、それ故にラディカルと言うに相応しいものであり続けたのだと思う。その文章が描出する「間」(あいだ)を漂い続ける自由が、読者には残された。