改め

 正式に移転公告を出します。移転先は「似たもの同士」、同じはてなダイアリーで id は squareroot 、アドレスは http://d.hatena.ne.jp/squareroot/ です。ハンドルが楡から何かに変わる予兆を見せていますが、まだ確定はしません。確定はしないといえばこの移転もはっきりと自信をもって言えることではないのですが、間違ったからといって大きな被害をこうむるわけではないし、公告しなければたぶん一年間ぐらい放っておくことになるのでさっさと決めておきます。
(以上)
 あ、あと、今後も継続して読むかたはブックマーク、アンテナ、 RSS 等の変更をお願いします。

2009年の自己紹介

 見てない人のほうが多いでしょうが 2 月に一度くらいの頻度で自己紹介を追加してました。さいきんは自分の本質みたいなものをあまさず記述するよりは、思いついたときにちょこちょこ言い足す、といった状況です。まあこのコーナーの存在自体どうかな、と思うときもありますが、思いは確定しないのでまた思いついたときに書き足すつもりです。


12/28
 ものを考えるにおいては、驚くべき事実を見出すよりも、誰もが納得するような、穏当な結論にたどり着くことを重んじています。真実と常識は最終的に一致すると信じているからです。「驚くべき事実」は常識的な真実に至る過程でしかありません――そう思っているフシがあります。


11/30
 ずっと考えていることが2つあります。
1) よりよく生活するためにはどうふるまえばよいか。
2) 日記を書くとはどういうことか。
いずれも、自分なりの答えは出ています、が、しかし自信を持って答えられる問いかといえば、いまでもそれに肯くことはできません。このサイトは、この答えの出ない問題を考えつづけるために存続している……わけではありません。作者は根が真面目な人間です(自分で言うのもなんですが)。


9/7
 「知識ばっかり増えて、自分の頭で考えることをしない」「知識の数で勝ったってなんにもなりゃしないさ」でも俺にはその知識さえもない。ので。


8/4
 内容は、簡単に言うと「自意識の発露」。目的は不明瞭。あるいは目的はない。言葉を綴ることの楽しみは意識している。口癖は「まあ」「要するに」など。ものごとをはっきり述べることを厭い、すぐに結論を出そうとする。でも納得のいかない問いはとことん追求する。計画性がない。反省してる、けど。


5/4
 たいがい、日記を書いた時点から 2,3 週間ほど前までの範囲で作者の頭に浮かんでいたことを書きとめてみたり、考えなおしてみたり、文字で遊んでみたりして、そのときどきの残骸や成果を文章として公開しているサイトです。以下は僕(あるいは俺・私など)が文章を書く際に注意しているささやかなことたちです:一、注意の及ぶかぎり、他人の論点を盗むようなことはせず、あくまで“自分が”考えたことのみを提示しているつもりです。一、文章の細かい部分にこだわっています(エクスクラメーションマークの数、「こんにちわ」等の意図的な誤表記など)が、伝わってはいないだろうとも思っています。窮極的には自分が作文を楽しむためにやっています。――「注意している」というよりはむしろ、性格的なものですが。


3/12
 何のサイトかというと、日記サイトなんですけど、でもあまり「日記」でもありません。もう気まぐれに思いついたことを書き捨てていくというのがほぼ正確なところなのですが、だからといって「気まぐれ書き捨て」みたいなタイトルはつけたくない。それは謙遜であり、正当化でしかないと思う。もうちょっと、生活のなにか営みみたいなものだと僕自身はとらえていて、まあ、今は「楡男」という看板を掲げています。「楡」にも「男」にも意味は込めておりません。それは先の謙遜と正当化を避けるため、“体を表す名”を拒否したとも言えますが、往年のテキストサイトの習いがそのまま染みついている、と言ったほうが正確でしょう。

元旦

 明けました。大学生になって中二病を深化させているので形式どおりのあいさつはしません。こんにちは。朝起きてクシで髪をととのえているときに思い出してしまったのですが、初夢は母親がよくわからんバイトを勧めてきて口論になるというものでした。よくわからんの中身ははっきり憶えてませんが、夢に出てきた母親が根拠もないのに(そして訊いてもそれを語ろうとしない)妙に勧めてくるので僕もつい血が頭にのぼって激しい調子で詰問していました。でも後で思えばべつに怒ることでもないよな。まあそのへんは夢、夢、ということで。ここまで書いてしまった手前この夢の解釈をすれば、バイトが出てくるのはもう早くバイト始めたいわあ……という意識が持続しているため、そして口論したのは久しく充分にひとと議論してないなあという不満足があるため、と考えられます。母親が出てきたのはよくわかりません。ま、どうでもいいか。
 正午前くらいから 1, 2 時間ほど、近くの駅周辺などを散策してました。散策というか。主に自動販売機を見ながら散歩してました。自動販売機もそれなりに掘り下げがいがあるなあと思った。こないだテレビで鉄道マニアの人たちが喋っていて、この車両の部品がなんだのとか発車音がどうのと言っていて、なるほど或る領域について深めるにはこういう点に目をつければいいのだなと参考になりました。自動販売機で言うとその自販機を供給する会社だとか、どのメーカーの自販機にどのようなドリンクが入っているか、といった知識の積み重ねがマニアックな道をゆくことなのかなあと思います。いや、つまり、ひとつの領域について知識を深めていくのは楽しいことだよなあ、とひさびさに思ったのでした。趣味っていうのはこういうことを言うんだね。
 あー。元旦ということで新年の抱負でも言うべきなのでしょうが。さきほども述べたように中二病を深化させている私なのでこよみ上の区切りと自分の生活のリズムが合わないなどとぐだぐだつぶやいています。物理的?には一日が過ぎた、ということに変わりはないわけだし。まあそれはそれでいいんじゃないの、という感じだ。ね。というか実際のところは新年の抱負もないというか、昨年のそれを引きつぐ形になります。本をもっと読むとかそういうやつだ。より一般化された形で述べなおすと、意識と意思のあいだの、意思と行動のあいだの齟齬をなるべく解決する。意思と行動を意識にもとづいてより確実に統御できるようにする。といったところでしょうか。それ抱負といわない、という声がします。抱負ってのは一般的にはもっと具体的な内容を言うみたいですので、具体的に“すること”を考えると、まあもっと色んなところに出かけたいですね。そのためにはかしこく大学の単位を取る、と。

今年一緒に過ごしたもの

 おまけです。

PILOT S3

 シャープペン。それまで使っていたシャープペンが使っててすぐ指が痛くなるので見かねて買い換えた。その旧いシャープペンはかれこれ 4, 5 年くらい使ってたので、ていうか早く換えればよかったのにという感じ。見かねるのが遅い。それでこの PILOT の S3 シリーズは軽くシンプルで非常に使いやすい代物となっております。快適。

Rollbahn

 メモ帳ですね。 Rollbahn とはドイツ語で滑走路のことらしいです。でも日本のメーカーが作ってるらしいです。このメモ帳がいいのは、 (1) 表紙が適度に硬く下じき代わりになる。 (2) 紙を束ねてるリングにペンを挿すことができる。 (3) 縦横に入っている罫線は薄く、メモするさい束縛感がない。 (4) メモ帳をゴムバンドで閉じることができる。ゴムバンドをとる/つけるの動作は、メモ帳を使う/使いおわる、の意識に対応しており心地よい。 (5) 後ろにいくつかビニールポケット(?)があり、路線図やカレンダーなんかを入れておける。といった点です。メモ帳を使うのがこれで初めてなので絶対評価です。

音楽

 ……は、かなり散漫な聞き方をしていたので書かない。来年はアルバム単位でちゃんと鑑賞したい。もっと色んなのを聴こう。――それでも自分の一年の存在意義を無碍にしないためにいくつか挙げるなら、 Self Control - TM NETWORK 、 カメラ=万年筆 - Moonriders 。前者は iPod に入れてよく聞いた。後者はレコードであるので休日にたびたび聴いた。

 ……も同様です。それでも挙げておくと、中谷宇吉郎『科学の方法』、現代詩手帖 2009 年 11 月号、 Kornhauser, HOW TO STUDY 。……いや、しかし、読んだ本について驚くほど憶えとらん。なんかすごく平板な年ではあったかもしれない。

2009年に書いたこと

 自分を振り返るという視点でまとめているので、「重要な指摘」とか「面白い」とか言ってるのはあくまで自分にとって、であることを先にことわっておきます。 10 個くらいに絞ろうと思ったんだけどできませんでした……。もし、ここに挙げたなかでいくつか読んでやろう、という人があれば、タイトルや自己コメントの部分を見て引っかかったものをぱらぱらと読んでいただければ幸いです。では一月から順に。

WW 問題その2 - 楡男

 一月十日。俺用語でいっていたところの「 WW 問題」について。この日記から俺はなんも進歩してねえじゃねえか、ということがあらわになってしまう、重要な指摘が複数含まれている日記。

さいきんの楡( 2009 年センター試験直前) - 楡男

 一月十四日。年中写真ばっか載っけてるブログを好ましく思わない僕だが、外出日記が面白い、というのは否定しがたい事実だ。実世界との接触、大事よねー。

センター試験エピローグと生活はまだ続いてく - 楡男

 一月十九日。センター試験で手痛く失敗した直後の。なぜかドラマチックな内容に。万葉集読みたいよなあ。

1月26日 - 楡男

 一月二十七日。センター試験失敗をひきずってるの巻。そのセラピーとして、そしてこういう心境のときならなんか出るかも、という打算も半分あって、一日のあいだ思いついたことをせっせと書きしるしたもの。結果、一日の生活の多面性も表れているし、なかなか豊富な話題が出ていていい。ウェブ写経はオススメ、ですが自分もあれ以来実施していない。
 今年の私の日記がいちばん面白かったのはこの一月かなあ。やっぱり。大きな試験に落ちるというのはまぎれもなく確定的な、否定もごまかしもできない、つまり自覚せざるをえない敗北なのでした。

僕が勉強してこなかったことへの一つの言い訳 - 楡男

 僕が勉強しないのは「時間があっという間に過ぎる」のが怖いから、という説。全面的に受け入れる気にはならないが、今読んでも「一理ある」と思う。

せつなさ考 - 楡男

 せつなさがやるせないのは、それを表現する機能が人間にそなわってないから、という説。さいきんはせつないなんてことがぜんぜんない。しかし代わりに妙に涙もろくなった。

隣接国が多い国ランキング - 楡男

 僕のネット活動史上最も人気が出た記事。未だに「国名+隣接」とかで検索で来る人が絶えません。まあものすごい量の検索ワードをバラ撒いたことにもなるので仕方ないんですが。

あいさつ - 楡男

 三月二十三日。なかなかいい文章。一番乗りばかり持てはやされるのは理不尽だよね、というのは今でも思う。

twitter をめぐりめぐって - 楡男

 三月三十日。このころはすごく思いのままに綴っていた期間。妙なテンションだ。

ウヱブのなかの言葉から - 楡男

 四月二日。躁みたいな文章ですね。なんでこんなの書けたんだろう。

努力についてながながと、再確認ならびに整理 - 楡男

 たぶん今年最も真剣に書いた記事。いまの僕の生活観の根底にあるものを述べた。努力できたのは誰のおかげかと言えば、誰のおかげでもないと僕は考えてます。それはいわば「神様が与えてくれたもの」であると。もちろん神の存在は信じてませんが。

たぶん人間と人間の関係とかだ - 楡男

 五月四日。コミュニケーションに関して遠巻きに。現実はけっこう窮屈なのよね、という主に話。

沈黙中 - 楡男

 六月二日。大学入っての感触など。今年で一番忙しかった時期だ。仕事があるのは大事だしお金も大事。あとは現実との接触ね。

「意味がないことに意味がある」、そんなんじゃあ……ダメだ!というのは、要するにカッコつけなんでしょうケド。 - 楡男

 六月二十八日。くそっ。面白い。やっぱり或る程度精神の緊張がないとだめだな。あとブランクがあるとたいがい面白いのが書けます。おためしあれ。

ブツ ブツ(8月になりました) - 楡男, II - 楡男

 八月一日。あまり書いてはいなかった気がするが今年の夏休みはだらだらで散々でした。今はつけていない紙の日記のような感触。ひとが頻繁に改行するのはどういうときかと考えたとき、ひとつは深刻なとき、と思いつくが、そいつは撤回したい。文章が深刻になるときは改行されやすいが(また、改行すると深刻っぽくなるが)、そのとき同時に本人が最も深刻なのかというと――。

東京彷徨者 - 楡男

 九月六日。おそらく今年一番長い日記。山手線を一周しようとした記録。経験としては大きかったかなーと振り返る。

生活改善メモ;あらためて - 楡男

 自分が高校くらいからずうっと考えてきたことのまとめ。理論面はたぶんこれで完成してると思っている。あとは実践篇だよ。

twitter使わない理由なんてわざわざ考えなきゃいけないのか - 楡男

 九月十一日。夏休み末。この文章は自分でもよく書けたなと思っている。

周囲の環境がすべてと言えるか - 楡男

 私につねにまとわりつくこの不明瞭感を哲学的に攻めてみる、といったおもむきの記事。人間の意思というものを否定すると、権利までも否定することになる。まあなにより自分に意思がないと認めるのはけっこう勇気の要ることです。この意思ってやつは僕のなかでは重要で、最近気づいたところでは「尊敬」にも関わってくるようです。それはまたのちほど。
 ざっと眺めてみると、ある時期に集中して面白い日記が出てるなあ、というのが分かりますね。受験であたふたしてた不安定さが出てたやつらと、長い休み中、退屈の末に飛び出したものどもがそれ。あとは、やや忙しく充実傾向にあった生活のなかふと思い出して綴ったものが少数。
あと、抜粋。
 「「俺」「僕」「私」など、よくある一人称がことごとく代名詞たりえなくなってきている昨今(これに関しては保留さして)、こういう手(筆者註:「朴」という一人称を用いること)もアリか、と思ってもみる。」(1/24)
 「「自己保身のためだけに何かを言う/言わずにおく」というのは極力ヤメにしたい。」(2/8)
 「たぶん生活は「つなぎ」の連続だ。」(8/27)
 「日記を書いてて気持ちがいいのは自分のふだん思っていることを言えたときだよねえ」(10/20)
 「「みんな違ったふうに感じ、思い、考える。誰ひとりとして同じ人間などいないんだ」という認識と「みんな案外おんなじようなことを考えるもんだよな」というものとをアウフヘーベンすると、「みんな違うとこもあるし、同じところもある」というモノ凄く平凡な結論に至る。」(11/3)
 「なにかに参加するための理由なんてそんなバクゼンとしたもんで充分なんだろうな。」(11/7)
 「作品を作るには動機が必要なんだろうけど、だからって作品の部分部分それぞれが何かのメタファーであったらちょっとやだなあ、とは思う。」(11/24)

縦書き横書きの違い

 広田修さんの詩を Word にコピーして適当に組版して印刷する。とうぜん、読むために。
 組版作業のなかには、横書きを縦書きに直す、というものも含まれていた。
 ここで一つの疑問が生じる。
 縦書きにするのになんの意味があるのだろうか。僕があたまに置いているのは、その昔、高校 3 年のときに文化祭のために短篇小説を提出したときのことだ。あのとき、本にされたいわゆる活字よりはインターネットの日記サイトに親しんでいた僕は、その小説に関してもなんらの疑問をもたず横書きのまま(つまり Word のデフォルト設定のまま)印刷して提出した。で、提出先の図書館の司書さんに文句を言われたのだった。曰く、横書きで気持ち悪くないのか、と。まあこれには、横書きのくせに章立てが漢数字だ、という件も含まれてはいたのだったが、後日読んだ、生徒が書いたと思われる編集後記には「今年は横書きだけでした驚愕」という意味のことが書かれていた*1ので、やはり和文は縦書きに限るという意識は、特にこういう文学のようなものに関心がある人びとのあいだでは常識なのだろうなあと思うのです。だが、その当時の僕は――横書き日本語の文化に慣れ親しんでいた僕は、その常識を疑わしく思った。縦書きにするのになんの意味があるのだろうか。と。だって考えてもみてよ、横書きを縦書きに、縦書きを横書きにしたところで文章の意味が変わりますか? 適切に配置されていさえすれば的確に情報が伝達できる、それが言語とゆう記号の強みではなかったか、とは言わなかったが、でも実際タテガキとヨコガキの違いは、少なくとも論理的に説明できるレベルでは“無い”ように思うのだ。
 しかるにいま、僕は縦書きを積極的に支持するマネをとった、と。どうしてくれんだと。あの頃の俺の意思を見捨てんのかと。いう話はしていませんが、しかしあの頃とは意識が変わったのは事実といえます。今の僕は、すくなくとも詩を読むに関しては縦書きのほうがよりよい、適切だと思っている。でさ。さっき縦書きと横書きの違いをまあ少なくとも論理的に説明することはできないと言いました。それはつまり、これらの違いは感覚のレベルにしかないということです。そうだそういえば例の司書さんも僕の横書きと漢数字の齟齬を“「気持ち悪くないの」”と問うたのだった。まあ要するにそういうことですね。結局、縦書き横書きどちらに“慣れている”か、その点なのだと思います。一方に慣れていることが他方を気持悪いと思わせるわけです。今のぼくはまがりなりにも縦書きの日本語をよく読んできて(特に詩はほとんど縦書きのものしか読んだことがない)、だから縦書きが自然であるように思われるというだけだ。横書きにすると内容のなにかが失われたり味わいが変わったりするのではなく(いわばテクスト自体が変化するのではなく)、ただ読む側の眼がすこし戸惑って十全に作品を味わえないということ。縦書き横書きどちらかが原初的に悪、という話ではなく、より多数派が快適に読めるのはどちらか、という話。なのだと思います。だからこの話の結論は、文学作品を縦書きに印刷するのはユーザーサービスのため、ということですね。

*1:この思い出はhttp://d.hatena.ne.jp/misunderstanding/20090205/1233803800の第一段落なかごろにも書いた