しばらくは、去年の年末に読んだ下村寅太郎について、ここで
再録をするということで、御茶を濁す、ということにします。
引用中の「傍点を傍線にする」という表記は機能していません。
タグを知らないので、対策を検討します。


9/6に加筆。地の文と引用文などが区別しにくく
読みにくいので、ちょっと、タグなどを入れて加工してみます。

下村寅太郎『自然哲學』(弘文堂教養文庫・1942年)
の再読。この書物は私にとっては結構、ショッキングな書物ではある。
構成は次のとおり。序論は、nomosとphysis(ギリシア)、gratiaとnatura
(スコラ哲学)、そして最後に、近代科学の端緒となる、subjectとobject、
あるいは内包(強度)と外延、などの、区分の変遷について。本論が、
そのsubjectとobjectの分析において三つにわけて、ニュートン的な
もの(質点力学)、アインシュタイン的なもの(相対性理論、場の幾何学)、
ハイゼンベルグ的なもの(量子論、操作の代数学)として、それぞれ
述べてゆく。そして補論が、その質点、場、操作に対応する、主体の
地位について述べてゆくもの。こういうものとなっているのだが、
特に基礎として重要なのが、質点力学における、主体と客体についての
それぞれの分析である。下村さんは、これをニュートン・カント的な
パラディグムとしてみている。実証・実験は、物にして物を語らしめる
方法論なのだが、それは、理性的演繹ではなく、非理性・非合理的な
対象を感性(感官)・経験を媒介とする、帰納である。これはつまり、
ここからは私の感想だが、対象(自然)には、統一性がなく、これに
ついて記述するには、羅列するしかないということを示唆するのでは
ないのか。それは規範からの自由ではあるが、私の感想では、科学は
実にニヒリスティックなものを背景としているんだなということだ。私は
梅棹忠夫さんの言葉の「つらねる」と「つらぬく」は相補的なものだと
思っていたが、どうやらそうではない、「つらねる」が優先されるらしいのだ。
「つらぬく」といっても、乏しい手持ちの素材でもってつらぬく
(演繹する)わけだから、それは臆見でしかない。つまり、つらねる
帰納する)ことを優先する科学には結論がない。これは結構、辛いことだ。
(ただここにおいて、直観や勘、abduction、信念などはどう位置
づけられるのか)。

自然の法則として記述されるものはたかだか、この「経験の質料的制約と
連結するものが、経験の普遍的制約に従って規定される」程度のことで
しかない。その経験が変われば、法則も変わる。だから自然は、規範や
期待からは自由である。あってはならないこと、あって欲しくないことが
起こりうるのが自然ということか。

下村寅太郎『自然哲學』より(漢字の繁字を簡字にする。傍点を
傍線にする)。


しかしそれでは自然の法則性や斉一性(uniformity)はいかに
して理解されるか。(略)。我々の実験は或る特殊な時と特殊な
所に於いて行はれる個別的な行為である、その限り実験によつて
験証されたことは直ちに普遍性・法則性を保証することにならない。
加之、如何に実験を繰り返しても単に斯くあり、斯くあつたと云ひ
得るのみで、その必然性を確言し得ない。それにも拘らず実験が
法則の真実性を保証すると考へられるのは、我々の個別的な
実験が常に何人によつても何処に於いても繰り返し得ることを
前提することによつて始めて可能である。結局、自然の斉一性の
実証的根拠は実験観測の、或は一般に経験の反復の可能の
前提の上に成立する。(略)。しかしこのことは自然法則を主観化
することではない。固よりこれは単に客観的な事実ではない。
又単に心理的な信念でもない(信念は単に主観的に止まる)。
これは行為に於ける自証である。それは主観と客観の相即に
於いて成立する。その他に自然の斉一性の根拠はない


しかしもし右の如く自然の斉一性は実験の可能を俟つて始めて
成立すると解するならば自然の斉一性は自然そのものの性格
ではなく、自然は却つて無秩序非法則的となる。しかし正に
この自然の非法則性の故に、自然は特に選ばれたる時・所が
なく我々は任意の時と所に於ける経験を以つて却つて一般的に
立言し得るのである。しかし固よりその一般性は統計的確率的
な法則性である。かかる非法則的なるものの確率的法則化が
正に我々の自然認識である。自然法則は統計的確率的普遍性
である


斯く自然法則の統計的確率性を言ふことは固より自然の因果
必然的斉一性を否定することである
(p.163-165)


ここにおいて自然は神の設計から離れる。ただしそれは奇跡を
否定することではない。奇跡が反復されればそれは確証するに
足りる(故に「超能力」の検証は科学的な行為となる)。ただ
我々の環境(自然)はこれほどに不気味で未知だということを
明らかにする科学がある。構造(吸収性)はあるにしろ、根本的
には偶発的なのである(これはつまり世界は道徳的ではない
ということは、道徳は自発的に建設されねばならないという
ことなのかな)。ちょっと暗澹とする。

○「宗教問題を棚上げするためのもう一つの試みは、宗教から独立した
領域を承認し、それを基礎として現世に秩序を形成しようとする運動で
ある。(中略)。神は「絶対的力」(potentia absoluta)と「秩序の中の力」
(potentia ordinata)の二面性をもつとし、後者によって作られた秩序は
人間的理性によって接近可能な、信仰の相違によって左右されない
領域であるとするのである。(改行)人々はこの領域を「自然」とよび、
この自然こそ信仰を異にする人々が歩み寄ることができる共通の基盤
であるとした。「自然的理性」によって接近可能な「自然神学」「自然科学」
「自然法」などの観念が、新たな認識、新たな社会秩序の基礎をなす
原理として、とくに十七世紀の人々をとらえた。(小略)、個人の「自然権
の世界である「自然状態」を「自然法」によって克服しようとしたホッブズ
試みもまた、そのような潮流に属している。(改行)この方向を徹底した
ものに、奇跡を否定する「理神論」(deism)がある。それによれば「絶対的
力」としての神は、天地創造(最初の衝撃)とともに任務を終え、その後の
世界は自然法則に従って自動運動するというのである。ニュートンは
理神論者であった。この思想は、天地創造という過去の極限の一点を
除けば、無神論とほとんど異ならない。(改行)近代「主権国家」は、
このような潮流の中で、地域的に限定され、脱宗教化し、現世の秩序を
保障する主体、宗教戦争・宗教内戦の克服者として登場した。
長尾龍一リヴァイアサン』=講談社学術文庫。p.34〜36)。


この説明は下村さんの書物には直接にはなかったかもしれない。
しかしクリアな文章だな。クリアすぎるぞ。


○「彼ら(引用者注:古代ギリシア人)においては、自然物は本来一般に
動かんとする内的衝動をもつことをそれの共通の本質としている。しかし
近世の物理学においては、物体はむしろそれ自身として不動性をその
本質としている。ガリレイが確立した近世の力学の根本原理たる惰性
(inertia)の法則は明らかにこれを示している。ここでは物体は外から
力が働かない限りその位置や運動の状態を変じないのである。----
物体はそれ自身としては動かないことを本性としている。そうしてこれは
単に物体論の原理であるだけでなく、倫理の----人間の行動の原理に
まで適用される。ホッブズが人間学の原理とした人間の自己保持の
本能はこの惰性の概念の拡張であると言われる
下村寅太郎『精神史としての科学史』。燈影舎・2003年。より
「科学史の哲学」=1941年。p.167。引用に際し傍点を傍線にす。
この書物は京都哲学撰書27)。



下村さんはフーコー的といってもいいような、考古学的な方法を
採っていらっしゃる。ところでこの書物に所収されている「近代科学の
始源についての精神史的試論」=戦争中に執筆されている、は、
『自然哲學』『科學史の哲學』よりもさらに、ひとひねりしているという
印象を与える。科学と魔術との親近性である。科学は魔術から生まれた
というだけでなく、そもそもが魔術の本質を継承しているということ、など。
しかし結果的には、プロテスタント・カルヴィニズムにおいて科学が達成
されたという図式は継承しているみたいだ。



いよいよ、分かってきた。つまり、こうである。
<科学>/<宗教、魔術>、これが過ちの図式である。正解は次である。
<宗教>/<科学、魔術>である。
宗教は魔術を排斥してきた。歴史的事実として悪名高い魔女狩りがある。
それは科学の排斥だったのである。近代とは、次のごとくになる。
宗教と科学・魔術との完全分業である。それは何によって為されるか。
宗教によってである。宗教の純化である。それは科学と魔術に干渉
しない、ということである。これがプロテスタンティシズムである。
つまり、もともとが違った対象に没頭しましょうという約束である。
だから科学がどれほど発達しても、それが宗教の否定につながる
はずがない。分野が違うのだ。しかし宗教が純化されればされるほど
科学については干渉しない、ということになるのかもしれない。この
経歴を忘れてはならない。
これが特にブリテンにおいて発達した。それがアメリカに継承されている。
行動科学に繋がる実験的心理学や人工知能につながる分析哲学などである。
ドイツはその意味では不幸?なところがある。
カントは理性を限界づけた。それは科学のためである。それで
二律相反の領域を宗教に委任したのである。ところがヘーゲルがそれを
逆転させてしまった。あくまで二律相反を科学でもって対象化できると
いったのである。次が私にとっては分かりにくいのだが、さらにマルクス
よって、その不幸な継承があったのではないか。
マルクスはロンドンに亡命したのに、のちにアメリカ科学につらなる
分野にひどく無知であるかのようだ。それが日本のマルクス主義受容に
影を落としている。ヨーロッパというより、とくにブリテン(イギリス)の
科学における宗教的背景・政治史的背景について、いまだに無知が
残存しているのかもしれない(日本において)。それはアメリカへの無理解
にもつながるのかもしれない。

○「新哲学の旗手であったイギリス哲学の心理学的関心の伝統的
傾向は、内面性への関心でなく、むしろ内面性の外面化、自然化を
動機とする。人間精神の機械的構造の探究、心理学の機械論化に
ある。その成果がassociationを原理とする心理学の形成である。
多数決による政治的体制もこの傾向の所産である。イギリスが
「社会の科学」---近代的「社会科学」、その範型としての経済学の
形成の先駆となるのも同様である」(下村寅太郎「精神史としての
近代科学史序説」=1982年。『精神史としての科学史』p.355)。

下村さんの『科学史の哲学』の段階ですでに科学と魔術との親縁性に
ついて書いておられるから、下記(上記)の私の書いたことには訂正を
要する。しかし、凄いことが書かれている。びっくりした。


科学の科学性はむしろあらゆる担い手から独立するところにある。
それゆえ日本的科学も科学であるかぎり、それが日本人の形成で
ありながら単に日本的でなくそれを超える所がなければならぬ。日本的で
あることになく超日本的なる所にある。科学の客観性、実証性がそこに
初めて成立し、これなくしてはおよそ科学とならないことは改めて言う
までもない。端的に言えば、科学は人間の形成であるにかかわらず人間を
超えたいわば宇宙性において成立する」(下村『精神史としての科学史』。
p.201。傍点を傍線にする)。


ここまではまあ当たり前だろうと人は思うだろう。しかしこの前提が次に
つながるのである。


「(略)そのためにしばしば人類に対する科学の功罪が問題にされる。
しかし科学そのものはまさにかかる人間的利害から独立し、これを
超える所に成立する。本来人間の運命に対しては無関心的な立場が
まさしく科学の成立する地盤にほかならぬ。近世の科学が特に自然科学
たるゆえんである。この「自然」は「精神」に対立せしめられた自然である。
一切の精神的なるもの、主観的なるもの、人間的なるものを除去した
後に初めて見出されるものが近代科学の「自然」である。したがって
それは非精神的、客観的、非人間的なることを本性とする」 (p.201)


こいつにびっくりした。そこまで言い切っちゃっていいのか。たしかに
昔に森毅『関西弁の数学伽』を読んだとき、原爆開発で悩んでいる
科学者と、悩んでいない、ほいほいと何処にでも出かける科学者との
二通りがあるけど、森さんは「悩まんほうがいいよ」と喋ってらしたのだった。
こういうことなのだろうか。つまり属しているところの法域や範疇が違う、
ということか(人体実験はどうなるのか)。


かかる人間的利害に対して全く無関心的な自然科学を人間的関心に
結合せしめ、人間的関心の下に支配し統制しようとするものが「技術」
の任務である」(p.203)


自然的生起の再形成でなく、自然的生起の新形成である。近代の
技術は自然的には存在・生起しないものを人為的に新たに構成すること
によって自然的よりもより効率的能率的ならしめる如きものでなければ
ならぬ。近代的技術はそのかぎりにおいてかつて中世が「魔術」から
期待したそのものを意図している」(p.205)


自然の機械化、むしろ、自然の機械化的再形成が、可能であるため
には、自然の純粋な機構の完全な把握が予想されねばならぬ。「純粋な
自然」の抽象、自然の抽象的形成があらかじめ先行せねばならない。
しかし「純粋な自然」は自然的にある自然ではない。一応自然的な自然を
離れることである。しかしこの抽象化は単に現実的に存在するものから
何ものかを除去し、その後におのず(ママ)から残るものを見出すという如き
ものではない。現実性の希薄化ではない。この抽象はかえって逆に現実を
超える積極的な形成である。(略)。現実性の乏しきものでなく、逆にこれを
超えた理想的なるものの形成である」(p.206)


(後日、加筆。上の引用は、つまり、我々の帰るべき場所が存在しない
ということを示す。怖いなあ)。


また次。下村さんのぼやきや苛立ちが聴こえてくるかのよう。錯覚
だろうか。


近代科学はたしかに我々の伝統的な学問とは別個の伝統に属する
学問である。我々はこれを遺憾とする必要はない。今日改めて再発見
されるまでもなく我々の祖先は形而上学的な思弁においても、道徳的
真摯さにおいても、科学的才能においても、そのいず(ママ)れにおいても
それ自身としては誇るに足るべき素質をもっていた。しかしそれにも
かかわらず「科学」は受容され、輸入されたるものであって、我々の
伝統の外に成立した学問である。これが我々の地盤において発生
しなかったのは能力の問題でなく、歴史的伝統の問題であり、学問の理念の
相違であり、究極的には学問的意欲の違いに基づく。(略。御免なさい、
しんどい)。今日の我々の任務は単に日本的科学の業績の回収や和魂
漢才的な折衷ではなく、たとえば関孝和は我々の誇るべき天才ではあるが、
しかし今日の我々の数学は決してその伝統には属しないこと、すなわち
率直に「科学」の外来性を承認し、その性格の異質性の由来を考え、
改めて全面的に積極的に進取的にこれを把握し、真にこれを主体化するに
ある。これはもはや単に科学者や技術科の問題たるに止まらない。国家的な
民族的な課題である」(p.211-212)


次が、いまだ世界史的使命感をもっていたころの日本人の文章である。
善悪を超えている。私は日本の軍人にぶざまに殺された人たちの
怨嗟を忘れるつもりはない。日本人もそのことを忘れる権利はないと
思っている。しかし一方、次のようにも考えねばならぬのである。
ここらは下村さんは田辺元的(西田的というよりも田辺的だと
思う)にはなっているのだが。


武器は人間が自己を保持するために、したがって自己を形成し自己と
なるためにおそらく最初に着手された自然の主体化である。武器の作製は
たしかに人間が人間となるために必然的に要求された自然の主体化
である。しかも高度の主体化である。しかし同時にそれによって自然は
人間のより内部に入り込み---人間をして人間をより強力に殺戮せしめる。
(略)。戦争は単に人間と人間とが相戦うのではなく、自然の主体化を
挟んで相戦うのであり、人間と人間とが相戦うことにおいて自然自身が
人間の中に介入し、人間を媒介にして自然自身の内部が、深部が露呈
されて来る。戦争は結局、人間と自然との弁証法を自己自身の形成と
する「世界」そのものの端的な運動である。自然と人間との弁証法を自己の
発展の顕現とする「世界の歴史」の特異点である。歴史は単に人間の
歴史ではない


「(略)科学が人類の福祉を意図して営為されたとしても、また確かに
それに資したとしても、しかし同時に人類の悲惨をももたらした。しかし
科学のこのいわゆる功罪は一を執り他を捨て得る如き二側面ではなく、
科学の同一の唯一の源泉からの必然的な結果である。鋭利なる武器は
敵に対してのみ鋭利であることはできない。悲劇的である。これは人間の
歴史を制約し、制限する「歴史における自然」と言うほかない。しかし
あくまで悲惨は克服されねばならない。弱小は強化されねばならない。
我々はこれを決意するほかない。それによってさらに他の、あるいは
より大なる悲惨を結果するかもしれない。しかし我々はこれをさらに克服
することを決意するばかりである。(改行)およそ無償にして発展は
あり得ない。巨大な願望は巨大な犠牲を要求する。犠牲には本来最も
貴重なるものが捧げられるべきであった。それでこそ初めて犠牲である」
「世界史は---世界の自己展開は悲劇である。しかし悲劇を通じての
Divina Comedia(註、神聖喜劇である」(p.243-245)


これが、ほぼこの書物の結論にあたる。ちょっとネタばれだったかな。


ところで、シュミットは技術の中性的・中立的性格を批判して、政治
(ここでは友敵理論)の優位を主張している。あの小文をかつて読んで
頭をガツンとやられた気がした。

下村『科學以前』(弘文堂アテネ文庫・1948年)
ちょっと、違うぞ。ここでは「魔術の純化」によって科学が
生まれたという表現がある。そこの説明は弁証法を使用
している。また、プロテスタントの説明を魔術を排斥したもの
としている。おかしいな。私が根本的に誤読していたのか、
あるいは中傷かもしれないが、敗戦後の市民社会派・
近代主義者、大塚=ヴェーバー的な論点への転向がある
のか。

沖浦和光さんの瀬戸内民俗誌(岩波新書)を探したら小書店にはなかった。
かわりといったらなんだが、義江彰夫さんの神仏習合論(岩波新書)を。
あとM.Davisの自叙伝のpart.2(中山康樹訳・宝島社文庫)を求める。
マイルスがSly Stoneについてどう思っているのか知りたかった。
あと、村上一郎さんの小説三篇、福本和夫の工業化論が届く。

もともとそうだったんだろうが、ますます、単なる自意識系表現に
なりつつあるな。単なる「ひけらかし」(本当はひけらかし以前なんだよ。
それをひけらかしだと捉える人がたまたま無教養なだけで)だという
ふうに。困ったね。なにか狙いがあったんだと思うんだが。こういう
ネタばらしを書くべきではないが。

質を今以上に劣悪にしようと書いた途端に筆が軽くなってきたぞ。
清水先生の「ルーマンの社会システム理論」という小論(岩波書店
「社会学講座」の第何巻だったっけ)に次のごとくあった。「観察」
Beobachtungの説明の項である。初心者に向けて書かれたもの。

このようなルーマンの認識観は、認識とは外界の模写ではなく、システムに
よる内的な構成であるとの点で、ルーマンが自らの理論構築、とりわけ「
意味」Sinn概念(Luhmann, 1984:92ff.=一九九三、九二頁以下)において
フッサールの超越論的現象学に強く依拠したことからもうかがえるように、
超越論的観念論のそれを継承するものと言えなくもない。だがそれが超越
論的観念論とはっきり異なるのは、認識を遂行するシステムが世界に内属
する経験的対象として考えられていることである。つまり、そこでは主観
\客観、超越論的\経験的といった認識の座標軸は観察の図式へと還元され、
システムによる世界の構成は経験的な区別に依存する偶発的(他でもありうる
)kontingentなものであるとされる。このような認識観を『社会システム
理論』以後の近年のルーマンは「構成主義」Konstruktivismusとして定式化
する(Luhmann, 1990a・b)。そこでは古代ギリシア以来の存在論が主題
とする「存在」の概念すらも、存在\非存在の区別による観察の結果へと
還元される。そして観察者を包括する世界は、存在\非存在の区別をも
超えた、「区画されざる状態」unmarked state(スペンサー=ブラウン)
として把握されることになるのである。


こうなると、つまり、1/11にまとめたトリアーデの図式にルーマン
理論は収まらないことになる。一般者の自己産出という点で似てはいる
のだが、それよりもさらに徹底化している。観察者抜きの理論ということ
になると、潜伏性(virtuality)の理論と類似してくる。