国立新美術館の「日本アンデパンダン展」を見る

 東京六本木の国立新美術館で「第77回日本アンデパンダン展」が開かれている(4月1日まで)。日本アンデパンダン展は日本美術会が主催する無審査の公募展だ。

 知人たちの作品を中心に気になった作品を紹介する。

木村勝明「記憶の箱」

 

井上活魂

 

SYプロジェクト

 

じんぶ おさむ

 

布目勲

 

山下二美子

 

 以前は私の田舎の飯田市リアリズム美術家集団のメンバーたちが何人も出品していた。わが師山本弘の東京での発表の場もここだった。しかし飯田市リアリズム美術家集団のメンバーも皆年を取ってしまって、もう誰も出品しなくなってしまった。

 紹介したSYプロジェクトの「300日画廊」というのは、そこを主宰していたギャラリスト佐藤洋一氏を記念するプロジェクトだ。佐藤氏は1999-2001年に取り壊しが予定されていた青山のビルで「300日画廊」という名前のギャラリーを運営し、その後2001-2002年にかけて表参道画廊の一角を借りて「時限美術計画/T.L.A.P」という名前のギャラリーを運営していた。さらにその後、茅場町の古いビルで「Gallery≠Gallery」(ギャラリー・ノットイコール・ギャラリーと読む)を運営していたが、佐藤氏が2008年に突如亡くなってギャラリーは閉廊する。

 佐藤氏が亡くなった後も彼を偲ぶ作家は多く、アンデパンダン展で毎年このような企画が行なわれている。私は300日画廊、時限美術計画/T.L.A.P、Gallery≠Galleryの全展示を見てきたので懐かしいが、佐藤氏が亡くなってもう16年も経ったのかと思うと感慨深い。

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第77回日本アンデパンダン

2024年3月20日(水)―4月1日(月)

10:00-18:00(最終日は14:00終了)火曜日休館

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国立新美術館

東京都港区六本木7-22-2

 

東京都美術館の「人人展」を見る

 東京上野の東京都美術館で「第47回人人展」が開かれている(3月31日まで)。この「人人展」は異端の日本画家中村正義の発案になるものだ。今回はその中村正義生誕100年を記念して、会場入り口近くに中村正義の作品が展示されている。

 知人の作品を中心に気になった作品を紹介する。

中村正義

 

古茂田杏子

 

亀井三千代

 

内藤瑤子

 

林晃久(マロン・フラヌール)

 

大野俊治

 

豊泉朝子

 

成田朱希

 

米田称侑

 

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「第47回人人展」

2024年3月25日(月)―3月31日(日)

9:30-17:30(最終日14:30まで)

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東京都美術館

東京都台東区上野公園8-36

https://hitohitokai.org/

 

ギャルリー東京ユマニテbisの上岡ひとみ展を見る

 東京京橋のギャルリー東京ユマニテbisで上岡ひとみ展が開かれている(3月30日まで)。上岡は1983年埼玉県生まれ、2006年女子美術大学大学院美術研究科美術専攻立体アート学科紙・繊維専攻修了、その後数年間ドイツとフランスへ留学している。2004年に神奈川のギャラリーで初個展、その後はベルリンとパリのギャラリーで個展を開いてきた。日本での個展は久しぶり、東京では初めての個展となる。

 展示構成についての上岡の言葉、

壁面作品は自身の工房周辺の水田で採取したコシヒカリの稲藁でできています。立体作品は工房周辺の麦畑で採取した麦藁できています。水中に原料を溶かすと、稲や麦が生命を宿したように動き周りました。この2 種類の繊維を原料として展覧会を構成しています。

 

 展覧会のテーマについては、

展覧会では「命の起源の神秘性、そしてそれを人為的に作り出す行為とは何なのか」 ということに焦点を当て、作品に落とし込みたいと考えております。一昔前では諦めていたことが、医学や化学技術の進歩によって明らかにされ、可能性を広げてく れている。そのような角度からこの社会を見ると、この社会には希望が溢れているのだと考えるようになりました。人間の欲望、願望は研究によって常に進化し、命の神秘性をも作り出すことができる。人間が奇跡や偶然を作る行為とはどのようなことなのだろう。生命の源のような米や麦の繊維を原料に作品をつくってみたいと考えました。


 左手の壁に大きなレリーフが設置してある。これが稲わらで作ったものだという。画廊の中央には円筒形の作品がクルクルと回っている。これは麦わらで作ったという。

 稲わらや麦わらという素材にこだわって作品を制作している。作品とテーマとの関連が分かりづらかったけれど、造形として面白かった。

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上岡ひとみ展―Melting Time-

2024年3月25日(月)―3月30日(土)

10:30-18:30(最終日17:00まで)

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ギャルリー東京ユマニテbis

東京都中央区京橋3-5-3 京栄ビルB1F

電話03-3562-1305

https://g-tokyohumanite.com

 

コバヤシ画廊の坂本太郎展を見る

 東京銀座のコバヤシ画廊で坂本太郎展が開かれている(3月30日まで)。坂本太郎は1970年、埼玉県生まれ、2000年に愛知県立芸術大学大学院修士課程を修了している。都内では2000年に当時早稲田にあったガルリSOL、2001年以降銀座のフタバ画廊や小野画廊、ギャラリーアートポイント、ギャラリー山口などで毎年個展を続けてきた。ここ10年ほどはコバヤシ画廊で発表している。


 画廊へ入って驚いた。今まで坂本は大きな物体=モノを造形してきた。砦のようだったり船のようだったり、決して具象的な造形ではなかったが、「モノ」と言いたいような巨大なオブジェだった。それが今回は、「壁」を作っている。「壁」は「モノ」というよりは障壁、つまり空間を区切るものだ。かと言って坂本は画廊に新しい空間を作っているのではない。まさに空間を構成するための壁を造形している。壁という造形=物体が今回の坂本の作品なのだ。しかし同時に、坂本の作品である「壁」は内側に空間を内包していないように見える。坂本はそのような空間に興味がない。まさに一見空間を内包するような「壁」である造形をそのまま作品として提示しているのではないだろうか。

 私には坂本が新しい階梯を一段進んだように見える。新しい次元が始まったのではないか。

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坂本太郎

2024年3月25日(月)―3月30日(土)

11:30-19:00(最終日17:00まで)

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コバヤシ画廊

東京都中央区銀座3-8-12 ヤマトビルB1F

電話03-3561-0515

http://www.gallerykobayashi.jp/

 

 

奥憲介『「新しい時代」の文学論』を読む

 奥憲介『「新しい時代」の文学論』(NHKブックス)を読む。副題が「夏目漱石大江健三郎、そして3.11へ」。

 第1章で夏目漱石の『こころ』を取り上げ、全体の半分に当たる第2章で大江健三郎が取り上げられる。3分の1に当たる第3章は「「新しい時代」の文学に向けて――3・11のその後」をどう生きるか」と題されて、川上弘美『神様2011』、多和田葉子『献灯使』、村田沙耶香コンビニ人間』が取り上げられる。

 大江健三郎論が秀逸だった。時代を追って大江の作品が読み解かれ、大江の葛藤や再生が語られる。

 性的人間、政治的人間に関して

 政治的人間とはつねに他者を必要とし、その他者性と対峙するがゆえに政治的であり得る。他方、性的人間には他者の存在もなければ自らも他者ではあり得ず、ゆえに対立も抗争も生じることはない。これは戦後のアメリカと日本のアレゴリーであることはいうまでもない。つまり、敗戦によって遭遇した政治的人間たるアメリカという圧倒的な他者がいて、一方で日本はその強大な他者との対峙を避けることで性的人間にならざるを得なかったという構図がそれにあたる。(中略)

 戦後の日本にとって、応答すべき他者とは何だったのだろうか。

 敗戦という、国家の次元においても個の次元においても、極めて大きな経験を受け止め総括する主体を持ち得ず、なし崩しにしてきた日本は、同時に他者性も放棄してしまったのではないか。

 

 第3章では、いいしいしんじ『海と山のピアノ』、そしてシモーヌ・ヴェイユが紹介される。私は多和田葉子の『献灯使』以外、川上弘美村田沙耶香も、いしいしんじシモーヌ・ヴェイユも読んでいない。そのあたりも読んでみようか。

 

 さて、本書の前に井上隆史『大江健三郎論』(光文社新書)を読んだ。井上は大江の、沖縄戦「集団自決」裁判を重視する。裁判は『沖縄ノート』の大江の記述、集団自決は島の日本軍の守備隊長らによる住民たちへの集団自決命令によると書かれていたことから、隊長の遺族や曽野綾子らが大江を訴えたもの。裁判は最高裁判所で原告の敗訴が決定した。しかし、井上はこの裁判について疑義を訴え続ける。

 池澤夏樹が『図書』3月号に「沖縄の大江健三郎」というエッセイを書いている。

 こうして大江健三郎と共に過去を思い出しながら、たった今の沖縄を見ると、そこまで虐められるのかと悲哀の念に駆られる。かつては政権党の中にも野中広務橋本龍太郎山中貞則小渕恵三など沖縄を理解しようとする政治家がいた。今は皆無、ぜったいの皆無。

 司法はどうか。渡嘉敷島集団自決事件の裁判で大江健三郎岩波書店は理非を尽くした審理で曽野綾子たちに勝訴できた。

 先日の福岡高裁の代執行を認める無情至極・門前払いの判決と並べるのも情けない。大江健三郎が1972年の国会強行採血について使った「陋劣(ろうれつ)」という言葉を使いたくなる。

 

 まだまだ大江健三郎を読み直さなくてはならない。