吉祥寺美術館の大坪美穂展を見る

 東京の武蔵野市立吉祥寺美術館で大坪美穂展「黒いミルク 北極光・この世界の不屈の詩」が開かれている(5月26日まで)。大坪は1968年に武蔵野美術大学油絵科を卒業している。今まで銀座のシロタ画廊やギャルリ・プス、ストライプハウスギャラリーなど各地で個展を開いていて、韓国やインドのグループ展にも参加している。さらに2021年はアイルランドのアーツセンターゴールウェイで個展を開き作品が収蔵されたという。

 美術館のホームページから、

大坪の作品をかたるうえで特筆すべきは、その素地にある「ことば」です。大坪の表現の源流には、彼女が豊富な読書経験や詩作などからとらえた、さまざまなことばが存在しています。わけても、ドイツ系ユダヤ人の詩人パウル・ツェラン(1920-1970)、アイルランド語によって詩作する女性詩人ヌーラ・ニー・ゴーノル(1952- )の詩は、大坪の血肉になっているといっても過言ではありません。大坪がふたりの詩から受けとった深い感動は大規模なインスタレーションとして発露し、20年超にわたって国内外の各地で展開され、多くの人びとの心を引きこみながら、広がりと深化をつづけています。

終戦直後の荒廃した街並みが原風景であると語る大坪は、いかなる局面にあっても、作品にあらわすことによって、確かな生をつかもうとしてきました。本展のタイトルとして大坪が選んだことば―「黒いミルク」はツェランの詩「死のフーガ」に依拠し、「北極光」「この世界の不屈の詩」はニー・ゴーノルの詩「北極光」から引いています。言うなれば闇と光とが並立するタイトルですが、ここには、割り切れぬ人間のありようと、それを直視しつつ希望を見失わない大坪の力づよさとが、示されているように思います。

 企画室に大きなインスタレーションが設置されている。撮影禁止なので画像は絵葉書から流用した。

 会場奥に薄黒く汚れたような衣服が、人が座っているように並んでいる。その数70体ほど。胸には囚人のような数字が刻印された札を下げている。これは何だろう。

 展覧会のタイトルが「黒いミルク」だ。それはアウシュビッツ等のナチの犠牲者をうたったパウル・ツェランの詩「詩のフーガ」だ。その冒頭の9行(飯吉光夫訳)

夜明けの黒いミルク僕らはそれを晩に飲む

僕らはそれを昼に飲む朝に飲む僕らはそれを夜に飲む

僕らは飲むそしてまた飲む

僕らは宙に墓を掘るそこなら寝るのにせまくない

ひとりの男が家に住むその男は蛇をもてあそぶその男は書く

その男は暗くなるとドイツに宛てて書く君の金色の髪マルガレーテ

彼はそう書くそして家の前に歩み出るすると星が輝いている彼は口笛を吹いて自分の犬どもを呼び寄せる

彼は口笛を吹いて彼のユダヤ人どもを呼び出す地面に墓を掘らせる

彼は僕らに命令する演奏しろさあダンスにあわせて

 

 難解な詩だが、相原勝はその著『ツェランの詩を読みほどく』(みすず書房)で、この「黒いミルク」について、焼却された死体が空にのぼり、その黒い灰が四六時中、「ぼくら」の飲むミルクの中に降りそそぐということであろうと言っている。大坪の展示する薄黒く汚れたような衣服は、焼却されたユダヤ人の死体から降り注ぐ黒い灰によって汚されたものを表しているのだろう。

 


 ロビーの壁面には十字架の作品が展示されている。これらは戦争の犠牲者を示す数字が記された鉛のカードで作られた作品だ。それはウクライナの死者であり、アウシュビッツの死者でもあるだろう。それが集まって十字架を形作っている。

 

                                         今回の個展は大坪が追及してきた作品の集大成だ。大坪はアウシュビッツウクライナ戦争などを、もう一度よく考えるように観客に迫っているのだ。決して安楽に楽しむ展覧会ではない。

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大坪美穂展「黒いミルク 北極光・この世界の不屈の詩」

2024年4月13日(土)―5月26日(日)

10:00-19:30(4月24日休館)

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武蔵野市立吉祥寺美術館

東京都武蔵野市吉祥寺本町1-8-16 コピス吉祥寺A館7階

電話0422-22-0385

https://www.musashino.or.jp/museum/

※JR線・京王井の頭線 吉祥寺駅北口より徒歩3分

 

                                                                                                                      

フォルム画廊が移転し、そのオープニングの瀧徹彫刻展を見る

 フォルム画廊は長く銀座5丁目のニューメルサビルにあったが、この度銀座6丁目の交詢ビルに移転した。そのオープニングに瀧徹彫刻展が選ばれて現在開催されている(4月27日まで)。

 瀧徹は1964年東京藝術大学彫刻科を卒業し、1966年同大学大学院美術研究科を修了している。その後新制作協会展に出品し、新制作展委員長も務めている。


 瀧徹は大理石をまるで金属のように薄く彫り削り作品を作っている。それは見事な技術で、本当に1個の石から彫り出したのかと何度も見てしまう。

 他に黒御影石と木を組み合わせた作品や、大理石で如来像を作ったものもあった。

 それにしてもフォルム画廊の新しいスペースは旧スペースの倍はあろうかという広さで、交詢ビルという伝統を誇るビルの3階という素晴らしい空間だった。隣接するカフェのコーヒー代が1,100円もするけれど。

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瀧徹彫刻展

2024年4月11日(木)―4月27日(土)

11:00-18:30(日曜休廊)

 

フォルム画廊

東京都中央区銀座6-8-7 交詢ビル3F

電話03-3571-5061

 

うしお画廊の井上敬一展を見る

 東京銀座のうしお画廊で井上敬一展が開かれている(4月20日まで)。井上敬一は1947年、福岡県田川市生まれ。1980年に福岡教育大学美術研究科を修了している。井上は銀座のみゆき画廊で個展をしていたが、みゆき画廊が閉じてからはうしお画廊で個展を開いている。


 今回すべて人物像だが、これがとても良い。中に2点階段が描かれている作品があるが、これは同じような階段を描いていた井上と同郷で昨年亡くなった野見山暁治へのオマージュだろうか。そういえば、野見山暁治が2000年頃にみゆき画廊で発表した水彩画がやはり変な顔の女性像だった。

 変な顔ばかり描いているが、いつも気持ちの良い優れた展覧会だ。

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井上敬一展

2024年4月15日(月)―4月20日(土)

11:30-19:30(最終日17:00まで)

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うしお画廊

東京都中央区銀座7-11-6 GINZAISONOビル3F

電話03-3571-1771

http://www.ushiogaro.com/

 

ギャラリーなつかの瀧田亜子展を見る

 東京京橋のギャラリーなつかで瀧田亜子展が開かれている(4月20日まで)。瀧田亜子は東京生まれ、青山学院女子短期大学芸術学科を中退した後、中国ウルムチの新彊大学や杭州市の中国美術学院で書を学んでいる。帰国後早見芸術学院で日本画を学んだ。2003年ギャラリーオカベで初個展、その後主としてなびす画廊で個展を続け、なびす画廊閉廊後はギャラリーなつかや藍画廊、ギャラリー古今などで個展を開いている。

上の作品の部分

上の作品の部分


 ここ2、3年、瀧田の作品が面白くなってきた。三角形など単純な形の繰返しを主要な造形としていたのが、激しく流れるような動きが画面を占めている。それでいながら瀧田の作品で大きな違和感はない。興味深い傾向を示していると思われる。

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2024年4月15日(月)―4月20日(土)

11:00-18:30(土曜日は17:00まで)

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ギャラリーなつか

東京都中央区京橋3-4-2 フォーチュンビル1F

電話03-6265-1889

http://gnatsuka.com/

 

『出久根達郎の古本屋小説集』を読む

 『出久根達郎の古本屋小説集』(ちくま文庫)を読む。古本屋店主にして直木賞作家になった出久根の古本屋に関する小説を集めたもの。出久根は中学卒業後集団就職で東京月島の古本屋に就職し、29歳のとき独立して高円寺で古本屋を開業する。

 昔(9年前)出久根達郎『万骨伝』(ちくま文庫)を読んで面白かった、とこのブログに書いている。(こんなことがすぐ分かるのもブログのお蔭だ)。

 出久根は長く古本屋の店主をしていて古書肆業界には詳しい。古本に関する様々なエピソードがそれだけで面白かったし、出久根の語るちょっと変な人たちの生活が興味深かった。

 「セドリ」という短篇がある。わずか3ページばかりだが、セドリで稼いだ話が載っている。セドリとはある古本屋に安値で並んでいた本を背だけを見て買い、それを別の古本屋に売って利ザヤを稼ぐ商売のこと。これで思い出した。東京都現代美術館へ行く途中に小さな古本屋がある。美術館の帰りについ立ち寄ると必ず何冊か買ってしまう。店の規模の割りに魅力的な本が多いのだ。何故でしょうと別の古本屋に訊いたことがあった。あそこは組合に入っていなくて、セドリで本を集めているからとのことだった。普通の古本屋は組合の市場で梱包された古本の包みを一山いくらで買って来るからと。

 出久根の小説は人情の機微を描いて美しい。つい涙ぐんでしまったものもあった。ただ、長いものになるといささか構成に難がある印象が否めなかった。短篇に優れたものがあるように思う。