コバヤシ画廊の服部繭展を見る

 東京銀座のコバヤシ画廊で服部繭展が開かれている(5月20日まで)。服部繭は福島県生まれ、日展審査員伊藤応久、芸術院会員織田廣喜、フランスのポール・アンビーヌに師事している。1984年にル・サロン初入選、1991年兜屋画廊で初個展、その後ギャラリーなつかで個展を繰返し、2009年よりコバヤシ画廊で個展を続けている。


 正面の壁に4枚、右手の壁に5枚のパネルを並べている。9枚のパネルだが、緩やかなつながりで全体で1点の作品とも言える。激しい動きは作家の内面の相似でもあるのだろうか。熱い抽象と呼ぶのが何よりもぴったりに思える。

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服部繭展

2024年5月20日(月)―5月25日(土)

11:30-19:00(最終日17:00まで)

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コバヤシ画廊

東京都中央区銀座3-8-12 ヤマトビルB1F

電話03-3561-0515

http://www.gallerykobayashi.jp/

 

ギャラリイKのキム・ハギル展を見る

 東京京橋のギャラリイKでキム・ハギル(金学一)展が開かれている(5月25日まで)。キム・ハギルは韓国出身、50代で、韓国を始め東京、大阪、名古屋などで個展を33回行っている。

 ギャラリーの案内より、

キム・ハギルは、韓国の昌原に拠点をおいて活動する作家で、現代美術作家グループ「無」のメンバーです。韓紙と墨という東洋の伝統的な物に対する感性と、西欧美術が発展させた抽象表現の感覚を、自らの精神的な流れの中で結合させ、独自の造形語彙を構築しています。他の多くの「韓国画」の作家と同様に水墨画の伝統に連なる写実的リアリズムから出発したキム・ハギル氏ですが、やがて自らの表現を「物」と「行為」という二つの次元に還元しつつ、抽象絵画としての再構築に向かいます。すなわち自らを育てた文化、風土、生活に深く根ざした韓紙という物質を、単に支持体として扱うのではなく、自ら漉くという行為によって複雑で多様な空間と精神性を宿す存在へと造形します。加えて、墨や顔料を韓紙の裏面から着彩する伝統的な技法を活かしつつ新しい表現効果へと変容させました。そのような様々な実験的過程を経て、平面でありながら立体、陰と陽、意思と自然、感性と理性といった対照的価値が重なり合う精緻な造形作品を創り出しているのです。


 日本の和紙に相当する手漉きの韓紙を使っている。その厚みのある支持体に穴を開け、平面でありながら厚みを見せて、それで物質感を出している。韓国特有のミニマルアートの伝統を継承しながら、そこに韓紙という有機的な表情を提示し、墨と彩色された紙とを加えて独特の造形を示している。

 残念ながら、写真には再現しづらい作品なので、ぜひ画廊へ足を運んで実物を確認してほしい。

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キム・ハギル展

2024年5月20日(月)―5月25日(土)

11:30-18:30(最終日17:00まで)

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ギャラリイK

東京都中央区京橋3-9-7 京橋ポイントビル4F

電話03-3563-4578

http://galleryk.la.coocan.jp/

 

 

石垣りん『詩の中の風景』を読む

 石垣りん『詩の中の風景』(中公文庫)を読む。荒川洋治毎日新聞の書評で本書を紹介していた(2024年3月30日)。荒川洋治の推薦する本は外れがないと個人的には思っている。それですぐ購入して読んだ。

 百姓をやり猟師もやる朝日新聞の名物記者近藤康太郎もそのエッセイで本書を引用していた(朝日新聞2024年5月11日)。

 

 今年、文庫化された「詩の中の風景」は、石垣自身が愛読してきた詩に短文を寄せたエッセイ集だ。村野四郎の「鹿」をとりあげている。村野の詩は、猟師の鉄砲にねらわれた鹿を描いたもので、わたしも好き、というより身につまされる。小さな額をねらわれ、悲しんでもおらず、あきらめたのでもなく、凛として立つ。そうしたけものたちの目を、猟師としてのわたしはいくども見てきた。身に罪障の覚えがある。

 ところが石垣の立ち位置は、人間の側にあるのではなかった。鹿とは自分のことだ、というのだ。「年をとって気が付いたら、思いがけない近さに鹿が立っていました」

 小さな額をねらわれ、死すべき命とは、ほかでもない、自分だ。

 「人生の夕日、残り少なくなった時間」、鹿のようにと呪文を唱えるのだという。「あきらめとも、覚悟とも違う、心の姿勢のようなものが欲しくて」

 

 生きてんだから、いずれ死ぬんだ。わたしも、あなたも。

 あたりまえなことに気づかされ、今日も泥田で汗まみれ。また殺傷するんだろう。あきらめとも、覚悟とも違う、凛とした心の姿勢は、せめて、ただして。

 

 石垣りんから引く。

 

鹿     村野四郎

 

 

鹿は 森のはずれの

夕日の中に じっと立っていた

彼は知っていた

小さな額が狙われているのを

けれども 彼に

どうすることが出来ただろう

彼は すんなり立って

村の方を見ていた

生きる時間が黄金のように光る

彼の棲家である

大きい森の夜を背景にして

 

 石垣のエッセイ、

 

(……)この詩とめぐり会ったのは30年ぐらい前のことです。そのとき鹿は遠くに見えていました。何者かに自分の額が狙われているのを承知で、すんなり立っている姿、細い四肢。森も夕日も、遙かな光景として目に映りました。

 以来、詩と私との距離は変わりませんでした。年をとって気が付いたら、思いがけない近さに鹿が立っていました。いのちの春も夏も終わっていたのでしょうか。

 詩や文章が、読んだときの年齢によって受け取り方も変ってくる、と言われますが、最初に読んだ日から歳月を経て、私は森のはずれに辿り着いたものとみえます。

 近寄って背にした森は前より大きく、深い夜を抱えこんでいました。人生の夕日、残り少なくなった時間。詩はそこまで表現していないのに、私は自分勝手に、死の射程に立つ一匹の獣を傍に感じ、煩瑣な日常からちょっと飛び退いて「鹿のように」と呪文を唱えます。あきらめとも、覚悟とも違う、心の姿勢のようなものが欲しくて。

 

 気が付いたら、私の近くにも一頭の鹿が立っていた。

 

 

 

 

 

小澤征爾×村上春樹『小澤征爾さんと、音楽について話をする』を読む

 小澤征爾×村上春樹小澤征爾さんと、音楽について話をする』(新潮文庫)を読む。私は本書を書店に並べられているのを見て買ったが、奥付は平成26年7月発行となっていた。一方カバーの折り返しの著者紹介は、「小澤征爾(1935-2024)と小沢の没年が印刷されている。

 思うに平成26(2014)年に文庫として発売されたが、あまり売れずに在庫になっていたのだろう。今年小澤征爾が亡くなったので、改めてカバーを印刷し直して店頭に並べ

たのだろう。在庫が少なかったらカバーを刷り直さなかっただろうから、結構な数の在庫が10年間も残っていたのだろう。

 村上春樹小澤征爾に音楽について聞いている。それも小澤の指揮をした曲や演奏について専門的な質問だ。なるほど一般性がないかもしれない。新潮社が期待したほどは売れなかったのだろう。しかし、小澤征爾の指揮した音楽やクラシック音楽に興味があったら結構面白い内容だ。

 対談は2010年11月から2011年7月にかけて、村上の自宅や仕事場、ホノルルやスイスのジュネーブ、パリなどで行われた。単行本は平成23(2011)年に発行されたが、文庫版では、それに小澤征爾がジャズピアニストの大西順子と共演した「ラプソディ―・イン・ブルー」を聴いた村上のエッセイが追加されている。

 全体で470ページと長いが、対談形式なのですらすらと読むことができる。指揮者や演奏家についての小澤のプライベート(?)な感想も知ることができる。いくつも聴いてみたい曲や演奏が増えてしまった。

 

 

 

広中一成『後期日中戦争』を読む

 広中一成『後期日中戦争』(角川新書)を読む。「はじめに」から、

 

 生き残った日本軍将兵の数が、太平洋戦線に比べて中国戦線では圧倒的に多かったことから、日本海軍は太平洋戦争で負けたが日本陸軍日中戦争で負けていなかった、という言説が今日でも聞かれる。

 はたして、太平洋戦争の背後で日中戦争はいかにして戦われていたのか。この問題を調べると、あることに気づく。それはアジア太平洋戦争全般を扱ったこれまでの日本の研書や一般書の多くが、太平洋戦争に記述の大半を割くあまり、同時期の日中戦争を、充分に論じることなく終っているということだ。

 

 広中はこれまで十分に研究されてこなかった太平洋戦争開戦後の日中戦争を後期日中戦争と名づけ、本書ではそれを研究していく。そのため、中国戦線に最初から最後までいた名古屋第三師団の行動を中心に詳しく追っていく。

 日本軍は長沙作戦では敗北を喫する。ついで浙贛作戦では大本営のプライドをかけた戦いが計画される。しかし太平洋戦争開戦後、日本軍は物資不足にみまわれ、ペストやコレラにも罹患する兵隊が現れた。

 

 このとき、日本軍は中国軍との激しい戦いで、兵器の消耗が深刻化しており、比較的安価に生産でき、かつ、投下しても容易に隠蔽できる細菌兵器に着目していた。そして、中国本土で細菌戦を実施するときの実行部隊として、支那派遣軍に所属する北京の北支那方面軍、南京の中支那派遣軍、広州の南支那方面軍にそれぞれ防疫給水部が設立される。

 七三一部隊がもっとも実戦に有効であるとみなした細菌兵器が、ペスト菌弾である。当時世界の生物学会では、ペスト菌を空中から投下しても、地上に届く前に死滅してしまうことが常識とされていた。しかし、七三一部隊はこの常識を打ち破り、ペスト菌に感染させた蚤を穀物に混ぜて飛行機から投下することで、ペスト菌を地上にばら撒くという方法を考案したのだ。

 

 さらに毒ガスも兵器として用いられた。陸軍は毒ガスを戦場で使用するときは、高級指揮官などの指導のもと、あらかじめ報復手段として許可される場合に、敵の意表を突いて、所定の区域に十分な量を散布するよう定めていたのだった。

 しかし、毒ガスは味方の兵士にも被害を及ぼした。

 さらに終戦前年の湘桂作戦では、日本本土に飛来するアメリカ軍の爆撃機を阻止するために中国南部の飛行場の破壊を狙った。だが武器弾薬食糧の補給が十分ではなかった。

 広中は各戦線での詳しい攻防や部隊の動きを図解を交えて解説してくれる。私の父も中国戦線に7年間いたのだから、この第三師団の中にいたのではないかと思うと感慨深かった。

 広中一成は最近、本書の続編『後期日中戦争 華北戦線』(角川新書)を出版している。こちらも読んでみよう。