広中一成『後期日中戦争』(角川新書)を読む。「はじめに」から、
生き残った日本軍将兵の数が、太平洋戦線に比べて中国戦線では圧倒的に多かったことから、日本海軍は太平洋戦争で負けたが日本陸軍は日中戦争で負けていなかった、という言説が今日でも聞かれる。
はたして、太平洋戦争の背後で日中戦争はいかにして戦われていたのか。この問題を調べると、あることに気づく。それはアジア太平洋戦争全般を扱ったこれまでの日本の研書や一般書の多くが、太平洋戦争に記述の大半を割くあまり、同時期の日中戦争を、充分に論じることなく終っているということだ。
広中はこれまで十分に研究されてこなかった太平洋戦争開戦後の日中戦争を後期日中戦争と名づけ、本書ではそれを研究していく。そのため、中国戦線に最初から最後までいた名古屋第三師団の行動を中心に詳しく追っていく。
日本軍は長沙作戦では敗北を喫する。ついで浙贛作戦では大本営のプライドをかけた戦いが計画される。しかし太平洋戦争開戦後、日本軍は物資不足にみまわれ、ペストやコレラにも罹患する兵隊が現れた。
このとき、日本軍は中国軍との激しい戦いで、兵器の消耗が深刻化しており、比較的安価に生産でき、かつ、投下しても容易に隠蔽できる細菌兵器に着目していた。そして、中国本土で細菌戦を実施するときの実行部隊として、支那派遣軍に所属する北京の北支那方面軍、南京の中支那派遣軍、広州の南支那方面軍にそれぞれ防疫給水部が設立される。
七三一部隊がもっとも実戦に有効であるとみなした細菌兵器が、ペスト菌弾である。当時世界の生物学会では、ペスト菌を空中から投下しても、地上に届く前に死滅してしまうことが常識とされていた。しかし、七三一部隊はこの常識を打ち破り、ペスト菌に感染させた蚤を穀物に混ぜて飛行機から投下することで、ペスト菌を地上にばら撒くという方法を考案したのだ。
さらに毒ガスも兵器として用いられた。陸軍は毒ガスを戦場で使用するときは、高級指揮官などの指導のもと、あらかじめ報復手段として許可される場合に、敵の意表を突いて、所定の区域に十分な量を散布するよう定めていたのだった。
しかし、毒ガスは味方の兵士にも被害を及ぼした。
さらに終戦前年の湘桂作戦では、日本本土に飛来するアメリカ軍の爆撃機を阻止するために中国南部の飛行場の破壊を狙った。だが武器弾薬食糧の補給が十分ではなかった。
広中は各戦線での詳しい攻防や部隊の動きを図解を交えて解説してくれる。私の父も中国戦線に7年間いたのだから、この第三師団の中にいたのではないかと思うと感慨深かった。
広中一成は最近、本書の続編『後期日中戦争 華北戦線』(角川新書)を出版している。こちらも読んでみよう。