文部科学大臣が、統一教会の友好団体から「推薦状」をもらって、選挙支援を受けていたという問題。統一教会との関係があれほど大きな問題となったにもかかわらず、僅か2年前の選挙のことを忘れていたのなら病的な健忘症を疑うレベルだが、大勢の会員が連日、選挙事務所名で有権者に投票依頼の電話をしていたことを「覚えていない」。証拠を示されると、「写真があるのなら、推薦状を受け取り、推薦確認書に署名をしたのではないか」とようやく認めた。しかし首相は、野党からの更迭要求を拒否し、閣僚と教団の関係についての再調査要求にも応じない。
という呆れたニュースなのだが、その「再調査にも応じない」記事の見出しが、「再調査応ぜず」となっていて、ちょっと引っかかった。
「応ぜず」と「応じず」は、人によって感じ方が違うだろう。
専門家ではないので怪しいが、「感じる」「信じる」などと同様に、文語の「応ず」が口語化する際に、「応ずる」「応じる」という二通りが、多分その順に生まれた。「応ずる」の方が古風で、辞書の移り変わりにもそれが反映し、保守的に「応ずる」がより正しいという人もいるようだ。一方、日経の校閲グループが、「日経校閲」という公式Xで、「「要請に応じず」「要請に応ぜず」という新聞の見出しがあったとしたら、みなさんはどちらがしっくりきますか」という、ピッタリのアンケートをされていて、それによると、
応じず 86.3%
応ぜず 6.5%
どちらでもよい 4.8%
と、なったそうである。「応ぜず」にちょっと引っかかった私は多数派ということになるようだ。
ところで、その見出しにちょっと「引っかかった」ことで、前に読んだ本で、これに似たことに「引っかかった」ことがあることを思い出した。盛山大臣とは違って、幸いなことに、その本が小島政二郎の『小説 永井荷風』だったことを思い出したのだが、次に、その本の在りかを思い出し、最後に(もちろん付箋を付けたりしていなかったので)何かに引っかかったのがどのページだったのかを探すという、面倒くさいことになった。
といっても全く大した話ではないのだが、はじめの百ページほど見たところ、次のような箇所があった。(ちくま文庫版なのだが、面倒なのでページは書かない。)
政二郎は1894年生まれなので、「ない」より「ず」が多いのは自然だろうし、「私自身この手の小説を書こうとも思わず、また書けるとも思えず、」のようないわゆる連用中止は全く自然で、他に書きようがない。
しかし、「私達はまだ若い中学の四年生だったから、いやみに感じずに、」は、今の人なら「いやみに感じないで」と書くところだろう。ところで、問題の「感じずに」は、「感ぜずに」と書いていない。「感ぜず」ではなく「感じず」と、ここは多数派で、だから私が引っかかったのは、ここではない。次のような個所である。
「この三つのものを持っている荷風の姿を彷彿としずにいられないことだ。」
「彼は身の幸運を父に向かって感謝しずにいられなかったろう。」
確か、同様の例がもっとあったような気がする。
「髣髴」ではなく「彷彿」となっているのは、政二郎自身の選択か編集部の校閲か分からないが、引っかかったのは、「しずにいられない」という表現である。明治時代から用例があるらしいから誤りとはいえないだろうが、少なくとも今では「せずに」が正しいとされるだろう。それにしても、「いやみに感ぜずに」と書かずに「感じずに」と書きながら、「感謝せずに」ではなく「感謝しずに」としたのは、多分政二郎の文体癖ということなのだろう。
それだけのことで、実にどうでもよいことで恐縮ながら、「再調査応ぜず」という見出しを見て思い出したので一言。