AIというひと

 横着な友人が、何かの会で挨拶をしなければならなくなったらしい。でも、面倒だ。
 そこで、AIさん(ChatGPT)に相談したという。

 「これこれの団体のこれこれの会で挨拶をしなければならないのですが、何を話せばいいでしょうか?」

 すると、すぐに、実に見事なスピーチ原稿が送られて来た。
 感心して、

 「ありがとうございます。すばらしい挨拶文ですね」

と送ると、AIさんから、

 「お手伝いができてうれしいです。またいつでもご相談ください。ご成功をお祈りしています」

と返ってきたという。

 AIに、「うれしいです」という感情はない。「お祈りしています」という信仰も気持ちもない。ただこのような場面では多くそのような文言が使われる、というデータ蓄積があるだけである。
 などと野暮をいってはいけない。AIさんに「うれしいです」といわれて、横着な友人は「うれしい」と思い、AIさんに「お祈りしています」といわれて、横着にも励まされた気持ちになったのである。
 もっとも、実際のスピーチでは、流石にAIさんの原稿を使ったりはしなかったようだが。しかし、横着にパソコンの前にいるだけで、「AIさんというひと」との会話ができたのであった。
 AIさんは、他の人と違って「素直な、裏のない、信頼できる、ひと」だと、横着な友人はいっている。
 そういう時代、ということである。

知らなかったこと二つ・・・原発、軍歌

 世の中には知らないことが無数にあるが、最近知って驚いたことがある。もちろん、知っている人は知っていたわけで、私が無知だったということなのだが。それにしても知らなかった。
(1)
 能登半島地震の被害と救済復旧の見通しについては、日を追ってますますその深刻さが深まるばかりだが、志賀原発もまた、思わぬ複数の深刻なダメージを受けたという、
 「思わぬ」というのは、地震の強度が想定内であったにもかかわらず予期しない故障に見舞われた、という意味である。「想定内」だのに「予期しない」、何だそれは。いずれにしても、「想定外」どころか、「想定内」の対策さえできていなかったのである。
 ここまでは、ニュースで知っていた。
 しかし、知らなかった。   

 知らなかったのは、原発の耐震基準は民間住宅より遥かに低い、ということである。
 辻野晃一郎氏のメルマガ紹介記事 によると、「大きな被害を受けた志賀原発の変圧器については、500ガルの揺れにまで耐えられる仕様だったそうですが、今回の志賀原発原子炉直下で計測された加速度は399ガルでした。仕様範囲内でも壊れたのです。」「そもそも、我々一般国民は、原発の耐震性は厳しく定められていると思い込んでいます。実際に政府も、「日本の原発の安全性は世界最高水準」と説明しています。」「しかし、実はここにも嘘があります。」「日本の原発の耐震基準は概ね1,000ガル以下で設計されています。東日本大震災の最大の揺れが2,933ガル、今回の能登地震でも、~ 震度7を観測した志賀町の富来地区で2,800ガルを記録しています。][今世紀だけでも、1,000ガル以上の揺れを記録した地震は全部で20回ほどあるそうで、年平均1回弱の頻度です。]
  「民間の住宅メーカーでも、例えば 三井ホームが売りにしている耐震性は最大5,115ガル 、 住友林業は3,406ガル です。すなわち、原発の耐震基準は民間住宅よりも遥かに低いのです。」
 知らなかった。
 断層が縦横に走る地震多発国で、原発の耐震基準が民間住宅よりはるかに低いとは。

(2)
 Youtubeで「六甲おろし風インターナショナル」が面白かった「Jazz Dan Hitori」氏が、「メーデー歌(聞け万国の労働者)」の Jazz アレンジをUPされた。 
 この歌は軍歌の替え歌で、感慨を持つ人も少なくないようだ。「 戦後になって、メーデーのデモ行進で、♪聞け万国の労働者、轟き渡るメーデーの♪というのを聞いていると♪萬朶(ばんだ)の櫻か襟の色 花は吉野に嵐吹く♪(歩兵の歌)の替え歌でした。」「どうして労働歌に変ってしまったのか。そう、あの頃は、軍隊帰りが組合運動の中心でしたなあ。デモ行進も大きな赤旗を何本も掲げて、ワッショイ ワッショイとジグザグを繰り返したりしてすごい迫力がありました。」(自衛隊の行進曲に思う) 
 また、「戦後のメーデーで必ず歌うメーデー歌に「聞け万国の労働者」がある。」「虫唾が走るほど嫌いになったはずの「歩兵の本領」とメロディーが同一である。」「聞け万国の労働者~」「このほかに歌詞を変えて運動会の応援歌に使われている。戦後を引きずった日本人の鈍感ぶりを示す好例ではなかろうか。」(五月一日に思う
 替え歌というのは、無数にバージョンが広がるので、「散兵線の花と散れ」も往時から「進軍進軍また進軍、敵弾轟く所まで ~ 突撃隊の花と散れ」となったり、戦後にも「~対抗戦の花と散れ」となったりするのだが、ただ、今引用した方々は、<戦前>の軍歌<戦後>の労働歌、という構図で書かれている。
 しかし、いわゆるメーデー歌そのものは、ずっと昔、大正時代から歌い継がれた歌で、と思って、改めてwikipediaで「歩兵の本領」を検索してみると・・・知らなかった。もっと古かった。
 1922年の第3回メーデーで「聞け万国の」と歌詞がつけられたメーデー歌の原曲は、最近の研究では、1911年の「歩兵の本領」よりさらに古く、1901年、いやもっと1899年の曲にまで遡るとのこと。詳しくはwikiを見て頂きたいが、知らなかった。

閣僚再調査応ぜず、応じず

 文部科学大臣が、統一教会の友好団体から「推薦状」をもらって、選挙支援を受けていたという問題。統一教会との関係があれほど大きな問題となったにもかかわらず、僅か2年前の選挙のことを忘れていたのなら病的な健忘症を疑うレベルだが、大勢の会員が連日、選挙事務所名で有権者に投票依頼の電話をしていたことを「覚えていない」。証拠を示されると、「写真があるのなら、推薦状を受け取り、推薦確認書に署名をしたのではないか」とようやく認めた。しかし首相は、野党からの更迭要求を拒否し、閣僚と教団の関係についての再調査要求にも応じない。
 という呆れたニュースなのだが、その「再調査にも応じない」記事の見出しが、「再調査応ぜず」となっていて、ちょっと引っかかった。

 「応ぜず」と「応じず」は、人によって感じ方が違うだろう。
 専門家ではないので怪しいが、「感じる」「信じる」などと同様に、文語の「応ず」が口語化する際に、「応ずる」「応じる」という二通りが、多分その順に生まれた。「応ずる」の方が古風で、辞書の移り変わりにもそれが反映し、保守的に「応ずる」がより正しいという人もいるようだ。一方、日経の校閲グループが、「日経校閲」という公式Xで、「「要請に応じず」「要請に応ぜず」という新聞の見出しがあったとしたら、みなさんはどちらがしっくりきますか」という、ピッタリのアンケートをされていて、それによると、

 応じず      86.3%
 応ぜず        6.5%
 どちらでもよい 4.8%

と、なったそうである。「応ぜず」にちょっと引っかかった私は多数派ということになるようだ。

 ところで、その見出しにちょっと「引っかかった」ことで、前に読んだ本で、これに似たことに「引っかかった」ことがあることを思い出した。盛山大臣とは違って、幸いなことに、その本が小島政二郎の『小説 永井荷風』だったことを思い出したのだが、次に、その本の在りかを思い出し、最後に(もちろん付箋を付けたりしていなかったので)何かに引っかかったのがどのページだったのかを探すという、面倒くさいことになった。

 といっても全く大した話ではないのだが、はじめの百ページほど見たところ、次のような箇所があった。(ちくま文庫版なのだが、面倒なのでページは書かない。)
 政二郎は1894年生まれなので、「ない」より「ず」が多いのは自然だろうし、「私自身この手の小説を書こうとも思わず、また書けるとも思えず、」のようないわゆる連用中止は全く自然で、他に書きようがない。

 しかし、「私達はまだ若い中学の四年生だったから、いやみに感じずに、」は、今の人なら「いやみに感じないで」と書くところだろう。ところで、問題の「感じずに」は、「感ぜずに」と書いていない。「感ぜず」ではなく「感じず」と、ここは多数派で、だから私が引っかかったのは、ここではない。次のような個所である。

 「この三つのものを持っている荷風の姿を彷彿としずにいられないことだ。
 「彼は身の幸運を父に向かって感謝しずにいられなかったろう。

 確か、同様の例がもっとあったような気がする。
 「髣髴」ではなく「彷彿」となっているのは、政二郎自身の選択か編集部の校閲か分からないが、引っかかったのは、「しずにいられない」という表現である。明治時代から用例があるらしいから誤りとはいえないだろうが、少なくとも今では「せずに」が正しいとされるだろう。それにしても、「いやみに感ぜずに」と書かずに「感じずに」と書きながら、「感謝せずに」ではなく「感謝しずに」としたのは、多分政二郎の文体癖ということなのだろう。
 それだけのことで、実にどうでもよいことで恐縮ながら、「再調査応ぜず」という見出しを見て思い出したので一言。

ブサ〇〇じいさんポチになり

 「美人とはいえない、おばさん」という問題発言だけでなく、名前を間違え、初めての女性外相だと無知をさらし、と、どうしようもない「じいさん」ですが、対して、上川氏が、「あそう先生」の発言を苦笑しつつ聞き流すだけという「大人の対応」をしたとして、称賛する声が少なくないようです。
 が、「大人の対応」への称賛は、セクハラ発言を聞き流さずに抗議するような「大人げない対応」への暗黙の非難になっているということが一つ。もう一つ、「我々から見て」大臣はよくやっている、という言い方が気になります。つまり、大臣よりも上に、「われわれ」という男の権力中枢があるというのが、彼(ら)の意識なのでしょう。
 ところで、「じいさん」は先日訪米したそうですが、その理由について、中田絢子記者が、永田町関係者の間で噂になっていたことがあったと伝えています。それは、「じいさん」の訪米理由の一つはトランプ氏と接触することだろうという観測です。結局会えなかったのですが、代わりにト氏に近いハガティ上院議員と懇談。当人は、「こちらが足を運んだことで先方に会おうとした証拠を残したことになる」、と周囲に語ったようです。

 どうでもいいことですが、昔の童謡の2番でも唄っておきましょう。
  ブサ〇〇じいさん ポチになり
  尻尾を振りに 行ったれば
  ガラクタ 兵器を
  買わされ ガラガラ

万博開くも恥、やめるも恥

 ついに国のトップ岸田首相が、また事実上の維新のトップ橋下氏が、予定通り万博を開くとしながらも、延期の可能性にも触れた発言をした。いわゆる24年問題が4月に迫る中、もしかすると、震災復興の妨害回避を渡りの船に、延期決定があるかもしれない。

 しかし、延期しようが開催しようが、大阪万博は成功しない。万博つまり「万国博覧会」なるものが、いや大体「博覧会」なるものが、もはや時代遅れの代物だからである。
 「見たこともないモノ」を万国から博(ひろ)く集めて観覧に供するというのは、昔は大いに流行った大規模見世物興行である。しかし今や、見たければ行けるし、行かなくても見られる。もはや「見たこともないモノ」なんてない。
 大阪万博の目玉の一つ「空飛ぶ車」にしても、会場と近隣地の間をタクシーのように行き交うという当初の大風呂敷は論外として、たとえ試作機が飛んだとしても、大型のヘリやドローンやはてはオスプレイまで見せられた眼には、「驚くべきモノ」「一目見たいモノ」ではない。

 代わりに最近喧伝されているのは、5メートルあたり1億円という巨額の金をかけて造りつつある円形回廊である。とはいえ、「空飛ぶ車」の代わりの看板なら「動く歩道」かといえば、そんなことはない。全長2キロ、ただの歩道である。

 1900年のパリ万博では、全長3.5キロの「動く回廊」が紳士淑女の評判を集めた。

 動く歩道は全線高架で、地上からの高さは三~八メートル。ほぼ建物の二階の高さでだった。全幅四メートルで三層に分かれていて、いちばん外側の幅一・一メートルの部分(静止盤)は固定されていて動かない。真ん中の幅九十センチの部分(緩動盤)は時速四キロ、一番内側の幅二メートルの部分(急動盤)が時速八キロで回っていた。」「高架になっている静止盤への登り口は十一か所あって」「利用客は静止盤からまず緩動盤に乗り込み、次いで急動盤に飛び移れば、三・五キロのコースをほぼ二十五分で一周することができた。」(山本順二『漱石のパリ日記』彩流社2013) 

 津田雅之氏が貴重な動画を上げておられるので、埋め込ませて頂く。

 1900年のパリ万博では全長3.5キロの3層の「動く歩道」。
   120年後の大阪万博は、釘やボルトも使った伝統木造建築もどきといっても、全長2キロの「ただの歩道」。

 だれがそれを「一目見たい」だろうか。

 

民意あるいは天命

 前回の記事を見て、教えてくれた人がいた。お笑いの「いじめ」芸については、昔、故坂本龍一氏が批判的に指摘したことがあるという。しかし、予想できることだが、当時はかなり叩かれたらしい。
 ここに来て、M当人はもちろん多くの芸人たちの悪行が次々と暴露されているが、それらは、かつては「面白い話」として、むしろ自慢気に語られ、そして多くの視聴者に「受けた」ことである。今さらとはいわずに当人たちは批判されるべきだし、NHKを含めて各局も対応すべきだが、しかし、長い間面白がって持ち上げてきた「民意」と、それに乗って来た業界のことも覚えておきたい。過去のことではない。今のところM以外は頬カムリのままで、局にも動きはないのは、「民意」は許しているとタカをくくっているのである。
 話が変わるが、先日の最新NHK世論調査によれば、内閣の支持率は26%だったという。最近の政府与党の体たらくにもかかわらず、それでも内閣を支持するというのだから、よほど支持心の強固な人たちなのだろう。だから、選挙になると、少なくとも20%の人は、与党に投票するだろう。とすれば、残り80%は、与党に投票しない計算になるのだが。しかし、50%は選挙に行かず、あと30%あっても、野党はバラバラだから、30%が10,10、5,5などとなって、20%の得票でも1強安泰は動かない。いまの制度では、それが「民意」。民意は1強を支持しているのである。
 しかし、民意にも責任がある、いやむしろ民意に責任がある・・・とはいうべきではない。昔、「一億総ざんげ」といったのは公家首相で、民に責任を担わせることで、軍部為政者の責任逃れを後押ししようとしたのであった。
 民意は無責任である。Vox Populi, Vox Dei(民の声は神の声)ということばは、「民は正しい」という意味ではない。神は何者にも従わない。分かりやすくいえば「民は気まぐれ、民は無責任」という意味である。中国ではそれを、天命といった。易姓革命とは、天命が尽きるとき天下が革(あらた)まることであるが、天命は人心に現れる。つまり天命とは人心であり民意であって、民意は無責任に命を革める(革命)のである。オレらの芸をみんな面白がっていたのに、今になって、みんなしてオレらを叩くとは、と思っているかもしれないが、愚かなことである。天命は突然尽きるのである。
 1強支持の民意の方は、どうだろうか。

いじる(弄る)/もてあそぶ(弄ぶ)  松本人志事件

 ジャニーズに続き、オワコンといわれて久しいTV界を支えてきたもう一つの柱である吉本が揺れている。松本人志氏(以下M)の事件である。

 事件については、性質上、詳しくは分からない。しかし、はじめは「事実無根だ」と出来事そのものを否定する。それが不可能になると、出来事と行為はあったが「合意だった」と抗弁する。すると多くの擁護者が現れ、男を擁護して、直接的、間接的に告発した女性を非難する。指原莉乃氏や鈴木紗理奈氏がいう通り、伊藤詩織氏や五ノ井里奈氏をはじめ、他にも無数にある同類事件の際に、必ず起こる<セカンドレイプ>のパターンそのものである。上沼恵美子氏は「吐き気がする」といったが、多くの女性の本音だろう。

 事件についてはこれ以上コメントする気はないが、この際気になるのは、Mあるいはダウンタウン(以後DT)の「お笑い」芸とはどういうものか、ということである。今回、事件について批判的な発言をする人たちも、「事件行動」と「芸」は別だとして、Mのお笑いは超一流だとか、ダウンタウンが漫才の歴史を変えたとか、あえて付け足すことが多い。
 ジャニーズ北川氏(以下J)も、抜きんでた才能でタレント芸能の歴史を変えたといわれた。私には共に分からないことながら、Jの場合は、批判は、彼の性行動あるいは性癖だけに留まらなかった。彼が抜きんでた才能で開発した、タレントの発掘・育成・プロデュース一体化方式、つまりジャニーズ方式そのものが批判の的となっていった。ところが、Mの場合は、性行動だけが問題視され、Mの、あるいはDTの「お笑い」芸とは、何だったのか、今回の事件との関連性はないのかあるのか、そういった問いは問われない。どことか、Mの芸が、改めて持ち上げられる。
 私は「お笑い」界のことは分からない。しかし、MあるいはDTが、画期的に登場して以来、ここ30年ほど「お笑い」界の権威として君臨し、とりわけMは独占し過ぎるといわるほどほとんどの賞の審査員にもなって、多くの後輩芸人たちに影響を与えて来た、というのは、本当のことなのだろう。だとすると、M(あるいはDT)的な芸が、いまの「お笑い」界の標準芸となっている、ということになる。
 では、それはどういう芸風なのだろうか。そして、そのようなM的な「お笑い」の芸風と今回発覚したMの行動とは、通じるところがあるのだろうかないのだろうか。そういったことを問題にする論者が誰もいない(ように思う)。

 繰り返すが、私は、もともとMやDTが感覚的に合わないこともあって、ほとんど見ていないから、M的な芸風といったものがどんなものか知らない。Mが君臨し影響を与えてきたという昨今近の「お笑い」界について、発言する資格は全くない。
 ただ、最近のお笑いやバラエティで、少し気になることがある。もちろんそれは、MやDTの君臨とは、全く関係のないことだろう。少なくとも、以下書くことは、別にMやDTに限ったことではない。
 などと、もって持って回った言い方をしたが、大したことではない。最近のお笑いやバラエティで気になることといったのは、「いじる」という言葉をよく聞くようになったと感じるという、ただそれだけのことである。
 ただそれだけのことなので、後は、簡単に漢字辞典だけ参照して、おしまいにしよう。
 バラエティなどでは、「芸人はいじられてなんぼ」だとよくいわれる。もちろん、「いじる者/いじられる者」の間には、絶対的な区別がある。上位の芸人が「いじる」のである。ちなみにMは、トップに君臨する大芸人であるという。
 「いじる」は、漢字で書くと「弄る」である。「弄る」は「なぶる」などとも読み、「弄ぶ」と送れば、「もてあそぶ」になる。「いじめる」は「虐める、苛める」とも書くが「弄める」とも書く。
 お笑いに通じた多くの論者が、Mの芸を高く評価しているから、こんな話は、今回の事件とは全く関係ないのだろう。となると、ただの性癖というだけのことになるのか。

 横山やすし氏といえば、逮捕されるような事件行動を繰り返した大漫才師だが、彼は昔、登場したDTの漫才を見て、「人様の前に出すような芸やない」、といったという。それはどういう意味だったのだろうか。