マリア様がみてる

今野 緒雪 マリア様がみてる

 幼稚舎から大学まで一気に要するお嬢様学園、そこにすまう天使たちはセーラー服は翻さずに、姉妹関係のある先輩後輩がいちゃいちゃして学園生活を送っているようです。百合ブームのさきがけとなったこの作品はアニメにもなっています。しかし私に言わせれば中途半端。

 コバルト文庫、百合、のキーワードで検索をすれば以前なら「丘の家のミッキー」がひっかかる方が多いと思います。私はあちらの方が素晴らしい作品であると考えています。なぜならば主人公は引越しのため転校し、レベルが数段低いとされる女子校に編入して今まで知らなかった世界を見ていきます。それには男性の接触、恋などもふくまれます。あくまでリリアン女学園内でのごたごたをとりあげる「マリみて」と違ってなんらスムーズな作品の流れを感じます。
 ほぼ偶像化に近いお嬢様が描かれている「マリみて」ですが、ゴシップにさわいだりアイドル化した先輩がいたり結局ただのお金持ち女子校でしかないわけです。これはシリーズが続けばより顕著であると思います。これは私が女子高出身であった経験からでもあると思います。
 そして女子バレーはどうしてあんなにもゲーム以外の側面(レオ様とかプリンセスメグとか)が盛り上がるかというと、戦う女の子という90年以降発生した新しい女性の美しさと幅広い年齢層、そしてバレーという目的が理由であると思います。それこそひとつの目的でよせあつめられた世代が違う女の子達がコミュニケーションをとろうとする姿はけなげでもあります。これは第四期モーニング娘。にも言えますね。

 マリア様がみてるというお嬢様学校を舞台にした女の子たちのお話で、1.アクションにかける。2.アクションがあればお嬢様要素が欠ける。3.学校という狭い世界で「おままごと」以上の意味はない(しかし、刹那感はほぼない)。この三つの要素が中途半端という理由です。

つっぱれ有栖川

ヤマグチノボル つっぱれ有栖川

 「YAWARA」は偉大だったと力いっぱい力説しているだけの話。「女は土俵に上がれないなんて差別だ!」というフェミ発言をなさる方はそんなに土俵に上がりたいのかなぁと疑問になります。が消えゆく蝋燭の炎のように「女相撲」というものの存在は確実にあって、その人たちにとっては土俵に上がれないことは死活問題であるんだろうなぁ。とそれくらい女の子が相撲をとることに対しての興奮だとかないので、「YAWARA」がいいよ!という話。

チボー家のジャック

マルタン=デュ=ガール 山内義雄訳 チボー家のジャック

 現在、日本には少女が自分探しする本はたくさあれど、少年っていうのは見ない気がします。それはたぶん、少年が「愛」やら「ぬくもり」を求めている姿はあまりかっこのつくものではないからだと思うんです。だったら少年は自分探しのたびに出ないのかというとそうでもなく、例えばこのジャックの場合「社会」に対して目を向けることが自分探しと言えるはずです。現在の日本ではうけいれられないですね。
 ジャックはもともと文学的な妄想癖があったことと、チボー家の家長の抑圧的な態度、兄の権力顕示欲が総合的にジャックの基礎を作るに至ったと思います。だからこその「チボー家の人々」というタイトルです。そのジャックが登場する部分だけを抽出したチボー家のジャックにはジャックが経た時の重さや虚しさがいっさいなく、伝記をさらっている感覚です。しかし訳者の言うようにこの本は小学生高学年に読んでもらいたいと強く感じます。なぜならばこの本は「自分探し」がテーマであるからです。すでに成人しきった人間が読んでも読了後には郷愁しかなく、得るものは少ないでしょう。ノーベル賞受賞の鍵となった「一九一四年夏」はまさに第二次世界大戦の気配が限りなく目に見えない形で忍び寄ってきた時に書かれたものであり、インターナショナルという思想はマルタン=デュ=ガールが出した結論と同時に啓蒙とも言える。だからこそチボー家のジャックという本をこれから自己を形成していく人間に読んでもらいたいと思っていたに違いない。

 と真面目に本を読んだようだけれども、頭に浮かぶのは高野文子の「黄色い本」ばかり。実っちゃんの一年かけて読んだ本を私も読んでいるという倒錯した愛情がいっぱいです。事実、現在チボー家の人々を読みたいのですが出版されている本は黄色でないのでいやだと思っています。

日本文学全集48 林芙美子集

林芙美子 「放浪記」「風琴と魚の町」「牡蠣」「晩菊」「浮雲」の五作を収録

 収録順に作品を読んでいると「浮雲」まではプロレタリアートが代名詞でも問題ない作品だなぁという意識しかないが、「浮雲」にきてガラリと変わる。「女性特有の赤裸々ふしだら性生活的な作品は気持ち悪くて読めない」という人が最も嫌悪する作品になっていたのだ!私はそこまで女性特有の作風のものに嫌悪感は感じないけれども、林芙美子のこの「浮雲」に限って言えばNO!。なぜならばプロレタリアートと赤裸々ふしだら性生活のミックスだったからである。主人公のゆき子はこれまでの作品と同様に根無し草生活を送っているけれど、戦前は東南アジアで優雅に不倫しながら暮らし、戦後はなんだかんだ美味しい思いをしているので口糊の生活は感じさせない。しかし戦後の困窮する社会の歴史としての知識は日本人としてあるわけで、そんななか仕事もしないで不倫生活(相手の家に押しかけて奥さんと対面したり、奥さんの居ぬ間に旅行にいったり一般的な行動)かぁという脱力感でいっぱいになる。
 しかしその不倫生活の根拠というか、肉欲に走る原動力というものは作中でも主人公たちが未練たらしく思い出す戦前すごした東南アジアでの優雅な生活である。終戦直前まで本土とは真逆の生活、女中が朝コーヒーを注ぎ、テラスでパンを食べながら今日の仕事はどうしようかと……はまさにブルジョアジーである。この作品はプロレタリアートブルジョアジーの対比の作品であるんだなぁと考えると、どちらにも人間の本能として肉欲は外すことのできない重要な要素である。と考えると不快感もさほど感じない。

リリス

G=マクドナルド 荒俣宏訳 リリス

 めくるめく幻想の世界が「ルイス=キャロル」や「ミヒャエル=エンデ」以上の世界の大きさがあり、読み進めていくのに難しい部分と簡単な部分の両極端があって、この話は純度の高い幻想小説なんだなぁと思いました。その多彩ぶりが鮮やかすぎて光の三原色のように白く飛んじゃっているように感じます。
 ストーリー終盤になると、その裏にダンテの「神曲」がちらつきます。ダンテは案内人に導かれて天国までの道行きをたどりますが、こちらの主人公ヴェインは無理矢理ふしぎの世界に引き込まれて「眠り」を強要されて拒絶したことによってその負い目から、最終目的として「眠り」を得るためにいろいろ歩き回ります。この「眠り」が「神曲」での天国のようだけれども、「眠り」はあくまで目覚めと対になっているもので、恒久的なものではないです。しかも「眠り」と目覚めの間には「夢」もあってやっかいな目的だなぁと、そのままやっかいな状態での幕がまた幻想小説として濁った余韻が味わえます。

世界文学全集 別巻7

レマルク 山西英一訳 凱旋門

 フランスはパリのビストロでカルバドスを飲んで食事している間に人が死んだり恋をしたりナチスに見つかってスイス送りになったり、ほんとにカルバドスを飲む間にいろいろ進むお話で、胃がもたれそうなそれでいて憧れてしまうかっこよさが内在しています。
 主人公ラヴィックが助けた女ジョアンがラヴィックの首をしめそうで、大きな事件が結果的に起こらなかったスリルというかジョアンに対しての苛立ちむかつきが本を読み進めていく上で障害でもあり活性剤でもありました。不思議とそういう迷惑女が戦争前夜の不透明な日常生活の象徴のような気がします。それは思い過ごしかもしれませんが、霧だとかカルバドスだとか娼館の絶妙な配置は計算し尽くされた対戦前夜の表現です。

文藝春秋 芥川賞発表三月特別号

金原ひとみ 蛇にピアス

 綿矢りさ蹴りたい背中」よりも私は「蛇にピアス」の小説の広告としてのタイトルとして秀逸だと思います。「蹴りたい背中」は象徴としては申し分ないタイトルですけれども、「蛇にピアス」にさらにいろいろな付加(身体改造?)を想像できる部分がよし。なおかつ蛇さらにピアスと言うインパクトある言葉で人の目も惹きつけていますよ。
 純粋な起承転結を感じながらなんだかなぁと思うのはやはりそのサスペンス仕立て。しかもあおっているのはあくまで主人公のルイだけ。その個人的なサスペンスが最後の最後で「わぁ、身内が犯人だったかもぉ!」ってなんじゃそりゃ。その因果関係の狭さではなく20枚の論文最後5ページで力尽きたような失速感。事件を起こすと言うことの是非でも必要性の有る無しでもない、結局その恋人が殺された事件の重要度って主人公ルイのなかでどれくらいなのかがよくわからなかった。