外套

文芸漫談でちょうど「外套・鼻」の話者のことが取り上げられていて、そこで話者の存在感を消すような書き方のほうが小説として進歩しているかというと、決してそんなことはないんじゃないかといったようなことが書かれていたので、立ち読みしながら(そうだ!今こそ話者の存在感を押し出していくべきだ)とジュンク堂のレジの前で思いました。

この官吏の姓はバシマチキンと言った。この名前そのものから、それが短靴に由来するものであることは明らかであるが、しかし何時、如何なる時代に、どんな風にして、その姓が短靴という言葉から出たものか――それは皆目わからない。父も祖父も、剰え義兄弟まで、つまりバシマチキン一族のものといえば皆が皆ひとり残らず長靴を用いており、底革は年にほんの三度くらいしか張り替えなかった。彼の名はアカーキイ・アカーキエヴィッチと言った。或は、読者はこの名前をいささか奇妙な故意とらしいものに思われるかもしれないが、しかしこの名前は決して殊さら選り好んだものではなく、どうしてもこうよりほかに名前のつけようがなかった事情が、自然とそこに生じたからだと断言することが出来る。

こんな風に、読者に向かって話者が語りかけてくるが、話者であって作者ではなさそうなところがポイントではないか。名前の由来や、一族が長靴を用いていることなど、かなりバシマチキンについて詳しい話者だけど、作者としてバシマチキンという人物を創造したのでなにもかも作者である私は知っているし思い通りだという立場ではないところが、読んでいて楽しいように思える。「アカーキイ・アカーキエヴィッチ」のような、藤子不二雄のマンガみたいな名前も、作者の気分でつけたのではなくて、事情があってそういう名前になったことを話者がよく知っていて教えてくれる。こういった話者の立ち位置から小説を書くと、登場人物について、小説内のお話の時間の経過にそった行動を描写するのに加えて、一族の話とか名前の由来とかおもしろく脱線することができて便利だし、ウソはウソなりに、いかにも作者の勝手で作り出した登場人物というよりは、人物がイキイキして楽しいような気がする。

こんな仕立て屋のことなどは勿論多くを語る必要はないのであるが、小説中の人物は残らずその性格をはっきりさせておくのが定法であるから、やむを得ず茲でペトローヴィッチを一応紹介させて貰うことにする。

……だが、読者は先ずその最初の半額が一体どこから手に入るのか、それを知っておく必要がある。

小説中の人物はうんぬんとか、読者は先ずとかは、自分がまねするときには省いてもいいかなと思うけど、省きながらも、「それを知っておく必要がある」のあたりは残しておくと、誰がなんのために必要があるんだと思わされてなかなかオツかもしれないけど、ただへたくそな文章だと思われる可能性は高い。
このアカーキエヴィッチについてかなり詳しい話者が、一箇所アカーキエヴィッチのことをわからないというところがあって、そこがとてもいいと思う。

彼はもう何年も、夜の街へ出たことがなかったからである。彼は物めずらしげに、或る店の明るい飾窓の前に立ちどまって一枚の絵を眺めた。それには今しも一人の美しい女が靴をぬいで、いかにも綺麗な片方の足をすっかり剥き出しにしており、その背後の、隣室の扉口から、頬髯を生やして唇の下にちょっぴりと美しい三角髯をたくわえた男が顔を覗けているところが描いてあった。アカーキイ・アカーキエヴィッチは首を一つ振ってにやりとすると、また目ざす方へと歩き出した。一体なぜ彼はにやりとしたのだろう?まだ一度も見たことはなくても、何人もが予めそれについて或る種の感覚を具えているところの物件に邂逅したがためだろうか?それとも、ほかの多くの役人たちと同じように、《いや、さすがはフランス人だ!全く一言もない!何か一つ思いついたが最後、それはもう、実にどうも!……》とでも考えてのことだろうか?いや或いはそんなことも考えなかったのかもしれない。何しろ他人の肚の中へ入りこんで、考えていることを残らず探り出すなどと云うことは出来ない相談である。

アカーキエヴィッチが外套を新調するために節約して節約してようやくあたらしい外套が出来上がった直後に、その外套を着て外出するこの部分には、それまで出てこなかった「美しい女」が登場するし、それまでほとんど笑ったことがなかったアカーキエヴィッチがにやりとするし、それまでアカーキエヴィッチのことにかなり詳しくて、それなりに心情についても語っていた話者が急にわからないと言い出すので、印象に残るようになっていて、この華やかな夜の部分がしっかり印象に残るから、アカーキエヴィッチが突然襲われる部分との落差が出ていると思う。この小説の話者にすごく魅力を感じたのは、このやたら詳しかったり、突然わからないと言い出したりする、一定しない語り方で、ずっと語りが前に出ているわけではなくて、存在感を薄くしたりまた濃くなったりして読者を飽きさせないし、作者としても飽きずに書ける方法なのかもしれない。あと、描写の量も、これくらいがちょうどいいように思える。小説を書こうとするとき、ちょっと前の俺ならこういう場面なら一枚の絵についての描写をひっぱっていって忘れた頃にアカーキエヴィッチの話に戻して、どうだ、という感じにしてしまいそうだけど、そういうのにも飽きてきた。一気に書き上げずに、だらだら放置したままたまに思い出したように小説を書いたりしていると、自分の好みも変わってくるのでなかなか完成しない……
「外套」みたいな話者を使って、小説に登場する人物の過去とか一族の話とかウソの史実とかを盛り込んでみたいし、あと登場する人物も、「外套」みたいな全然ぱっとしない人ばかりが登場してそれぞれにぱっとしないことを考えながら生活しているけど、話者によって大げさな史実や一族の過去などがどんどん持ち込まれて、話が直線的にゴールを目指すのではなく螺旋を描くように盛り上がっていって終わるような設計にしたいと今思った。

「吉野大夫」

後藤明生先生の「吉野大夫」についてですが、以前読んだ「挟み撃ち」よりも「吉野大夫」のほうがおもしろいと感じました。
蓮實先生の「小説から遠く離れて」という評論は図書館で立ち読みした程度で、中身についてはほとんど覚えていませんが、そこから(宝探しみたいな話は恥ずかしいしつまらないからダメ)という印象を勝手に受けて、いつからか蓮實先生は偉いと強く思っているので、そんな宝探しみたいな小説は書くまいと思っていたのですが、まさに「吉野大夫」はそういった意味で恥ずかしくない小説でした。小説の冒頭近くで挙げられた吉野大夫についてのいくつかの疑問が、最後になっても結局解決されなかったというところが、「挟み撃ち」よりも、この小説が目指しているところをわかりやすく示していたためにこちらのほうがおもしろいと思ったのかもしれません。結局ひとつも疑問が解決していない、というところでは大げさに「やられた!」と思いました。
(宝探しみたいな話は恥ずかしいしつまらないからダメ)という気持ちは、やはり蓮實先生がそう言ってるからというのが大きいけど、自分なりに後から考えたのは、小説のおもしろさはスタートからゴールにたどり着くこととか、なにか謎があってそれが明らかにされることなどにあるのではなく、読むこと自体がおもしろくないとダメだから、読むこと自体のおもしろさをアピールするために、話の内容についてはどうでもいいこと、読むことがすごくおもしろいけど、だからといってその文章を読んだからといってなにか教訓が得られるとか人間的にどうかなるとかそういうことはないほうがかっこいいに違いないということで、そういう考え方からいくと、吉野大夫の話の途中でお酒をどういうペースで飲んでいるか、といったようなどうでもいい話になっていってそれを読むのがおもしろいと思えるところがかっこいいのですが、最近この考え方が果たして正しいのか、もっとおもしろい小説を書くためには違った考え方をすることが必要ではないのかと思い始めたため、なにかご意見がいただけるとうれしいです。
吉野大夫についていろいろ文献を探る中で史実が絡んでくるあたりも読んでいて楽しい。俺は、冨永監督の「亀虫」のナレーションみたいに、海峡の名前とか歴史の年号とかがひとつの文章のなかにポコポコ出てきてなおかつ話自体はくだらないものが今とてもおもしろいと思うので、「吉野大夫」みたいな小説は理想的かもしれません。
あと、五章の途中、「何かの使命を帯びて、吉野大夫を研究しているわけでもないし〜」からはじまる少しエモーショナルな文章は、誰に頼まれたわけでもないのに小説を書こうとしている自分にとって、グッとくるものがありました。
……これでは「吉野大夫」からなにかを学んだことになるのか疑問ですが、吉野大夫というキーワードを巡ってそこから脱線を繰り返しながら、おもしろく文章を読ませていくスタイルは、むつかしそうだけどなんとか真似してみたいと思います。

また時間のあるときに、ゴーゴリ先生の「外套・鼻」の話者の立ち位置のおもしろさについても考えたいのですが、今俺が小説について考えるための教材が渡部直己先生のものしかないので、他にためになるものがあったらぜひ教えてください。もっと勉強しておもしろい小説を書きます。

どうもごぶさたしています。(昼はサラリーマン、夜はヌーボーロマン)でがんばろうと思いながらも、なかなかうまくいかず――サラリーマンとしての活動が忙しくて小説が書けないというよりは、仕事のことだけ考えてがんばって営業し、それなりに実績を上げられると、なかなかサラリーマンものんきでいいもんだなという気持ちになってしまい、小説なんてめんどくさいもの書けるかっての!誰に頼まれたわけでもないんだしと怠けていました。
しかしながら、つい最近目にした金庫内の全渉外・営業実績ランキングによると俺の順位は後ろから数えたほうが早く、街を歩けばランキング上位の同期がいい女を連れているのにぶち当たり、仕事のできるやつはやっぱり違うなあと落ち込み、そうだ俺には小説しかない、小説書くぞと思い直しました。そこで最近読んだ小説と、そこからどんなことを学んだか(学びたいか)を少し書いていきたいと思います。

ヒストリー・オブ・バイオレンス

以前「コンスタンティン」をみたときに、天国や地獄の話をしつつも基本的には「タバコを吸うと体に悪い」というあまりにも一般的すぎてだれもあえて主張しようとしないことをわざわざ映画で主張するというギャグをおもしろいと思った覚えがあるのですが、「ヒストリー・オブ・バイオレンス」をみたときにも同じような印象を受けました。
西部劇のような、マフィアの話などをしつつも、基本的には結婚について(夫婦のセックスについて)、「長男は家をつがなければならないが次男は気楽でよく、長男はそんな次男をうらやましくおもうもの」といったあえて主張しなくてもいいことが描かれていたのではないか(特に、主人公の兄が登場した際、結婚はどうだ、おれは結婚したいとは思わん。なぜならいい女がたくさんいるからひとりにしぼれないといったようなことをわざわざ喋るのをみてそう思った)。嫁がチアガールの格好をして飛びかかってくるシーンがすごく情けなくておもしろく、そのセックスシーンをみながら以前テレビで島田紳助が、同年代の友人が嫁とのセックスの話をうれしそうにするのを聞いて勘弁してくれと思ったといった内容のことを話していたのを思い出した(そういえば島田紳助もすこし前にバイオレンスのせいで謹慎していた)。島田紳助というとあのなんとか法律相談所という番組に出ている橋下弁護士が以前テレビで、嫁とセックスするときにお互い高校時代の制服を着てすると盛り上がるといったような内容のことも話していた。
そしてそういったテーマ、結婚についての話というとやはり小津映画、というわけで最後の夫婦の切り替えしショットは小津映画を踏まえてのもののように思えて、そうすると小津映画を踏まえたセックス、暴力の撮り方がどんなだったかととても気になりはじめるが、小津映画のことを思ったのは最後のシーンでだったのと、暴力シーンのスピードについていけずどんなカット割だったか覚えていない。なんでもかんでも小津映画と結びつけて考えるのは、なんでもかんでもアメリカという国と結びつけて映画を論じるのと同じくらいばかばかしいけど、小津映画にはほとんどでてきた記憶がない階段という場所でセックスをするところとか、細かく考えたらおもしろいかもしれないと思う。でも「ヒストリー・オブ・バイオレンス」は小津映画、とか言うのはそう言ったら意外性があっておもしろいのではないか、そんなことを言うひとは鋭い洞察力を持ったひとだと思われるのではないかといういやらしい気持ちがあるのでいけないことだとも思う。もう二度とそういったいやらしい気持ちで映画について考えるのはやめたい。もっと違う形で映画について考えられるようになりたい。
主人公の男の過去が回想シーンとして挿入されることがなかったのはかっこいいと思った。オープニングで悪者二人がモーテルで働くひとたちを殺害、生き残った子供に向けられる銃口→子供の叫び声、そして子供をなだめる主人公という流れでは、悪者ふたりのシーンでの、悪者と悪者に襲われる子供という関係をひきずった状態で主人公の子供が叫ぶシーンをみることになるので、まるで悪者ふたり=主人公のように錯覚し、主人公が過去に誰かを殺したのでは?と思わされるようになっているその機能的な演出がかっこいい。

ココロ社さんへ

id:kokoroshaさん、ぼくの書きかけの小説を読んでくださって本当にありがとうございます!そもそも、ネットでココロ社さんの「赤い魚の子」や「危険な海の生き物たち」という小説をみつけて読んだことがきっかけで、小説のおもしろさに興味を持つようになったぼくにとって、これがどれほどうれしいことか、どうすればこの気持ちを第三者に伝えることができるのか……きっと「世界ナントカ協会の恐ろしさ」や、いま書かれている東京タワーについての小説を読めばそのすごさ、ココロ社さんの小説がとてもおもしろいというすごさと、そのすごい小説を書く人に取り上げられたことのすごさが同時に伝わるのではないかと思います。要するに、この気持ちを伝えたいというか、ものすごく自慢したいし、間違いなくこれは自慢できることだけど、いまこの文章を読んでいるひとにその自慢が伝わらなかったらばかみたいで困るということです。

その小説のおもしろさに興味を持つようになったきっかけ、ココロ社さんの小説をはじめて読んだのは、はっきり覚えていませんが一年くらい前だったと思います。そのときぼくはヌーボーロマンというものをまったく知らず、ココロ社さんの小説から感じられた、ちょっと他の小説とは違う、変わった印象と、ココロ社のノートに取り上げられていたロブグリエ先生の話題などを通じて、なんとなくヌーボーロマンというものに興味を抱くようになり、「迷路のなかで」を読んでみたのですが、その幾何学的描写というもののおもしろさが、理屈としてはわかるのにどうも楽しめず、ロブグリエ先生の他の作品を読む気にもなれず、「迷路のなかで」を読んだだけで、(ヌーボーロマンはだいたいわかったから、これを真似して高級感を出して、そのうえで笑えるものを書こう)と考え、「デンジャラス・ツアー」という小説を書き始めました。ここで言う高級感というのは、ココロ社さんが指摘するように、「あらすじを読むだけで読んだ気になってしまえたり、ネタばれしただけで読む気がしなくなったりするような」ものとは反対のもの、というような意味ですが、もっと自分に正直になってみれば、ひとことで言えてしまうようなメッセージ(だれかを愛することは素敵なことだ、とか)を、わかりやすい文章で書いてしまうと、すごくまともなひとだと思われてしまう。そんなのじゃなくて、おれはもっとクレイジーなひとだと思われたいんだという気持ちであり、その気持ちは、たとえば小学生のときに「伝染るんです」を読んで、おれは他のクラスメイトよりもひねくれた笑いのセンスを持っているんだと思いたがっていたのとほとんど同じもののような気もしますが、それはまあいいとして、とにかくロブグリエ先生の真似をしながら、もっと笑えるものを、と思って小説を書いていました。

小説を書いている最中も、何冊か小説を読んでおり、読む小説を選ぶ基準はやはりヌーボーロマンと呼ばれる小説からなにかしらの影響を受けていると考えられそうな小説、というものだったのですが、最近ヌーボーロマンそのものの、「フランドルへの道」を読み始めて驚きました。クロードシモン先生の書く文章が、まさに「ロブグリエ先生の細かい描写をもっと笑えるように書く」といった印象だったからです。こんなことを言うとかなりおこがましいですが、「フランドルへの道」を読みながら、ああこれおれも書きそうだなと思ってよろこんでいるわけです。それと同時に、ああこれココロ社さんも書きそうだなとも思っていて、つまりぼくが文章を書くときに、それがおもしろい文章かそうでないかを考える基準がココロ社さんも書きそうかそうでないか、というものになっている、それくらい強く影響を受けた書き手に自分の書いたものを読んでいただけたことがどれほどうれしいことかと、ただもうそれだけをいま言いたくて仕方ないです。これからがんばって続きを書こう、というやる気が出てきました。あとがんばって「フランドルへの道」の続きを読もう、とも思いますが、読んでいるその一文一文はかなりおもしろいけど全体的になにが書かれているのかがはっきりわからないところがあって、そこは仙田学先生の小説とも繋がるような気がするけど、できればはっきり話の内容がわかりつつも、一文一文がおもしろい、そんな小説にしたいし、そんな小説にしないとあんまり読んでもらえないんじゃないかなと思います。

「黒い時計の旅」と「TAKESHIS'」


エリクソン先生の「黒い時計の旅」、すごくおもしろかった。どこがおもしろかったって、仮にドイツが戦争に敗けず、ヒトラーが死んでいなかったら…という想像力がすごいというわけではなく、たとえば19章目の、時計の文字盤に堕天使が這い上がってくるうんぬんといったようなエモーショナルだけど説明不足でなにが言いたいのかよくわからない文章がちょくちょく出てきて、(こんなに自分勝手な語り手が、本当に伏線を回収してきちんと語り終えてくれるんだろうか)とハラハラさせられつつも、最終的にはそれなりに話をまとめて終わってくれたところがおもしろかったんじゃないかと思う。たぶん、普通にわかりやすい文章で、きちんと伏線をはってきちんとそれを回収していかれたら、こういうおもしろさは得られなかったはず。歴史考証がぼんやりしていても、語りの勢いでスケールの大きそうな話を作ることに成功している(ように思える)ところも魅力的だし、ジェーンライトがジェーンライトの二十世紀でゲリの幻を抱くとき、もう片方の、ゲリの二十世紀でゲリが目に見えない誰か(ジェーンライトだけど)に抱かれているという律儀さにも好感が持てる。どちらの二十世紀も幻ではなく現実、というところがよかった。「それはお前の二十世紀での出来事だ。おれのではない」とか日常生活で絶対に口にしないフレーズだなあ……

ところで「TAKESHIS'」、この映画のわりと最初のほうで、ビートたけしが「頑固なラーメン屋がゾマホンだったらおもしろいよな」と言って隣で京野ことみが笑うというシーンがあって、そこで(ラーメン屋がゾマホンだったらってぜんぜんおもしろくないな)と思ってしまった。なぜおもしろくないなと思ってしまったのか、その理由はよくわからないし(いや、もしかしたら小さい頃から繰り返しみてきたダウンタウンのコントや吉田戦車の漫画がなによりもおもしろいという意識が勝手におれの中で作られていて、たまたまラーメン屋がゾマホンというギャグのパターンがダウンタウンのコントや吉田戦車の漫画のギャグのパターンに当てはまっていなかっただけなのかもしれないが)、ゾマホンだったらおもしろいと共感できた人もいたはずだけど、とりあえずこのギャグがつまらなかったということにする。この映画にとって、ビートたけしのギャグがつまらないこと、もっと言うと、ビートたけしがつまらないギャグを言っているのに映画の中で誰も「つまらないぞ」と言わないことはすごく問題だと思う。
映画の内容が、ビートたけしの今の地位は簡単に揺らいでしまうものではないのかというようなぼんやりした主題を中心に、岸本加代子がずっとビートたけしをののしっていたり、売れない役者のたけしがビートたけしを刺しに来たりするという、すごくひらたく言えば自分を批判的にみつめてみた、というようなものなのに、自分のギャグのつまらなさについてはまったく批判的にみつめることができていないことが問題で、自分の人生などについてはみつめなおすことが可能なのに、自分のギャグがおもしろいかおもしろくないかについては自分で判断することができないという事実を目の当たりにしてすごく怖くなってしまった。
本当は、今の自分の地位をみつめなおす以前に、自分のギャグがおもしろいかおもしろくないかをみつめなおし、岸本加代子に「べつにおもしろくないぞ!」と叫ばせるべきだったんじゃないかと思える。
あと、いちいちたけしが目覚めるシーンが出てくるのも本当につまらないと思うんだけど……夢か現実かなんてどうでもよくて、「黒い時計の旅」みたいに、両方現実の人生として描いてほしかった。冒頭でアメリカ兵に狙われるたけしが登場したときはけっこうわくわくしたのに。アメリカ兵に狙われるたけしが、たけしの父親だったとしたら、あそこで終わっていたかもしれない人生と、終わらなかった人生がまずあり、そのあともいくつもの分岐点があって(たとえばバイクで事故を起こす人生と起こさない人生とか、フライデーを襲撃する人生としない人生とか)、それぞれが現実のたけしとして登場してきたら魅力的な映画になったかもしれない。あと、たけし軍団というものがあって、その軍団のメンバーから殿と呼ばれていることや(殿と呼ばれる人生と呼ばれない人生、のほうが迫力があるんじゃないか。あと、北野先生の映画にはよくヤクザが登場するけど、「組」じゃなくて「軍団」って冷静に考えるとけっこうおもしろいと思う)、たけちゃんマンというキャラクターがあったことも映画に盛り込んだほうがよかったような気もする。映画の中のビートたけしが、あくまでも虚構のビートたけし、という存在におさまっているところが物足りないので、実際のテレビタレントとしてのビートたけしとして映画にも登場してほしかった。そのほうが、ぼろぼろのアパートに住むたけしにももっと切羽詰った感じが出たんじゃないかなと思うから。映画は映画だけで成立していなければ普通はおかしいけど、この映画はテレビタレントとしてのビートたけしのイメージが存在しなければ絶対に成立しない性格のものだと思うので、たぶんそれくらいしてもいい。
人生におけるいくつかの分岐点の、もう片方へと進んでいった自分たちがそれぞれにその道を歩み続けてある時ふと顔をあわせるというドラマは、いまのこの自分が夢の自分か現実の自分かわからないというドラマよりもずっと魅力的に思えるけど、その理由も、なぜギャグがおもしろくないと思ったのかわからないのと同じように説明するのはむつかしい。ただ、そうして何人ものたけしが集まってそれぞれの位置に立ち、それぞれが輝きだして空に舞い上がり星座を形作ったなら、感動して涙を流したかもしれない。

山下先生ありがとう、素晴らしい映画を魅せてくれて…

リンダリンダリンダ」を観たらめちゃんこ良かった。文化祭が出てきたので、「ウォーターボーイズ」と比べながら観てしまったんだけど、「リンダリンダリンダ」のほうがめちゃんこ良いと思う。

ウォーターボーイズ」と「リンダリンダリンダ」との大きな違いは、テレビとのかかわり方にあるような気がする。
それは映画の画面がテレビっぽい/映画っぽいという問題ではなくて(それももちろんあるけど)、もっと単純に、「ウォーターボーイズ」のラストでお客さんがたくさん入ってボーイズたちを応援するのは、海で練習中のボーイズたちがテレビのニュース番組で紹介されたからだったのに対し、「リンダリンダリンダ」のラストでお客さんがたくさん入っているのはどしゃ降りの雨でみんな体育館に避難してきていたからだったということだし、「ウォーターボーイズ」ではお客さんたちがボーイズたちをわざわざチケットまで買って見に来て盛り上がったのに対し、「リンダリンダリンダ」ではむしろ最後のバンドの前につなぎで登場した女の子の歌唱力に引きつけられていたお客さんたちがその流れで四人をみて、その四人がたまたま演奏したブルーハーツをみんな聴いたことがあり、みんなブルーハーツを好きだと思っていたために盛り上がったということで、ボーイズたちがテレビを通じてテレビタレントみたいになったのに対して、四人の女の子たちは女の子たちのままだったところがなによりも素敵だと思った。

留学生のソンも、もともと留学生だからという理由で学校のみんなから知られていて人気者だったということもなく、むしろ同じバスに乗り合わせても気づかれないくらいの存在だったし、そのソンがブルーハーツの歌を、おそらくあまり意味はわからないまま音として覚えて歌ったものに対してお客さんたちが盛り上がるところがすごくいい。だから四人がオリジナルの曲を演奏していたらこの映画はこんなにめちゃんこ良くはならなかったはずだと思う。ブルーハーツがこの映画において果たしていた役割は、青春といえばブルーハーツ、だからはずせない!というものではなく、むしろみんな自分から熱心に聴くことはなくても知り合いの誰かが聴いているのをなんとなく一緒にいて聴いていたために知っていて、特別な思いいれがなかったとしても嫌いということもない程度で聴けばなんとなく盛り上がることができるという、そんなバンドの曲を四人が成り行きで演奏することになれば、(「ウォーターボーイズ」とは違い)お客さんたちが四人をタレントのように扱うのではなく、ただ知っている曲が演奏されたので盛り上がり、四人はタレント化することなく、普通の人のままライブをするというラストになる、その〈みんな知っている曲〉にふさわしいのがブルーハーツだったんだろうと思う。

テレビとのかかわり方ということを考えさせられたのは、ラストの違いからだけではなく、それよりも四人の自宅がものすごく生活感にあふれていたからで、「リアリズムの宿」を観た時も、旅の途中で転がり込んだ家でテレビゲームをするところなんかがものすごく生活感があるというか、こういう部屋実際にあるよなと思わされたんだけど、実際にありそうな、生活感あふれる部屋を映し出すのはかなりむつかしいことのように思えて、だから山下先生はすごいと思う。普段テレビドラマや映画などで部屋が映ると、たいていはきれいに片付けられていたり、生活感があると言ってもそれはテレビドラマや映画において生活感がある部屋はこの程度、といったもので、それを観ながら実際に自分が生活している部屋のことは置いておいて、これは生活感のある部屋を映しているんだなと思うようになっているんだけど、「リンダリンダリンダ」で出てくる部屋は本当に自分が生活している部屋が映されたみたいで、普段見慣れている風景のはずなのに、すごく驚かされる。
そして驚きながら、普段自分の生活している部屋に視線をおくりながらもそれを見ずに、テレビドラマや映画において生活感がある部屋はこの程度、とされるような環境に頭の中ですり替えて暮らしているかもしれないことに気づかされ、テレビを通じてしか自分の周りのものを見られない不自由さについても考えさせられる。この不自由な現状をそのまま映画にしたのが「ウォーターボーイズ」で、それに対してそんな状況を変化させたいというロマンティックな映画が「リンダリンダリンダ」だったんじゃないかという感想を持った、そんな感想を持ったのはたぶんいま小説でそんなようなことについて書こうとしているからだと思うんだけど……それに、不自由とか言いながら、こんな素敵な高校生活を送らなかった自分もこうして素晴らしい映画を観て実体験と映画とを積極的に混同して自分の素敵な経験としてカウントし、最終的に俺の人生、豊かな人生だったなと思えるようにしようかなと思ったりもするのでなかなかむつかしい問題だと思う。


あと、「森島の学習」を書かなかった間にみた、「ライフアクアティック」や「宇宙戦争」などのめちゃんこ良い映画については書かなかっただけあってあんまり考えられていないので、DVDが出たらいろいろ学習したい。