『オッペンハイマー』

 人によってさまざまな解釈ができる作品だと思いますが、自分は政治に興味を持ち、政治的手腕も持っていたが、本職の政治家にはなれなかった科学者の話という側面が印象に残りました。

 オッペンハイマーは、原子爆弾という世界を変える兵器をつくってしまったことで政治の世界に引き入れられ、そして追放された人物だと言えます。

 

 本作は、オッペンハイマーが戦後に共産主義との関係を疑われて公職追放されるときの査問会と、オッペンハイマーアメリ原子力委員会の委員長に引っ張ってきたストローズが商務長官に任命される際の公聴会の様子を中心に展開していきます。

 査問会の様子からオッペンハイマーの半生が語られていくわけですが、若き日のオッペンハイマー共産主義に興味を持ち、大学では組合の結成に動くなど、かなり政治的な人間です。

 

 原爆の製造においても、オッペンハイマーは天才的なひらめきで活路を開いた人間ではなく、多くの科学者を集め、彼らが研究に没頭できる環境をつくったマネージャーとして描かれています。

 科学者チームを率いて軍との折衝も重ね、科学者間の意見の違いもそれなりに上手く処理しており、政治的能力を持った科学者でした。

 一方で、妻子がいるにも関わらず、共産党員だったかつての恋人をホテルで密会するなど脇の甘い人間でした。

 

 ところが、このオッペンハイマーも、本職のトルーマンの前では歯牙にもかけられない。

 広島や長崎への原爆の投下について良心の呵責を感じているオッペンハイマーに対して、トルーマンが投下を決めたのは自分で君が責任を感じるのは筋違いみたいなことを言ったシーンが一番印象に残りました。

 「天才」ともてはやされた男でも、政治の世界ではトルーマンの「凄み」に圧倒されるわけです。

 

 原爆の威力を実際に目の当たりにしたオッペンハイマーは、世界を守るためにさらなる核の開発(水爆の開発)をやめさせようとあれこれと手を尽くすわけですが、そうした政治的な活動は自らの首を締めることになります。

 科学者として、あるいは科学者を率いるマネージャーとして有能であったオッペンハイマーでしたが、実際に政治を動かすような能力はありませんでしたし、政治の世界で生き残るにはナイーブでした。

 

 他にもいろいろ書きたいことはありますが、この題材で3時間という長丁場を見せるクリストファー・ノーランの効果音を含めた音作りの上手さを感じましたね。映画を引っ張るときに使われるスリルとか暴力の代わりに音が非常にうまく使われていると思います。

 

岩谷將『盧溝橋事件から日中戦争へ』

 本書の「あとがき」を読むと、この本を書き上げるまでの著者の経験が普通ではなかったことがわかります。

 著者は2019年に中国で2ヶ月以上も拘束され、その後解放されました。そのため普通は恩師や同僚、編集者などが並ぶ謝辞において、安倍晋三元首相や菅義偉前首相、茂木敏充外務大臣といった名前が並んでいます。

 「軽井沢の別荘にて」みたいなことが書かれる最後の部分には、「競売にかけられるかもしれなかったまだローンの残る札幌の自宅にて」とあり、著者が大変な状況を切り抜けていたことがわかります。

 

 では、なぜ中国当局は著者を拘束したのでしょうか?

 その理由については本書に書かれているわけではありませんし、ひょっとしたら著者が防衛省防衛研究所教官を勤めていたことなどが影響したのかもしれませんが、本書の内容も現在の中国政府からするとやや都合の悪いものだったのかもしれません。

 

 本書は、日中のさまざまな史料をもとに、盧溝橋事件から近衛声明までの日中戦争が全面化するまでの流れを追っているのですが、本書から見えてくるのは中国側が日本の侵略に対して常に受け身であったわけではないということです。

 近年、上海事変における蔣介石の「自信」といったものは各所で指摘されてきましたが、本書ではそういった蔣介石の積極性が史料で裏付けられています。

 

 これが現在の中国政府にとってどれほど都合の悪いことなのかはわかりませんが、本書の第2章の注(110)では、公刊された史料では削除されている部分があることが指摘されており、やはり公的な史観からは外れるものなのでしょう。

 

 目次は以下の通りで、非常にシンプルな目次になっています。

 

はじめに

第1章 北平

第2章 上海

第3章 南京

おわりに

 

 第1章の北平では、1937年7月7日の夜に起きた発砲事件が、いかに日中両軍の衝突にまで拡大したかが史料をもとに再構成されています。

 ここの部分は非常に詳細で、詳しくは本書をお読みください。

 

 この第1章を読んでいくと、盧溝橋事件では日本軍と中国軍という2つの主体が衝突したというよりは、内部統制を欠いた2つのグループが次第に大きな戦闘に引き込まれていった印象を受けます。

 特に中国側は、蔣介石の他にも、現地軍の指揮官の宋哲元がいて、さらにその宋も配慮せざるを得ない排日世論があり、その排日の風潮に影響された兵士たちがいて、まったく一枚岩ではありません。

 

 一方、日本側も現地軍と軍の中央、さらには軍中央内部にもズレがあり、一枚岩ではない中国側の行動に一々反応してしまう形になっています。

 なにか明確な目的をもってイニシアティブを取ろうというのではなく、後手を踏みたくないという消極的な理由で戦闘が拡大していく様子が浮かび上がってきます。

 

 日中双方とも現地の情勢が落ち着いてくると、中央が相手側の攻勢を警戒してさらなる備えを準備していく感じで、後手を踏まないための警戒や決意が日中双方を泥沼に引き込んでいきます。

 また、蔣介石の宋哲元に対する不信も、結果的には戦争がエスカレートしていく要因になっています。

 

 第2章の上海になると、蔣介石のより積極的な姿勢が出てきます。

 日中の衝突に対してはイギリスなどが仲介する姿勢を示しますが、蔣介石は積極的な応戦をせざるを得ないと考えるようになっていきます。

 一方の日本は石原莞爾参謀本部作戦部長が対ソ戦を見据えて消極的であり、中国側に交渉を打診しますが、中国側は日本側の意思の統一が不十分であることを認識しており、蔣介石は日記に「倭の軍権はすべて前線の少壮軍人の手にあり、政府はそれを制止することができず、戦いなくてどうしようもない」(138p)と書いていました。

 

 7月末になると、蔣介石は上海でも先端が開かれることを予期し、むしろここで積極的な抗戦に出ることを考えます。華北の軍隊は中央の統制下にはない地方軍が主力でしたが、上海から南京にかけては中央軍が主力であり、陣地の構築なども進んでいました。

 日本側は上海では海軍の艦艇や陸戦隊が主体となっていましたが、しだいに政府中央も外交では難しいという認識になっていきます。

 8月13日に蔣介石は各国大使を招いていますが、これは外交交渉というよりは、中国は戦闘を望んでなく、戦闘が起こればそれは日本の責任であることを各国に伝えるためのものでした。

 

 この日、上海で小競り合いが始まりました。どちらが仕掛けたものかは不明ですが、張発奎が「我々はいわゆる『八一三事変』を始めた。我々が先に日本を攻撃したのであり、その逆ではない。〜我々はすでに抵抗すると決めた以上、我々の軍隊が上海においてイニシアチブを取らなければならないと考えた」(158p)と語っているように、このとき蔣介石は自らのイニシアチブで日本と戦うことを決意していました。

 蔣介石は北から南下する日本軍をどこかで迎え撃つのではなく、自分にとって有利な上海付近での速戦即決による勝利によって、日本と有利な条件で講話することを考えていたのです。

 さらに、上海付近には妻の宋美齢が中心となって整備した空軍もあり、それも蔣介石に自信をもたせました。

 

 ところが、速戦即決とはなりませんでした。中国側は上海周辺に精鋭の部隊が集結していましたが、当初投入された部隊の数やその連携は十分ではなく、海軍航空隊と艦船からの支援を受けた日本の海軍陸戦隊が持ちこたえます。そして、8月23日には陸軍の増援隊が到着します。

 

 ドイツ人の軍事顧問であったファルケンハウゼンが指摘したように、中国側は砲兵の適切な使い方ができておらず、また、期待された航空兵力もうまく活用できませんでした。

 同じくドイツ人の軍事顧問団の一人であったネヴィガーは「「中国軍の兵士はよくやっているが、いかんせん指揮官たちがお粗末すぎ」ると指摘し、また、「蔣介石の過ちはこれらの将官をすぐに処刑しなかったことだ」と述べて」(164p)います。

 

 一方、中国の防御陣地に対して、日本も小兵力の逐次投入によって苦戦しており、10月半ばまで戦況は膠着することになります。

 それでも陣地の縦深を欠き、他部隊との連携も不十分な中国側はしだいに犠牲を増やしていくになり、戦況は日本に傾いていきます。

 

 日本側では、相変わらず石原は消極的で、「上海が危険なら居留民を全部引揚げよ。損害は一億でも二億でも保障したらよい。戦争するより安価だ」(169p)という考えでしたが、政府では膺懲を強く押し出すことになり、派兵が進みます。

 結局、上海への3個師団の増派を受けて石原は辞任することになり、9月27日に関東軍参謀副長へと転出します。

 日本軍は主戦場を華中に転換することになり、第10軍が派遣されます。そして、南京攻略を探っていくことになるのです。

 

 第3章の南京では、和平交渉について詳しく書かれています。

 日本は駐華ドイツ大使のトラウトマンを仲介に和平交渉を進めようとします。ご存知のようにこの和平交渉は失敗しますが、本書を読むと、その理由として日中の条件の相違とともに、蔣介石の日本の履行能力への不信も見えてきます。

 蔣介石は、たとえ日本政府と合意に達したとしても、少壮派の軍人の侵略の意図は止まらないと見てましたし、満州国を承認したとしてもそこで日本の侵略は止まらないだろうと見ていたのです。

 そして、「中倭問題の解決は、ただ国際的な注意と各国を引き起こしてのみ可能である」(200p)と、犠牲を払ってでも国際的な干渉を得ることが必要だと考えていました。

 

 蔣介石は、九カ国条約会議、あるいはソ連の参戦を期待していましたが、そうした期待は空振りに終わり、その間にも戦局は不利になっていきます。

 当初はトラウトマンの仲介に否定的だった蔣介石でしたが、1937年12月になると、和平交渉を再検討することになります。戦局は不利になっていましたし、一時的な停戦だけでも中国にとっては有利になるという判断に傾いたのです、

 

 しかし、今まで和平交渉に前向きだった日本側が12月13日に南京を陥落させてしまいます。

 日本では「戦勝」ムードが高まり、蔣介石政権否認論が台頭します。12月8日の会議で一致した陸軍の見解は次のようなものでした。

 蔣は反省の色見えざらむものと認む、将来反省して来れば兎も角現在の様な態度にては応じられず。併し独逸大使迄には新情勢に応ずる態度条件を一応渡して置く必要あり。(213p)

 

 和平交渉に期待を抱いていた参謀本部の考えもあって交渉は続けられますが、和平の条件はさらに釣り上げられます。日本側の条件を見たトラウトマンは「気分が悪くなった」(219p)とのことですが、実際、中国の将来を日本に委ねるような内容になっていました。

 トラウトマンは後に、「日本が条件の変更を言い出した時に、ノイラートがすぐに仲介を拒否していれば、すべてはうまくいったであろうし、我々は道義に反する仕事に手を染めなくてもよかったのだ」(225p)と述べています。

 

 中国側にも和平に期待する声はありましたが、結局は足並みが揃わずに回答は先延ばしとなり、日本でも参謀本部と政府の間の意思疎通がうまくいかずに、政府内では議会が開かれる前に結論を出そうということになります。議会側の強硬姿勢に対応するためという内向きな理由で交渉の打ち切りへと動いていったのです。

 そして、1938年1月16日に「爾後国民政府を対手とせず」という近衛声明が出され、日中の衝突は長期戦になっていくのです。

 

 本書を読むと、偶発的な衝突を全面戦争に至らせた要因として、日中双方が機会主義的に動き、しかもその機会を見定めるべき主体が日中双方とも一枚岩ではなかったことが浮かび上がってきます。

 もちろん、国民からの圧力などにさらされていた蔣介石に比べると、日本側の迷走は統治機構の不全によるものであり、よりどうしようないとも言えますが、お互いに機会主義的に積極策に出ることはできるが、引くことを決断することはできないという形で、これによって戦争のエスカレートを防ぐチャンスがことごとくふいになっています。

 

 第1章の北平の部分はかなり細かい事象を追っていて、読むのにやや骨が折れるかもしれませんが、今後、日中戦争を考えていくうえでは欠かせない本でしょうし、著者の徹底した調査に圧倒される本ですね。

 

 

 

boygenius / the record

 アルバム「Punisher」が素晴らしかったPhoebe Bridgers、「なかなか次が出ないなー」などと思っていたら、知らぬ間にboygeniusというバンドを作ってアルバムを出していた。音楽雑誌とかを読まなくなると、このあたりが抜けますね。

 

 そして、このアルバムも素晴らしい。去年聴いていたら間違いなく去年のベスト3には入りましたね。

 Phoebe Bridgersとさらに2人の女性、Julien Baker、Lucy Dacusによるバンドなのですが、メロディもいいし、それぞれの声もいい。

 

 3曲目の”Emily I'm Sorry”はいかにもPhoebe Bridgersっぽい曲で、4曲目の”True Blue”はゆったりとした中に力強さも感じられるハーモニーが楽しめる曲、5曲目の”Cool About It”は最低限の伴奏に歌声が映える曲で、非常に良い流れで進んでいきます。

 この流れを踏まえたうえで6曲目の”Not Strong Enough”はシングルっぽい派手さのある曲。後半の大サビ的な部分からも盛り上がりは文句なしにいいですね。

 

 後半もそれぞれ特徴があって聴かせる曲ですが、このアルバムは前半の流れが特に良いですね。

 それでも、ラスト前の”Anti-Curse”でもう1回盛り上がります。”Not Strong Enough”ほどではないですが、ここで1度盛り上げておいて、ラストの”Letter To An Old Poet”はきれいなだけかと思いきや力強さもある曲。

 アルバムの最後もいい感じで締めていると思います。

 


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the record

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柴崎友香『百年と一日』

 解説で深緑野分も書いてますけど、なかなか魅力を伝えることが難しい本。

 ジャンルとしては短編小説になりますが、10ページにも満たない作品がほとんどで、3ページほどのものもあります。

 この長さだといわゆるショート・ショート的なものを想像しますが、星新一のショート・ショートや、あるいは最近中高生に人気の「5分後」シリーズに比べると、最大の特徴はオチがないことです。

 

 冒頭の作品は「一年一組一番と二組二番は、長雨の夏に渡り廊下のそばの植え込みできのこを発見し、卒業して2年後に再会したあと、十年経って、二十年経って、まだ会えていない話」と題されていますが、基本的にはこのタイトル通りのことが起こります。

 もちろん単純に会えないだけではなく、そこには不思議なめぐり合わせもあるのですが、するすると時間が流れていきます。

 

 この「時間の流れ」というのは本書の大きな特徴で、とにかく時間が流れます。

 大河ドラマの「真田丸」で関ヶ原の戦いがナレーションのみで終わって話題になったことがありましたが、本書もナレーションならぬ書かれた文章によってどんどん月日が過ぎていきます。

 10ページ足らずのうちに、タイトルにもあるような百年近くの月日が過ぎてしまうような作品もあるのです。

 

 個人的に本書を読んで思い出したのは『今昔物語』です。

 大学入試の古典ではいろいろな文章が出るのですが、『今昔物語』が苦手で、その対策のために福永武彦訳のちくま文庫の『今昔物語』を読みました。

 『今昔物語』が苦手だったのは、パターンがないからで、これが『枕草子』であれば定子や伊周が出ればそれは素晴らしいに決まってますし、『徒然草』でも兼好法師の趣味みたいなものから、多少わからない部分があっても何とかなるのですが。

 古今東西の雑多な説話を集めていて、しかも特にオチのない話も多かった『今昔物語』は想像で補えないことが多かったのです。

 

 『今昔物語』でも、オチもなく「不思議だ」というだけで終わる話があるのですが、この『百年と一日』でもそういう話があります。

 「水島は交通事故に遭い、しばらく入院していたが後遺症もなく、事故の記憶も薄れかけてきた七年後に出張先の東京で、事故を起こした車を運転していた横田を見かけた」は、タイトルの通りに主人公の水島がしばらくたったあとに事故にあった車を運転していた横田と時を経て出会う話なのですが、2回不思議な出会い方をします。

 ちょっとホラー味もある話で、このあたりは村上春樹の『東京奇譚集』あたりを思い出しましたね。

 

 ただ、こういった不思議さがこの作品の売りではなく、やはり、作品内での時間の経過がもたらす感覚だと思います。

 時間の経過がもたらすものというと「無常観」が思い浮かびますが、この作品が描こうとしているのはそういったものではなく、時間が経っても残る痕跡だったり、記憶というよりは何らかの引っ掛かりのようなもののような気がします。

 普通の小説とはちょっと違った読後感が得られると思います。

 

 

 

渡辺浩『日本思想史と現在』

 今まで著作の評判を聞いてきて、これはいつか読まねばと思いつつ読んでいなかった渡辺浩の小文集が筑摩選書という手に取りやすい形で出たので読んできました。

 非常に鋭い切り口がいくつもあり面白く読める本ですが、核心的な部分に関しては「続きは別の本で…」といったところもあり、やはり、主著である『日本政治思想史 十七〜十九世紀』、『明治革命・性・文明』といった本を読まねば、と思いました。

 そういった意味では、渡辺浩の「入門書」というよりは「導入の書」みたいな位置づけになるのかと思います。

 

 目次は以下の通り。

 

1 その通念に異議を唱える
2 日本思想史で考える
3 面白い本をお勧めする
4 思想史を楽しむ
5 丸山眞男を紹介する
6 挨拶と宣伝

 

 冒頭には福沢諭吉の『学問のすゝめ』についての文章が置かれています。

 私たちは、江戸時代は身分制の社会であり、それを支えたのが儒教で、そうした儒教に支えられた身分制を否定したものとして『学問のすゝめ』の「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず」というフレーズを解釈してしまいがちですが、著者に言わせれば、「人に貴賤はなく、学問で決まる」というのは儒教によく見られる考えです。

 つまり、福沢の主張は当時の常識から乖離するようなものではなかったですし、明治維新は一面では儒教の理想の実現だったのです。

 

 つづく「「可愛い女」の起源」では、「女性は可愛くなくては」という現代の問題がとり上げられていて非常に興味深いのですけど、「おそらく歴史的な説明も可能である」としながら、それは著書の『明治革命・性・文明』で、という生殺し。この上のない自著の宣伝になっています。

 

 第2部の「家業道徳と会社人間」では、江戸時代の町人においては立身出世が重要視され、一種の道徳的責務になっていたことが指摘されたうえで、その競争が家と家の競争であったことを指摘しています。

 この家業道徳には資本主義と親和的な部分がありますが、近代化は家制度を解体してもいきます。「そして代わりに、種々の擬制的な家が、装いを凝らして出現した」(87p)というわけです。

 

 第3部の「トクヴィル氏、「アジア」へ」では、トクヴィルアメリカのデモクラシー』(岩波文庫)、宇野重規トクヴィル 平等と不平等の理論家』(講談社)、張翔・園田英弘編『「封建」「郡県」再考 東アジア社会体制論の深層』(思文閣出版)の3冊を紹介しながら、「中国にデモクラシーはあったのか?」という問題を問うています。

 

 トクヴィルはデモクラシーの理解のポイントは「平等」でしたが、宇野重規は人間を本来平等だと信じる想像力の変容があったと指摘しています。

 こうした「変容」であれば宋代以降の中国にもあったのではないか? と著者は言います。科挙によって優れた個人が選抜される制度は「平等」であり、しかも相続が均等分割であったために土地は細分化され、地域における名家の支配などもなくなりました。

 

 こうしたことを指摘したうえで、著者はトクヴィルの次の言葉を引用しています。

 すでに一人の人間の力によって行政の集権が確立し、法律同様、習慣にもそれが根づいているような国に、万一にも、合衆国のような民主的共和政が樹立されることがあれば、私は、そのような共和国では専制がヨーロッパのいかなる絶対王政よりも耐えがたいものとなるであろうと言って憚らない。これに似たものを見出すにはアジアに赴かねばなるまい。(147p)

 そのうえで、著者はトクヴィルの射程はずっと以前から「アジア」にも届いていたと述べています。

 

 第4部では、「マックス・ヴェーバーに関する3つの疑問」が興味深いですね。

 今野元『マックス・ヴェーバー』(岩波新書)と野口雅弘『マックス・ウェーバー』(中公新書)という2020年に出た2冊の新書についての日本政治学会の分科会での発表が元になっていますが、西洋で生み出された概念をもとに、中国や他地域との比較を行っていいのか? という問題や、「闘争」を重視するヴェーバーの民主主義観などを問題にしたうえで、「おそらくヴェーバーの政治観と政治家観は、当人の自己理解に反して、実は根本において反議会政治的であり、つまりは反民主主義的である」(239p)と指摘しています。

 

 第4部の丸山眞男についての部分は、丸山と著者の双方に詳しい人からするといろいろと感じるところがあるかもしれませんけど、やはりもうちょっとまとまったものを読みたいなという感じです。

 第5部は短い文章中心ですが、韓国で行われた講演を元にした「李退渓と「普遍性」」は韓国の紙幣にもなった朱子学者についてのもので興味深いです。

 

 最初にも述べたように、本書を読めば著者の考えがわかるという感じではなく、著者の主著を読まねばという気持ちになるので、読み終わってすっきりする本ではありませんが、著者の論じている問題の興味深さは十分に分かる本です。

 

 

 

『デューン 砂の惑星PART2』

 映像、音ともに隙のない映画。さすがドゥニ・ビルヌーブという感じですね。

 前作に引き続き、砂の惑星やサンドワームの描き方はいいですし、ハルコネン家の兵士たちが崖の上へと浮き上がるように移動する動きとか、ハルコネン家のファシズム的な祭典のときに打ち上がる花火的なものとか、「おおっ!」となる映像がいろいろあります。

 

 ストーリーとしては、けっこう前作の内容を忘れてしまっているところもあり、ベネ・ゲゼリットの設定とか忘れていた部分もありましたけど、見ていくうちにだんだんと思い出していくので、特に前作を復習してからじゃないというものでもないでしょう。

 

 基本的には、救世主に祭り上げられようとする主人公が、あえて救世主を演じて敵を打ち破るという話ですが、ティモシー・シャラメがやるので説得力がでますね。「ひょっとしてこいつは?」と思わせるような魅力がある。 

 『レディ・バード』で見たときから、特別な存在感があると思っていましたが、今回の役もぴったりですね。

 

 主人公が自然と共生している人々の間に入り込んで仲間として認められてともに戦うというストーリーは、『アバター』とも同じですが、主人公や周囲の登場人物はより陰影に富んでいて魅力的です。

 

 最後の襲撃シーンに関しては、「相手に打ち込んだミサイルは核なのか?それならそこに突っ込んでいくのは核を甘く見過ぎでは?」とは思いましたが、ドゥニ・ビルヌーブの構築した異世界に没入できる映画ですね。

 

川上未映子『ヘヴン』

 初めて読む川上未映子作品。

 いじめを受けている14歳の主人公は、ある日、〈わたしたちは仲間です〉との手紙をもらいます。

 すぐにそれは同じクラスでいじめを受けている女子のコジマからのものだということがわかります。いじめを受けている二人は手紙をやり取りしたり、会ったりするような関係になっていきます。だんだんとこの関係が主人公にとっても支えになっていくわけです。

 

 というわけで、「虐げられた者の連帯」という形で始まるこの小説ですが、徐々にそのフォーマットからは逸脱していきます。

 まずはコジマです。コジマは「私たちのほうがいじめている奴らより正しい」という信念をもつ人間なのですが、その信念は次第に「傷こそがアイデンティティ」であるという形に高まっていきます。

 主人公は斜視なのですが、斜視こそが君のアイデンティティだというわけです。

 

 もう1つ、いじめグループにいて傍観者的な態度を取っている百瀬という人物がいて、途中で彼の哲学が語られるシーンがあります。

 百瀬によれば、世の中はたまたまそうなっているだけで、そこでポイントになるのは善悪ではなく、「できるか/できないか」だと。主人公がいじめられるのは、たまたまであると同時に、いじめっ子を殺せないからです。

 

 このようにコジマも百瀬も中学生とは思えないような思考の突き詰め方と言葉の使い方をしており、このあたりは自然ではないです。

 また、読み終わってみると、主人公がさんざん「コジマ」と話しかけながら、コジマは一度も主人公の名前を呼ばない、つまり主人公の名前が明かされないというのも変と言えば変です。

 あと、百瀬といっしょにいた女子生徒とか百瀬が病院にいた理由とかはよくわからないままです。

 

 というわけで振り返ってみると少しいびつなところもある小説なのですが、読ませる面白さはある。

 そしてラストも、すっきりと解決したわけではないですが、今まで世界にしっかりと存在できていなかった主人公が存在できるようになったという感じで、確かに1つの達成にはなっている(小説の中で主人公の名前が明かされないのは、世界に存在していなかったということの表れなのかな?)。

 いじめ描写の痛々しさはあるのでダメな人はダメかも知れませんが、読ませる力のある小説です。