手嶋泰伸『統帥権の独立』

 明治憲法のはらんだ大きな問題点であり、日本を戦争の道へと導いたとされる「統帥権の独立」の問題。

 タイトル通りに本書はこの問題を扱っているのですが、特徴は今まで注目されてきた陸軍の動きだけではなく海軍の動きも追っているところで、そこから「専門家集団としての軍」と政治の関係を描き出しています。

 この問題について一通りの知識を持っている人にとってもいろいろな発見がある本で、なかなか面白いのではないかと思います。

 

 目次は以下の通り。

第1章 統帥権独立の確立へ―一八七〇~九〇年代
第2章 政党政治の拡大のなかで―一九〇〇~二〇年代
第3部 軍部の政治的台頭―一九三〇年代
第4章 日中戦争の泥沼―一九三七~四〇年
第5章 アジア・太平洋戦争下の混乱―一九四一~四五年

 

 明治になって近代的な軍の建設が始まったときに問題となったのが、出身藩への帰属意識と政治と軍事の未分化です。

 1873年には徴兵令によって徴兵が始まりますが、74年の佐賀の乱では大久保利通が士族兵を徴募して鎮圧にあたるなど、軍のあり方は政治によって大きく左右されていました。

 

 こうした中で山縣有朋は非政治的な軍の建設を1つの目標とします。軍人勅諭でも軍人の政治への関与を戒めました。

 この山県がつくったのが参謀本部ですが、その背景には西南戦争時に山県率いる本隊の他に黒田清隆率いる別働隊が組織され、軍事指導が混乱したという経験がありました。

 こうした経験と、自由民権運動の高まりによって民権政治家が軍の指揮に入り込んでくるのではないかという警戒感から1878年参謀本部条例が公布され、天皇直隷の機関として位置づけられます。

 

 ただし、当初は参議兼陸軍卿の大山巌参謀本部長を兼任したり、参議兼内務卿の山県有朋が兼任したりと、参謀本部の設立がそのまま統帥権の独立につながったわけではありませんでした。

 

 1889年に大日本帝国憲法が発布されます。第11条「天皇は陸海軍を統帥す」で統帥権を、第12条「天皇は陸海軍の編成及常備兵額を定む」で編成権を規定したと言われてます。

 ただし、ここで統帥権が明文化されたとは当時は捉えられておらず、陸軍も統帥権の独立は慣行だと考えていました。

 

 一方、海軍では1893年に軍令部が独立するまで海軍省が軍政・軍令を一元的に管理していました。

 軍令部の設立には、参謀本部が陸海軍の統合運用を目指して海軍の軍令機能も掌握しようとしたからです。これに反発した海軍は海軍軍令部を独立させ、ここに天皇のもとで参謀本部と海軍軍令部が並立する体制が出来上がります。

 著者は1903年に海軍軍令部が参謀本部と対等な地位を獲得したことをもって、統帥権の独立が完成したと見ています。

 

 統帥権の独立を支えていたのが「軍事の特殊専門意識」になります。軍事については軍人にしか担えないというもので軍部大臣現役武官制もこの理屈になります。 

 この制度が導入されたのは第2次山県内閣のときで、軍部大臣の資格を「将官」だけでなく「現役」に限っています。これは反山県派の四将軍(三浦梧楼、曾我祐準、谷干城、鳥尾小弥太)を大臣にさせないための措置でもありました。

 

 この軍部大臣現役武官制が第2次西園寺内閣の退陣につながるわけですが、山県と陸軍大臣だった上原勇作の意思疎通はできておらず、山県としては不本意な倒閣でした。

 しかし、この出来事を機に軍部大臣現役武官制の問題点が認識されるようになり、第1次山本権兵衛内閣のもとで軍部大臣の任用範囲は予備役・後備役にも拡大されました。

 山本は予備役・後備役への拡大は認めたものの文官の任用には否定的で、山本も当時の陸軍も「軍事の特殊専門意識」はもっていました。

 

 日露戦争後の1907年に帝国国防方針が策定されます。日露戦争後の防衛戦略の修正や陸海軍の予算編成を巡る対立が激化する中で陸海軍の戦略を一致させる必要などがあったことから、参謀本部第一部長の田中義一が中心的な役割を果たしてまとめられました。

 

 しかし、これらの計画は「統帥」に属することであり、当時の首相の西園寺公望にさえ用兵綱領の閲覧は許されませんでした。

 このため、それを実現する予算を獲得するときにも、その根拠たる国防方針を秘匿したまま予算を要求することになります。それもあって陸軍の2個師団の増設には約8年、海軍の八八艦隊の予算が認められには約13年の時間がかかりました。

 軍部もある程度手の内を明かしながら予算を要求することになっていきます。

 

 こうした中で田中義一は政党と協調しながら軍の要求を通そうとしますが、同時に参謀総長の権限を弱め、陸相の権力を強化することも画策していました。

 参謀本部陸軍省の下に置こうという考えは参謀総長の上原勇作に拒否されますが、清浦奎吾内閣における陸相人事では、上原が長老級の軍人が後任を決めるべきだとしたのに対して、田中は三長官(陸相参謀総長教育総監)による合議による決定を主張し、この方式を確立します。

 

 一方、原内閣のもとでは軍部大臣文官制の議論が高まります。

 ワシントン会議に全権として海相加藤友三郎が派遣されますが、出張中に誰が事務を執るのかということが問題になります。このとき、原は自らが海相を兼任して事務を管理することとしました。

 臨時の兼任とはいえ文官が軍の事務を見ることになったわけですが、海相加藤友三郎はこれを問題にせず、陸軍内の反対も田中義一の周旋で収まりました。

 加藤友三郎海軍軍縮条約締結の際の軍令部長加藤寛治の反対にも悩まされており、こうしたこともあって軍部大臣文官制を模索していきます。

 加藤友三郎は首相にも就任しますが、加藤内閣で海相に就いた財部彪は文官大臣に強く反対しており、加藤の死去後はむしろ文官大臣を許さない風潮が強まります。

 

 1930年、ロンドン海軍軍縮会議のときに持ち上がったのが統帥権干犯問題です。

 このときに全権の一人となったのが海相の財部彪で(海相事務管理浜口雄幸首相)、文官大臣反対論者でしたが、ロンドン会議では首席全権を文官にすることにこだわりました。もし、自らが全権となって会議を決裂させてしまえば海軍が全責任を負うことになるからです。

 ここからも財部の文官大臣反対は海軍内の求心力を保ち、海軍の発言力を強めるためのものだったことが見えてきます。

 

 海軍では加藤寛治軍令部長や末次信正軍令部次長などが条約の批准に反対しましたが、政府が批准するのであれば、それは致し方なく国防方針を変更せざるを得ないというスタンスでした。

 こうした中で美濃部達吉は「軍の編成を定むることについての輔弼の機能は、専ら内閣に属する」(107p)と主張し、内閣の思惑を超えて軍を刺激しました。当時、兵力の編成については政府と軍の「共同輔弼」とすることで落ち着いていましたが、美濃部の考えはそれを踏み越えるものだったからです。

 

 ここで政友会の鳩山一郎が「統帥権干犯」を議会で問題視したことで盛り上がり、さらに陸軍もこの批判に加わりますが、海軍は鳩山に賛同しませんでした。

 しかし、幣原外相が貴族院本会議で「少なくとも其協定期間内に於きましては。、国防の安固は十分に保障せられて居るものと信じます」(108p)と発言すると、これを国防の可否に踏み込んだものとして批判します。海軍は志手原の発言を「軍事の専門性」に対する挑戦と捉えたのです。

 

 1931年、いわゆる満州事変が勃発します。この満州事変は政府が抑えようとしたにもかかわらず軍が暴走したということで、統帥権の独立の弊害が出たものとして捉えられています。
 ただし、著者はここでの問題は陸軍内部の統制の問題であって統帥権の独立ではないといいます。

 

 陸軍では長州閥に代わって陸軍内を掌握した宇垣グループに対して、中堅幕僚将校らが荒木貞夫、真崎甚三郎といった将軍を押し立てて主導権を取ろうとして派閥対立が激化していきます。

 さらに満州事変勃発後の1931年12月に荒木貞夫陸相になると、荒木が露骨な皇道派優遇の人事を行ったことで陸軍の要職に軍政経験の浅い者が就くことになります。これが陸軍における陸軍省優位体制を覆していくことになります。

 同時期に参謀総長閑院宮載仁親王が就任したことも参謀本部の権威を高めることとなり、統帥部の独断専行が目立つようになっていきます。

 海軍でも平沼内閣運動と相まって軍令部の権限拡大が目指され、海軍でも海軍省優位体制が動揺しました。

 

 二・二六事件後、広田弘毅内閣のもとで軍部大臣現役武官制が復活します。それとともに後任陸相を推薦する三長官会議が停止され、陸相が三長官会議を経ずに決める方式となりました。

 これは陸軍から「粛軍」のために必要だということで出てきたもので、海軍も陸軍が「必要」だというならという形で軍部大臣現役武官制の復活を受け入れています。

 軍内部の統制の乱れが、結果的に統帥権の独立を強化するような動きが続いたと言えます。

 

 盧溝橋事件から始まった日中戦争のおいても陸軍内の統制の乱れは深刻でした。

 さらに、アメリカの中立法の影響もあって、実質的には「戦争」であっても「支那事変」というように「事変」扱いだったために大本営も設置できず、政府が一枚岩になれないままに戦闘が拡大していきます。

 

 この時期になると「国務」と「統帥」を統合できる元老や政党のような存在も不在になり、統一的な戦略を立てることが難しくなっていきます。

 この問題は陸軍の中堅幕僚にも認識されており、陸軍軍務局軍務課国内班長だった佐藤賢了なども内閣機能の強化を求めていましたが、憲法での大臣が個別に天皇に輔弼の責任を負うという規定があったために、内閣機能の強化は進みませんでした。

 

 1940年、陸軍は軍部大臣現役武官制を使って米内内閣を倒し、第2次近衛内閣の成立へと動きます。その理由の1つが新体制運動で、陸軍は近衛が強力な指導力を発揮して戦時体制の整備を行うことを期待していました。

 しかし、近衛の新体制運動も骨抜きにされ、陸軍が期待するような戦争を主導する主体は生まれませんでした。

 

 第5章ではアジア・太平洋戦争時の出来事が分析されていますが、興味深いのは著者が対米開戦の責任のけっこうな部分を海軍に求めている点です。

 

 1940年7月から戦争指導のために「大本営政府連絡会議」が設置されます。出席者は首相、陸海外相、陸海統帥部長(ただし当時の陸海軍の統帥部長は皇族だったため、次長が代理や随行で出席)でした。

 ただし、形式的なものにならざるを得なかったので、40年11月には「大本営政府連絡懇談会」が設置されます。

  

 1941年11月、日本はアメリカからハル・ノートを示されたことで対米開戦を決意します。外交を担当する外務省はここで対米交渉をあきらめるわけですが、それはこの時点で海軍が対米戦を決意していたからです。

 このとき、海軍は国力全体の問題は海軍単独では判断できないと主張し、海軍以外の主体は対米戦の主管者である海軍が判断すべきだと主張していました。

 このようなムードの中で41年10月の大本営政府連絡会議の中で、海軍は対米戦はできないとは言わずに、全体としてできそうなムードな中で開戦の流れが決まっていくのです。

 

 開戦後も戦争の統一的な指導体制の構築は問題となり、東條英機首相兼陸相はさらに参謀総長を兼任することでこの問題を乗り越えようとします。当然、陸軍から反対もでますが、東条は自分は陸軍大将だと言ってこれを押し切ります。

 海軍でも嶋田繁太郎海相軍令部総長を兼任することになり、ここに「統帥権の独立」はあっけなく踏み越えられました。

 一方、東条が参謀総長という統帥の責任者にもなったことで、東条はサイパン陥落という作戦上の責任を負わされることになります。

 

 結局、日本は終戦まで「国務」と「統帥」の対立と、軍内部の統制という2つの問題を抱え続けました。著者は終戦時に二度の聖断が必要だったのは、1度目で「国務」と「統帥」の対立の中で「国務」に軍配を上げつつ、さらに軍内部の統制に対する手当が必要だったからだとみています。

 

 このように本書を読むと、「統帥権の独立」という言葉で語られている問題が、「国務」と「統帥」を統合する主体の不在と、軍内部の統制の問題という2つの問題に起因していることがわかります。

 大日本帝国憲法の問題点としても「統帥権の独立」が単独であげられることが多いですが、大臣の単独輔弼など、他に条文とあわせた問題点の把握が必要だということも見えてきます。

 

 こうなると、他国における軍部の統制のあり方(日本はなぜあんなにグダグダだったのか?)も気になってきますが、とりあえず、本書は今までとは少し違った視点から「統帥権の独立」について考えさせてくれる本と言えるでしょう。

 

 

 

『オッペンハイマー』

 人によってさまざまな解釈ができる作品だと思いますが、自分は政治に興味を持ち、政治的手腕も持っていたが、本職の政治家にはなれなかった科学者の話という側面が印象に残りました。

 オッペンハイマーは、原子爆弾という世界を変える兵器をつくってしまったことで政治の世界に引き入れられ、そして追放された人物だと言えます。

 

 本作は、オッペンハイマーが戦後に共産主義との関係を疑われて公職追放されるときの査問会と、オッペンハイマーアメリ原子力委員会の委員長に引っ張ってきたストローズが商務長官に任命される際の公聴会の様子を中心に展開していきます。

 査問会の様子からオッペンハイマーの半生が語られていくわけですが、若き日のオッペンハイマー共産主義に興味を持ち、大学では組合の結成に動くなど、かなり政治的な人間です。

 

 原爆の製造においても、オッペンハイマーは天才的なひらめきで活路を開いた人間ではなく、多くの科学者を集め、彼らが研究に没頭できる環境をつくったマネージャーとして描かれています。

 科学者チームを率いて軍との折衝も重ね、科学者間の意見の違いもそれなりに上手く処理しており、政治的能力を持った科学者でした。

 一方で、妻子がいるにも関わらず、共産党員だったかつての恋人をホテルで密会するなど脇の甘い人間でした。

 

 ところが、このオッペンハイマーも、本職のトルーマンの前では歯牙にもかけられない。

 広島や長崎への原爆の投下について良心の呵責を感じているオッペンハイマーに対して、トルーマンが投下を決めたのは自分で君が責任を感じるのは筋違いみたいなことを言ったシーンが一番印象に残りました。

 「天才」ともてはやされた男でも、政治の世界ではトルーマンの「凄み」に圧倒されるわけです。

 

 原爆の威力を実際に目の当たりにしたオッペンハイマーは、世界を守るためにさらなる核の開発(水爆の開発)をやめさせようとあれこれと手を尽くすわけですが、そうした政治的な活動は自らの首を締めることになります。

 科学者として、あるいは科学者を率いるマネージャーとして有能であったオッペンハイマーでしたが、実際に政治を動かすような能力はありませんでしたし、政治の世界で生き残るにはナイーブでした。

 

 他にもいろいろ書きたいことはありますが、この題材で3時間という長丁場を見せるクリストファー・ノーランの効果音を含めた音作りの上手さを感じましたね。映画を引っ張るときに使われるスリルとか暴力の代わりに音が非常にうまく使われていると思います。

 

岩谷將『盧溝橋事件から日中戦争へ』

 本書の「あとがき」を読むと、この本を書き上げるまでの著者の経験が普通ではなかったことがわかります。

 著者は2019年に中国で2ヶ月以上も拘束され、その後解放されました。そのため普通は恩師や同僚、編集者などが並ぶ謝辞において、安倍晋三元首相や菅義偉前首相、茂木敏充外務大臣といった名前が並んでいます。

 「軽井沢の別荘にて」みたいなことが書かれる最後の部分には、「競売にかけられるかもしれなかったまだローンの残る札幌の自宅にて」とあり、著者が大変な状況を切り抜けていたことがわかります。

 

 では、なぜ中国当局は著者を拘束したのでしょうか?

 その理由については本書に書かれているわけではありませんし、ひょっとしたら著者が防衛省防衛研究所教官を勤めていたことなどが影響したのかもしれませんが、本書の内容も現在の中国政府からするとやや都合の悪いものだったのかもしれません。

 

 本書は、日中のさまざまな史料をもとに、盧溝橋事件から近衛声明までの日中戦争が全面化するまでの流れを追っているのですが、本書から見えてくるのは中国側が日本の侵略に対して常に受け身であったわけではないということです。

 近年、上海事変における蔣介石の「自信」といったものは各所で指摘されてきましたが、本書ではそういった蔣介石の積極性が史料で裏付けられています。

 

 これが現在の中国政府にとってどれほど都合の悪いことなのかはわかりませんが、本書の第2章の注(110)では、公刊された史料では削除されている部分があることが指摘されており、やはり公的な史観からは外れるものなのでしょう。

 

 目次は以下の通りで、非常にシンプルな目次になっています。

 

はじめに

第1章 北平

第2章 上海

第3章 南京

おわりに

 

 第1章の北平では、1937年7月7日の夜に起きた発砲事件が、いかに日中両軍の衝突にまで拡大したかが史料をもとに再構成されています。

 ここの部分は非常に詳細で、詳しくは本書をお読みください。

 

 この第1章を読んでいくと、盧溝橋事件では日本軍と中国軍という2つの主体が衝突したというよりは、内部統制を欠いた2つのグループが次第に大きな戦闘に引き込まれていった印象を受けます。

 特に中国側は、蔣介石の他にも、現地軍の指揮官の宋哲元がいて、さらにその宋も配慮せざるを得ない排日世論があり、その排日の風潮に影響された兵士たちがいて、まったく一枚岩ではありません。

 

 一方、日本側も現地軍と軍の中央、さらには軍中央内部にもズレがあり、一枚岩ではない中国側の行動に一々反応してしまう形になっています。

 なにか明確な目的をもってイニシアティブを取ろうというのではなく、後手を踏みたくないという消極的な理由で戦闘が拡大していく様子が浮かび上がってきます。

 

 日中双方とも現地の情勢が落ち着いてくると、中央が相手側の攻勢を警戒してさらなる備えを準備していく感じで、後手を踏まないための警戒や決意が日中双方を泥沼に引き込んでいきます。

 また、蔣介石の宋哲元に対する不信も、結果的には戦争がエスカレートしていく要因になっています。

 

 第2章の上海になると、蔣介石のより積極的な姿勢が出てきます。

 日中の衝突に対してはイギリスなどが仲介する姿勢を示しますが、蔣介石は積極的な応戦をせざるを得ないと考えるようになっていきます。

 一方の日本は石原莞爾参謀本部作戦部長が対ソ戦を見据えて消極的であり、中国側に交渉を打診しますが、中国側は日本側の意思の統一が不十分であることを認識しており、蔣介石は日記に「倭の軍権はすべて前線の少壮軍人の手にあり、政府はそれを制止することができず、戦いなくてどうしようもない」(138p)と書いていました。

 

 7月末になると、蔣介石は上海でも先端が開かれることを予期し、むしろここで積極的な抗戦に出ることを考えます。華北の軍隊は中央の統制下にはない地方軍が主力でしたが、上海から南京にかけては中央軍が主力であり、陣地の構築なども進んでいました。

 日本側は上海では海軍の艦艇や陸戦隊が主体となっていましたが、しだいに政府中央も外交では難しいという認識になっていきます。

 8月13日に蔣介石は各国大使を招いていますが、これは外交交渉というよりは、中国は戦闘を望んでなく、戦闘が起こればそれは日本の責任であることを各国に伝えるためのものでした。

 

 この日、上海で小競り合いが始まりました。どちらが仕掛けたものかは不明ですが、張発奎が「我々はいわゆる『八一三事変』を始めた。我々が先に日本を攻撃したのであり、その逆ではない。〜我々はすでに抵抗すると決めた以上、我々の軍隊が上海においてイニシアチブを取らなければならないと考えた」(158p)と語っているように、このとき蔣介石は自らのイニシアチブで日本と戦うことを決意していました。

 蔣介石は北から南下する日本軍をどこかで迎え撃つのではなく、自分にとって有利な上海付近での速戦即決による勝利によって、日本と有利な条件で講話することを考えていたのです。

 さらに、上海付近には妻の宋美齢が中心となって整備した空軍もあり、それも蔣介石に自信をもたせました。

 

 ところが、速戦即決とはなりませんでした。中国側は上海周辺に精鋭の部隊が集結していましたが、当初投入された部隊の数やその連携は十分ではなく、海軍航空隊と艦船からの支援を受けた日本の海軍陸戦隊が持ちこたえます。そして、8月23日には陸軍の増援隊が到着します。

 

 ドイツ人の軍事顧問であったファルケンハウゼンが指摘したように、中国側は砲兵の適切な使い方ができておらず、また、期待された航空兵力もうまく活用できませんでした。

 同じくドイツ人の軍事顧問団の一人であったネヴィガーは「「中国軍の兵士はよくやっているが、いかんせん指揮官たちがお粗末すぎ」ると指摘し、また、「蔣介石の過ちはこれらの将官をすぐに処刑しなかったことだ」と述べて」(164p)います。

 

 一方、中国の防御陣地に対して、日本も小兵力の逐次投入によって苦戦しており、10月半ばまで戦況は膠着することになります。

 それでも陣地の縦深を欠き、他部隊との連携も不十分な中国側はしだいに犠牲を増やしていくになり、戦況は日本に傾いていきます。

 

 日本側では、相変わらず石原は消極的で、「上海が危険なら居留民を全部引揚げよ。損害は一億でも二億でも保障したらよい。戦争するより安価だ」(169p)という考えでしたが、政府では膺懲を強く押し出すことになり、派兵が進みます。

 結局、上海への3個師団の増派を受けて石原は辞任することになり、9月27日に関東軍参謀副長へと転出します。

 日本軍は主戦場を華中に転換することになり、第10軍が派遣されます。そして、南京攻略を探っていくことになるのです。

 

 第3章の南京では、和平交渉について詳しく書かれています。

 日本は駐華ドイツ大使のトラウトマンを仲介に和平交渉を進めようとします。ご存知のようにこの和平交渉は失敗しますが、本書を読むと、その理由として日中の条件の相違とともに、蔣介石の日本の履行能力への不信も見えてきます。

 蔣介石は、たとえ日本政府と合意に達したとしても、少壮派の軍人の侵略の意図は止まらないと見てましたし、満州国を承認したとしてもそこで日本の侵略は止まらないだろうと見ていたのです。

 そして、「中倭問題の解決は、ただ国際的な注意と各国を引き起こしてのみ可能である」(200p)と、犠牲を払ってでも国際的な干渉を得ることが必要だと考えていました。

 

 蔣介石は、九カ国条約会議、あるいはソ連の参戦を期待していましたが、そうした期待は空振りに終わり、その間にも戦局は不利になっていきます。

 当初はトラウトマンの仲介に否定的だった蔣介石でしたが、1937年12月になると、和平交渉を再検討することになります。戦局は不利になっていましたし、一時的な停戦だけでも中国にとっては有利になるという判断に傾いたのです、

 

 しかし、今まで和平交渉に前向きだった日本側が12月13日に南京を陥落させてしまいます。

 日本では「戦勝」ムードが高まり、蔣介石政権否認論が台頭します。12月8日の会議で一致した陸軍の見解は次のようなものでした。

 蔣は反省の色見えざらむものと認む、将来反省して来れば兎も角現在の様な態度にては応じられず。併し独逸大使迄には新情勢に応ずる態度条件を一応渡して置く必要あり。(213p)

 

 和平交渉に期待を抱いていた参謀本部の考えもあって交渉は続けられますが、和平の条件はさらに釣り上げられます。日本側の条件を見たトラウトマンは「気分が悪くなった」(219p)とのことですが、実際、中国の将来を日本に委ねるような内容になっていました。

 トラウトマンは後に、「日本が条件の変更を言い出した時に、ノイラートがすぐに仲介を拒否していれば、すべてはうまくいったであろうし、我々は道義に反する仕事に手を染めなくてもよかったのだ」(225p)と述べています。

 

 中国側にも和平に期待する声はありましたが、結局は足並みが揃わずに回答は先延ばしとなり、日本でも参謀本部と政府の間の意思疎通がうまくいかずに、政府内では議会が開かれる前に結論を出そうということになります。議会側の強硬姿勢に対応するためという内向きな理由で交渉の打ち切りへと動いていったのです。

 そして、1938年1月16日に「爾後国民政府を対手とせず」という近衛声明が出され、日中の衝突は長期戦になっていくのです。

 

 本書を読むと、偶発的な衝突を全面戦争に至らせた要因として、日中双方が機会主義的に動き、しかもその機会を見定めるべき主体が日中双方とも一枚岩ではなかったことが浮かび上がってきます。

 もちろん、国民からの圧力などにさらされていた蔣介石に比べると、日本側の迷走は統治機構の不全によるものであり、よりどうしようないとも言えますが、お互いに機会主義的に積極策に出ることはできるが、引くことを決断することはできないという形で、これによって戦争のエスカレートを防ぐチャンスがことごとくふいになっています。

 

 第1章の北平の部分はかなり細かい事象を追っていて、読むのにやや骨が折れるかもしれませんが、今後、日中戦争を考えていくうえでは欠かせない本でしょうし、著者の徹底した調査に圧倒される本ですね。

 

 

 

boygenius / the record

 アルバム「Punisher」が素晴らしかったPhoebe Bridgers、「なかなか次が出ないなー」などと思っていたら、知らぬ間にboygeniusというバンドを作ってアルバムを出していた。音楽雑誌とかを読まなくなると、このあたりが抜けますね。

 

 そして、このアルバムも素晴らしい。去年聴いていたら間違いなく去年のベスト3には入りましたね。

 Phoebe Bridgersとさらに2人の女性、Julien Baker、Lucy Dacusによるバンドなのですが、メロディもいいし、それぞれの声もいい。

 

 3曲目の”Emily I'm Sorry”はいかにもPhoebe Bridgersっぽい曲で、4曲目の”True Blue”はゆったりとした中に力強さも感じられるハーモニーが楽しめる曲、5曲目の”Cool About It”は最低限の伴奏に歌声が映える曲で、非常に良い流れで進んでいきます。

 この流れを踏まえたうえで6曲目の”Not Strong Enough”はシングルっぽい派手さのある曲。後半の大サビ的な部分からも盛り上がりは文句なしにいいですね。

 

 後半もそれぞれ特徴があって聴かせる曲ですが、このアルバムは前半の流れが特に良いですね。

 それでも、ラスト前の”Anti-Curse”でもう1回盛り上がります。”Not Strong Enough”ほどではないですが、ここで1度盛り上げておいて、ラストの”Letter To An Old Poet”はきれいなだけかと思いきや力強さもある曲。

 アルバムの最後もいい感じで締めていると思います。

 


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柴崎友香『百年と一日』

 解説で深緑野分も書いてますけど、なかなか魅力を伝えることが難しい本。

 ジャンルとしては短編小説になりますが、10ページにも満たない作品がほとんどで、3ページほどのものもあります。

 この長さだといわゆるショート・ショート的なものを想像しますが、星新一のショート・ショートや、あるいは最近中高生に人気の「5分後」シリーズに比べると、最大の特徴はオチがないことです。

 

 冒頭の作品は「一年一組一番と二組二番は、長雨の夏に渡り廊下のそばの植え込みできのこを発見し、卒業して2年後に再会したあと、十年経って、二十年経って、まだ会えていない話」と題されていますが、基本的にはこのタイトル通りのことが起こります。

 もちろん単純に会えないだけではなく、そこには不思議なめぐり合わせもあるのですが、するすると時間が流れていきます。

 

 この「時間の流れ」というのは本書の大きな特徴で、とにかく時間が流れます。

 大河ドラマの「真田丸」で関ヶ原の戦いがナレーションのみで終わって話題になったことがありましたが、本書もナレーションならぬ書かれた文章によってどんどん月日が過ぎていきます。

 10ページ足らずのうちに、タイトルにもあるような百年近くの月日が過ぎてしまうような作品もあるのです。

 

 個人的に本書を読んで思い出したのは『今昔物語』です。

 大学入試の古典ではいろいろな文章が出るのですが、『今昔物語』が苦手で、その対策のために福永武彦訳のちくま文庫の『今昔物語』を読みました。

 『今昔物語』が苦手だったのは、パターンがないからで、これが『枕草子』であれば定子や伊周が出ればそれは素晴らしいに決まってますし、『徒然草』でも兼好法師の趣味みたいなものから、多少わからない部分があっても何とかなるのですが。

 古今東西の雑多な説話を集めていて、しかも特にオチのない話も多かった『今昔物語』は想像で補えないことが多かったのです。

 

 『今昔物語』でも、オチもなく「不思議だ」というだけで終わる話があるのですが、この『百年と一日』でもそういう話があります。

 「水島は交通事故に遭い、しばらく入院していたが後遺症もなく、事故の記憶も薄れかけてきた七年後に出張先の東京で、事故を起こした車を運転していた横田を見かけた」は、タイトルの通りに主人公の水島がしばらくたったあとに事故にあった車を運転していた横田と時を経て出会う話なのですが、2回不思議な出会い方をします。

 ちょっとホラー味もある話で、このあたりは村上春樹の『東京奇譚集』あたりを思い出しましたね。

 

 ただ、こういった不思議さがこの作品の売りではなく、やはり、作品内での時間の経過がもたらす感覚だと思います。

 時間の経過がもたらすものというと「無常観」が思い浮かびますが、この作品が描こうとしているのはそういったものではなく、時間が経っても残る痕跡だったり、記憶というよりは何らかの引っ掛かりのようなもののような気がします。

 普通の小説とはちょっと違った読後感が得られると思います。

 

 

 

渡辺浩『日本思想史と現在』

 今まで著作の評判を聞いてきて、これはいつか読まねばと思いつつ読んでいなかった渡辺浩の小文集が筑摩選書という手に取りやすい形で出たので読んできました。

 非常に鋭い切り口がいくつもあり面白く読める本ですが、核心的な部分に関しては「続きは別の本で…」といったところもあり、やはり、主著である『日本政治思想史 十七〜十九世紀』、『明治革命・性・文明』といった本を読まねば、と思いました。

 そういった意味では、渡辺浩の「入門書」というよりは「導入の書」みたいな位置づけになるのかと思います。

 

 目次は以下の通り。

 

1 その通念に異議を唱える
2 日本思想史で考える
3 面白い本をお勧めする
4 思想史を楽しむ
5 丸山眞男を紹介する
6 挨拶と宣伝

 

 冒頭には福沢諭吉の『学問のすゝめ』についての文章が置かれています。

 私たちは、江戸時代は身分制の社会であり、それを支えたのが儒教で、そうした儒教に支えられた身分制を否定したものとして『学問のすゝめ』の「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず」というフレーズを解釈してしまいがちですが、著者に言わせれば、「人に貴賤はなく、学問で決まる」というのは儒教によく見られる考えです。

 つまり、福沢の主張は当時の常識から乖離するようなものではなかったですし、明治維新は一面では儒教の理想の実現だったのです。

 

 つづく「「可愛い女」の起源」では、「女性は可愛くなくては」という現代の問題がとり上げられていて非常に興味深いのですけど、「おそらく歴史的な説明も可能である」としながら、それは著書の『明治革命・性・文明』で、という生殺し。この上のない自著の宣伝になっています。

 

 第2部の「家業道徳と会社人間」では、江戸時代の町人においては立身出世が重要視され、一種の道徳的責務になっていたことが指摘されたうえで、その競争が家と家の競争であったことを指摘しています。

 この家業道徳には資本主義と親和的な部分がありますが、近代化は家制度を解体してもいきます。「そして代わりに、種々の擬制的な家が、装いを凝らして出現した」(87p)というわけです。

 

 第3部の「トクヴィル氏、「アジア」へ」では、トクヴィルアメリカのデモクラシー』(岩波文庫)、宇野重規トクヴィル 平等と不平等の理論家』(講談社)、張翔・園田英弘編『「封建」「郡県」再考 東アジア社会体制論の深層』(思文閣出版)の3冊を紹介しながら、「中国にデモクラシーはあったのか?」という問題を問うています。

 

 トクヴィルはデモクラシーの理解のポイントは「平等」でしたが、宇野重規は人間を本来平等だと信じる想像力の変容があったと指摘しています。

 こうした「変容」であれば宋代以降の中国にもあったのではないか? と著者は言います。科挙によって優れた個人が選抜される制度は「平等」であり、しかも相続が均等分割であったために土地は細分化され、地域における名家の支配などもなくなりました。

 

 こうしたことを指摘したうえで、著者はトクヴィルの次の言葉を引用しています。

 すでに一人の人間の力によって行政の集権が確立し、法律同様、習慣にもそれが根づいているような国に、万一にも、合衆国のような民主的共和政が樹立されることがあれば、私は、そのような共和国では専制がヨーロッパのいかなる絶対王政よりも耐えがたいものとなるであろうと言って憚らない。これに似たものを見出すにはアジアに赴かねばなるまい。(147p)

 そのうえで、著者はトクヴィルの射程はずっと以前から「アジア」にも届いていたと述べています。

 

 第4部では、「マックス・ヴェーバーに関する3つの疑問」が興味深いですね。

 今野元『マックス・ヴェーバー』(岩波新書)と野口雅弘『マックス・ウェーバー』(中公新書)という2020年に出た2冊の新書についての日本政治学会の分科会での発表が元になっていますが、西洋で生み出された概念をもとに、中国や他地域との比較を行っていいのか? という問題や、「闘争」を重視するヴェーバーの民主主義観などを問題にしたうえで、「おそらくヴェーバーの政治観と政治家観は、当人の自己理解に反して、実は根本において反議会政治的であり、つまりは反民主主義的である」(239p)と指摘しています。

 

 第4部の丸山眞男についての部分は、丸山と著者の双方に詳しい人からするといろいろと感じるところがあるかもしれませんけど、やはりもうちょっとまとまったものを読みたいなという感じです。

 第5部は短い文章中心ですが、韓国で行われた講演を元にした「李退渓と「普遍性」」は韓国の紙幣にもなった朱子学者についてのもので興味深いです。

 

 最初にも述べたように、本書を読めば著者の考えがわかるという感じではなく、著者の主著を読まねばという気持ちになるので、読み終わってすっきりする本ではありませんが、著者の論じている問題の興味深さは十分に分かる本です。

 

 

 

『デューン 砂の惑星PART2』

 映像、音ともに隙のない映画。さすがドゥニ・ビルヌーブという感じですね。

 前作に引き続き、砂の惑星やサンドワームの描き方はいいですし、ハルコネン家の兵士たちが崖の上へと浮き上がるように移動する動きとか、ハルコネン家のファシズム的な祭典のときに打ち上がる花火的なものとか、「おおっ!」となる映像がいろいろあります。

 

 ストーリーとしては、けっこう前作の内容を忘れてしまっているところもあり、ベネ・ゲゼリットの設定とか忘れていた部分もありましたけど、見ていくうちにだんだんと思い出していくので、特に前作を復習してからじゃないというものでもないでしょう。

 

 基本的には、救世主に祭り上げられようとする主人公が、あえて救世主を演じて敵を打ち破るという話ですが、ティモシー・シャラメがやるので説得力がでますね。「ひょっとしてこいつは?」と思わせるような魅力がある。 

 『レディ・バード』で見たときから、特別な存在感があると思っていましたが、今回の役もぴったりですね。

 

 主人公が自然と共生している人々の間に入り込んで仲間として認められてともに戦うというストーリーは、『アバター』とも同じですが、主人公や周囲の登場人物はより陰影に富んでいて魅力的です。

 

 最後の襲撃シーンに関しては、「相手に打ち込んだミサイルは核なのか?それならそこに突っ込んでいくのは核を甘く見過ぎでは?」とは思いましたが、ドゥニ・ビルヌーブの構築した異世界に没入できる映画ですね。