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クリント・イーストウッド『ミスティック・リバー』(2003)をDVDで観た。よくできた映画ではあるのだろうけど、この重厚さというか単純さ、完全性というか、はどうも素直に受け入れられないところがある。
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本木克英『ゲゲゲの鬼太郎』(2007)『ゲゲゲの鬼太郎 千年呪い歌』(2008)を二夜連続してテレビで観た。そんなにおもしろいものではないにしても、最近のメジャー系の邦画によくある嫌な感じはしない。妖怪や幽霊の話で夏の暑さがやわらぐということはないけれど、やはりなんとなく夏の風物詩という感じがする。あるいは夏休みの雰囲気。
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夏目漱石の『それから』(1909)を読んだ。就職もせずに親のすねをかじって暮らす男の話。なまじっか学識があるだけに、観念と現実とのあいだで色々と思い悩んでいる30歳。漱石を同時代として受容することは不可能だけど、逆に「100年前の文章なのに(同時代のものより)これだけ身近に感じられる」という感慨を味わうことはできる。
代助は昔の人が、頭脳の不明瞭な所から、實は利己本位の立場に居りながら、自らは固く人の爲と信じて、泣いたり、感じたり、激したり、して、其結果遂に相手を、自分の思ふ通りに動かし得たのを羨ましく思つた。自分の頭が、その位のぼんやりさ加減であつたら、昨夕の會談にも、もう少し感激して、都合のいゝ効果を収める事が出来たかも知れない。彼は人から、ことに自分の父から、熱誠の足りない男だと云はれてゐた。彼の解剖によると、事実は斯うであつた。──人間は熱誠を以て當つて然るべき程に、高尚な、真摯な、純粋な、動機や行爲を常住に有するものではない。夫よりも、ずつと下等なものである。其下等な動機や行爲を、熱誠に取り扱ふのは、無分別なる幼稚な頭脳の所有者か、然らざれば、熱誠を衒つて、己れを高くする山師に過ぎない。だから彼の冷淡は、人間としての進歩とは云へまいが、よりよく人間を解剖した結果には外ならなかつた。彼は普通自分の動機や行為を、よく吟味して見て、其あまりに、狡黠くつて、不眞面目で、大抵は虚偽を含んでゐるのを知つてゐるから、遂に熱誠な勢力を以てそれを遂行する気になれなかつたのである。と、彼は断然信じてゐた。(『漱石全集 第四巻』岩波書店、1966、pp.536-537)
こうして部分だけ抜き出すと、ここに書かれていることがそのまま漱石の意見だと思われてしまうかもしれないけど、もちろんそれはあるにしても、実際にはもうすこし相対化された眼差しが含まれている。それも踏まえたうえでの身近ということ。
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鷲田清一『メルロ=ポンティ──可逆性』(講談社)を読んだ。メルロ=ポンティ自身の著作を読んだことがないので細かいところは飛ばしてしまったけど、当然なのかどうか、アーレントや木村敏などとも繋がる感触があり、今度は本人の本を読んでみようと思った。
くりかえして言えば、メルロ=ポンティの《現象学》を貫いていたのは、西欧の伝統的な思考法のなかでは亀裂や裂け目とみえるもの、たとえば主観と客観のあいだ、自己と他者のあいだ、あるいは言語と知覚、思考と存在、理性と感覚、自然と文化といった襞のあわいに深く入り込んでいって、そうした対立的な意味の出現を、その「生まれいずる状態において」とらえようという意志である。(p.35)
つまり知覚をはじめとする主体の経験を、それをいわば対象のがわに超越したところに見いだされる客観的世界のさまざまな構成契機間の相互関係として解読しようとする経験主義ないしは自然主義を一方で斥けるとともに、他方でおなじその経験を、主体をいわば内がわに超越したところに見いだされる理性や知性一般の認識装置のほうから解読しようという主観主義や観念論的な思考をも斥けようとするものである。そのどちらでもないあいだの場所、そういう思考の場所をいまわれわれは《両義性》としてとらえたわけである。(p.82)
〈スティル〉という概念が普遍的なものと特殊的なもの、形式的なものとを媒介するよう機能するものを表現していることについてはさきにすこしふれたが、これは世界とその存在の生成をめぐって、主観的な契機と客観的な契機とを交差させるようにはたらくものとしても構想されており、それは世界の自己構成でも主観性による世界の対象化的構成でもなく、さらには主観的なものと客観的なものの関係の自己組織化という二元的な物言いすらふさわしくない、一種の《構造的な出来事》とでも規定できるような世界生成の水準をさし示しているように思われる。(p.197)
メルロ=ポンティのいう制度は、法律や統治機構や行政機関といった政治的・社会的な規則や施設を意味する一方で、言語や芸術、家族関係、ファッションなど、われわれの生を編んでいる物質的な媒質ないしはその様式をひろく意味する。しかしこうした制度は、われわれの生の「客観的」条件、あるいは「外的」拘束としてイメージされてはならない。制度〔化〕を、われわれの社会生活のなかに内蔵された意味生成の装置をたえず設立(=制度化)しなおしてゆく一つの間主観的な「実践」としてとらえることが、ここではポイントとなる。事実的なものによって構造づけられつつ不断に新たな構造空間を創出してゆく実存の運動、保存と乗り越えの弁証法としてとらえることである。(p.218)
こうした沈澱と再構造化の弁証法が、われわれの状況としての歴史的世界を形成する。いいかえれば、「制度化する主体」としてのわれわれは、「鍵をもたない」、つまり偶然的な出来事によって編まれ一義的に見通すことを許さないような、歴史的世界の生成のさなかに投げ込まれ、それを引き受け、それに関与しつつ生きている。(p.220)
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大物には嫌われないほうがいいという処世術が学生に対して話されるのを、その横で自分への言葉のように聞いた。しかし僕自身は、小物にはたまに嫌われるけど、大物には嫌われないと思っている。その人が大物であるなら僕も自然と敬意をもって接するだろうし、僕が大物に嫌われないというか、僕を嫌うような人は大物ではないというか、大物はわざわざ僕みたいなのを嫌いになったりしないというような気がする。ただ、僕が考える大物と世間でいわれる大物とがずれている可能性はある。
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昼過ぎに部屋を出て駅まで行く途中、昨夜同級生が乗って帰った自転車がまた同じ場所に止めてあった。この自転車をこれから毎日見続けていくことは、そしていつか見なくなることは、僕にとっていいことだろうか悪いことだろうか。