甘い顔するとろくなことにならぬ


もう9月か。今年も終わりだなw


ここ最近の一連の出来事を振り返って思ったのは、なんだかリアルでの環境とネットがリンクしてるような気がするなあ、ってことだった。

オレは長年の中央生活から離れて、とある地方都市に2年前赴任した。そこで経験した旧態然とした前時代的価値観と、ネットでの搾取の横暴振りが、不思議と自分の中ではリンクしてる。要するに「こいつら同じじゃん…」。


性善説で生きてきたオレは昔から良くつけこまれた。こう書くと被害者みたいだが、実は自分もそういう癖を持っていて他人に同じような事をしてたこともある。つまり、誰かがオレから搾取→オレがまた誰かから搾取。という、まあイジメッコ・ヒエラルキーみたいな図になってたわけだな。いじめっこというものは、実は別な場所、例えば家庭内とかでのいじめられっこだったりするわけで、要はただの連鎖なんである。まあそんなわけで、オレはよく付込まれたが、その反動でオレも、もっと抜けた相手に付込んだりしてたわけなので、同罪ではあるな。


成人した頃にそういうことに気付いて、また、その頃付き合ってた彼女さんが、実に良く出来た人だったので、そんな彼女の影響も受けて、それまでのような負の連鎖を断ち切りたくなり、以降、博愛主義に転じた。そんで、ニコニコおおらかで心の広い人間になってみたんだが、そうなったとたん、舐めてかかられたり搾取しようとしたりつけこんできたり、そんな人が一時的にまわりに増えて、ずいぶん驚いたもんだ。


それでも、そういった事を続けてゆくと、やがて交友関係とか周りの人種も徐々に変わってきて、「ははあなるほど、交友関係ってのは自らを映す鏡なんだな」と思って感心したもんだ。


その頃から音楽性も徐々に向上して行って、音楽関係の付き合いも徐々にレベルが上がって行った。これも世間で良く言われてるとおりだった。付き合う相手のレベルは自分のレベルに一致するんだ。


そうして自分の人生の後半は、なかなか充実した仕事と交友関係に恵まれたと思う。


それが一変したのが、地方都市への赴任だったわけで、それまでの常識がほとんど通用しなくて往生した。当初はその違和感がなんなのか、よくわからなかった。やがてしばらくして、この感覚に見覚えがあることに気付く。「そうだ、これって20年前の自分が属していた社会ではないか…」。


首都と言う大都市のゆりかごで真綿に包まれながら、性善説と博愛主義を唱えていた自分は、ほぼ素っ裸で地方都市の旧社会に放り出され、たちまちジャイアンどもに囲まれてしまう。それからの1年は戦いっぱなしだった。周りの人々は、温厚そうでスマイルの貴公子的なオレの口から発せられる、想像を絶する悪態に心底驚き、全員引いていった。ともかく、オレはこの町随一の嫌な人間になった。そうならなければやっていけなかったからだ。


ちょうどその頃に、ここの日記が再開されたのだ。再開したのにはきっかけがある。それはこの日記の一番最初の記事を読めばわかる。今思うと、あの事件は当時のリアルでの経験とほとんど同じだった。デリカシーのない人々に囲まれ、声のでかいやつの意見が正論となってしまう世界。まったく同じだった。


そうしてオレは、リアルでの切れっぷりを、そのままここにも持ち込んだのだ。


休業前の「旧裏ブログ」でもオレは同じような事を言い、戦ってきた。もう4年も前のことだ。でも、当時と今もまったく変わってない気がする。「旧裏ブログ」を休業するときオレは、「もう十分言い尽くした。種は十分蒔いたから。あとは誰かが引き継いでくれ。」という気持ちだった。しかし2年過ぎて「やっぱり言い続けないとダメな気がする、というよりは他人の言うことに乗っかってるような悠長な生き方は自分じゃないな」と気付いたのだ。

それは、リアルでの経験が凄く大きかった気がする。東京時代の自分は恵まれた世界に住み、良いことだけを考えてればよかった。今後の日本も安泰だな、冗談抜きで本当にそう思ってた。それがここに来て一変し、価値観が振り出しに戻った。いまだに、この近代日本ってものが、地方ではまったく根付いてないんだ、というカルチャーショック。


そんなことも知らなかったの?馬鹿なの?
はい。馬鹿でしたw


2008年、年明けそうそう、会社に見込みがない事がわかり、フリーになる事を決意する。同時に、オレはもう一度すべてを構築しなおすことを決意し、以前の会社の人間としてでなく、個人として市内のあらゆる関係者にアポを取り、お話を伺った。自分から心を開き飛び込んでゆくと、みんないろんな話しをしてくれた。そして、旧態然としているのは、それを望んでいるごく一部の層だけであり、新しい考え方、正しいものの見方は、ちゃんとまともな人の間に芽生えてる事を知る。まだ、希望はあるじゃん、と。

そして、おかしなことはおかしい、と言い続ける事が自分の道である、と決意したわけだ。それはネットでも同じだ。オレには何もない。失うものなどない。だから可能な事をするわけだ。


そのためには自分自身の活動と作品レベルを常に高く保っていなければならない。あたりまえだ。それが、自分の意見に説得力を持たす唯一の手段だ。仕事がまともでなければ、何を言っても遠吠えですよ。ロビー活動に甘んじる隠居老人じゃないわけだよオレは。自分の仕事、作品に自信があってこそ、本当のロビー活動ってもんが可能になるんじゃないのか。少なくともオレはそう思いつつ自分を律していきたいね。

私の芸風


ここ最近ここでの芸風っつうと、最初におりゃーと突っ込み、どうも理解されていないようだと気付き、丁寧に説明し直す、と言うパターンが多いのですが、だったら最初から丁寧に説明すればいいではないか、という当たり前な疑問がわきますよね。


私の場合、だいたい腹に据えかねて、というのが多いので直情的になりがちです。こないだここで書いた「恨みは100倍返し」の法則です。


こんなんじゃコミュニケーション取れないでしょ、と思われがちなのですが、実は昔はこれで普通に人とコミュニケーション取れてたんですよね。つまり相手も普通に、ガ〜言い返してきたし、激昂の裏に潜む私の真意に気付き、丁寧に反論する人もいました。ではなんで、最近そうじゃなくなったんでしょう?


まあなんとなく自分では答えはわかってます。ヒントとしては、人の想像力とか。吼えるおっさん打たれ弱いwとか。それと、あとは、ブログの浸透により、こういう芸風がある意味普通になってしまった事。つまり、私も凡百な遠吠え系ブロガーと思われるってことですね。


そう思うと、いまや私の芸風は損ですね。であれば、早急に是正せねばなりません。しかし直るのでしょうかw でもね、丁寧に言ったんでは伝わらない事もあるしなあとは思います。たとえば泥棒に対して「あなたのその行為は例えば私があなたの立場だったとして…」とかごちゃごちゃ言ってもぶん殴られるだけですよ。



ひとつだけ言いたい事がありますよ。ブログやらなんやらで口の悪い人は、口が悪く突っ込まれます。口が悪い事を容認してると思われるからです。そりゃそうでしょ。普通会話するときは相手に合わせますよ(普通?)。いや少なくとも私は。だから、それは自分がまいた種ですよ、と。もちろん自分もそうですがね。

子供は大人を見て育つのですよ。


ということで、まあ内容は変えないまま今後は表現方法を自粛の方向で。
あくまで、そうしたい、って話で、実行できるかは別w

それを生んでいるのも人間である、という想像力


せっかくの機会なので、この件に付いて記しておく。

これは日本人特有のメンタリティなのかどうか、オレには知る術がないが、確かに、ある時代までは、自分の好きな対象を「貶しながら褒める」という評価の仕方があったと思う。それは例えば親しい友人に対して「こいつはもう変態だからさ」とか半分からかいながら人に紹介する、といったものだ。それは実際は褒めたいのに素直に言えない、というような照れ隠しだったり、親しい仲ならではの遠慮のないやり取りだったりするのだが、そういう価値観って一世代前の感覚だよなあ、とも思う*1

一昔前までのポピュラー音楽評論にも、このような風潮があった。音楽家の、表面上にみえる何かの行動の奇抜さや、作品の中に見出す不整合性などといったものを抽出し、それらを晒しながらも「だがそれがいい」と表明するやり方だ*2


こないだの「鬼束さん記事」を見たとき、オレは即座にブライアンウィルソンを思い出した。言うまでもない。ビーチボーイズ創立者だ。彼はロックスターとして生きるにはあまりに精神が繊細だった。ゆえに、あのような死ぬほど美しい音楽を生むことも出来たのだが、引き換えに精神に破綻をきたしたのだ。彼の危行は虚実ない交ぜにされまことしやかに語られた。数々の文献を読み返すと、それらの原因は、回りの無理解にあった、と今になって判る。繊細な芸術家であるが故の発想や危行(と呼ぶのも好きじゃないが)を、正面から向き合い理解しようとせず、「さすが天才は考える事が違うわ」と、ある種、紙一重的に扱い、決め付けることで、こちら側への侵食を阻止する。それは実質的に受け入れ拒否でもある。それによって、どれだけその相手がダメージを受けるか。また、その決め付けは、自身の思考停止でもある。考える事が難しいから、「こうである」と決めることによって、その先の深追いをやめてしまうのだ。

一般的音楽ファンにまで、それを背負わせる必要はないと思うし、音楽などもっと気軽に楽しむべきものだ。しかし、音楽に携わったり、それにまつわるメディア、という、クリエイターに極めて近い位置に居る方々が、そのような排除的な発言を行う、ということは、個人的には、不用意で配慮に欠ける行為、とやっぱり思う。彼らは一般人ではない。選ばれて、あるいは、自ら選んでその職に就いている。つまり、そういう立場の人間であることの責任と義務が生じるってことなのだ。


楽家も芸術家も一人の人間である。自分も同じ人間であるなら、すこし想像力を研ぎ澄ませれば、その相手を理解できないはずがないのだ。いや、結果的に理解できなくても良い。でも判ろうとした、という努力の痕跡は示すべきじゃないんだろうか。


もうひとつ。「作品」というのは、その辺の石ころみたいに最初からそこに転がっているものではない。たとえば、しつこいようだが「サンマは漁師が採って来る」というのと同じ。作品を産んだ人間がいる*3。人間である、ってことは自分と同じように傷ついたりするってことなのだ。人は常に理解者を求めている。自分は誰からも理解されない、と。そうして孤独になってゆく。そういった気持ちが良い作品を産んでゆく原動力になる、というのは、それは確かなことではあるんだが、それでも、いま自分の目の前に居る記者なりインタビュアに「壁を作られた」と感じ取ったときの、この疎外感はどれだけのものか。また先に書いたような、落として持ち上げるようなやり方が(たとえ善意であっても)、どれだけアーティストを傷つけるか。そして、そこから生まれた感情は当事者間だけでなく、あらゆる人に伝わってゆくのだ。何故なら、それは誰もがみんな共通して持っている感覚だからだ。

少なくともそこまでの想像力を働かせる事が出来る人でなければ、メディア関連の仕事に携わる事などできないのではないか、と強く思うのである。


今のブライアンは、幸いな事に正当に評価されているし、理解してくれる友人仲間に囲まれて穏やかに精力的に過ごしているようだ。しかし、ロックポップス界全体を思うとき、そういった例は少ないほうだと判るはずだ。ブライアンはあれでも、愛される人に恵まれていたほうなのだ。60年代のアメリカ。そして今の日本…。同じ轍を踏まないよう、日々心がける事は出来ると思うよ。


関連エントリ
http://d.hatena.ne.jp/mrcms/20070617/1182048696

*1:この系列で、オレが個人的に一番嫌いな言葉は「愚妻」である。「亭主」が「嫁」の事を「うちの愚妻が」などという。へりくだってるつもりなのかも知らんが、この極めてデリカシーのない表現は、現在最も通用しない価値観だろうと思う(同じような理由で「俺の嫁」という表現もあまり好きではない。ネタならまあ目くじら立てないけど)。

*2:このような評論の仕方が、いったいどこから始まったのか、昔いろいろ考えた事があるのだが、音楽がジャズ→ロックンロール→ポップスと進んでくる段階で増えてきたように思う。クラシックが見事な職人芸&高度な専門芸として成り立っているのに対し、ジャズ→ロックンロールっていうのは大衆音楽なので、確かに稚拙だったり親しみやすかったりした。要するに突っ込みどころが有ったのだ。新規参入評論家の付け入る隙ができたということである。評論のハードルが、上記で示した矢印の流れに沿ってどんどん下がったのではないかな、と。

*3:この件は以前ここで書いてる。正確には「産んだ」という風にはオレは捉えていないのだが、ここでは便宜上そう書く。

文句言いながら恩恵受けるな。2

昨日のエントリ、自分じゃすげえ良いことw書いたつもりなのに、まったく反応がなかったことに寝込むほどのショックを受けた。


なので端的に書き直す。


オレは魚が嫌いだった。それはオレの生まれ故郷の、漁師とか漁港がなんか下品で嫌だったからだ。しかし大人になって食ってみて魚がうまいものだと気付いた。美味いものだと思って食うようになってから、漁師や漁港の事を下品とか思うのも失礼な気がした。なぜなら食ってるからだ。
人の著作物とか勝手に使って編集したりミックスしたり二次創作物を創ったりするのは、100歩譲っておもしろけりゃいいや、と思えないこともないが、勝手に使う立場の人間が、でかい態度で「別にかまわねえだろ」って開き直って言うのは失礼じゃないのか、と。見世物扱いしてバカにしてるのもどうなのか、と。物創る人間としては、漁師と同じ気分だ、と。食っておいて好き勝手言うなよ、と。人をき○がい扱いするなよ、と。
クリエイター側のみんながコピワンだのなんだの駄々をこねてるのも、お前らの態度が気に食わない、ってことなんじゃないか、と。そんなずうずうしい奴らには死んでも許可なんかしたくないぜ、と思いたくもなるだろ。少なくともオレはそう感じるぞ。



くそ。これでも長いな。

この件はまた続き書く(→ [http://d.hatena.ne.jp/mrcms/20080821/1219280784:title=書いた])。


参考エントリ。まさにこんな感じです。
http://afiliate.livedoor.biz/archives/51097003.html


関連エントリ。
http://d.hatena.ne.jp/mrcms/20070327/1174957130

告発のゆくえ 2


さて、なんでこんなになるまで放っておいたの?バカなの?というご意見もあるかと思う。しかし、オレとしては900キロも離れた土地に移住してきて、まさか半年で会社つぶされるとは思ってないから、その準備をまったくしてなかったということがある。

引っ越しはやったことある人なら判るけど、大変なエネルギーを使う。ましてや。うちの場合はスタジオだから。やっとこさ荷造りして越してきて、荷をほどいて、レコーディングのセッティング1からやり直して、音の流れ質感色合いなど何百回も確認して、ようやく自分用にできあがったシステムを、わずか半年で崩されるというのは、これは地獄の拷問だ。身体的にも精神的にも、そして経済的にも、とてもじゃないがそんな体力は残ってなかった。

前にも書いたがその家は社宅だ。そのまま居続けるためには、いわば人質となり、否応なしに奴らの言うことを聴かねばならなかったのだ。相手はそれを十分承知した上で、いろんな条件を突きつけてきた。本当に卑劣だ。そうしてその陰ではオレから確実に金を回収出来るよう、いろいろ画策してたんだろう。鬼畜。


よくオレは冗談で、恨みは100倍返しする男、と自称している。しかし、よく考えるとそれは、1個1個をその場では解決しないで(出来ない場合に)、累積していった結果として100になる、と言うことなのであって、不当に恨みを晴らすわけではない。相手にとっては、突然100来るもんだから、それはびっくりするだろうし、なんだこいつは!となるだろうが、こっちとしてはそこまで貯められてしまったということなのだ。とかく、ジャイアンというものはそういうものだ*1


裁判は先日第2回口頭弁論が終わった。裁判官の話では次回で結審とする、ということらしい。詐欺破産で登記簿上から自分を抹消し「関係ねえ」と逃げていた主犯ジャイアンが、遂に証人として呼ばれた。いよいよ直接対決が実現するのだ。裁判全体の流れを詳しく知ってる人は、これは奇跡だ、と言った。オレは、主犯ジャイアンを法廷に引っ張り出した唯一の人間だそうだ。


ここで気を緩めてはいけないな。今までのはリハ。本番はこれからだ。

*1:相手がどう感じているか全く気づかない

音楽の力を過信しすぎた弊害


ふと思い立ち「リリイ・シュシュのすべて」を見始めたが、どうにもこうにも居心地が悪く、途中で留めてしまった。以前一度見たことがあるので結果とか内容は知っている。その時も何処か居心地の悪さと後味の悪さを思ったわけだが、その理由がなんなのか、残忍さを執拗に描いてるからなのか、いやしかし、それだけで、こんな違和感を感じるだろうか。そんな、以前感じた疑問を今回払拭したいと思ったのだ。


そんで今回気づいたのは、音楽というものの有効性をありえないくらい信じていること。つまり、観ながらツイッター書いたメモ「なにか音楽を特別なものにでっち上げようとしてる作為が見え見えで、というか、そんな時代の臭さふんぷんで、あー嫌な時代だったな、と。」のとおりである。ここに出てくるリリイ・シュシュなる架空のアーティストにしても、サティやドビュッシーにしても、音楽そのものではなく、その醸し出すイメージ、時にはねつ造とも言えるような、「虚」そのものである。この映画の中ではアーティストや作曲家は生きた人間でもなく音楽でもなく、それはまるで北欧の家具と同義であり、「サティ(笑)*1」である。

映画の公開は2001年なわけだが、思い返せば確かにそういう時代だった。メディアやレコード会社の垂れ流す、アーティストや作品の過度なイメージを、そのまま受け入れていた時代。いやほんとは、もう既にそれはインチキなんだと、みんなが気づき辟易していたのに、あたかもその戦略が未だ有効であるかのごとく、信じさせ、…これは、リスナーに対してだけでなく、他ならぬ制作側やメディア自身が自らをそう騙してたとも言えるが…、そうしてバブル終演を可能な限り遅らせようと言う悪あがきが如実に表れてるのだ。


音楽業界の経済的な動きは実社会よりも微妙に遅れて現れる。宇多田&林檎バブルで自分たちのシステムが未だ有効である、と勘違いしてしまったメディアの人々が、余力のあるうちに、と、せっせと柳の下のドジョウを濫造した時代。この時代を経てるから、みんないま、メジャーとかインチキくさいとかいう弊害になったんじゃないのかと痛感する。そしてそれは、林檎の一時引退とリンクする。 それはまさしく先日のトップランナーでも彼女が述べていたとおり、また自分は直接彼女とお話しさせて頂いたこともあるが、勿論その件に関して直接的言及はまったくなかったものの、やはり、当該番組に於けるインタビュー内容とほぼ同様な印象を、個人的にではあるが*2、彼女の言葉の端々から感じ取れた。


さて翻ってこのオレであるが、この日記や過去ブログでも散々話したとおり、「音楽は音楽でありそれ以上でもそれ以下でもない」と言う持論を信じ続ける人間であり、それを実践してきた。前述したメディア発信側が「音楽を音楽ではなくそこからの派生イメージだけで売るという戦略の有効性」を信じ続けた結果、今のような市場崩壊に至ってるのだとすると、このオレは全く正反対で「音楽を音楽としてだけ捉え、その力を信じ続けた結果、哀れな開店休業状態に至った」と言える。


つまり、オレは自分が素晴らしい音楽を生んでいる、という、ほぼ勘違いに基づくっていうか、根拠のない過剰な自信に支えられて、他のことに目もくれずに作品を作り続け、良いものであれば必ず誰かが聴いてくれるのだ、という幻想を信じ続け、営業活動を全く行わなかった。媚びることもせず、要請にも応じず、あくまで自分のスタイルとペースを守り通した。その結果としてオレは、かつて所属した業界内の輪、ディレクタープロデューサー等の方々からの、発注先としてのリストからいつのまにか外れていた。勿論彼らは今でも知人である。しかし、仕事相手としての付き合いではなくなった、ということなのだ。


オレは昔から年上の世代に可愛がられなかった。それは業界内でも変わらなかった。オレは「ここは違う」と信じていたけども。結果は同じだった。どんなに良い曲を生んでも*3、相手の有効な駒にならなければ、存在価値は認められないのだった。そうしてオレは地下に潜り、身を潜め、時は過ぎ、周りの世代が皆年下になっていき、自分が貫けるようになったのを見計らって、再浮上を意識するようになった。それが今だ。


前回の日記に書いたように、オレは自分の仕事は作詞作曲し歌うことだ、と認識してる。だからこそ、最高の曲を生んだのだからそれで満足、とも言えるのだし、そのことに後悔はないかと問われれば、ない、と応えられるのだが、ちょっと人情的な部分で言えば、たとえばオレが最初にスカウトされたとき田舎の両親が「紅白にはいつ出れるんだい?」と訪ねたこととか、テレビを観るたび最後のスタッフロールでオレの名前を探した、という話を聞くと、やはり人の子としてはチクリと胸が痛む。痛むのだが、しかし、そうしか生きられなかった自分がいるのだ。それでも、何も出来なかったよりは、こんなに良いもの書いたぜ、と報告出来るだけ幸せだと思ってる。

*1:スイーツ(笑)

*2:しかし同席した知人も全く同じ感想を持ったが

*3:一応みんな口々に褒めてくれたので

自己最高を連発しとけばとりあえず満足する。


オレこないだ久々に2ヶ月ぶりくらいに、自分の曲を歌うっていうライブやったのよ。その2ヶ月の間には、女の子のプロデュースと、10年ぶりのパーカッション奏者の仕事と、あとは裁判と、いろんなこと抱えてたわけでさ。いつのまにか、自分自身のことなんかどうでも良くなってた感があったのよね。


そんな満を持しての自分のライブが2ヶ月ぶりにあって、数日前に練習始めたときに既に「ん?なにか感触違う」って思ったんだけど、そんで本番に臨んでみたところ、かつてないくらいの気持ちよさとかカタルシスを感じてさ、なによりともかく、オレの楽曲がさ、とてつもなく良いわけさw


勿論自分で良いと思って作ってるんだから、どれも好きで思い入れがあるのは当たり前なんだけどさ、それ以上に、もう客観として、すっげえ美メロで歌ってて気持ちよくてさ、これすげーこれすげーってずっと思いながら歌っててさ。オレって自分の曲に外れなしだよな、とかもうとてつもない自画自賛状態になったわけですよ。


この日記読んでる人、オレのことどう思ってるのか知らないけど、既にちっとも中の人なんかじゃない。ただの屁みたいな田舎の音屋さんだけどさ、例えば成果がメジャー発売とか、メガヒットとか、そういう目に見えて自他共に認める形で、証明されたとして、それって何かの満足感を得るのだろうか、トカ思ったんだ。


このライブでオレ自分の歌歌って、こんなにすごいのばっかり生んだんだ、他に何が要るのさ?トカ思ったんだよな。


その違和感みたいのの理由を、その後2〜3日考えたんだけど、そっかーオレって、オレの仕事って、作詞作曲して歌うことでしょ?と。だから素晴らしい作品生んで歌った時点で、仕事終わってるんだこれは、って気づいたわけだ。


その作品をさ、営業したりお金に換えたりとかいうのは、他の人の仕事なんだよ。オレは自分の役目は果たしたわけ。だから、もう満足。


だからね、逆に、自分が満足出来なかった駄作をさ、増産とかしてしまうとね、これはさっき言った目に見える形での成果がほしいよね、と。仕事に満足感がなくてなにかずーっともやもや引きずるってのは、そういうことなんじゃないかと。


もちろん、自分が名作生んだと思ってそんで満足しても、それが人々に好かれてお金にもなってさ、成果出ればそれは嬉しい。嬉しいに決まってる。しかし、不幸にもそうならなかった場合、そのエクスキューズとして、自分は最高の仕事をした、という自負っつうか、自信が有れば、それでまた次に進めるんだよ。


そうおもったんだ。


せっかくだからさ、ちょっと古いのばかりで申し訳ないし、音圧も揃ってなくてあれなんだけど、いまどきなんだこの「懐かしい」感は、とか思って全然構わないけど、過去の栄光的な選曲でデモならべといたから。


けっ、でかいこと言っといてこのレベルかよ、ダサ、とか全然言ってもらって構わないので、まあ興味あったら聴いとくれ、ってことで。ちなみに演奏から何から全部オレ*1


ほらよっ、と。

*1:じゃなかった、2個くらい女の子参加だ。