コインランドリーとクォーターコイン

町山智浩キャプテン・アメリカはなぜ死んだか』(文春文庫)に、アメリカでは洗濯物を外に干せないというエピソードが出てくる。


キャプテン・アメリカはなぜ死んだか (文春文庫)

キャプテン・アメリカはなぜ死んだか (文春文庫)


アメリカの多くの家庭が乾燥機で洗濯物を乾かし、乾燥機を買えない一部の貧しい家庭だけが洗濯物を外に干す。乾燥機も買えない住人が暮らしているというレッテルを嫌がるマンションやアパートの管理組合が、洗濯物を外に干すことを規則で禁じた。青空の下で家族みんなで洗濯物を干す大草原の小さな家のような風景は、遠い過去の、古きよきアメリカの風景になってしまったらしい。


アメリカで一人暮らしをしていた時、部屋に乾燥機も洗濯機もなかったので、土曜日の朝になると、籠いっぱいの洗濯物と巨大なTideを持って家の傍にあるコインランドリーへ行っていた。どんなに陽気な天気の日に出向いても、薄暗い蛍光灯で店内がどんよりとした雰囲気のコインランドリーだった。店の中央に10台ほどの洗濯機、壁際に10台ほどの乾燥機が置いてあり、その中に1台だけ、銀行の頑丈な金庫のような取っ手がついた乾燥機があった。どうやらほかの乾燥機よりも早く洗濯物を乾かすことができるハイ・パワーな乾燥機のようだったが、一度も使わなかった。


店の洗濯機も乾燥機もクォーター(25セント)コインを入れると動く。店の入り口付近に両替機があって、どんな紙幣を入れても25セントコインに両替してくれるという恐ろしい代物だった。20ドル紙幣を入れると、スロットで大当たりしたかのように、大量のコインが出てくる。財布の中はいつもクォーターコインでいっぱいだった。


洗濯機と乾燥機を回すと1時間以上かかる。治安が悪い場所なので、コインランドリーから離れている間に洋服を盗まれても困る。いつも、マーカーと学校の教科書を持ち込んで、洗濯物をしている間は勉強をしていた。たまに、若くてかわいい女の子が同じように洗濯をしながら本を読んでいることがあり、素敵なロマンスは無いものかと思ったが、そんなことは一度も無かった。破れた古着を着ているアジア人なんてそうそうもてるわけが無いのである。


洗濯が終わると、乾燥機からふんわりと乾いた洗濯物を取り出し、籠に詰めて家に帰った。晴れの日も、雨の日も、洗濯物はいつもふんわりとしていて、温かくて、穏やかな休日の匂いがした。

太陽が西に沈んでいく前に約束の無い街へと歩く(賽野かわら)

砂糖と生活

茶店に行っては、袋詰めの砂糖を持ち帰る。大体3gくらいのものが主流で、大きい袋だと5g、6gは入っている。持ち帰った砂糖は、週末に飲むコーヒーに入れて使う。家で料理をしないので、砂糖はコーヒー用途で使われるだけ。IKEAのチャックつきのビニール袋に入っている砂糖袋は、少しづつ減っていく。


結構な量の在庫があったと記憶していたので全く気に留めていなかったのだが、今朝確認すると、カフェドクレバーという店の赤色の砂糖袋が二袋しかない。気づかないうちに月日が流れて、砂糖が減っていた。


砂糖があれば、週末、自宅でコーヒーを入れることができる(甘くないコーヒーはあまり飲まない)。無くなればコンビニに行って、何十本砂糖袋が入ったパックを買えばよい。


自分の悪い癖で、生活を構成する色んな面倒くさいことを省略したいという志向がある。何か買い物したり、メンテナンスしたりしないといけないものは、最初から無いほうがマシだと思う。どうってことないのだが、ある砂糖は使うが、無ければ買い足すほどのことでもない、と考える。


生活をすると何かが減っていく。シャンプーも洗濯洗剤もおかきもトマトジュースも砂糖も減っていく。スーパーやコンビニに行ってはそれらを買い足して、家に帰っては使うという終わりの無いサイクルだ。


以前、内田樹さんがこんなことを言っていたのを思い出す。

お掃除するシシュフォス


家事というのは「無限」だからである。
絶えず増大してゆくエントロピーに向かって、非力な抵抗を試み、わずかばかりの空隙に一時的な「秩序」を生成する(それも、一定時間が経過すれば必ず崩れる)のが家事である。
どれほど掃除しても床にはすぐに埃がたまり、ガラスは曇り、お茶碗には茶渋が付き、排水溝には髪の毛がこびりつき、新聞紙は積み重なり、汚れ物は増え続ける。
家事労働というのは「シシュフォスの神話」みたいなものなのである。

http://blog.tatsuru.com/2009/06/07_1532.php


内田さんは生活ではなく家事という言葉を使っている。砂糖は無くなるし、部屋は汚れるし、洗濯物はたまっていく。エントロピーが増大していく。しかし、エントロピーに向かって非力な抵抗を試み、吹けば崩れる小さな秩序を形成し続けることが、なんというか、人間の普遍的で根源的な営み、生活であるという。


誤解を恐れずに言えば、生活とは、絶えず減っていく砂糖を買い足し、週末のコーヒーという小さな秩序を形成することだ。


そんな面倒くさいことを考えながら、最後にあまった二袋の砂糖袋をコーヒーに入れ、甘くなったコーヒーを飲みながら、今日結婚式に行った帰りに、コンビニに行って、砂糖のパックを買って帰ろうと思った。

ヨーグルトの蓋開ける時にヨーグルトが飛び散ったくらいのネタしかないよ(賽野かわら)

甘口抹茶小倉スパ写実レポート

喫茶マウンテンに行ってきた。


名古屋市昭和区にある喫茶店で、甘口パスタという奇妙なメニューを出すことで、インターネット界隈で絶大な人気を誇る店だ。最もスタンダードな甘口パスタが、甘口抹茶小倉スパなる緑色のパスタの上に生クリーム、あんこ、桃缶の桃、さくらんぼがのった色鮮やかなパスタ。検索で出てくる画像を見ただけでまずさがわかる強力なインパクトのメニューである。


名古屋に来て2年程経つが、市内に行くことが殆どないので、満足に
観光できていない。悪名高い喫茶マウンテンはずっと気になっている場所だった。


今日は有給をとって、午前中に名古屋市内に健康診断に行ってきた。まだ若年検診対象なので、身長測定、体重測定、視力検査、聴力検査、採血、胸部X線のメニューを一時間ほどでこなし、その後は自由の身になった。


名古屋から東山線で本山まで行き、名城線に乗り換えて八事日赤の駅へ。


八事日赤という街は、高低差がある場所にマンションが建ち並んでいて、住宅街の長閑な雰囲気が漂っている。俺は駅を出て、坂道を下り、団地横の細い道をぬけて、目的地に向かう。小学校のあたりまで来たところで、マウンテンとカタカナで書かれた看板が見えた。


ヨーロッパ木造風で、割と大きな建物だ。店に入ると、半分以上のテーブルに客がいる。皆、ピラフやカレー、赤や白の普通の色のパスタを食べている。俺は厨房横の四人席に案内された。


椅子にカバンを置いて、隣のテーブルを見ると、カップルが食事をしていた。完食した皿が二枚、その横にもりもりと緑色のパスタが盛ってある皿がある。どうやら期間限定のイチゴがのった抹茶スパをたのんでいたらしいのだが、二人は一切皿に手をつけずに、談笑している。


店員が水とメニューをもってくると、メニューの多さに圧倒された。パスタだけでも、味噌煮込み、カントリー、オリエンタルなど、名前だけでは味が想像できないメニューがたくさんある。その中に、甘口スパなるコーナーがあり、その一番先頭に甘口抹茶小倉スパがあった。人生最初の"登頂"(喫茶マウンテンで食することを登頂というらしい)になるので、ここはスタンダードなところから攻めようと思った。俺は東南アジア風の顔の店員さんに甘口抹茶小倉スパを頼んだ。


水を飲みながらパスタが来るのを待つ。座っているのは厨房の横。喫茶店といえばコーヒーやトマトソースの匂いが立ち込めているのが常であるが、マウンテンでは全くそれらしい匂いがしない。厨房で多種多様なメニューをつくっているせいか、甘いのか辛いのかすっぱいのか、筆舌に難い独特なにおいが漂っている。



じろじろと厨房を見ていると、厨房の中で店員さんがパフェを作っている。多きめのグラスにアイスなどをつめているのだが、スプーンを持ち、体重をかけるようにして具材を押し込んでいる。店員さんの必死にパフェに圧力をかける様子に、パスタが来る前にして、胃が締め付けられるような気分になった。


しばらくすると、さっきとは違う学生風の店員さんが「おまたせしました」といって皿を持ってきた。皿には湯気のたつ緑色のパスタがとぐろを巻いていて、その上に生クリーム、あんこ、桃缶の桃、さくらんぼが
のっている。まさしく、ウェブで紹介されていた甘口抹茶小倉スパだ。


俺はフォークに巻かれていたナプキンをとり、鮮やかなグリーンのパスタにさした。ゆっくりとフォークをまわし、メデューサの髪の毛のようなパスタを巻き取る。かすかな湯気とともに、抹茶のかぐわしい香りが鼻腔をくすぐる。一口分のパスタを巻き取り、ゆっくりと口に入れた。


…。


なんといえばいいか、一口めはまずくない。抹茶味のインパクトが薄い。とんでもない味を想像していたので、味の薄さに少し拍子抜けを
した気分だった。しかし、抹茶の醍醐味は味ではない。香りである。茶特有の香りが口に広がり、鼻に抜ける。口の中では、抹茶と全く相容れない触感のパスタが咀嚼されている。その違和感たるやすさまじい。


抹茶とパスタという、決して出会ってはいけない二人が出会ってしまっている。


そして、端的に形容すれば、まずい。


俺はフォークを置いて、店員さんに箸を頼んだ。なぜか俺は、マウンテンに来たからには甘口抹茶小倉スパを完食する、という思いに駆られていたので、ちょっとづつ巻きとるフォークではなく、そばのようにかきこめる箸へと変更した。


武器を変え、今度は一気に、大量の抹茶スパをつかみ、口に入れる。


が…、これはだめだ。口の中の違和感が半端ではない。パスタがまるで生き物ように口の中で動き、そのたびに抹茶の香りが鼻に抜ける。まずい。心のそこからまずい。水を飲み、パスタの抹茶成分を洗い流し、無理やり飲み込もうとする。が、それもだめ。飲み込めない。喉の筋肉が甘口抹茶小倉スパを前に萎縮してしまい、大量のパスタを飲み込む動力を発揮できない。


涙を流しながら、大量に口に入ったパスタを飲み込む。俺が海原雄山だったら、「このゲテモノを作ったのは誰だ!」と怒鳴り散らしているだろう。隣のテーブルを見ると、イチゴがのった抹茶スパをほとんど食べずに、カップルが会計を済ませていた。


箸で何度も緑色のパスタをつかみ、そして口に運ぶ。そのほとんどが口からこぼれおちる。濃厚な抹茶のソースで唇をぬらし、逆流する胃液を押し込めながら、食べつづける。


甘口抹茶小倉スパを食べる困難は三つある。


一つ目は口に入れた時。カルボナーラのように、まんべんなくソースがからみついたパスタを口に入れると、その瞬間にソースが口内にゆきわたる。さらに、とろみのあるソースが口や舌にはりつき、一切の逃げ場を許さない。


二つ目は喉を通る時。少し太めのパスタをつかっているので、なかなか飲み込めない。無論、甘口抹茶小倉スパを前にして萎縮してせまくなった咽喉ならなおさらである。


三つ目は飲み込んだ後。抹茶とは香りを楽しむものであるが、その特徴がすべて仇になっているのが甘口抹茶小倉スパである。芳醇な抹茶のフレーバーが休むことなく味覚と嗅覚を破壊する。


1/3ほど食べたところで、俺はふと思った。「なんで休みの日に俺は一人でゲテモノパスタを食べているのだろう」と。周りはカップルや複数のグループで来ている客が多い。皆でゲテモノメニューを茶化しながら
食べている。俺はというと、箸を投入し、一人でもくもくと甘口抹茶小倉スパを食べている。目は涙目、ほほは引きつり、三回転ジャンプ中の村主章枝ような顔で一心不乱に食べている。


少し変化をつけるために、朝日芸能を手元に置くことにした。グラビアのページを広げ、お姉ちゃんを眺めながら食べれば、苦痛は和らぐかもしれない。抹茶スパ、グラビア、抹茶スパ、グラビアのコンビは功を奏し、残り1/5ほどまでたどり着いた。


残りの1/5は、生クリームとあんこがのっている部分である。攻撃力が高そうなので、あえて避けながら食べていたのだが、いよいよここに挑まなければならない。富士山は八合目。まるで雪解けのように生クリームが熱で溶けてパスタにかかっている。今までの戦で鼻も口も、脳までもやられてしまっている俺には、残りのパスタたちがゴミにしか見えない。


手が震え、ずきずきとこめかみが痛む。


満身創痍の体に鞭を打つように、箸を生クリーム及び抹茶スパにさし、つかみ、ひきあげ、口によせ、中に放り込んだ。さっきまでの抹茶味に生クリームのマイルドさがプラスされ、さらに濃厚な味わいになっている。まずい。これは残飯に近い。だめだ。水、水で飲み込まないと。


さまざまな葛藤をしているうちに、抹茶の香りが鼻を抜けた。もうだめだ。


胃液が逆流して、プチリバース状態。嗚咽が店内に響き渡った。俺は涙目になりながら口の中のパスタを飲み込み、皿の残りを見た。30分ほどかけて食べているので、微妙に麺が延びている。ゲテモノを食べる輪廻に飲み込まれるような気分に襲われ、俺は完全に戦意を失った。


そのとき、俺は抹茶と呼ばれるものすべてに嫌悪感を感じていて、この先何年も抹茶味の小枝さえ口にできないと思った。それくらいのやられ具合だった。


目前で雪解けの甘口抹茶小倉スパが鎮座している。一刻も早く、この目の前の緑髪の化け物から逃れたくて、伝票を持ち、会計を済ませ、外に出た。外には学校帰りの小学生がランドセルを背に歩いている。少しうつむき、時にえずき、三回転ジャンプ中の村主章枝みたいな顔をした俺は明らかに変質者だった。


今回の単独登頂は、八合目にて失敗に終わった。次のアタックがいつになるかわからないが、名古屋に滞在している限りは、もう一度甘口パスタに挑戦しなればならないと、八事日赤のコンビニで買ったおしゃぶり昆布を食べながら、俺は心に誓った。

茶の香をかげば脳裏に浮かぶのがあの忌まわしき緑のパスタ(賽野かわら)

震災と言葉

東日本大震災について、未来歌稿用の短歌を何首か作った。自分にとって三月十一日とは何だったのか。自分の脳裏に浮かんだことを歌にしようと思ったが、どうもうまくいかない。


震災は、自分にとって、遠く離れた場所で起こった出来事だ。


津波が全てを流し去った街、放射能汚染で人がいなくなった街。自分の眼で確かめた風景は何も無い。全て画面を通して、メディアの報道を通して被害の大きさを知った。


テレビで、ブログで、ツイッターで、震災について伝えられる情報が少なくなっている。心臓を破るような地震速報が鳴らなくなり、東海道新幹線がいつも時刻通りに運転されるようになって、離れた場所で起こった地震を強引に自分に引き付けていたあらゆることがかすれていく。


一年前、震災を忘れないようにしようと日記に書いた。五年経って、十年経っても震災の影響で苦しむ人に手を差し伸べられるように、震災を忘れないようにしようと書いた。一年しか経っていないけれど、砂時計の砂のように、震災に対する考えや思いが自分の頭から流れ出ていっている。


震災が起こって、東北が自分に近づいてきたような気がしたけれど、そんなことは無かった。俺と東北の人を直接的につないでいる「絆」は、赤十字に送った五万円の寄付金だけだ。


離れた人達に何か思いを伝えようと思うけれど、言葉が頭に浮かんだとたんに、意味を失って、白々しく響く。「絆」、「希望」、「助け合い」という言葉を投げかけられて、嬉しいことなどあるのだろうか。


もし、俺が東北の街に住んでいて、津波で家や家族を失い、仮設住宅で暮らしていると想像してみる。そのとき、遠くはなれた大阪の人間に何かしてほしいことはあるだろうか。


きっと、言葉を与えられるのではなくて、自分の言葉を聞いてほしいと思うのではないだろうか。遠く離れた他人の言葉ではなくて、自分の経験や、つらさや、復興に対する言葉に耳を傾けてほしいと思うのではないだろうか。


津波が足元まで押し寄せてきたこと、一階下で働いていた同僚が流されたこと、二年前に建てた家が無くなったこと。


話しただけでは何も変わらないかもしれないけれど、自分の言葉を聞いて、頷いてほしい。話し相手になってほしい。近くに住んでいる親戚にも、遠く離れた他人にも、自分の言葉を聞いてほしい。そんな風に思うだろうか。


東日本大震災から一年、阪神大震災から十七年経った。来年も、再来年になっても、震災のことを忘れずにいたい。

「寒いね」と話しかければ「寒いね」と答える人のいるあたたかさ(俵万智)

失われたシステムの中で

津波被害があった地域のがれき受け入れ反対の意見に違和感を感じる。ネット上で様々な記事を読むと、議論の核となるべき論理(証明のための事実やロジック)が失われ、ヒステリックな思い込みが内容を支配しているように見える。たとえば、がれきの受け入れを表明した群馬の町村に関する以下のような記事だ。

大震災1年<4>がれき受け入れ検討の町村 「大丈夫という保証ない」(東京新聞)]


 「がれきで困っている市町村がある。できるだけお手伝いするのが人の道だ」。今年一月二十五日、中之条町東吾妻町、高山村でつくる吾妻東部衛生施設組合で東日本大震災で発生したがれきの受け入れ方針を発表した同組合管理者の折田謙一郎・中之条町長は、記者会見で理由についてこう説明した。
 受け入れ表明は県内で初めて。二月二十九日には同組合や県の職員らが岩手県宮古市と山田町を視察した。今月七日夜、中之条町役場で開かれた同組合議会の全員協議会。組合事務局から詳しい視察報告が行われた。
 同組合が、がれき周辺の十五カ所で測定した地表と地上一メートルの空間放射線量は〇・〇二〜〇・〇七マイクロシーベルトで、中之条町沼田市の平均よりも低い。がれきから採取した四検体の放射性物質濃度は最大でも一キログラム当たり三六ベクレルで、環境省が焼却前の目安として示す同二四〇〜四八〇ベクレルを下回り、宮古市で採取した検体は不検出だった。
 折田町長は「これで安全性が確認できた」として、近く三町村の議員と区長の代表を集めた説明会を開く考えを明らかにした。
 しかし、受け入れ先となる中之条町中之条のごみ焼却施設「吾妻東部衛生センター」は県中之条土木事務所に近い住宅地の一角にあり、住民の間に不安の声が広がっている。
 三人の小学生を育てる町内の三十代の主婦は「国の示す数字が本当に安全で正しいのか疑問。岩手県のがれきだから大丈夫という保証もない。子どもの健康が心配で、受け入れには反対だ。そもそも住民説明会を先に開いてから決める話ではないか」と怒りをあらわにする。

http://www.tokyo-np.co.jp/article/gunma/20120309/CK2012030902000097.html


がれきが体積している宮城、岩手の諸地域について、環境省が定める基準値を下回る放射線量しか測定されていないにも関わらず、受け入れ反対の人たちは耳を貸さない。がれきから採取した放射性物質濃度が示す値は、健康に被害が及ぶ閾値となる二四〇ベクレルを下回っているにも関わらず、その結果が大丈夫という保証がないという。


受け入れ反対の人たちの根底にあるのは、原発事故を引き起こした組織に対する不信感である。彼らは情報の正当性を、内容の論理性ではなく、情報提供者の属する組織によって判断する。東京電力やそれを支援してきた国の情報の一切をまるでアレルギー反応のように否定する。


受け入れ反対の人たちの心情を以下のように説明する記事がある。

「正しく怖れよ」な人には水を引っかけちゃいな-シートン俗物記


放射性物質に曝露されて発ガン性の確率が僅かに上がる。それは装弾数のやたら多い拳銃を利用したロシアンルーレットみたいなものかもしれない。だが、どんなに確率の低いロシアンルーレットであろうとも、その拳銃を勝手に相手に向ける事は許されないし、向けられる方にはそれを拒否する権利がある。

科学的に見て健康に影響があるかどうか、を基準とするのは大元から間違っている。頼みもしないものをぶち播かれて、それを受け入れろ、と言い募る。そして、それを正当化する。
そうした事を批判し、拒否しているのだ。「放射能に対する怖れ」ではなく、「そのような事態を起こした者達やそのシステムに対する怒り」なのである。

http://d.hatena.ne.jp/Dr-Seton/20120229/1330524920


Dr-Setonさんは、宮城や岩手に堆積しているがれきを、店員の指が突っ込まれたラーメンにたとえる。指がつっこまれたラーメンが健康に被害があるかどうかは問題ではない。ラーメンに指を突っ込む店員の接客行為が問題であり、粗悪な接客行為がラーメンの品質全てを無に返すと。


一度嘘をついた人間の情報の正当性を、その論理性だけで判断するのは難しい。一度嘘をついた人間の情報は、眉に唾をつけて、あらゆる可能性を考慮して、その正当性を判断する。


人は、論理性だけを基準として、情報の正当性を判断することができない。なぜなら、情報の論理性をすべての人が平等に理解することができないからだ。不足した論理性を補完するのは、情報提供者のバックグラウンドであり、情報提供者に対する感情である。評判のいいお医者さんだから、昔お世話になった恩師だから、この人の言うことを信じよう。この人の言っていることは、正しいに違いない。そういう風に思考するのが、人の性なのかもしれない。


しかし、と思う。


論理性だけを頼りに情報の正当性が判断できないとしても、情報提供者のバックグラウンドや情報提供者に対する感情をもって、論理性そのものを否定することはできない。論理を否定するためにはそれを反駁するしかない。指をつっこんだラーメンの衛生面での問題を科学的な手法で指摘できないのであれば、ラーメンの品質についてとやかく言うべきではない。(余計なウンチクをたれる店員の接客態度に文句をつければいい)


二四〇ベクレルを下回る放射性物質濃度のがれきが健康に被害を及ぼす可能性があるならば、それを科学的に証明しなければならない。または、二四〇ベクレルを下回る放射性物質濃度であれば健康被害が無いという科学的な知見が依拠するデータやロジックの不備を指摘しなければならない。


議論を支える土台を履き違えてはならない。


失われたシステムの中で、それでも科学的な叡智を信じて新しいシステムを作り、支えていくには、新しい論理を作り出すしかない。


あくまで理性的に、せめて人間らしく。

限りなく透明に近い毒の気は空の青にも染まずただふ(賽野かわら)

コンサルタントと横文字文化

「このアウトプットはイシューがミッシーに洗い出せていないからもういっかい考え直して」といった横文字を使って会話をするのが、鼻持ちならないコンサルタントである。アズイズ、トゥービー、バリューといったコンサルタント文化圏で頻繁に使用される言葉もある。それぞれ和訳すると、アウトプット(=成果物)、イシュー(=問題、論点)、ミッシー(=漏れなくダブりなく)、アズイズ(=現状)、トゥービー(=あるべき姿)、バリュー(=付加価値)となる。


横文字を多用するコンサルタント文化にどうも馴染めない。日本語に直したほうが文章が読みやすくなるのに、安易に横文字を使っている人が多い。この前も、社内メールで飛んできた「ミーティングファシリテーションスキルアップレーニングのアナウンス」という題名を読んだだけでクラクラした。思わず「欧米か」と突っ込みをいれたくなった。


概念を表す言葉に横文字が使われていることがある。"ミッシー"は、意味・属性が異なる事象や項目を重複なく全てあげていくことを言うが、これは議論をしたり、成果物をつくる時の指針となる概念であり、和訳するのは難しいし、和訳してもあまり意味が無い。


通名詞はどうだろう。イシューやバリューといった言葉を人に伝える時に、横文字を使う必然性はあるのだろうか。横文字を使うことで情報が正確に伝わるのだろうか。


横文字があらわす意味が複数あり、言葉の発信者と受信者がその定義を共有していない場合、情報が正確に伝わない。イシューという言葉は問題(troubleの意)という意味があるし、課題(取り組むべき事項)という意味もある。プロジェクトが対面するイシューといった場合に、障害が発生していて喫緊の対応が必要なのか、または今後ある程度の期間を投じて順次解決していくべきなのか、どちらの意味で言葉が使用されているのかが曖昧だ。受信者が、言葉が使用されている前後関係をもとに意味を推移することは可能だが、認識の齟齬が無いように言葉の語義を明確にするのは発信者の責任である。


客が理解できる言葉を使って成果物を作り、説明できなければ、コンサルタントとして"バリュー"を発揮できない。コンサルタントは、情報が不正確に伝わるような言葉を使うべきではない。


もちろん、目の前にいる人に情報を伝えることだけが言葉の目的ではない。言葉は文化継承のキャリアとして大きな役割を果たす。ミッシー、イシューといった横文字も文化の一部だ。横文字の言葉が間違っている、という正しさの判断はできない。


あるとすれば、横文字の言葉の語感に存在する"気持ち悪さ"だけである。

言葉ではない!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!! ラン!(加藤治朗)

他人のことを考えると不快になる

最近、俺は他人のことを考えすぎるのではないかと思うようになった。


身近で仕事や生活をしている人が、自分の頭の中を占拠するようになり、その人達について考える時間が長くなる。考える時間が長くなればなるほど、その人の負の面(嫌いなところ、むかつくところ)に思考が偏るようになる。そして、不快な気分になる。


考えているだけなので、不快な気分について、言葉に発したり、ネットに書き込んだりすることは"あまり"無い。なので、不快で鬱屈な気分がどんどん自分に溜まっていく。


ツイッターのTLを眺めていると、東浩紀小田嶋隆といった著名な人に無礼なコメントを飛ばしている人を見かける。彼らは、他人のことを考えすぎて負の面ばかりが気になるようになってしまった人たちだと思う。タイムラインに東浩紀小田嶋隆が登場するたびに、彼らについて考え、自分と意見の合わないところを見つけ、不快になり、憤ったコメントを飛ばす彼らを、他人事のように思えない。


タイムラインに住んでいる他人に憤る人達のように、自分の鬱屈な気分が爆発するのではないかと不安になる。思いやりが過ぎると、思い込みになって、牙を剥くような荒々しい気持ちになる。「人が他人のことを考えると不快になる」というのは、人間にとって普遍的な傾向ではないかと思えてくる。


こういうものを仏教は煩悩と呼ぶのだろうか。


「他人のことを考えると不快になる」のであれば、他人のことを考えなければいいのだが、自分の思考をコントロールすることは難しい。考えまいと考えれば考えるほど、蛇が地面を這うように、負の方向へ思考が偏っていく。


仏教の教えるところによれば、煩悩を追い払い、解脱の状態に達するためには、念仏を唱えるとよいという。頭の中を念仏で満たしてしまえば、煩悩がつけいる隙も無い。


念仏がいいのか、仕事に没頭するのがいいのかわからないが、あらゆる方法で、他人のことを考える傾向をコントロールしたい。人に対して思いやりを無くしてしまうということではなく、負の方向へ向かう思考を防ぎたい。


他人のことを考えて不快になるくらいだったら、頭をからっぽにして生きていきたい。

木のもとに臥せる仏をうちかこみ象蛇どもの泣き居るところ(正岡子規)