続かない日記

ふむ。今学期はまったく日記が続かないな。やはりD論書き始めると、
それだけ人と会わなくなるし、人生が単調になるのかな。
ここ一ヶ月くらいは、人生で最大最長の胃痛と戦っていて、
ああ、もういやだなあ、胃カメラとか飲むのか、とか思っていたところ、
何回目かの通院で、「じゃあ、これが最終兵器です(意訳)」みたいなこと
を言って渡された胃薬にどうやら救われたらしく、二日前くらいから
立ち直り始めた。強い胃薬というのは結構危険なので、こうやって出し渋るのは
無理もないかなと思う。

いままでも胃を壊したことってあるんだけど、油っぽいもの
を食べずにふつうの胃薬を飲んでいればなおった。ところが、今回ばかりは
難攻不落でちっともよくならず、パンすら消化できなくなってしまった。
んで、毎日ヨーグルトとおかゆばっかり食べていたら、体重があれよあれよ
という間に減って、ここ5年くらいでゆっくり太った分を一気に減らしてしまった。
それはいいのだけど、胃が痛いと生活が全体に散漫になってしまうのは
間違いなく、体がその痛みから逃避しようとしているのかどうか分からないけど、
昼飯をたべると、なぜだか猛烈な眠気に襲われてしまって、オフィスだろうが、
その辺のベンチだろうが寝ていたのだけど、一応「先生」と呼ばれたりする身分なのだから、広いキャンパスとはいえ、やはりその辺で寝てしまうのはまずいはずなのである。
しかし、そう考えてみると、「先生」というのは偉いもので先生らしからぬ姿というのを
なかなか人にはさらさない。実際、キャンパスで寝ている先生など見たことがない。やはり
そうとう自己を抑圧して生きているのではないか。

ま、ともかく、これからの人生では、なるべく「食べ放題、飲み放題」みたいな誘惑と
戦って、胃に優しい生活を送りたいものです。おわり。

Wharton,中村文則

Wharton のEthan Fromeを一晩で読む。初読のときほどの感動はないけど、やはりこの主人公の人のよい性格の作り方とかはうまいと思う。性格がよくなければこんな葛藤も生まれないのだから。
それと、中村文則の『土の中の子供』。斜め読みしかしていない作家だったのだけど、素晴らしい。特に最初の4,5章までのリズムのよさ。10ページごとくらいの章の区切りで物語を立ち上がらせていく手さばきが非常に鮮やかでよかった。すごく推敲を重ねて書かれているのが手に取るように分かった。冗長な文が全然ない。ほかの本も読んでみたい。基本的に一人称小説の作家のように感じるけど、ほかの小説では広がりもあるんだろうか。
Barbara JohnsonのPersons and Things
は寝る前にちょっとずつ読んでいるのだけど、あまり説得されない。この人は何をかいてもきれいにまとまるというのが、弱点でもあるような。ドイツ語はまだ継続中。ベンヤミン論は、すぐに指導教官から戻ってきて、どうもこれで一章でいいようだ。というわけで、博論の一章目はベンヤミンで仕上がったことになる。なんとも行き当たりばったりな。これを5月はじめのdissertation groupのみなさんと一緒に読むのだけど、そこに僕のドイツ語の先生がいたりして、ちょっとどきどきだ。


ベンヤミン以後戻って作業していた投稿用論文もいい感じで仕上がってきたので、
そろそろ捲土重来という感じで原稿を投げ込もうと思う。

Norah Jones

ベンヤミンはとりあえず終了。結局30枚。指導教官に暇が出来たら読んでください、と出した。
で、すこし気ままな読書の日々。いまだ読んでいなかったBreakfast at Tiffaney'sを読んで、なんだ
ぜんぜんヘップバーンの印象と違うんだな、とか思ったり。

Norah Jones 聞いたり。
http://www.youtube.com/watch?v=Mu5QPVD427o&NR=1
この格好つけない感じが格好いい。

あと、タルコフスキーも見た。昔と違って眠らなくなった。
でも、あれ、ソファーとかに寝そべって見たら、やっぱり寝てしまうと思う。
ちゃんと椅子に座ってみるべき。

それと、ドイツ語。不思議と興味が切れないで続いている。

で、散々拒否されてきた論文に戻ってみる。
が、やはりこれは拒否されて当然かもという独善性が目に付く。
一番丁寧に書いてくれたreviewの "potentially brilliant essay"という言葉にしがみついて、もうちょっとあがいてみようか。

で、季節はすっかり春。最近胃の調子が悪いことを除けば(別に精神的に、とかじゃなく、もともと
胃が荒れやすい体質)、心地いい日々。

ずいぶん遠くまで

ずいぶん間が空いてしまったけど、この一月くらいは相変わらずな生活で、遅々として論文が進まず。それでも1万wordsに到達して、まあ、そろそろ終わらせようか、という感じにはなってきた。ドイツの思想家について書きながらドイツ語がこのレベルではしょうがない、と思い、毎日ドイツ語をやるようになったのが収穫。とにかく、自分の行動範囲のあちらこちらにドイツ語関係の本をばら撒いておいたら隙間の時間に見るようになった。今日もバスケのファイナルフォー見ながら、ぶつぶつ読んだし。といってもこの程度の努力では、基本単語の習得すらおぼつかない。ベンヤミンも引用する箇所くらいは原文で読むけど、論文を通してすらすら読むというのからは程遠い。それでも、原文を読んで一応ピンと来るようにはなった。やはり、ハイデガーベンヤミンというあたりの思想は決定的にドイツ語という言語の中に埋め込まれているので、翻訳によって失われてしまうものは大きい。たとえば、Ursprungは起源なのだけど、これは日本語が示すような川の源泉のようなイメージではなく、飛び跳ねる(Sprung)イメージがあって、動的な特定できなさみたいなイメージをはらんでいる。しかし、我流でここまで突き進んできたけど、これ、いったいパブリッシュできるような代物なのか、非常に疑問。

最近小説読んでいないのはちょっとまずいな。
あと、気付いたのだけど、論文執筆期になると、人と話すことが減るので、英会話力が減退する。こないだ、来年の契約の件で事務所に乗り込んで色々質問していたら、なかなかまともに話せなかった。口頭試問であんなに高度なことをすらすら話したのがほんの3ヶ月前なのに、どうして、という感じ。会話力というのは直線的には進歩しないようだ。

ボルドーの義兄

多和田葉子作。細部にまで神経の行き届いた作品で、今の文芸誌の状況からすると実に孤独な達成といえるだろう。これが30年前だったら、数倍の読者に恵まれたはずなのに。外国語を学ぶことが、子供のような無防備さに自分を差し向けるような行為であるということが、主人公優奈の目や身体を通じて語られる。ハンブルクボルドーという土地の相似性。どちらも人々が海に面した都市だと勘違いしているということに何度も触れられているけど、たしかに僕自身、これらの都市はもう少し海に近いと思っていた。実際は、どちらも海へと通じる川の岸辺に広がる町である。その距離がコミュニケーション/ディスコミュニケーションアレゴリーになっているように感じた。海からの懸隔。全体に液体に関わる比喩が多く、最初の断章は人の流れが液体のようにとらえられるし、水着にも何度か言及される。

図書館で調べてみたら、この本はドイツ語で先に出たようだ。 

3月!

 気分を入れ替えてがんばろうと思う。今学期は本当にスランプでペーパーが書けていないので、
ここらで心機一転がんばりたい。ベンヤミン論も、一時のにっちもさっちも行かない状態からは
抜けたような気がするし。先週の火曜日に指導教官と会ったけど、この人はぜんぜん厳しい人じゃないので、雑談っぽいことを少し話して終わってしまった。博士論文だけになったら気楽かと思っていたけど、適度な緊張感を持ちながらリラックスしてやっていくというのはなかなか大変だ。春樹氏のようにランニングの習慣とかつけて自制心を身に着けたほうがよいのかもしれない。ま、それとは関係なく、今学期は割とジムに通っていたのだけど、まー、よく学生とか友達と会う。ここの冬はとても寒く運動不足になるので、みんなジムに集まってくるのだ。

ところで、まだ将棋が面白い。だんだん勘が戻ってきたのだけど、インターネットで対戦するような人は、基本的に強い人たちなので、3回に1回くらいしか勝てない。