Muchonovski got it wrong

なにが なんとも。どれが どうでも。

#REF!に悩まされない人生を生きる

Google SpreadsheetでシートAに入力した情報を他のシートで参照して自動処理するの、ちょう便利ですよね。ただ厄介な部分が、Excelと同じように発生する#REF!問題です。ご存知のように、Google Spreadsheet(や、そのネタ元となったExcel)は、任意のレンジ(セルやセル範囲)をカット・コピー・ペーストする際、別セルの数式内からそのレンジを相対参照している場合は、相対参照の位置関係が維持されるよう、そのレンジ表記も連動して書き換えてくれます。たとえば"=ROW(A1)"という数式が入ってるセルを右下のセルにコピーしたら"=ROW(B2)"になる、とかね。別シートを参照する数式でも同じように処理されるので、シートAを編集すれば、シートAのレンジを参照しているシートZの数式もその編集に追従してくれる。

これ表計算ソフトには不可欠な機能なんですが、一方この仕様によりしばしば発生するのが「セルやレンジ単位で削除コマンドを実行したときに、他のセルの数式が壊れることがある」という問題です。もうちょっと具体的に言うと、あるセルやレンジの内容を別セルQの数式内から参照してるときに元のセルやレンジを削除すると、「参照先が存在しない」というエラーが発生して、そのレンジ表記が"#REF!"に書き換えられてしまい、数式が壊れます(#REF!問題)。

自分だけが編集してるspreadsheetの場合は、この問題が起きたときも比較的対処がしやすいのですが、Google Spreadsheetは人と共有したときに威力を発揮するので、入力用シートはいろんな人に編集を許すこともあります(form経由で情報追記だけを許可する方法もあるけど、複数情報の追記とか行の入れ替えとか再編集とか不便なんですよね)。そうすると、裏側にある処理用シートなどで、この#REF!問題がバンバン発生する。「なんかうまく動かないんだけど」と言われて見に行くと、たいてい入力用シートでのセル削除に伴って別シートの数式が壊れてるわけです。これを運用ルールで「削除コマンドは仕様厳禁! 面倒でもコピペの繰り返しだけで編集すれば問題は起こらないよ」とカバーする方法もありますが、こんな説明が通じる人はそんなに多くないし、そもそも解決策として美しくない。

というわけで、複数の人に編集権限を与えるシートの内容に対し、別シートで後処理を行いたいときは:

  1. 編集用のシートAと後処理用のシートZの間に中間処理用のシートBを挟む
  2. シートAが編集されるたびに、GASのonEdit()でその内容全体をシートBにコピーする
  3. シートZからはこの中間処理用のシートBを参照させる

という方法がおすすめです。具体的には、script.gs にこんなかんじのGASのscriptを仕掛けます:

function onEdit(event) {
  var originSheet = '編集用シート';
  var destinSheet = '中間処理シート';
  var copyRange  = 'A1:Z1000';
  copySheet( originSheet , destinSheet , copyRange );
}

function copySheet( originSheet , destinSheet , copyRange ) {

  var workingSheet = SpreadsheetApp.getActiveSpreadsheet();
  var sheet_copyFrom = workingSheet.getSheetByName( originSheet );
  var sheet_copyTo   = workingSheet.getSheetByName( destinSheet );
 
  var copyValue = sheet_copyFrom.getRange(copyRange).getValues();
  sheet_copyTo.getRange(copyRange).setValues(copyValue);
}

こうすることで、シートAには別セルから数式で参照されているレンジが一切なくなるので、シートAを(行・列の削除を含め)どんなに編集しても、他のシートでの#REF!問題を誘発しなくなります(GASに記述されたレンジ表記はセル内数式のレンジ表記と違って、ユーザーの編集作業に自動追従しないからです)。シートAの内容はGASにより毎回シートBにコピーされ、このシートB上のレンジは他のシートのセル内数式で非破壊的かつ安全に参照できます。安心安心。このやり方の唯一の難点は、編集動作がほんのちょっとだけ遅くなることでしょうか。

※もちろん、Excelでもマクロで同じ逃げ方ができます。使用する機会は稀だと思いますが…。

人種同一性障害について (2)

id:rnaさんのこちらのエントリへのリプライを書きかけのままはや3ヵ月ほどTODOリストに入れっぱなしにしており、リストを見るたびrnaさんにはすごく申し訳ない&後ろめたい気分でいたのですが、このまま寝かせておいてもしかたがないので、一度UPしてしまおうと思います。なお、本エントリの発端となったゆき の ものがたり (Yuki's Story) は既に消失しておりました。そういう意味でも、二重に時宜を逸したエントリです。すみません。

さて、前回書いたときには知らなかったのですが、古い友人がこちらのDr Sam Winter来日記念シンポジウム「性同一性障害」という疾患概念の行方」なるシンポジウムにいってきたそうで、その話も踏まえて色々考えていました。

GID/GDをめぐる疾病概念の変容について

自分が前回はてなブログに書いたのは、おおむね:

  • 性同一性障害はもともと(ホルモンシャワー仮説や脳の性分化不全など)生物学的・生理学的根拠にもとづく疾病概念ではないし、近年は当事者も医療従事者もそうした表象はしないと思う

というような内容でしたが、現在ではそこからさらに進んで:

  • 世界的には、性別に対する違和とそれに伴う苦悩そのものを脱・精神病理化する傾向にある
  • 米国精神医学会の診断基準であるDSM精神障害の診断と統計の手引き)は、DSM-III-R版でGIDを提示して正規の医療コースに乗せる道を開いたが、DSM-5ではGIDを削除してGD(性別違和)に変更した
  • 世界保健機関の診断基準であるICDも、次版(ICD-11)への改訂時にGIDが削除されると予想されている
  • ICD-11ではトランスも同性愛も「社会的状況に関する諸問題」の章(第21章)への引っ越しを提案中。この章は、社会経済的・心理的状況下でハザードに直面する人をヘルスケアサービスにつなげるために設けられている。

という状況にある、とのことのようでした(たぶん、昨年の同名シンポについてのこのまとめと基本的トーンは近かったのではないかと思います)。

つまり、精神医学界の世界的潮流としては、性別への違和感を確固とした疾病概念または精神障害としてとらえるのをやめ、医療介入も当事者の「苦悩」にフォーカスするかたちに再編成してゆく途上にある、と言ってよさそうです。

そもそもGIDは(EIDと違って)「医学的な観点での妥当性」に欠ける「根拠のない疾患概念」ではないと断言できるのか?…といえば、TS/TG当事者の間でも見解は分かれるところだと思います。自分の印象では、90年代から00年代初頭にかけてのトランスコミュニティでは、GID診断→ホルモン/SRSという医療化路線に乗ることへの是非については、様々な議論がされていたように思います。

関係者の尽力によりガイドラインGID特例法の整備が進み、医療化路線で正規の医療介入と戸籍変更への道筋にリアリティが出てきたあとも、自らを障害者とみなすことや、「門番」である精神科医から診断書のお墨付きをもらえるような〈本物の性別違和〉のストーリーをそらんじることへの抵抗感を漏らす当事者はそれなりにいたと記憶しています。

誤解をおそれずに言えば、大多数の当事者が求めているのは、自分の望む通りの性別---それを『自分の本来の性別』だと確信している人もいれば、そうでもない人もいると思いますが---で生きたい、という大きな課題への解決策であって、〈疾病〉枠組と医療化路線は、いま利用できる最も有効な手段のひとつにすぎない。仮に将来、自己申請で性別を変更でき、施術者による身体変更が医師法優生保護法の適用外となり、適切な法的保護もなされるような社会状況が来たなら、自らを性同一性障害と語る人も、埼玉医大ガイドラインルートでの施術に頼る人も激減するのではないでしょうか。…というところまでが、GIDについての私感です。

「人種同一性」あるいは「日本人であること」について

さて、これまで性別違和に苦しむ人々の社会的包摂に大いに貢献してきたであろうGID概念が、時代とともに非病理的な枠組へとリプログラムされつつある現状をふまえると、本題の(自称)EIDの領域と、現在GIDとして指し示されている領域の線引きに生物医学的な客観性を導入する(そして片方を「エセ科学」として斥ける)ことはますます困難になってきている気がします。

DSMもICDも、すでに当事者の自己意識と、その自己をとりまく状況(器としての身体を含む)の摩擦という受苦そのものへ焦点を移しており、疾病としての生物医学的根拠は問題にしなくなってゆく流れにある。ならば、EIDとGID(と現状呼ばれている問題系)のあいだの質的な分割線も、脳や身体ではなく受苦の性質や構造のなかに見出して、「それは精神医学的な救済・包摂の対象にあたらない」とするほうが筋がよいのかもしれません。

これは個人の自己認識の問題では済まない話ではないか、民族の歴史の中で継承されてきたものを担う人たちの共同性に従属しない ethnic identity なんてあるのか? ということです。

Re:人種同一性障害について - 児童小銃

rnaさんのおっしゃる「日本人であること」は、固有の歴史的・地理的文脈のなかにあるもので、その文脈内にいる人が自分の意志で簡単に放棄したりはできない、好むと好まざるとにかかわらず引き受けざるを得ない、〈ままならない〉自己の一部だと解釈しました(そしてたしかに、自分にとっても、「日本人であること」とはそういう属性です)。その文脈を共有していない人が、あたかも可換のパーツのように「日本人であること」を引き受けようとするのは、その〈ままならなさ〉への本質的理解が欠けている=本人の訴える受苦に真正性が欠けていることの証明なんじゃないの?という風に批判することはできるかもしれません。

EIDの彼女は、GIDをめぐって形成された〈政治的に正しい〉語彙資源を流用しながら「日本人であること」と彼女の置かれた文脈(身体・国籍・住環境ほか)との違和を訴えていましたが、彼女の本音は「現代日本の消費文化が好きだけど、それを思う存分に消費できるような環境にない」というだけの話のようにも思えます。

実際、問題の彼女のethnic identityは日々の現実生活で獲得されたものではなく、メディアコンテンツを通して得られた仮想的なもので、日本についての認識はかなり断片的だったし、ズレてました。それを否定するときのカウンターとして「本当の日本文化」を本質主義っぽく立ててしまうと、それはそれで別のヤバさを招き入れるリスクもあるわけですが、あえて民族的本質とか文化的同一性などの強いフィクションを仮構しなくても、〈生きられた共同性/同一性〉と〈仮想された共同性/同一性〉を区別することは、できなくもなさそうです。「あんたは日本人でないことによって生活上の困難とかなかったでしょ?」「〈ままならなさ〉を含む、生きられた共同性を私たちとシェアしていないでしょ?」という風に。

しかしここで、このような〈生きられた/仮想された〉という区分を敷衍していくと、今度は「じゃあ、TS/TGはどうなるの?」という切り返しがどこからかあるのではないか、とも想像してしまいました。リンクを貼ってくださったid:macskaさんの10年前の文章に、このようなくだりがあります。

あるトランスセクシュアルの女性が思い描く「女性像」が現実の「女性」とはかけ離れており、それはむしろ多くの男性が抱く「女性像」に近いのではないかといった印象を受けたことは少なくない。

macska dot org » 「人種同一性障害」とわたしの身勝手な論理

私も同じことを感じたことはあります。再び、ではなぜ、〈仮想されたジェンダーへの同一化〉を望むGIDは疾病概念と医療措置によって救済されるのに、〈仮想されたエスニシティへの同一化〉を望むEIDはそれを許されないのか、という問いに戻ってきてしまうのです。ぐるぐるです。


この話にはこれといってオチはないのですが(まことに申し訳ありません)、自分が彼女に働きかける機会があったとしたら、ここまでの思索を踏まえて:

「もう病気としての性同一性障害はなくなるよ。自己の性別意識と自己の置かれた文脈の間に違和を抱えてて、医療的介入(特に身体変更)や法的保護/支援というかたちで調整・解決が必要なときにそれを行う体制は残るし、より改善されていくだろうけどね。だからあなたが『自分は人種同一性障害だ』という主張を使って、その違和への介入や支援を求めても、たぶん成果は得られないよ。

あなたが日本人に見えるような身体変更手続を求めているなら、同一性障害のスキームによらず、あなたが〈医療的介入に値するような真摯な受苦〉のもとにあると医療関係者を納得させられる、新しい語り口を考えないといけないね。でも、そもそも君が求めてるのは、そういうことなの?」

という風に答えたかもしれないな、と、つらつら書きつつ思いました。

P.S. 

概念に引き寄せられて適切なケアを受けることを阻害されていると思われる例も少なからずあります

Re:人種同一性障害について - 児童小銃

という指摘から、自分は微量放射線障害や化学物質過敏性症候群などを連想しました。確かに、疾病分類の体裁をとった新しい民俗概念や災因論が、真に目を向けるべき本質的葛藤や違和から本人や周囲の目をそらしてゆく、という側面はあると思います。GIDではそのスクリーニングを門番がやるから、そうした問題は起きないのだ、ということになっていますね。

 

人種同一性障害について

このエントリは、

中二病? 米国少女「私は人種同一性障害で、中身は日本人」海外の反応 - マグナム超誤訳!

をめぐる、id:rna さんへのリプライです。ブコメチェーンで延々書くよりまとめたほうがいいかと思い、エントリにしました。

まずGIDに関して、脳の性分化、胎児期のホルモンシャワー、特定の脳領域のサイズ…といった生物医学的な説明のしかたは、当事者コミュニティの内部では近年つとに控え目になってきているように感じます。その理由として、ひとつには、もともとこうした論拠が当事者にあまねく説得力や肯定的実感を得ていたわけではないということもあるでしょうけど、もうひとつには、そうした語りにはネガティブな影響のほうが大きいと懸念されているからではないかと思います。具体的には:

  • そうした主張が、ひるがえってGIDの診断に使われるリスクがあるから。生物医学的根拠を強く訴えるほど、「真のTSG」と「偽のTSG」を弁別する医学的指標として使われるリスクがある。当事者の生活課題の大きさとは無関係な要素が、TS/TGの「真正性」を決める基準になってしまう。
  • そうした生物医学的な本質主義は反LGBT派に容易に逆手に取られて、生育環境(母親の生活態度など)への非難や、「子どもをトランスにしない教育」の喧伝に向かうリスクがある。

などです。

TS/TGコミュニティの人々の多くは、日々感じている生活上の困難を解決する手段として、適宜GID診断、ホルモン投与、SRS適用などの介入を希望しているわけですが、その介入を正当化する変更困難性の根拠が必要だった時期に、生物医学的な説明も建前的に使ってきた面があると思っています。

GIDという〈障害〉やTS/TGという社会的状態が、その背景として生物医学的根拠を持ち出さなくても一定の医学的・社会的認知を得て、介入へ至る道筋が整備された現在、そうした語りに重点が置かれなくなるのは、ある意味自然なことだと思います(これは、社会的包摂の進行とともに「性的指向の生得性」という論点が強調されなくなっていったLGBギョーカイの事情と似てると思います)。

カウンターパートとなる医療側のほうでも、性自認の変更困難性はDSM(病因論を重視しない)に従い、基本的には自己申告・自分史+生活実態によって判断されていて、生物医学的根拠でSRS適応かどうかを判断したりはしていないと思います。個人的には、状況に応じて生物医学的根拠のウエイトを変えるという柔軟性も含めて、日本のTS業界の方々も、それをサポートする医療側・法制側の方々も、生活課題を解決するという目的に沿うかたちで大変うまくやってきたし、これからもそうあるべきじゃないかなと思っています。

で、先の女性のこのTumblrエントリ:

ゆき の ものがたり (Yuki's Story) - I am finally going to come out: I am a transethnic...

を読んでみると、自らのtransethnicityの変更困難性の主張・自己確信の表現・生活実態での裏付け・「カムアウト」「本当の自分に戻る」「LGBTQA+と違い、transethnicコミュニティは批判と非難にさらされている」「国籍齟齬(性別齟齬のパラフレーズ)」…などなどの訴え方が、かなりの部分で内外のTS/TGのコミュニティがこれまで培ってきたアイデンティティ・ポリティクスの語り口を下敷きにしており、その歴史的成果を考えると、にわかには却下しがたいものを感じたのでした。たとえばこんな感じ:

"I am finally going to come out: I am a transethnic Japanese woman."

"Unlike the LGBTQA+ movement, which I strongly and proudly support, insults and bashing is all the transethnic community gets. "

"I don’t know if being transethnic is biological or environmental-I can’t explain how it happens-but that doesn’t make it any less real."

" I don’t want to be transethnic; this isn’t a choice."

"Years of my life accumulated and I felt so out-of-place in an American white body. I finally had the confidence in myself to admit that my soul is Japanese."

"I can’t pretend and I won’t hide behind my body any longer. I am proud to be Japanese even if I wasn’t born that way, but this journey to become my true self isn’t easy."

"I’ve always experienced extreme nationality dysphoria, and recently realized it is ethnic dysphoria too."

…これらの語りの部分の「こなれてる」感とか、「ポリティカル・コレクトネスに刺さる」感は、彼女の将来的展望とか生活設計の幼さ---日本社会に再適応するために、学生の間はメイド喫茶で働き、将来は漫画家かラノベ作家になる(!!!)---と鮮やかな対比を見せてて、余計に彼女が「有効に使える言説的武器」としてトランスをはじめとするLGBTの語り口を援用・駆使してるんだな〜という印象がつのります。

自分は「だから彼女に何らかの医療的あるいは法的な介入措置を行うのが正しい」とは全然思ってなくて、「いいから少しもちつけ」というのが正直な所ですが、ブクマした通り「『あちらはOK、こちらはダメ』とする論拠って、意外と乏しいんじゃないかなあ…」という風には思ってます。もともと武器として洗練されすぎているので、他のアイデンティティ領域に水平展開されていったときにもそれなりの説得力があってヤバい、という感想だったのでした。

以上、とっちらかった感じの話で申し訳ありませんです。

ニホンウナギがどれぐらい終わっているのかについての図

今日のニュースで2013年のシラスウナギ稚魚の漁獲量が昨年比で42%、過去最低の5.6tという報道がされて話題になってるけど、これどれぐらいヤバいかわかりますか。過去資料と比較してみないと、いまいちピンとこないよね。つくりました。国の資料の抜粋です。

 

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見ての通りで特に付け加えることもないのですが、ピーク時には250t近く獲れたものが5tになった状況で、まだ漁業規制が敷かれてないというのがすごい。この状況に関する、水産資源管理研究者の勝川氏の言。

ウナギをどう看取るか? - 勝川俊雄 公式サイト

結論からいうと、ウナギは、もう詰んでいる。(略)日中台が協力して、これから禁漁したとしても資源が回復するかは微妙な情勢ではあるが、禁漁に近い措置を獲れる可能性はほぼ無い。

10年前なら、ニホンウナギを持続的に利用するという選択肢はあったかもしれないが、もうそういう段階ではない。「ニホンウナギの最後をどう看取るか」という段階である。今、我々がやるべきこと(できること)は、ウナギを反面教師にして、第二・第三のウナギを無くすことだ。水産物を持続的に消費するシステムを確立して、将来の水産物の消滅を食い止めることが重要である。

すでにおくやみモード…。

この件、日本人が悔恨して終われば済むという話ではないんだね。自分も知らなかったんですが、かつて日本の鰻養殖業界が養殖のためにヨーロッパウナギの稚魚を輸入しまくった結果、あちらのウナギが先に絶滅寸前の状態になり、2007年から厳しい漁獲規制を敷いているけど資源回復の見込みが立たないとのこと。

その結果、バスク地方の伝統料理"Angulas a la Vasca"(うなぎ白子のガーリックオイル煮)は、今ではすり身の模造食品---カニカマのシラスウナギ版---で作るんだそうで。こんなん。

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われわれはすでに他の国の食文化を破壊してまで「本物」を貪りつづけてきたのかー、ということを今更知って、どんより。

 

 

はてなブログに移行してみた

はてなダイアリーのデザインテンプレぜんぶ昭和っぽいけどCSSで微調整してくのつれーわー超つれーわー」という気分になったので、もういっそのことと思ってはてなブログに移行してみました。えいっとね。

そしたらはてなブログって広告でるのね! おばさんびっくりしたわ〜。Proにしないとだめなのね! そしてProはけっこうお高いのね! ンンー…

昨日のつづき

おもむろに昨日(正確には646日前)の記事を読み返してみたけど、2年経ってもほとんど修正すべき点がないような。変化のとぼしい業界であるね。もうちと見取図的なことをまとめて追記してみる。

内装卸の業界ヒエラルキーって、おおむね:
  • メーカー系…サンゲツ(名古屋店のみ)、リック、シンコール
  • 全国・道州規模…年商50〜100億円規模。ニップ、ワタナベほか
  • 都道府県規模…年商10〜50億円規模。各地域のドミナントな内装卸代理店(1社〜数社)
  • 地場の小問屋…年商数億円以下。障子・襖紙問屋がさほど業容拡大しなかったパターン

みたいなかんじになってる。当然、メーカー系や大手になるほど仕入能力が高いので、ふつうの業界なら小問屋からそっちに売上が流れて勢力図が整理されてゆくところだけど、「営業の小回りが利くほど得意先に重宝される」という側面もあり、まだそんなに急速に業界再編が進んでるという感じはしない。どちらかというと小問屋が事業承継できなくて廃業、そこが抱えてたお客さんにもう少し規模が大きい問屋が入っていく…という流れでプレイヤーが減ってきているような気がする、現時点では。ちなみにうちは都道府県規模。

内装仕上げ業界の課題としては:
  • 少子化により内装仕上げ業(≒クロス・床施工)の市場も縮小傾向にあり、この先も好転の見込みはない。
    • 行政の箱物が激減している。国土強靱化には内装仕上げはほぼ無関係。
    • 新築住宅もバブル期の半分以下に激減し、復調見込みはない(参考)。
    • リフォーム市場は伸長しているが、水廻りリフォームやバリアフリー対応ではレタッチ程度しか内装材料を使わない。
  • 内装仕上げ業自体が付加価値のひくい業種になっており、材料・施工とも単価が下落しつづけている。
    • 意匠性のある壁紙がほとんど使われなくなり、従来ならアパートの張替用とされていた量産グレードの白無地ビニル壁紙が新築住宅でも中心になった。安いわ貼るの簡単だわで当然単価が下がる。
    • 内装仕上げ業は職人仕事としてはあまり経験・技術が必要とされないほう。勘が良くて客がいれば1〜2年で独立できると職人さん自身も言う。「高い施工技術・深いノウハウを高い単価で売る」という形が作りにくい。
    • 繁忙期(年末・年度末)と閑散期の現場量の差が極端で、繁忙期にはヘタな職人さんにもそれなりに仕事があるため、技術による淘汰が働きにくい。しかも施工単価は上方硬直性が強く、閑散期の水準に収斂している。
    • 建築現場ではほぼ最終工程になり、業者としての立場も弱いので、工程遅れのしわ寄せを受けやすい。短納期・高品質・低単価という無理ゲーになりつつある。

などなど。業界団体で地位向上活動とか陳情とかしてるみたいだけど、市場構造そのものに起因する問題が多いので、なかなかうまくいってない。

それに対する内装問屋の対応アプローチは、だいたいこんな傾向:
  • 材工共
    • 材料と施工をセットで売るアプローチ(いわゆる材工共:ざいこうとも)。材料提供だけではなく施工まで正規業務として受けられる体制を作る。多くの問屋は手間職人を囲い込んである程度の施工支援能力を持っているので、そこを拡充して元請から材工共で業務受託する。仕入能力があるぶん、一般内装業者よりもコスト優位。ただし既存得意先からすると、問屋が商流を崩して自分たちのテリトリーを荒らしていることになりかねず、諸刃の剣。
  • 取扱商材の拡充
    • 壁紙・床材・窓廻り商材に加えて、住設機器や建材系も扱うことで業容を広げる。商品単価が格段に高いので、売上の伸びしろは格段に増す。内装仕上げの前工程に属する商材を扱うことで、内装仕上げの仕事も取りやすくなる。これも元請直になりがちなので諸刃の剣。あと内装材のデリバリー体制だと運べないようなものも出てくる。
  • 付加価値の向上
    • レオパレスなど大手アパートで「入居時のオーダーメイド内装」というトレンドが出てきている(参考)。オリジナル性を高めるためのカスタムプリントという提案もある(参考)。このあたりの提案を問屋主体で行うことで単価向上を目指す。これはまだ端緒についたばかりだし、みんながやり出したら単価向上にはならないかもしれない。

いずれの対応アプローチも、同じ内装問屋のプレイヤーを減らすという「横の業界再編」ではなく、〈施主−元請−内装業者−内装問屋−メーカー〉というデマンドチェーンを整理して内装問屋が施主側・元請側に近づいていく「縦の業界再編」という色合いが強い。「内装問屋がワンストップサービスとして内装仕上げの工程を請け負いますよ」という感じね。

一方で、内装業者さんは内装業者さんで、生き残りのためには自分たちの施工力の上限に縛られずに売上額と利益額を積み増ししたい。そこで、問屋や他の零細内装業者の施工力を動員して大現場や多数現場の施工を請け負い、自分たちは営業機能に特化してゆく、という流れも出てくる(いわゆる「ブローカー化」)。ブローカーはマージンビジネスなので問屋へのコスト圧力が非常に高くなり、問屋としてはうれしくない。そもそも自分たちも営業機能は持っているので「そんならブローカー挟まず直需でやって利益率上げたいんすけど」という話になってしまう。

多くの問屋や内装業者さんが「いずれ内装業は〈内装業者のブローカー化〉と〈問屋のワンストップサービス化〉という2つの流れに収斂してゆきそうだなあ」という予感はうっすら持っているような気がするけど、どちらにしても大変しがらみまくるマターなので、みなさん長いスパンでどう着地していくかをじりじりと模索しているような感じですね。

弊社はどっちに行くのか。それはまだないしょです。

紹介/手配業務に付随する商流の複雑化

ほとんどの得意先は施工担当の職人を擁する工事店か、自分自身が職人の「一人親方」だが、受注した施工現場にいつでも自分やお抱え職人をあてがえるわけではなく、しばしばキャパシティ不足や工期ズレによる需給ギャップが発生する。そうして人手が足りなくなったときにどうするかというと、得意先は問屋の営業に職人の手配を依頼する。「は? なんで?」と思う人もいるだろうけど、実際、少なくともこの地域では、多くの得意先がそうしている。

問屋営業は商品搬入を通してさまざまな得意先・職人・現場と日常的にコンタクトしている関係で、マンパワーの不斉配置についての情報を、誰よりも速く正確に掴める立場にある。だから、誰々が今はヒマしてるはず→TELして「こんな現場あるけど」→承諾もらって紹介…というかたちで、得意先の現場と職人をマッチングすることができる。逆に、得意先のマンパワーが余ったときは「なんか仕事ない?」と問屋営業に聞いてくる。

この紹介/手配業務が絡むことで、インテリア資材卸の商流は、一般の卸業態に比べて複雑怪奇になる。Aという得意先は、日頃は内装材という商品を買ってくれるお客様である一方、別の時には他の得意先の現場に入ってもらう手駒的な存在にもなり、逆に他でスケジュールが空いた職人さんを受け入れてくれるバッファにもなりうる。すなわち、商品移動にかかる明快なサプライチェーンと、労働力提供にかかる不定形のサプライチェーンの2種類が併存している、ということ。そしてほとんどの場合、後者はマネタイズ不可能。

これは内装材自体が、工事/施工を経ないかぎりは実際の顧客価値に転換しない「半製品」であることからくる特性といえる。






明日以降につづく…。

内装材卸が一般的な商材問屋や卸業態と際立って違う(と自分に見える)点:

  • 商品種類の多様さ・複雑さ
    • 普通に取扱可能な商品が15万種類ぐらいある。発注単位も個・枚・箱などの離散量とm・m2などの連続量が混在していて、複雑さに拍車をかけている。業界全体での商品マスタの規格統一や業界EDIの普及などの取り組みはない*1。結果として、受発注フローの中核に今でも電話とFAXが鎮座している。
  • TTD(Time to Deliver)の短さ
    • 物流回転が異常に速い。主要商材は16:00に発注すると当日深夜には入荷し、それを6:30〜8:30までに現場に届ける。それも単なる在庫商品ではなく、指定長にカット済のワンオーダーものの話。首都圏ではこれがさらに加速し、朝発注で夕方に現場入、昼発注で午後8時入も可能。これにより、ほぼ無在庫での卸業務が可能になっている。
  • 配送範囲の広さ・特殊さ
    • 得意先ではなく、工事現場に直接届ける「現場届」が多い。現場のロケーション情報は、たいてい住所または地図FAXでアナログにやりとりされる。分譲地や大規模建設現場のように、まだ地番がついていない工事現場も多いため、一般的なGPSソリューションによるナビには限界がある。また搬入に時間指定や入場規則(ヘルメット着用など)が課せられる場合も多い。
  • 派生業務の多様さ
    • 一般物流業・卸業の枠組に収まらないような派生業務が多い。地域にもよるが、少なくとも弊社の業務エリアでは、現場調査・採寸補助・職人手配・現場管理など、得意先である内装工事店の業務を直接支援することで材料の受注を取ることが一般化している。

まとめると、「アホみたいに種類の多い商品のワンオーダーものをアホみたいに原始的な方法で受発注し、それまで行ったことのない現場になるべく朝一で配達しながら、他にもいろんな得意先業務の手伝いして、毎日ヒーヒーいってる」というのが内装材卸業の特性ということ。

物流業として見た場合にはかなり高度な水準のことをやっていると思うんだけど、現場業務に対するシステム的な支援が乏しく、受注〜発注〜配送のサプライチェーンすべてを極めて属人的なやりかたで廻してるので、構造的に労働集約的な働き方になってしまう。端的に言うと、フツーにブラック企業化する。これ企業コンプライアンスの観点からすれば大きな問題。

*1:主要3メーカがプロプライエタリなWebEDIによるオンライン発注を受け付けている程度