被災地と再び呼ばれて

*私たちの住んでいる土地が

再び被災地と呼ばれている。今回の水害は、秋から冬に向かう、週か気のさなかの出来事だった。私たちはなすすべもなくただ被災していったわけではない。身を守ろうとし、必死の努力をした、それでも多くの命が失われた。今、根こそぎ生活の基盤をを奪われてしまった多くの人たちとともに日々を暮らしている。まさにたわわに実って労働の実りがねk歩そぎ地に落ち泥にまみれ奪われてゆくのを見た。あまりのむごさに言葉も出ない。

 丸森も、角田も、吉田川の流域にも多くの知人が住んでいる。もはや電話がつながらず、連絡の取りようもなく、ただ死者の名簿に名前が載っていないから、どこかできっと生きていてくれているのだと思うしかない。

 

*寂しく厳しい秋になった

やがてもうすぐ、冬が来。雪が降ってくるる。高齢地域として名高かったあの地方の方々がどうか無事にこの冬を越すことができますように。手を合わせて祈る。

あまりに長く放置したので

 システムの更新にとても時間がかかり、原稿を書くだけにしかPCを開かなくても、スマホで検索することに慣れてしまった事に気が付きました。紙で日記を書くことは続けていたのに改めて、ブログを書くことをしなくなったのは、それだけゆとりが無かったったということだろうなと思います。今こうして振り返ると、事故にあう、ママを失い、友を失い、障害を負い、今までと少し自分がたくましくなる必要があったのかもしれないと、思います。魔女らしくまたこの場所に戻ってこようと思いました。

片眼の視力を失っても、きちんと検査を受けて条件を満たせば、免許の更新ができることがわかり、私はまた車を運転することができます。気を付けて安全運転に徹しています。

様々なことを通り過ぎて

 やっと少しゆとりができました。家族にも変化があり、それぞれの人生の困難を感じてはいますが、それを自分の力で乗り越えるタフさもあり、人間は何とけなげで、いとおしい生き物だろうかと思います。人が生きてゆく姿は、その人本人だけではなく、ともに生きる周りの人にも大きな影響を与えます。その姿を通して人は学び成長してゆくものだと思います。たとへそれが幼い人であっても年老いた人であっても、人というものの存在の重さに変わりはなく、その力もまたくらぶべくもないものだと思い知りました。生きる人あり、亡くなっていく人ありの秋の日々です。

  年を重ねることに、善きかなという思いを持てない年月を重ねてきました。年老いてゆく人の最後の月日に寄り添うことを仕事としてきた時期がありました。13年生活支援の現場にいて、心を整えることをその人の最後の思いと重ねて寄り添っていく。その仕事をライフワークと思っていましたが、職務中に交差点で追突され、その仕事を続けることを断念せざるを得なくなりました。


 今、別の形での相談業務についています。私が失ったもの、あきらめたものはもしかしたら今のこの仕事につくためのステップだったのかもしれないと、ふと思うことがあります。
 私にはまだ自分の人生を俯瞰してみることはできません。それでもこうした出来事は、何か大きな転換をもたらします。何事も起きなければ、自分はその道を決して選ばないだろうと思うことが、一つの出来事をきっかけに、それ以外に、自分を生かす道がないことに気が付く。ためらうことなく自分の気持ちがそこに向かっていく不思議さ。聖書に私が神を選んだのではなく、神が私を選んだという言葉がありますが、私の身に起こったこともまた、大きな手に摘み上げられて移し替えられたような感じがします。ここで咲きなさいと。

たまりかねて

モリーを大きくしてもらいました。やっと原稿をスムーズに書くことができるようになりました。今日はこれから某大学に授業に行きます。なんだか今年は講義が増えてあちこちからお声がかかり、授業をしに行ってます。根っから学ぶことに関することが好きらしく、楽しいのです。
視力が落ちすぎて、もう、運転は無理と思うので、今年度の免許更新はやめようかと思いました。車で仕事を支えてきて数十年。無念ですが致し方ありません。どうやらPC、スマホや文字を読む、書くなどなど私の毎日は、やってはいけないことだけでなりたっているので、仕方がない結果です。

夏まで頑張る

7月まで毎月複数の機関で、講義を頼まれてしまった。何とか乗り切っていこうと思う。今しかやるべき時がないとも思い、今できなければきっと後悔すると思う。もう人生でやり残しや、後悔はしたくないから。思うように生きていこうかなと思う。それにしても私はほかの人より15年遅れて自分の人生を生きているように感じる。だから、他の人が人生の終い支度になっても、店開きをしている。
 人それぞれの生き方があることを地で行っているように感じる。時の流れに遅れてきた人、遅れて吹く風、遅れて実を着けた樹木。なんとなく間抜けて、何となく孤独。それでもいいから自分らしく最後までこの生き方を貫こうと思った。年齢はづしようもないが、私は年齢だけで人生を切り分ける気はない。

研修のための原稿書き

頼まれた研修の原稿を書いている。実務研修の原稿はなかなか難しい。役に立たなかったら時間の無駄だから。できる限り実務に役に立つように現場に即して細やかに、勘所を抑えてと思うと時間が足りなくなってしまう。3時間ぶっとうしでやると、大人は、くたびれて、頭がざるになってしまうから、メリハリをつけて、いかに面白く記憶するのかが問われる。学生は、聴くことそのものを投げ出してしまう。あとでレポートの提出があるのだけれど、耳に残ったことをつなぎ合わせてなんとかでっちあげる。そしていつか現場に立って真っ青になる。実習訓練を受け持ったら力をつけてあげられるのになあと思うけど、おたがいに時間がうまくかみあわない。