自分のやっているビデオゲームの話を読みたくなって、ときにはRedditなどでおこなわれている雑談を眺めたりすることもあるのだけれど1、そのなかで、英語圏のゲーマーがimmersionとかimmersiveという語を使っているのをしばしば目にしてきた。「このゲームへのimmersionがすごくて……同じようなゲームってなんかない?」とか「このビルドで一周したけどめっちゃimmersiveな体験だったぜ!」とか、そういうの。めんどくさいので実例は挙げませんが、きっとみなさんも見たことがあると思います。
ただこれ、言わんとすることがいまいちピンときていなかったんですよね。あきらかに質のちがう体験がどれもimmersion(めんどくさいので以降では定訳である「没入」を使うが、当然日本語のそれとはニュアンスが違うことに注意されたい)の一語で表わされているようにみえる。そしてそのわりに、それら質のちがう体験のどれにも共通して「没入」といいたいなんらかがありそうな感覚もたしかにある。その語を使えと言われればきっとそれほど問題なく使えるだろうし、そのかぎりでの「理解」はできているとは思うんだけど……やっぱりモヤモヤが残るところは否めない。
そもそも、どうもこの「没入」って語はなにかしらの評価的な意味をもっていて、ビデオゲームの歴史の一部において追い求められつづけてきたものだという印象がある。過去には「イマーシブ・シム」2なんてマニフェスティブなジャンルもあったくらいだし。 ビデオゲームにとってストーリーテリングとはなにか?――『A Mind Forever Voyaging: A History of Storytelling in Video Games』- Dylan Holmes - 最後の短篇企鵝の剥製を読んだときにも「このへんの没入へのこだわりってなんなんだろうな」みたいなコメントをした。
じゃあ、「没入」っていったいなんなんなのか。
Ermi & Mäyrä (2005) のSCIモデル
そんなことを考えているうちに前掲のホルムズ本のエントリを書いた千葉さんから教えていただいた3ところによれば、マウラ『ゲームスタディーズ入門』4でこうした「没入」の類型について整理している記述があるらしい。
それならばと実際に読んでみたところ、マウラは「没入」とよばれる体験を以下の3つに分類している5ことがわかった。
- 感覚的没入(Sensory Immersion)
- ざっくりいえば、視聴覚的な刺激からくる「まるでそこにいるみたい」みたいな体験
- 課題に基づく没入(Challenge-based Immersion)
- ある状況に対してスキルや思考をちょうどよく駆使していることによる熱中みたいな体験。いわゆるフロー体験
- 想像的没入(Imaginative Immersion)
- 虚構的状況への感情移入(これも没入に劣らずざっくりした言葉だ!)みたいな体験
これ自体は納得感のある分類であって、たしかに「没入」という言葉だけでは曖昧だったところが整理されているように感じる。この3分類のどれかでカタが付く話は多そうだ。ただそれでも、「それでも共通するなにかがある」みたいな感覚は解決しないし、これらが相互にどう関連しているのかもわからない。納得感があるとは言い条、若干のモヤつきは残るものでもあった。
ラウトリッジのコンパニオンと『なぜフィクションか?』
乗りかかった船というわけで、もっとほかのものも参考にしてみたくなる。ではどこからはじめるべきか……となったとき、やはりある種の「手引き」的な本にそれを求めるのは自然なことだろう。
……なんでね……買ったわけよ……The Routledge Companion to Video Game Studies (2nd Edition)を。紙の本だと3万円するところ、Kindle版なら9,000円程度。お買い得ですね! どうせ図書館とか研究室で買うからええやろとか思ってんねやろ。足元見やがって……と、価格はいいとして、Therrienによる“Immersion”の項目はざっくり以下のような内容(と感想)であった。
- 前半部分では、件のSCIモデルについて周辺の文献とともにより詳細に解説している
- たぶんオリジナルの論文や『ゲームスタディーズ入門』よりもわかりやすい
- 後半部分では、シェフェール『なぜフィクションか?』、および、それをバックアップするような神経科学的な知見を紹介している
- なぜフィク自体はいい本だと思う6んですが、本書の「没入」の話は一般的にすぎて実際の使用に対して適用できる気がしねえ
というわけで、あんまり状況は改善しなかった。手始めはこの2つでいいんだな! とは思えたし、それぞれに理解は多少深まったとはいえ……。
Calleja (2011) のプレイヤー関与モデルとIncorporation
そんななか、別件でMIT Pressのゲームスタディーズ関係の本を漁っていた7ときに見つけたのが In-Game: From Immersion to Incorporation である。まさにこの「没入」の話を扱っているらしい。調べてみると、『ゲーム研究の手引き』(2017)の松永「ゲーム研究の全体マップ」のなかで近年のゲームスタディーズにおける「重要な理論的研究」のひとつとして挙げられており、「『没入』概念の整理をしたうえで、ゲームのプレイ経験を論じるための枠組みを提示している」とのこと。……まあじゃあ読むか……。
本書の構成は下記のとおり。
- Games beyond Games
- Immersion
- The Player Involvement Model
- Kinesthetic Involvement
- Spatial Involvement
- Shared Involvement
- Narrative Involvement
- Affective Involvement
- Ludic Involvement
- From Immersion to Incorporation
第1章で本書で扱う対象の限定や用語の整理を行ったあと、第2章でPresence Theory8およびゲームスタディーズにおけるimmersionあるいはpresenceという語およびそれに関連づけられる概念をおさらいしつつ批判したのち、これらimmersion/presenceと関連づけられる概念をより明確に扱うためのモデルとして第3章で「プレイヤー関与モデル(Player Involvement Model)」を提示する。第4章から第9章でこのプレイヤー関与モデルにおける6つの次元(後述)をそれぞれ詳述したうえで、第10章ではこのモデルをベースとし従来のimmersionあるいはpresenceに代わる「incorporation」というメタファーを用いてこの独特の体験を記述する——といった内容。というわけで、第4章〜第9章はざっくり飛ばし読みしつつ主に最初と最後だけ読んだ。以下はそこから自分が読みとった内容であり、当然のごとく内容は保証しないし、だから例のごとくみんな読んでください。わたしは批正を待っています。
さて、第2章(と、第3章の後半でのマジックサークル批判)あたりは「概念が混乱していたり曖昧だったりすると話が進まないよ」というのをこれでもかと伝えようとしていてこれはこれでかなりおもしろかったんだけどそれは置いといて、キモとなるのはまずもって第3章で提示されるプレイヤー関与モデルである。ざっくりいえば、ビデオゲーム(のうち、仮想的環境 virtual envimonment をふくむような作品)へのプレイヤーの「関与」というのは以下のような次元からなるというもの。
- Kinesthetic Involvement
- アバターなどゲーム内の対象を仮想的環境内でコントロールすることにかかわる側面
- Spatial Involvement
- 空間内での移動やその空間のようすの認知など、仮想的環境内の空間的性質にかかわる側面
- Shared Involvement
- 仮想的環境内のほかのエージェント(NPCか他PCかは問わず)の認知や関わりにかかわる側面
- Narrative Involvement
- 物語的要素(もとから埋め込まれてるか創発的なそれかは問わず)にかかわる側面
- Affective Involvement
- Ludic Involvement
このうえで、このそれぞれの次元に対し、まさにプレイしているときの「ミクロな関与」と、それ以外のとき(そのゲームそのものからは離れているとき、つまりオフラインのとき)の「マクロな関与」という2層がある……というモデルとなっている。
このとき、プレイヤーの認知資源は有限であるからして、特定の次元に強く関与しているときはほかへの関与はおろそかになるだろうし、特定の次元を内面化する(internalize/ひらたくいえば慣れる)ことで特定の次元への関与の度合いが低くなれば、ほかの次元への関与の度合いが高められたりもしうる。そしてもちろん、ゲームプレイの内外でこうした関与の度合いはどんどん変化しうる。こうした関与の度合いによって、たとえば(さまざまな意味で)「没入」とよばれてきたような体験が生じるよ、という感じ。
さて、本書においては、既存の「没入」という語に関連づけられる概念がimmersion of transportationおよびimmersion of absorptionの2種に分類されている。前者は「まるでどこか別の場所にいるみたいだ」「まるで別のキャラクターとして生きているみたいだ」みたいな体験であり、後者はなにかに没頭するような体験である。
このことからもなんとなく察せられるかもしれないけれど、本書の第10章において述べられることには——まずimmersion of absorptionについていえば、それは先述の各次元(の組み合わせ)における関与の強度が高い体験、といった感じになる。そしてimmersion of transportationのほうはといえば、「プレイヤーが仮想的環境を意識に組み入れる(incorporate)」過程と「アバターを通してプレイヤーが仮想的環境に組み入れられる(be incorporated)」過程とが同時に起こっているような体験として特徴づけられている9。ここにおいてはKinesthetic InvolvementとSpatial Involvementが強い前提としてはたらくことになる。なぜなら、プレイヤーの意識のなかでのその空間の認知と仮想的環境内におけるプレイヤーのアバターの行為主体性が必要であるためだ。
とだけ言われてもなんのこっちゃわからないと思うのだけど、ここで提示されているL4Dの例は理解のためになるかもしれない。同じ部屋で2人がL4Dをプレイしてるような状況があり、(ゲーム内からではなく)直接隣から助けを求める声が聞こえてきたとしよう。そのとき、助けを求める声は当該虚構世界内において聞こえる声ではないにもかかわらず、必ずしも「没入感」を阻害することはなく、プレイヤーの意識のなかに「組み入れ」られ、むしろ「没入感」を高めることさえある、みたいな。
……うまく説明できている気がまったくしないのだけど(ごめんて)、とりあえずのところそういう内容となっている。
では、たとえば先述のSCIモデルとの関連はどう考えられるのか。本書においては(当然第2章において重要な貢献として提示されている一方で)明示的な対応関係が示されてはいない。したがってここからはわたしが勝手に考えたことになるのですが……。
まず、SCIモデルにおける「想像的没入(Imaginative Immersion)」は、Narrative InvolvementおよびAffect Involvementの度合いに関連しているといってよいのではなかろうか。これは実際のところビデオゲームにかぎったことではなさそうでもある。そして、「課題に基づく没入(Challenge-based Immersion)」のほうは、Kinesthetic Involvement、Spatial Involvement、Ludic Involvementあたりの関与の度合いに関連しているといえそうだ。
で、問題は「感覚的没入(Sensory Immersion)」だ。本書におけるincoporationな体験というのはなんとなくこれに対応していそうに思えるのだけれど、たぶんそういうわけにはいかなさそうだ。たぶん(たぶんが多いな)視聴覚的に「それっぽい」ことは必要条件のひとつでしかない。あえていえば、感覚的な没入というのは主にSpatial Involvementのベースとなっており、そのうえでKinesthetic Involvementをさらなる必須要素としつつ他種の強い関与も含めてようやく実現されるのがincorporationな体験である、というのが本書の立場であるようにみえる。
2024-03-18追記:木村「ゲーム心理学のキーワード」について
書いた翌日になって気がついたのだけど、このCallejaのプレイヤー関与モデルについては『ゲーム研究の手引きII』(2020)に所収の木村「ゲーム心理学のキーワード」における「関与」の項で紹介されている。より簡単には、同じく木村さんのnoteの記事である右記もある:ゲームプレイの多面性|しましまにゃんこ。『ゲーム研究の手引き』のほうを読んでるならこっちもちゃんとチェックしておけよという話だ……。ともあれいずれにせよ、図もわかりやすいのでこちらも参照するのがおすすめです。
これがわたしの現在地ということで、今日はここまで! incorporationという語と概念がいかにイケてるからといって一般に流通するとはあまり思えないし(双方向であることがわかりづらすぎる)、Callejaのモデルに(質的研究をもとにしているとはいえ)どの程度認知科学的な基礎付けがあたえられるのかといったこともよくわからない。いまだにすっきりしない点が残っていなくもなく、だから今日もおれは、前らの言うImmersionのニュアンスがわからねえんだよ!