ゲームと「できること」の芸術 - C. Thi Nguyen

以前読んでおもしろかったグエンのべつの論文“Games and the Art of Agency”を読んだ1Games: Agency as Artのもとになったもの。以下に内容をメモっておく(いつもどおり内容は保証しない)。

著者のグエンについては、たとえば下記で紹介されている。というかそもそも、この論文の第1節はこの記事の内容とけっこう重なっている(以下のまとめでも参考にしています)。Games: Agency as Art を紹介するような記事がもとになっているから当然だろうか。

ティ・グエン「芸術はゲームだ」 - #EBF6F7

で、タイトルどおり本論文のキーワードは‘agency’なんだけど……そもそもこの語がなにをあらわしているのか、正直ちょっとわかりづらい。定訳としては「行為者性」とかになるのだろうが、これもピンとこないところがある。注14にあるとおり、本論文の目的のもとではagencyを厳密に定義する必要はなく、ざっくり“intentional action, or action for a reason”、つまり「意図や理由にもとづく行為」くらいの意味合いに解しておけばよいいらしい。実際に読んでみた感じだと、「したいこと、すべきこと、そしてそれに対してなしうること」みたいな雰囲気のように感じた。……ともあれややこしいので、以下ではひとまず「エージェンシー」とカナ表記することにする。

さて、本論文はおおざっぱに前後半に分けられ、おもな主張は第3節までで済んでいる。後半はその主張の内容をよりくっきりさせるための想定反論と再反論。とくに前半についていえば、要点はおおよそ次のような感じになるのではないだろうか。ちなみに、ここでいう「ゲーム」というのはとくにビデオゲームに限ったものではない。

  • ゲームプレイには(排他的ではない)2つのタイプがある。金銭的な報酬など目標そのものに価値をもとめる「達成プレイ」と、目標のためにがんばる過程(ある種の美的な経験)に価値を求める「努力プレイ」である
    • これは外在的価値/内在的価値とは直交していることに注意。ちなみに、フィクションの側面がまた別にあることにも触れてはいるが、この論文では扱わないとしている
  • 努力プレイにおいては、ゲームが提示する一時的な目標設定やルール、つまりエージェンシーを真剣に引き受けなければならない。そしてそのうえで、「過程を愉しむ」といったもともとの目的のほうはいったん忘れる必要もある。ここでは、もともとの目的と一時的な目標が階層構造をとっている(し、われわれにはそのような態度をとる能力がある)
    • スーツ『キリギリスの哲学』にある定義を大きく引きつつ微修正して掘り下げた感じ。後半の想定反論/再反論はおおむねこの点に対しておこなわれている
  • ゲームはエージェンシーを媒体とする点で特徴的な芸術であり、ゲーム作品はエージェンシーを記録するものだといえる。ゲームデザイナーがやっているのはエージェンシーのための枠組み2のデザインである
    • ここでエージェンシーはあくまで媒体であることに注意。これを「通じて」美的な体験やらなんやらを得る
  • われわれの日常生活におけるエージェンシーの複雑さに対して、ゲーム内のそれは非常に単純化されている。けれど、だからこそ、ふだんわれわれに馴染みのないエージェンシーにも身を委ねようとできるし、それにより日常生活では得られないような美的経験を得られたりもする
    • ここがシカールの「自由」推しに対する反論になっているのがちょっとおもしろい

長いから細かいところはあれだとしても、だいたいそんな感じだったと思う。主張じたいはスーツによるゲームの定義論を、あるいは(引かれているわけではないけれど)ビデ美の第7章の前半あたりをより展開したような雰囲気ではあってものすごく真新しい感じでもないのだけれど、とはいえ事例の出し方がうまくて自分のなかでの整理がちょっと進んだような気がする。

おわりです。


  1. 正確にいえば、読んだのはPhilArchiveや著者のサイトにあるドラフト版。
  2. 『ビデオゲームの美学』における「ゲームメカニクス」とほぼ対応すると思われる。というか、本論文の第2節で扱われている美的な経験云々も同書第7章の美的行為の話とかなり似たことを言っているっぽいし。

2024-04-01

『マンゴー通り、ときどきさよなら』を読んだ。きっかけはこちらで紹介されている(いつも本や漫画の紹介がおもしろそうなんだよな)のを見たからで、前半あたりは「ほーん、移民が集まる街のようすを活写したやつっスね。はいはい」みたいなナメた態度でいたのだけれど、その場所の空気(視覚的イメージではない)がだんだんじぶんのなかにできてきて、ついでにほんのすこし(ほんのすこし!)だけ語り手が成長したのが見えてきてからは、前半も振り返りつつやられてしまったところがあった。サリーの話のくだりとかもうどうしようもないわね。よかった。

なんというか、「居た場所」——というのはいわゆる「自分の居場所」といういみではなく、好きだろうと嫌いだろうと「居た場所」でしかない場所——について、身体をもって知ってしまったからこそできる、してしまう、あたりまえだろうというぶっきらぼうさと、どこまでも細部を思い描けてしまうこととの両立、そういう距離感がよくあらわれていたと感じたからではないか。自分の居場所じゃないなんて思っていようが、よいものとして懐しんでいようが、「居た場所」というのはどうしたってそうなってしまう。そういえばさいきん話題になっていた「創作文芸サークル「キャロット通信」の崩壊」だって、ある面では(ある面でしかないが)そんな話だったんじゃなかろうか。

ひるがえっていえば、他人のそれを(フィクションであろうがなかろうか)読めるというのはおもしろいことであることよなあ。いまさらか。

人類の会話のための哲学 - 朱喜哲

読んだ。

読んだ動機は以下のとおり。

  1. 『プラグマティズムの歩き方』『真理・政治・道徳』といったミサックの本を読んできて1それらにある程度馴染みを感じつつも、とはいえこのプラグマティズム観だけだとちょっとな……とも感じており、その中和剤となることを期待して
  2. 著者がWebで連載していた〈公正〉を乗りこなす2がおもしろく、そのバックグラウンドとなるローティのことをもっと知りたくて

版元のサイトはじめWeb上で目次が見つからなかったため、以下に置いておく。

  • 第1部:ふたつのプラグマティズム:ミサック対ローティ
    • 第1章:ニュープラグマティズムからの異議申立て
      • 1.1:ミサックの「分析プラグマティズム」史観
      • 1.2:プラグマティズムと自然主義
      • 1.3:「特権的なボキャブラリー」をめぐるローティ批判
      • 1.4:「ナルシシズム」をめぐるローティ批判
    • 第2章:「探求」か「会話」か
      • 2.1:「実践」をめぐって
      • 2.2:「真理」と「客観性」をめぐって
      • 2.3:「探求」と「会話」をめぐって
      • 2.4:ふたつのプラグマティズムを調停する
  • 第2部:規範性のプラグマティズム:セラーズからローティへ
    • 第3章:分析哲学の規範的転回
      • 3.1:カルナップにおける「実質推論」
      • 3.2:セラーズにおける「実質推論」
    • 第4章:セラーズの「規範性」概念を再考する
      • 4.1:「ふたつの規範性」の導入
      • 4.2:「ひとつの規範性」とその部分的な形式化可能性
      • 4.3:「規範性」理解におけるカルナップとセラーズの齟齬
      • 4.4:ローティ由来の二元論的セラーズ理解を払拭する
    • 第5章:ローティにおける「理由と因果の二元論」とその克服
      • 5.1:「ふたつの論理空間」を峻別する
      • 5.2:ブランダムにおける「因果性」
      • 5.3:推論主義による因果推論の分析
      • 5.4:分析プラグマティズムによる「理由と因果の二元論」克服
  • 第3部:「文化政治」とプラグマティズム:ローティからブランダムへ
    • 第6章:「奈落の際で踊る哲学」としてのネオプラグマティズム
      • 6.1:反表象主義において何が共有されているか
      • 6.2:ブランダムはどのように「表象」概念を回復するか
      • 6.3:ローティはなぜブランダムによる「回復」を受け入れないか
    • 第7章:「文化政治」としての推論主義(1)ヘイトスピーチを分析する
      • 7.1:推論主義による侮蔑表現の分析
      • 7.2:推論実践と「言語ゲーム」論の導入
      • 7.3:ジェノサイドに至る言語ゲームにおける推論的HS
      • 7.4:明示的差別表現を含まない平叙文をHSとして分析する
    • 第8章:「文化政治」としての推論主義(2)感情教育論を明晰化する
      • 8.1:優生思想と本質主義
      • 8.2:反本質主義としてのプラグマティズム
      • 8.3:推論主義による「感情教育」の明晰化
      • 8.4:単称名辞の回復と感情教育

おおざっぱにいえば、第1部では批判者としてのミサック、第2部は前史としてのセラーズ3、第3部は後継としてのブランダムを通してローティをみていく……といった内容。博論をもとにした本ということで当然ながら文脈の理解を求められるところがあり、第1部については伊藤『プラグマティズム入門』を、第2部および第3部については白川『ブランダム 推論主義の哲学』あたりを読んでいたおかげでしろうととして読める程度にはついていけた……んじゃないだろうか。どうでしょう。そうだといいですね。ともあれ、自分とおなじくらいの知識のレベルのひとにはとりあえずそれらを先に読むことを勧めるとおもう。

で、この構成からもわかるとおり、動機として挙げたうち1.についてはおおむね第1部で済んでいる。ただ、まさにその点でよくわからなかったところがあったため、以下。

とりあえず、第2章、特にその後半の内容(に対する自分の理解)をものすごく雑にまとめると次のようになるでしょうか。

まず、ミサックによるローティ批判のポイントは、ローティが 人類の探究におけける客観的次元 を軽視しているのではないか、という点にあるとされる。しかし、ミサックが重きをおく(学術共同体の)「探求」においてはある種の客観性が要請される一方で、ローティが重きをおくのは(人類全体の)「会話」であり、後者のような次元において客観性は必須ではない。これは職業的な哲学者としてのスタンスの違いであり、両立しうる。そして、「会話」が「探求」を包含するようなう実践であるかぎり、哲学者の責任範囲として「探求」のみにフォーカスしてしまうことは、ときに「会話」への責任ある役割を担うことの制約になってしまうかもしれない。

これ、おおまかな理路としてはとくに異論はなく、両立しうるしローティの視点も大事だよねとなるのだけれども、(ミサックからの批判へのディフェンスとして書かれているからというのはあるにせよ)「探求」の範囲とそれを担う共同体をすこし狭量にとらえすぎているのではないかと感じたんですね。われわれの日常生活における「探求」が宙に浮いているのではないか、と。そして、ミサックのスタンスをそのように狭めて述べている(ようにみえる)のは著者なのか、それともミサック自身なのか、本文を読むかぎりだといまいちよくわからなったのです。

もちろん、たとえば第1章の自然主義(とくに第1章の注33あたり)や特権的なボキャブラリーの話が関連してくるにもかかわらず自分のなかでうまくつなげて理解できていないからだったり、あるいは論集 New Pragmatists 全体の論調としてそうなっているにもかかわらずそれを知らないからだったり、つまり自分がよくわかっていない部分のあるせいだとはと思うのですが、すこし消化不良だったため、以上書いて残しておきます。

ちなみに2.のほうの動機に関しては、じゅうぶん応えてくれる本でした。おすすめや。


  1. 『真理・政治・道徳』についてはブログでまとまった感想も書いた
  2. 『人類の会話〜』のすこし前に書籍化されている。もちろんこっちも読みました。
  3. なお、セラーズの検討にあたってさらにその発想のもととなったカルナップの構文論も(本論の道筋に必要なぶんよりも多く)紹介されており、そこはまた別のいみでおもしろかった。こういうプロジェクトだったんだ! みたいな。

「自然としてのゲーム」について

こないだのBG3感想日記に書いた「ソリッドで一見しては把握できないようなメカニクスが、実験と調査にたいしてたしかにこたえてくれる感覚」について、まとまらないながらもすこしだけ。

科学と工学

まず、これに類する感覚が述べられたブログの記事を読んだことがあるはずと振り返ってみたところ、あったあった、phi16さんのこの記事だ。

ゲームの話 - Imaginantia

今回の話にまつわるポイントとしては下記だろうか。

「観測と制御」の先にあるのは「知識欲・理解欲」なのかもと思いました。つまりゲームを識ることそれ自体が楽しいのです。

そしてこのためには、「システムとプレイヤーの間の信頼関係」がなきゃならない。プレイヤーからすればなにかを入力すればそれに応じた反応がある(インタラクションが適切に設計・実装されている)と信頼できている必要があるし、システムの側もそのような「探求」をプレイヤーがおこなってくれると信頼していなければならない……みたいな話がされている。

これって、(あくまで類比でしかないものの)自然の観測や実験(自然科学)とそれを活用した制御(工学)のおもしろさになぞらえることができそうではある。現実の物理法則のようなメカニクスにたいする探求と、ビデオゲームのような融通のきかないメカニクス(およびそこに重ねられた虚構)に対する探求、みたいな。キャラクタービルドがおもしろいのは、その「自然」をどう使いこなすか、つまり工学チックなおもしろさだとか。そういう。

このスタイルに立つなら、たとえば攻略本や攻略Wikiみたいなものを見ながらプレイすることにも特有のおもしろさがある、みたいなことはいえるはず。

メタAI

似たような話題でもうひとつおもしろかった直近の記事。

ここの前編にも「ゲームは『自然』であってほしい」という喩えがでてくる。もちろん、なんのために喩えたいかという点で異なってはいるんだけど(対談のほうでは「自己変容」の話1につながる)、メタAIのようなものがその「自然」を毀損してしまうという点では共通しているともいえる。

いわゆる「メタAI」やその周辺のしくみについては「ブラックボックス的」かどうかってポイントがありそう。

  • 「メタAI」として扱われるものは、おおむね入力と出力との間がブラックボックスであると考えられているのではないか
  • そもそもブラックボックスでない場合、その調整はプレイヤーの分析によって引きずりおろされ攻略に利用される、つまり「メタ」なものでもなんでもなくなってしまう。バトルガレッガのランクシステムあたりを想像するとわかりやすいか
  • そのいみで、対談の後編の最後のほうに出てくる「キャラクター化されたメタAI」みたいなものは「メタ」ではないのでは
  • 「ブラックボックス的」という語はちょっといけてない。なんらかの傾向性というかおもてなしがなければただのRNGになってしまうし、たんに隠されているという話ならマスクデータもそうなので、そのへんの違いも含められるもうすこしうまい表現ができればいいんだろうけど……

ブラックボックスだと、それ以上探求が続けられないからね、と2

だから、(先のBG3の感想にもちょっと書いたんだけど)たとえばGMがいまの生成AIの延長線上にある(もっと賢いけど、そのゲームのかぎりで楽しませてくるような役割のみを果たす)ような、なんらかのいみでTRPGぽさを再現したいCRPGがあったとして、それってやっぱ「違う」んだよな。機械的な融通の効かなさがなきゃ探求の対象にできない。けっきょく自分しか見てくれないというのは、上述の「信頼」がない状態であるともいえるかもしれない。この点でいえば、むしろ人間のGMだとゲーム外でのつながりや別種の融通のきかなさがあらわれるぶんむしろ「自然」に近づくような気もしてしまう。あるいは、考えてることがなんもわからん(開発者にもわからん)ような「メタAI」ならそれはそれでおもしろくなるのだろうか。いや、それは三体世界で科学をやろうみたいな話になってしまうのかな。とかとか。

ぜんぜんまとまらないが、以上いったんメモ程度に。


  1. 対象が同じでなければ自分が変わったかどうかがわからない/対象が同じでなければほかの人との感じ方の違いや一致することのうれしさもわからない、みたいな話。明示的には触れられていない(とおもう)が、意見交換による自己変容も起こりづらいといった点も意識されているのかもしれない。これらには同意する(自分もそのタイプのプレイヤーだと思う)が、今回の話とはまた別のはず。
  2. RNGだと確率として記述できる。もちろん疑似乱数であるため、その方向への「探求」が可能なケースもある。

『ユニコーンオーバーロード』と「デッキ構築」、あるいはメカニクスの抽象化について

以下の記事を読んで気になったことがあって、それについてちょっとだけ。

ユニコーンオーバーロードのバトルシステムが素晴らしかったのでそのヤバさを説く|だらねこ

同記事では『ユニコーンオーバーロード』について、アトラスの山本氏の発言を引きつつ「デッキ構築」というキーワードをとりあげており、「シングルデッキ構築」をおこなう『Slay the Spire』と「マルチデッキ構築」をおこなう本作とを対比しています。そのうえで、「マルチデッキ構築」によって実現されるおもしろさが以下のように述べられています。

  • 組み上げたビルドをボコボコにしていい
    • 特定のビルドを強烈にメタる敵が出てきてもかまわないため、以下の役割の明確化につながる
  • 役割の明確化とフォローのための構築
    • 部隊単体で強みを伸ばしたり弱みを緩和することを考えたり(「デッキ内の需要」と表現されている)、自軍全体でのリソース配分を考慮しながら部隊相互の役割分担を考えたり(「デッキ間の需要」と表現されている)できる

これらがそのとおり実現されている点については同感です。ただいっぽうで、いったん「デッキ構築」というキーワードを忘れて考えてみれば、これってパーティ内での役割分担のあるロールプレイングゲーム1のおもしろさとして挙げられるものと同じだともおもうんですよね。本作じたいいわゆる「SRPG」2として売り出されているのだからそうなって当然とさえいえるかもしれない。つまり、「マルチデッキ構築」のおもしろさを実現するメカニクスじたいは、ある程度抽象化するならば「パーティ内での役割分担のあるロールプレイングゲーム」であればおおむね存在しているといってよいはずなのです。「部隊」を「キャラクター」として、それらをまとめた自軍を「パーティ」としてとらえる、ないしはそういったフィクショナルな意味づけを捨象してメカニクスだけを抽出したときに、「ビルドの要素がちょっとややこしいロールプレイングゲーム」として包括してしまえる。したがってこの水準では、本作に独自とはとくにいえない、と3。なんならオンライン闘技場のおもんなさについてだって、そういうRPGにおいてパーティ内での役割分担もできないキャラひとつで戦うことのおもんなさを考えればわかりやすいかもしれません。

もちろんこれって、「ちょっとややこしい」の内実がだいじという話でもあります。「1つの自軍」-「10の部隊」-「5人のキャラクター」-「各種の装備/スキル/作戦」という意味付けにもとづく層構造をつくることによって、ビルド要素の複雑さを整理し、各層でのビルドの多様性を確保している……みたいなこともいえるでしょう。それこそ『伝説のオウガバトル』などである程度実現されている構造なのですが、あまりフォロワーがいなかった4ことから新鮮に感じられるというのはあるでしょうし、もちろんより洗練されてもいる(とくに作戦はいいですよね!)。同記事中の「50キャラに感情移入できるゲーム」の項の内容は、この構造(と、同記事にもあるとおりヴァニラウェアの力技)がその実現をたすけているということになるはず5

……という感じで、山本氏の発言に引きずられた6せいか、抽象化とそれによる比較のしかたに違和感があったという話でした。


  1. (特にテーブルトップの)RPGにおいて役割分担は本質的な特徴のひとつだよみたいな考えかたもあると思いますが、ビデオゲーム作品のなかでRPGとされるものにおいてはとくだん必須となってはいないのが実際のはずです。ところで、このサイトで紹介されている「コスティキャンのゲーム論」についてはその改訂版の邦訳が最近公開されている
  2. 本作や『伝説のオウガバトル』のようなRTS的なメカニクスを持つそれが典型的なSRPGとして認識されているかといえばまったくそうではないけれど、とはいえゆるいジャンル意識のなかには確実にふくまれるためミスリードとはいえない、くらいの認識です。
  3. ここでは触れませんでしたが、そのうえでこれをStSフォロワーなローグライトデッキ構築ゲームと比較するときに各周回での構築のランダム性みたいな観点を捨象してしまうのは、支払うべきコストがあまりに大きいんじゃないかとも思っています。とはいえこれはまた別の話ですね。
  4. いやもちろんRTSという意味ではいくらでもあるんだけど、SRPGに近縁なものとしてつくってあるものは……あんまり……ないですよね……? たぶん……。Symphony of Warくらい?
  5. このへんについては、先般刊行された『日中韓のゲーム文化論』所収の松永「様式化されたシミュレーション:JRPGの「不自然さ」を考える」でファイアーエムブレムに言及しているあたりもおもしろいのでおすすめです。オリジナルの論文がこちらでも読める。
  6. おそらく(このあたり自分はまったくわかっていないので自信がないのですが)、いわゆるソシャゲ的な「カード」の構築を意識した発言なのではないかという気がします。

お前らの言うImmersionのニュアンスがわからない

自分のやっているビデオゲームの話を読みたくなって、ときにはRedditなどでおこなわれている雑談を眺めたりすることもあるのだけれど1、そのなかで、英語圏のゲーマーがimmersionとかimmersiveという語を使っているのをしばしば目にしてきた。「このゲームへのimmersionがすごくて……同じようなゲームってなんかない?」とか「このビルドで一周したけどめっちゃimmersiveな体験だったぜ!」とか、そういうの。めんどくさいので実例は挙げませんが、きっとみなさんも見たことがあると思います。

ただこれ、言わんとすることがいまいちピンときていなかったんですよね。あきらかに質のちがう体験がどれもimmersion(めんどくさいので以降では定訳である「没入」を使うが、当然日本語のそれとはニュアンスが違うことに注意されたい)の一語で表わされているようにみえる。そしてそのわりに、それら質のちがう体験のどれにも共通して「没入」といいたいなんらかがありそうな感覚もたしかにある。その語を使えと言われればきっとそれほど問題なく使えるだろうし、そのかぎりでの「理解」はできているとは思うんだけど……やっぱりモヤモヤが残るところは否めない。

そもそも、どうもこの「没入」って語はなにかしらの評価的な意味をもっていて、ビデオゲームの歴史の一部において追い求められつづけてきたものだという印象がある。過去には「イマーシブ・シム」2なんてマニフェスティブなジャンルもあったくらいだし。 ビデオゲームにとってストーリーテリングとはなにか?――『A Mind Forever Voyaging: A History of Storytelling in Video Games』- Dylan Holmes - 最後の短篇企鵝の剥製を読んだときにも「このへんの没入へのこだわりってなんなんだろうな」みたいなコメントをした。

じゃあ、「没入」っていったいなんなんなのか。

Ermi & Mäyrä (2005) のSCIモデル

そんなことを考えているうちに前掲のホルムズ本のエントリを書いた千葉さんから教えていただいた3ところによれば、マウラ『ゲームスタディーズ入門』4でこうした「没入」の類型について整理している記述があるらしい。

それならばと実際に読んでみたところ、マウラは「没入」とよばれる体験を以下の3つに分類している5ことがわかった。

  • 感覚的没入(Sensory Immersion)
    • ざっくりいえば、視聴覚的な刺激からくる「まるでそこにいるみたい」みたいな体験
  • 課題に基づく没入(Challenge-based Immersion)
    • ある状況に対してスキルや思考をちょうどよく駆使していることによる熱中みたいな体験。いわゆるフロー体験
  • 想像的没入(Imaginative Immersion)
    • 虚構的状況への感情移入(これも没入に劣らずざっくりした言葉だ!)みたいな体験

これ自体は納得感のある分類であって、たしかに「没入」という言葉だけでは曖昧だったところが整理されているように感じる。この3分類のどれかでカタが付く話は多そうだ。ただそれでも、「それでも共通するなにかがある」みたいな感覚は解決しないし、これらが相互にどう関連しているのかもわからない。納得感があるとは言い条、若干のモヤつきは残るものでもあった。

ラウトリッジのコンパニオンと『なぜフィクションか?』

乗りかかった船というわけで、もっとほかのものも参考にしてみたくなる。ではどこからはじめるべきか……となったとき、やはりある種の「手引き」的な本にそれを求めるのは自然なことだろう。

……なんでね……買ったわけよ……The Routledge Companion to Video Game Studies (2nd Edition)を。紙の本だと3万円するところ、Kindle版なら9,000円程度。お買い得ですね! どうせ図書館とか研究室で買うからええやろとか思ってんねやろ。足元見やがって……と、価格はいいとして、Therrienによる“Immersion”の項目はざっくり以下のような内容(と感想)であった。

  • 前半部分では、件のSCIモデルについて周辺の文献とともにより詳細に解説している
    • たぶんオリジナルの論文や『ゲームスタディーズ入門』よりもわかりやすい
  • 後半部分では、シェフェール『なぜフィクションか?』、および、それをバックアップするような神経科学的な知見を紹介している
    • なぜフィク自体はいい本だと思う6んですが、本書の「没入」の話は一般的にすぎて実際の使用に対して適用できる気がしねえ

というわけで、あんまり状況は改善しなかった。手始めはこの2つでいいんだな! とは思えたし、それぞれに理解は多少深まったとはいえ……。

Calleja (2011) のプレイヤー関与モデルとIncorporation

そんななか、別件でMIT Pressのゲームスタディーズ関係の本を漁っていた7ときに見つけたのが In-Game: From Immersion to Incorporation である。まさにこの「没入」の話を扱っているらしい。調べてみると、『ゲーム研究の手引き』(2017)の松永「ゲーム研究の全体マップ」のなかで近年のゲームスタディーズにおける「重要な理論的研究」のひとつとして挙げられており、「『没入』概念の整理をしたうえで、ゲームのプレイ経験を論じるための枠組みを提示している」とのこと。……まあじゃあ読むか……。

本書の構成は下記のとおり。

  1. Games beyond Games
  2. Immersion
  3. The Player Involvement Model
  4. Kinesthetic Involvement
  5. Spatial Involvement
  6. Shared Involvement
  7. Narrative Involvement
  8. Affective Involvement
  9. Ludic Involvement
  10. From Immersion to Incorporation

第1章で本書で扱う対象の限定や用語の整理を行ったあと、第2章でPresence Theory8およびゲームスタディーズにおけるimmersionあるいはpresenceという語およびそれに関連づけられる概念をおさらいしつつ批判したのち、これらimmersion/presenceと関連づけられる概念をより明確に扱うためのモデルとして第3章で「プレイヤー関与モデル(Player Involvement Model)」を提示する。第4章から第9章でこのプレイヤー関与モデルにおける6つの次元(後述)をそれぞれ詳述したうえで、第10章ではこのモデルをベースとし従来のimmersionあるいはpresenceに代わる「incorporation」というメタファーを用いてこの独特の体験を記述する——といった内容。というわけで、第4章〜第9章はざっくり飛ばし読みしつつ主に最初と最後だけ読んだ。以下はそこから自分が読みとった内容であり、当然のごとく内容は保証しないし、だから例のごとくみんな読んでください。わたしは批正を待っています。

さて、第2章(と、第3章の後半でのマジックサークル批判)あたりは「概念が混乱していたり曖昧だったりすると話が進まないよ」というのをこれでもかと伝えようとしていてこれはこれでかなりおもしろかったんだけどそれは置いといて、キモとなるのはまずもって第3章で提示されるプレイヤー関与モデルである。ざっくりいえば、ビデオゲーム(のうち、仮想的環境 virtual envimonment をふくむような作品)へのプレイヤーの「関与」というのは以下のような次元からなるというもの。

  • Kinesthetic Involvement
    • アバターなどゲーム内の対象を仮想的環境内でコントロールすることにかかわる側面
  • Spatial Involvement
    • 空間内での移動やその空間のようすの認知など、仮想的環境内の空間的性質にかかわる側面
  • Shared Involvement
    • 仮想的環境内のほかのエージェント(NPCか他PCかは問わず)の認知や関わりにかかわる側面
  • Narrative Involvement
    • 物語的要素(もとから埋め込まれてるか創発的なそれかは問わず)にかかわる側面
  • Affective Involvement
    • プレイヤーの情動にかかわる側面
  • Ludic Involvement
    • ゲーム的な意思決定とその影響にかかわる側面

このうえで、このそれぞれの次元に対し、まさにプレイしているときの「ミクロな関与」と、それ以外のとき(そのゲームそのものからは離れているとき、つまりオフラインのとき)の「マクロな関与」という2層がある……というモデルとなっている。

このとき、プレイヤーの認知資源は有限であるからして、特定の次元に強く関与しているときはほかへの関与はおろそかになるだろうし、特定の次元を内面化する(internalize/ひらたくいえば慣れる)ことで特定の次元への関与の度合いが低くなれば、ほかの次元への関与の度合いが高められたりもしうる。そしてもちろん、ゲームプレイの内外でこうした関与の度合いはどんどん変化しうる。こうした関与の度合いによって、たとえば(さまざまな意味で)「没入」とよばれてきたような体験が生じるよ、という感じ。

さて、本書においては、既存の「没入」という語に関連づけられる概念がimmersion of transportationおよびimmersion of absorptionの2種に分類されている。前者は「まるでどこか別の場所にいるみたいだ」「まるで別のキャラクターとして生きているみたいだ」みたいな体験であり、後者はなにかに没頭するような体験である。

このことからもなんとなく察せられるかもしれないけれど、本書の第10章において述べられることには——まずimmersion of absorptionについていえば、それは先述の各次元(の組み合わせ)における関与の強度が高い体験、といった感じになる。そしてimmersion of transportationのほうはといえば、「プレイヤーが仮想的環境を意識に組み入れる(incorporate)」過程と「アバターを通してプレイヤーが仮想的環境に組み入れられる(be incorporated)」過程とが同時に起こっているような体験として特徴づけられている9。ここにおいてはKinesthetic InvolvementとSpatial Involvementが強い前提としてはたらくことになる。なぜなら、プレイヤーの意識のなかでのその空間の認知と仮想的環境内におけるプレイヤーのアバターの行為主体性が必要であるためだ。

とだけ言われてもなんのこっちゃわからないと思うのだけど、ここで提示されているL4Dの例は理解のためになるかもしれない。同じ部屋で2人がL4Dをプレイしてるような状況があり、(ゲーム内からではなく)直接隣から助けを求める声が聞こえてきたとしよう。そのとき、助けを求める声は当該虚構世界内において聞こえる声ではないにもかかわらず、必ずしも「没入感」を阻害することはなく、プレイヤーの意識のなかに「組み入れ」られ、むしろ「没入感」を高めることさえある、みたいな。

……うまく説明できている気がまったくしないのだけど(ごめんて)、とりあえずのところそういう内容となっている。

では、たとえば先述のSCIモデルとの関連はどう考えられるのか。本書においては(当然第2章において重要な貢献として提示されている一方で)明示的な対応関係が示されてはいない。したがってここからはわたしが勝手に考えたことになるのですが……。

まず、SCIモデルにおける「想像的没入(Imaginative Immersion)」は、Narrative InvolvementおよびAffect Involvementの度合いに関連しているといってよいのではなかろうか。これは実際のところビデオゲームにかぎったことではなさそうでもある。そして、「課題に基づく没入(Challenge-based Immersion)」のほうは、Kinesthetic Involvement、Spatial Involvement、Ludic Involvementあたりの関与の度合いに関連しているといえそうだ。

で、問題は「感覚的没入(Sensory Immersion)」だ。本書におけるincoporationな体験というのはなんとなくこれに対応していそうに思えるのだけれど、たぶんそういうわけにはいかなさそうだ。たぶん(たぶんが多いな)視聴覚的に「それっぽい」ことは必要条件のひとつでしかない。あえていえば、感覚的な没入というのは主にSpatial Involvementのベースとなっており、そのうえでKinesthetic Involvementをさらなる必須要素としつつ他種の強い関与も含めてようやく実現されるのがincorporationな体験である、というのが本書の立場であるようにみえる。

2024-03-18追記:木村「ゲーム心理学のキーワード」について

書いた翌日になって気がついたのだけど、このCallejaのプレイヤー関与モデルについては『ゲーム研究の手引きII』(2020)に所収の木村「ゲーム心理学のキーワード」における「関与」の項で紹介されている。より簡単には、同じく木村さんのnoteの記事である右記もある:ゲームプレイの多面性|しましまにゃんこ。『ゲーム研究の手引き』のほうを読んでるならこっちもちゃんとチェックしておけよという話だ……。ともあれいずれにせよ、図もわかりやすいのでこちらも参照するのがおすすめです。


これがわたしの現在地ということで、今日はここまで! incorporationという語と概念がいかにイケてるからといって一般に流通するとはあまり思えないし(双方向であることがわかりづらすぎる)、Callejaのモデルに(質的研究をもとにしているとはいえ)どの程度認知科学的な基礎付けがあたえられるのかといったこともよくわからない。いまだにすっきりしない点が残っていなくもなく、だから今日もおれは、前らの言うImmersionのニュアンスがわからねえんだよ!


  1. 最近だともちろんバルダーズ・ゲート3である。直接的な情報が知りたいというのだってないではないけれど、どちらかといえば単に「それについて人が話しているのを眺めたい」みたいなそれ。こういう欲について、2024年の今になってさえ2chで満たせるケースがあるにはあったりするのだが……まあこの話はまた別途どこかで。いずれにせよ、日本語だろうが英語だろうがほんまにしょうもないことを言ってる「お前ら」を見たくなるときがあんねん。
  2. ぱっと読めるものだと「没入型シミュレーション」と「創発的ゲームプレイ」のひみつ|ぱソんこあたりが詳しいだろうか。この記事で紹介されている「主体性」「システム性」「創発性」「一貫性」「反応性」という特徴群についていえば、まず「主体性」はまんまエージェンシーであり後述するKinesthetic Involvementをかたちづくるものとしてほぼそのまま対応しそう。そのほかの4つはおおざっぱに虚構世界のシミュレーションの写実性の話で、いくつかの次元にまたがっている。そのうえで、当該記事の末尾にある「没入型シミュレーションの肝は創発的ゲームプレイか、それともロールプレイか?」という問いは(自身でも結論づけているのと同様)Callejaの立場からいっても疑似問題ということになるんじゃないだろうか。
  3. 精確には千葉さんは御簾の向こう側にやんごとなく御座し、その隣に侍っている御側衆の取次を介してやりとりした
  4. 流通に乗るのは3月29日からなのだけど、早い段階で電子版を読めるようになっていた。よくもわるくも教科書であってやや散漫というかトピックがバラバラしていてそれらの関連性がわかりづらく読みづらいところがあるのだが、どこかで聞いた話みたいなのはだいたい載ってるし、全体としては歴史を追う形になっていておもしろいところもけっこうある。
  5. オリジナルは右記:Ermi, Laura & Mäyrä, Frans (2005) “Fundamental Components of the Gameplay Experience: Analysing Immersion/この論文についてはマウラのWebサイトで読める。ただ、「没入」に関しては『ゲームスタディーズ入門』にある内容以上のことはほぼ言っていないと思われるので、あえてオリジナルを当たらなくてもよいのではなかろうか(勘違いだったらご指摘ください)。
  6. ミメーシス的認知って人生においてめちゃくちゃ基本だよな〜みたいなところに説得力がある。系統発生的な面はそのまま『心の進化を解明する』とかでも似たような話があるし、個体発生の面でいえば自分の子供を見ていても思うところだ。
  7. 今回の話とは関係ないのだが、Playful Thinkingシリーズでつい最近出たばかりのThe Rule Bookも気になっています。オープンアクセスで全文読めるっぽいぞ!
  8. 対応するような日本語の文献があるのかどうかよくわかっていない。「テレプレゼンス」がどうこうみたいな話をしているものだと思うのだけど……。
  9. あえてimmersionではなくincorporationという語を使うことについては、レイコフ&ジョンソン『レトリックと人生』をヘビーに引きながら、メタファーとはなんぞやみたいな話をそれこそレトリカルに活用しててアツいところではある。

2024-03-04

「継続」の偉大さについて考えるわけですよ。「齢を重ねるごとに、なにかを続けていくことの困難さ、そしてそれに打ち克っての達成というものがつねにあることが身に沁みる」だなんてのは、なんのおもしろみもねえよく聞く話ではあるんですが、じっさいきっとそのとおりではあって、その説教臭さからひるがえり、もっと若いときにその偉大さの偉大さをしんから覚えることができたのだろうかと考えたとき、すくなくとも自分にとっては難しかったんじゃなかろうか。教訓とよばれるようなきわめて抽象性の高いものはおしなべてそんなもんで、だからそういう説教臭い話というのはいつの時代も繰り返されるわけなんですが(だから今後も生きてりゃいろいろつまらん発見が出てくるんでしょうが)、自分がもっと若いときにそれにほんとに得心いくような状況が作れるとしたら、それってどんな状況なんだろね。信頼がある師から時間をかけて説得されるような状況? でもそんなもん、わっかりたくもねえよな! そんなこと言ってるやつを信頼できる師だと思えるかどうか非常にあやしい。だからまあ、若いときの自分については諦めるとして、それがしんじつ偉大であるとげんに考えている自分についてもいったんそれでいいことにして(そうでもないと思うようになったらそうでもないということでいいだろう)、これまでやってきたことはまあ続けられるぶんだけ続けつつ、これから始めることは続けたり続けなかったりするとええと思うで。