Day Off. 午後はU6でHauptbahnhofへ。WOMでCDを4枚、薬局でVoltaren/Schmerzgelを2個買う。Voltarenはパッケージがチューブになった。
夜はのオープニング・コンサートへ行く。ISCM( International Society for Contemporary Music )のFestivalは、1923 Salzburgが第一回目、戦争時の4年を除いて毎年世界中の都市を移動しながら開催されている。アジアの都市での開催は1988 Hong Kongがはじめてで、Seoul が1997、日本は2001Yokohama、2002は再度 Hong Kongで、来年も Hong Kongだ。分厚いドイツ語のプログラムを見るとISCM-Ehrenmitgliederのページには、Bela BartokIgor Stravinsky、Gyorgy Ligeti、Olivier MessiaenからJohn Cage、Yannis Xenakisまで錚々たる顔ぶれ(Toru Takemitsuが日本人では一人)。プログラムをめくると von Hamed Taheriとあって、あのハメドがテキストを書いている。オープニングはRadio-Sinfonieorchester StuttgartがHelena Tulveの作品をまず演奏。フェスティバルの儀礼的な挨拶が手短かに二つある。ドイツ語の挨拶に「世界50数ヶ国の参加があり日本からは舞踏ダンサーも参加・・」と聞こえた。休憩で煙草を吸いに出るとSergio VelaとKirstenが寄って来た。明日3時にカフェで打ち合わせることにして私はコンサートの後半は聴かずに帰ホテル。

『quick silver』、当日パンフ用テキストをひとつ。

チラシのデザインが気に入らず帰国して作り直しするつもりだったが、いろいろ話し合い当日パンフで美露さんの写真も私のテキストも載せることにした。チラシに関してはもうなにを言っても始まらない・・・無念。で、パンフに載せる新しいテキストをひとつ書いた。

                                                                                        • -

 メルクリウス、水銀とは万能のメディウムだと信じられた。雑多な金属を黄金に変成してしまうというような。あるいはフラスコ内でのホムンクルスの化生に関わるというような。西洋錬金術の歴史は東洋の練丹術と通じているし、日本へも当然舞い込んだにちがいない。それは、役行者や天童法師や空海よりもはるか以前に、すでに、飛翔する日本の天狗たちの、山伏の起源にある金属変成の、実験的混成の深い闇へと通じている。無名の、書かれざる水銀史=水銀死は、踏み迷い、失われた足たち手たちの、無頭の、ダルマの肉体史、それは<舞踏>の起源の物語であるだろう。水銀史は入り乱れる毒と薬の、すなわち東と西の呪術混成の、呪医たちの相関史でもあるだろう。それは舞踊する身体の歴史に読みかえることができる。
で、種村季弘氏が書いている。「反閇といえば悪霊を力足で踏んで抑えつける除霊の呪術である。折口信夫は、この反閇の起源が古代シナの「禹歩」にあるのではないかと推測したことがある(『日本芸能史六講』)。・・・反閇はやがて陰陽道に取り入れられ、呪術となって日本各地に普及したのだろう、と折口は述べている。・・・そして彼ら下級陰陽師たちの反閇のしぐさが芸能化していく過程で、御殿に畳を敷いたり、地べたに筵を敷いてその上を踏む、ということが行われるようになる。当の敷物がその場所、あるいは村全体に見立てられ、足踏みによって悪霊が除かれるのである。」と書くのだが、<そのときすでに遅し>と私は思うのだ。
もうすでに私たちの無名の肉体は、どこか別の、流浪の、旅のすき間に毀れおちるであろう。だって手も無く、足も無い身体たちは五体満足な旅さえ可能わぬ。領土から別の領土への移動のすき間で、儀礼の外へ、儀礼から脱落するように去る。自ら擦り抜けるようにして逃れ去る・・・。なんとなれば、種村−折口的な解釈の、還元可能な領土化される芸能の<外>に、役立たずの、無用化された、無産の反閇の、連なりと面なりがあるのだ。そこに際どい縁の、縁と縁の、残酷な出会いと混成がある。

                                                                                                                              • -

上坂記者と石井達朗さんと呑む。

5時日本橋の魁文舎で坂本、土屋と打合せ。7時有楽町の朝日へ行く。小雨、数寄屋橋、マリオンの前。なんだか凄く懐かしいのは、なぜか。小雨のせいか?70年代まだ駱駝艦の制作もやりながら踊っていた頃には、稽古を外してよく新聞社を回った。朝日が築地へ移った頃には私はすでにパリに移っていた。新聞社回りなどしなくなってしまったから。『朝日ジャーナル』がまだあって、市川雅氏や丹野記者とはときどき新宿のバーで呑みながら話した。あの新聞のあの記者はもう退職したのだろうか、なんて一瞬の回想・・・煙草をどこで吸えばよいのかわからない。マリオンの横手へ回って傘をさしたまま一服。朝日新聞社記念会館の談話室で上坂記者と石井達朗さんと待ち合わせ。呑む約束だ。すぐに出て有楽町ガード下の呑み屋に入る。
石井さんはメキシコの連中を連れてきてトラムで踊った「Edge 01」を褒める。ヴァレンティナも良かったが男の二人(ラウル・パラオロドリゴ・アンゴイティアだ。)と私の取り合わせが良かったらしい。上坂氏からは「いっしょに熊野を歩きましょう」と誘われた。

チラシの作り直しを相談する。

はじめて引っ越した魁文舎の新しい事務所を訪ねる。チラシの作り直しを相談するためだ。地下鉄東西線高田馬場から一本。馬場のホームでアイカワさんにバッタリ。チュニス以来で、なんだか不思議。神楽坂へ踊りを見に行くところ。来週は花光さんと韓国へ行くらしい。『quick silver』宜しくお願いしますね。ウィーンからクリシャも来るし。「ヴェネチア、俺が行きたかったな」と言われたが。
デザインした坂本くんも来ている。4月日本を発つ前になぜ1時間でも彼とミーティングが持てなかったか。時間はあったのに。花光さんがチュニスに持ってきたのを見て「驚いた」「躓いた」。一言「これでは踊れない」と言ったが聞こえたのだろうか?・・・・
なにしろ結論は、いまから作り直しても撒いている時間がない、どうせ同じ金をかけるのなら当日プログラムとして作ること。
日本橋の魁文舎の事務所は狭いけれど、エレヴェーターがなくて階段を5階まで上がらなければならないので息切れがするけれど、畳の上で寝転んでする打合せよりはマシだ。

2日目のParamo。

5/13 sat 今日はずいぶんいろいろと書いてしまって収拾がつかない。(あとでまとめられるだろうか?)
公演にいかに臨んだか、そして終わってパーティはどんなだったか、の方が面白かろう。フリオ・エストラーダとセルヒオ・ヴェラの二人のメキシコのアーティストは確実に成功した。公演は今夜の方が良くまとまった。昨夜の私はホテルに直帰したので、今夜はつかまってしまう。Musicadhoy(スペインの今回のプロデューサー)での立食パーティへ。美味しいワインと美味しいお洒落なビュッフェ。一昨日悪口を書いたNeuVocalSolisten/Stuttgartのヴォーカリストたちとの話も楽しかった。アルゼンチン出身のギレルモは本来バリトンだが今回は喉がめちゃくちゃだと言う。フリオは仕立て上げられた技術的なヴォイス・コードの外を狙っているのだ。彼らはクラシックもモダンもこなすというからモダン・ヴォーカル作品でいちばん好きな作家はと聞いたらイタリアの作曲家の名が出て石川君も私も知らなかった。カストレーションを話題にしたのはフリオのスコアに性交時の男女の声のパートがあってちっともリアリティがないと私が評価して、ギレルモが突然にMy wifeはMy manだと言う。そうかそうかいつもカストラート気取りのボーイソプラノで発声練習をしてうるさい奴だ、男色ニッポンの話も。演出助手のキルステンとはアノレクシーのことを、ファティマ・ミランダとはシャイネスについて。フェルナンド・フェルナンデスはメキシコ系スペイン人の作家でセルヒオの演出を圧倒的に支持していたが私はざっくばらんに困惑も話す。給仕のアンナがいちばん美人であったが二度と会うことも出来ない、凄く悲しい。写真を撮ったが、ここに掲載できないのも無念だ。美人といえばフリオの奥さんのヴェリア、「Ko ! Formidable !」と言ってくれた。深夜2時を過ぎて皆でホテルまで歩いて帰る。スザンナ役のサラはジュイッシュで家族のこと、墓のことを。プラザ・マヨールにはまだまだ人が沢山。

初演、初日の『Murmullos del Paramo』/Teatro Espanol。

5/12 fri 初演初日を終えてホテルで銀塗りを落とす。quick silver ! テアトルのシャワーが工事中なのだ。ホテルまで歩いて5分、近いからよいが。この銀を洗い落とすのがもうワン・ステージなのだ。金粉ショー時代を思い出す。ショーが撥ねてもキャバレーにシャワーがない。先に近い銭湯をきいておき、古着をひっかけて走るのだ。(エロス・パンドラ3人組、カーマ・スートラ5人組。)番台の終了に間に合えば幸運、だめなら旅館の風呂で落とした。quick silverは金粉ショーへの回帰か。・・・
しかし、今夜の初演、初日の私の踊りは凄まじかった。金粉ショーへの回帰もそうだが、むしろパリでのミイラの初演、『Dernier Eden/最後の楽園』のステージを思い出す。思い出してばかりなのは・・・齢を重ねたせいで致し方あるまい。
死の哄笑、爆笑。死は私の途絶だ。私は私の途絶を笑うことは出来ない、私の死を私が笑えない、死が笑うのだ。死が私を笑うのだ。笑いとは、死。断絶であり、裂け目である。コミュニケーションの途絶えた・・・笑うほかに手のない超・コミュニケーションだ。気が触れたかのようにコントロールされた狂気を私は演じたのだろうか?死を演じるのは不可能だ。同様に笑いを演じるのも。しかし、私は「死んでみせて」「死に行く踊りを」と演出方から要請されていたのだった。
私の思いは、こういうことだ。初めから同じことだ。ずっと<如何に死ぬか、笑うか>しか踊って来なかった。なにも変わりはない・・・変わったのは私の齢だけ。しかし皺が増えたよ。死にそびれたそれが勲章のようなものだ。
初演の様子は余り書きたくない。いずれ誰かが書くだろう。