徳善義和『マルティン・ルター――ことばに生きた改革者』

マルティン・ルター――ことばに生きた改革者 (岩波新書)

マルティン・ルター――ことばに生きた改革者 (岩波新書)

徳善義和(1932- )

門脇俊介『フッサール――心は世界にどうつながっているのか』

フッサール ~心は世界にどうつながっているのか (シリーズ・哲学のエッセンス)

フッサール ~心は世界にどうつながっているのか (シリーズ・哲学のエッセンス)

フッサール(1859〜1938)
門脇俊介(1954〜2010)
 なんだか言っていることがしっくりこないなあ、と思ってずっと読み続けていると、最後の最後に、フッサールは表象主義と対立するような表現主義ともいうべき考えを持っていた、というような話が出てきて、それなら割としっくりくるかも、というところで終わった。そこ以外はよく理解できなかったせいもあるだろうが、何か意味のある事を言っているように思えなかった。

ちなみに「表現主義」と言われているのはこんなの↓

私たちが何か適切なふるまいを知覚を用いて環境のうちでなしうるから信念システムは正しい、というメカニズム
(101−102)

それまでずっと説明されてきた「表象主義」はこんなの↓

より根底的な表象からより高次の(論理的な)表象の正当化が起こることによって、信念システムが世界について正しい、というメカニズム
(101)

永井均『西田幾多郎 〈絶対無〉とは何か』

西田幾多郎 <絶対無>とは何か (シリーズ・哲学のエッセンス)

西田幾多郎 <絶対無>とは何か (シリーズ・哲学のエッセンス)

西田幾多郎(1870〜1945)

目次
第1章 純粋経験―思う、ゆえに、思いあり
 ・長いトンネルを抜けると―主客未分の経験
 ・知即行―真理と意志は合致する
 ・デカルトVS.西田幾多郎
第2章 場所―「絶対無」はどこにあるのか
 ・言語哲学者としての西田
 ・自覚―「私を知る」とはどういうことか
 ・場所としての私
 ・場所的論理―西田論理学の展開
 ・絶対無
第3章 私と汝―私は殺されることによって生まれる
 ・思想の体系化
 ・田辺元の西田批判
 ・存在する私への死

今回借りてきた3冊の「シリーズ哲学のエッセンス」の中で最も面白かった。これでこのシリーズはクリプキウィトゲンシュタイン、カント、ライプニッツ西田幾多郎の6人について読んだことになる。今回借りてきた中のフッサールは途中で難しくなり、またあまり面白くないので保留中。
永井の論じる西田哲学は、聖書的な考え方と相通じるところがあるように思った。「私は殺されることによって生まれる」という死と復活に連なるような考え方や、絶対無としての神という考え方に、私は信仰者として共感をもって接することができる気がする。もちろん、哲学の素人である私の共感が誤解に基づくという可能性もおおいにあるだろうが。
しかし、このように共感的に読むことのできる哲学に触れることで、あらためて信仰と哲学の違いについて考えさせられる部分もある。それは、イエス・キリストを中心に据えることができるかどうかという点である。哲学は、きっと神の存在にまでは触れることができるのではないかと思う。しかし、万物の創造者なる神にして完全な人となり、死して復活することで完全な人類の贖罪を成し遂げ、やがて再臨し、神の国の王として治めるキリスト、という途方もない存在としてのキリストを捉えることこそ、哲学のできないことかもしれない、と思ったりする。もちろん「キリスト教的な概念」に頼ろうとする哲学は散見されるけれども、真に固有名のイエス・キリスト、肉体をもった神であるキリストそれ自身を受け入れない限り、行きづまりを免れることはできないであろう。

山内志朗『ライプニッツ なぜ私は世界にひとりしかいないのか』

ライプニッツ(1646〜1716)

1 モナドの哲学
  ライプニッツの時代
  “自分”という謎
  モナドの思想 ほか
2 個体性をめぐって
  無差別の不可能性
  モナドの絆
  モナド相互の関係と交通 ほか
3 “自分”の唯一性
  “今・ここ”にあること
  二種類の唯一性
  世界にたったひとりの“自分”

キルケゴール『死にいたる病/現代の批判』中公クラシックス

死にいたる病、現代の批判 (中公クラシックス)

死にいたる病、現代の批判 (中公クラシックス)

キルケゴール(1813〜55)
「死にいたる病 教化と覚醒のためのキリスト教的・心理学的論述」(アンチ・クリマクス名,キルケゴール刊)[1849]
「現代の批判」(本名)[1846]

「死にいたる病」

序/諸言
第一篇 死にいたる病とは絶望のことである
 A 絶望が死にいたる病であるということ
  A 絶望は精神における病、自己における病であり、したがってそれには三つの場合がありうる。
       絶望して、自己を持っていることを自していない場合〔非本来的な絶望〕。絶望して、自己
       自身であろうと欲しない場合。絶望して、自己自身であろうと欲する場合
  B 絶望の可能性と現実性
  C 絶望は「死にいたる病」である
 B この病〔絶望〕の普遍性
 C この病〔絶望〕の諸形態
  A 絶望が意識されているかいないかという点を反省せずに考察された場合の絶望。したがって
       ここでは総合の諸契機のみが反省される
   a 有限性――無限性という規定のもとに見られた絶望
   b 可能性――必然性という規定のもとにみられた絶望
  B 意識という規定のもとに見られた絶望
   a 自分が絶望であることを知らないでいる絶望。あるいは、自分が自己というものを、永遠な
         自己というものを、もっているということについての絶望的な無知
   b 自分が絶望であることを自覚している絶望。したがって、この絶望は、ある永遠なものをうち
         に含む自己というものを自分がもっていることを自覚しており、そこで、絶望して自己自身で
         あろうと欲しないか、それとも、絶望して自分自身であろうと欲するかそのいずれかである
第二編 絶望は罪である
 A 絶望は罪である
  第一章 自己意識の諸段階〔神の前に、という規定〕
  付論  罪の定義がつまずきの可能性を蔵しているということ、つまずきについての一般的な注意
  第二章 罪のソクラテス的定義
  第三章 罪は消極的なものではなくて、積極的なものであるということ
  Aの付論 しかしそれでは、罪はある意味できわめてまれなことになりはしないか?〔寓意〕
 B 罪の継続
  A 自己の罪について絶望する罪
  B 罪の赦しに対して絶望する罪〔つまずき〕
  C キリスト教を肯定式的に廃棄し、それを虚偽であると説く罪

おお、たわいもないアンチクリマクスよ、あるものが一切の悟性を超越しているということが、三つの――理由で証明されるとは。三つの理由、それは、もしそれがなにかの役に立つものだとしたら、一切の悟性を超越してはならず、むしろ逆に、この浄福がけっして一切の悟性を超越するものではないことを、悟性に悟らせねばならぬはずではないか。だって、「理由」とは、もちろん、悟性の領域内にあるものだからだ。(192)

(アンチクリマクス)

(31)修辞学の用語で、だんだん力の弱い語ないし文章を重ねていく修辞法をいう。悟性を超越したことを三つの理由を挙げて証明しようとすると、一つ、二つ、三つと理由を挙げるごとに、それらの理由は、事柄を証明するどころか、証明力をだんだん弱めていくばかりである。恋にしても祈りにしても、悟性の証明を超越したことだからである。だから、たわいもない、と言っているのである。(251)

「現代の批判」

 関係が存続しているということは、つまり関係が事実であるということは、ただ人心を麻痺させるだけのことである。ところが危険なことに、そのことこそが反省の潜行性腐蝕作用を助長するのだ。というのは、暴動にたいしてなら権力を行使することができるし、故意に量目をごまかしたというのなら、刑罰を期待できるのだが、弁証法的な秘密主義というやつは根絶しがたいからである。曖昧さという抜け道を音もたてず忍び歩く反省の足音をかぎつけるためには、どうしても相当敏感な耳が必要なのだ。
 現存するものは現存しているのだが、情熱のない反省というやつは、現存するものを曖昧なものにしてしまわぬと安心しないのだ。国王の権力をなくしてもらいたいなどと思っている者はありはしない。だれもけっしてそんなことを望んでいはしないのだが、しかし国王の権力を徐々になにか架空のものに変えてしまうことができたら、喜んで国王万歳をとなえようというわけなのだ。なにも傑物の失墜したさまを見たがるわけではない。けっしてそうではないのだが、それと同時に傑物が一種架空なものだという知識を振りまわすことができたら――讃嘆してもらえるだろうと考えるのだ。
 キリスト教の用語を全部そっくりそのままにしておきたいと思う、がしかし、そんな用語では決定的なことはなにも考えられはしないということをひそかに知っていたい。こうして後悔などしないでいたいのだ。なるほど、なにひとつ破壊するわけではないのだから、後悔することもないわけだ。(284)

 水平化がほんとうに成り立ちうるためには、まず第一に、ひとつの幻影が、水平化の霊が、巨大な中小物が、一切のものを包括しはするが実態は無であるなにものかが、ひとつの蜃気楼が作り出されなければならない。――この幻影とは公衆である。情熱のない、しかし反省的な時代においてのみ、それ自体が一個の抽象物となる新聞に助成されて、この幻影が出現しうるのである。 (303)

ヘーゲル『哲学入門』

哲学入門 (岩波文庫 青 629-5)

哲学入門 (岩波文庫 青 629-5)

 他人への譲渡に当たっては、物件をその他人に譲渡するという私の同意と、それを受け取るというその人の同意とが必要である。この二重の同意は、それが相互的に表示され、有効に言明されているかぎり、これを契約(Vertrag, pactum)という。
 説明。契約とは我々が他人のものである物件の所有者になるための特殊な方法である。前に述べた所有者になる方法は、無主物(res nullius)である物件の直接的占有であった。(1)贈与契約(Schenkungsvertrag)は、契約の最も簡単な方法とみられることができる。この場合には一人の人が物件を、その価値の代償を受け取ることをせずに他人に与えるだけである。有効な贈与は契約である。と云うのは、そこには一方の人が他の人にそれに対する代償なしに物件を譲渡し、他の人はその物件を受け取るという双方の意志がなければならないからである。
(p.69,第一課程 法理論、義務論、宗教論,十五節)

途中で飽きたので放棄。たぶん第一課程の第二節くらいまで読んだ。(2014.11.24)

リチャード・ボウカム『ヨハネ黙示録の神学』

叢書新約聖書神学 15 ヨハネ黙示録の神学

叢書新約聖書神学 15 ヨハネ黙示録の神学

第1章 ヨハネ黙示録を読む
第2章 今おられ、かつておられ、やがて来られる方
第3章 玉座の小羊
第4章 小羊と彼に従う者たちの勝利
第5章 預言の霊
第6章 新しいエルサレム
第7章 今日のための黙示録