土台がなかったのかもわからんね
このブログで書くことが実はもはやないということが。
世間は不況ということに流れていってしまったし。
貧困、労働には動機付けがない。
何か腰をすえて勉強したらいいのかもしれないですな。
ユダヤの民について
それでも約束は彼らのものなのだ。それを得るための方法はまったく間違っているにしても。
自分と政治についてのメモ
政治と自分の関係と言うのは、私の場合少し悩むところがある。といっても、そのときどきにどのような態度をとるかはほぼ決まっていて(ということは態度のための基準が決まっていて)、それについての悩みではない(最近は以前と考えが変わったが、それは正しい既定の基準にさらにあわせようとした結果に過ぎない)。むしろ問題なのは政治ということばがどういう意味づけを持たされているのかということで、それによって、「そういう意味での政治についてなら私はこうだ」と言わなければならなくなる。一般に言われる政治というのは、かなり特異な領域の事柄であると感じられている。しかしたとえば「個人的なことは政治的なこと」とか、「あなたのその判断は政治と無関係ではいられない」とか言われると、それぞれに対応した物言いをしなければいけなくなる。おそらく、私の場合、政治ということばの意味そのものについて多くの人々(その中には多分はてサの人も含まれる)と敵対していて、何事かを話そうと思えば、多分その意味を取り合うだけで終わるだろう。そんなことにかまけている暇はないと思える。ただ、いざというときに説明できるようにしておくために、少しは考える。それだけだ。
村上春樹の作品について
エルサレム賞についてはとりあえず突っ込まないでおく。思い返してみると村上春樹の作品の中で読み通したことがあるのは、短編がいくつかと、長編では『風の歌を聴け』だけだ。
『風の歌を聴け』は、読んでいて気持ちのいい作品であり、それゆえに同時に気持ちの悪い作品である。
というのは、この作品には「甘い喪失感」があったからだ。作品の中で女を殺し、その女を失ってしまったことの感傷に浸る、という行為は非常に甘美であり、非常にグロテスクである。そのような行為は別に村上作品だけでなく、様々な作家の作品に見出されるものである。
喪失の経験というのは、強力な主体を立ち上げるための簡便なツールである。もっと実も蓋もなく言ってしまえば、特別な経験をした人間は特別だという感覚・評価を生み出すためのツールである。女を殺したことは明らかにそのようなツールとなってしまっている。無論、作品の話者が女を直接殺したわけではない。そうであったならこの作品は甘美なものとはなりえなかっただろう。ここでしているのはあくまで関係の形式性の話である。そして直接的にではなく、形式的に女を葬るからこそ、この作品はグロテスクなのである。
ブログを書く理由
書き始めたときとか、少し前は別の理由をもってたのかもしれないけど、まあ、書く条件が整っていたことがなんらかの欲望を喚起したのかもしれない。今はなんだろうかというと、自分の考えに整理をつけるために書く、というのがしっくりくるような気がする。