唐突に更新


一番はっきりしてんのはPrince御大なんだけど、Roy AyersにしろTeddy Pendergrassにしろ、あるいはGo-Goのムーブメントにせよ、ポピュラーな黒人音楽には必ず同性愛的な雰囲気、というか、「オカマ感」を匂わせる系譜ってのがあって、なんかそれがstinkyというかfunkyに通じている。ここでははっきりゲイである、ホモであるということには限っていない。歌の中でオネエ言葉が出てくるだけ、程度の話も含む。一方、Cameoの描くマッチョなFunk道ってのは反語的な表現なのかもしれん。古くはバーレスクミンストレルショーから、女装してオネエ言葉で歌ったり踊ったりするオカマ道ってのはあったのかもしれない。


(「ヒップホップ・ジェネレーション」のまとめ、なかなか書き進められん。読めば読むほど重くなるんだわ。政治的で人種的な問題が刺さってくる。なかなか簡単にはいかないっす)

第九章 一九八二年

ヒップホップ・ジェネレーション 「スタイル」で世界を変えた若者たちの物語について書いてます。

1981年頃から1982年あたりまでの時代。レディ・ブルーというおネエちゃんがROXYというクラブを作った話。ドラッグカルチャーとの繋がりから論じる展開もあるかと思ったがそれは後の章に譲って、ここではROXYでの折衷主義が当時もっともかっこ良かったという話として展開されている。例えばBlondieのRaptureTom Tom ClubのGenius of Loveなどの、ヒップホップカルチャーを賛美した曲が普通にポップチャートでヒットした。言うなればこれらの楽曲って夜遊び目線で、当時世界のおのぼりさんはみなNY来たらROXY行くっていうお決まりコースだったという。

クラブカルチャーに蔓延していた人種融合的な空気、折衷主義の流行は、1982年4月に発表されたAfrika BambaataaPlanet Rockに見られるヒップホップの普遍性というメッセージとともに、なにやら調子よさそうに聞こえたもんだった。

がしかし、現実はレーガン不況まっただ中。クラブの外では相変わらずゲットーがあり、いわゆるレーガノミックスによって、弱者はとことんまで無視されていた。閉塞したゲットーの状況をかなりダウンテンポの曲で歌ったのがThe Messageであった。この曲は、Grandmaster Flash & The Furious 5の名義をめぐって民事裁判が行なわれた。ヒップホップ初の訴訟沙汰はこの曲であったそうな。

そしてこの頃から、Tommy BoyやらTuff City、Profile、Sleeping Bagといったポストディスコ世代の白人経営のインディレーベルが動きだし、SugarHillは最終的に崩壊してしまう。つってもまだまだ、DefJam以前の話ですからね、ここのところ。

このエピソードが、実はヒップホップの平和な一時期の崩壊の始まりでしたっていうつなぎで、次章へ。

STANLEY TURRENTINEがなにかに似てたんだけど

STANLEY TURRENTINEという大サックス奏者がいるんです。誰がなんと言おうと僕はこの人のソウルカバーが最高に好きなんですが。サックスで歌わせたらオリジナルを簡単に越えちゃう。サム・クックのShakeなんてのでそんな感じですから、Isaac HayesのWalk On Byなんてやったらそりゃもうオリジナルよりいいに決まってる。ラフンタンブルっていう盤は結構俺長い事聞いてるけど、うん、こりゃええね。

んでついさっき、思い出したんですよ。
これなんかに似てるなーって。
そしてようやくYouTubeからたどって見つけたのがこれ。

フレーズが似てるわけでもないし、パクリでもなんでもないけれども。
こういう雰囲気が重なったっていうだけの話なんで、あまり気にしないでください。

さて、続き、飲むか。

第八章 爆発寸前のズールーたち

ヒップホップ・ジェネレーション 「スタイル」で世界を変えた若者たちの物語について書いてます。

超ごぶさたですが続き書いてみます。

この章は1980年ジャストの話ですな。この当時、Hip Hopってどうなのよ、っていう話です。ダウンタウンでのHip Hopの捉えられ方がよりはっきりと先鋭化してきた時期でもある。ヘンリー・シャルファントやマーサ・クーパーのようなHip Hop大好き芸術家が、アートとしてHip Hopを紹介して個展を開いたりした。同じ時代に花開いていたイーストヴィレッジのパンクアートや、キース・ヘリングやバスキア、全部一緒くたになって注目された。グラフィティは確実にアートシーンの中枢へ入り込んだ。

このアートという部分で見たら人種間の断絶というのはもはやないようにも見て取れた。んだけど、ところがそうでもなかったという話として、81年にNYに来たClashのライブの話が上げられている。The Clashは80年初頭に『Magnificent Seven』というラップの曲を出して、これがNYの黒人ラジオ局でも評判となっていた。

Magnificent Sevenはジョー・ストラマーがいち早くHip Hopを取り入れて作った曲であるわけで、ヒットに気を良くしたThe ClashはNYでのライブのフロントアクトにGrandmaster Flash & The Furious Fiveを起用する。これが凶と出た。少なくとも1981年当時の、アートにかぶれてもない、下流の白人パンクスどもは、黒人音楽のヒップホップと同調するなんざまっぴらごめんでしたっていう切実な人種間対立が表に出たという話である。

こんなのはこの本では序の口でずな。まだまだひどい人種間対立の話がいっぱい出て来て胸焼けしそうになる。

さて、ヘンリー・シャルファントやマーサ・クーパーといったアーティストは、文化人類学者みたいに黒人の地域文化を変容させることに自己矛盾を感じながらも、いわゆるフォークアートとしてのHip Hopには敬意を表しつつそれを守って行こうという立場であった。その一方で、Hip Hopを食い物にしたろか、という立場であったマルコム・マクラーレンがこの本でも笑い者にされている。『Duck Rock』というアルバムがいかに恥ずかしい作品であったか、ということが、そこまで言うかっていうくらい書かれているけれど、まあ仕方ないわな。こちらのサイトでも書かれてますけど、「当時の軽くC調な何でもあり感」というのはよく出ていると思う。

要するにさ、アート界の側の捉え方の大半って、マルコム・マクラーレンのそれと一緒なんだよな。人種差別的というか人種搾取的というかね。意識的じゃなくて無意識のね。そこがこええんだよねって感じで次章へ。

第九章 一九八二年

特にないけど

True Love

True Love

ぼさーっとiTunes聞き流してたらMaytalsの「Pressure Drop」再録withクラプトン。これすげえな。どうでもいいギターにも聞こえるところがすごい。

クラプトンの別仕事集ってのがあったらいいねえ。

で「54-56 was my number」をジェフ・ベックとやってんのだがこっちは普通だっつー話でね。やっぱクラプトンって客演仕事上手なんだなあ、深いレベルで。

第七章 世界は俺たちのもの

ヒップホップ・ジェネレーション 「スタイル」で世界を変えた若者たちの物語について書いてます。この章は前半では飛び抜けて面白かった。

ジャジー・ジェイいわく、ブロンクスは一時的に「ヒップホップ大干ばつ」という時代になったのだという。どういうことかというと、ジャジー・ジェイの年代は、クール・ハークやアフリカ・バンバータのパーティを見てかっこいいと思って、一生懸命DJの腕の磨きをかけていったのです。ところが、当時15歳だった連中は5年も経てば20歳になるわけで、遊びが変わってくるわけだ。ジャジー・ジェイがせっかく鍛えた腕を披露する場は、時が経つに連れてずいぶん小さくしょぼくなっちゃった。なぜなら当時パーティを盛り上げていたお客さんがオトナになると、ブロンクスからアップタウンのR-23のクラブへと移るようになったのだ。そこではうまーい具合にブロンクスのエッセンスを取り入れた、洗練された大人のパーティが行なわれていたんだとよ。上野で遊んでいた中学生が大人になったら六本木に行ってみる、っていう感じと一緒でしょうね。

その一方で、ヒップホップに金のニオイを嗅ぎ付けたレーベルも、「本当にヒップホップで商売できるのかどうか」を見極めるために、クラブを徘徊していた。DJのグランドマスター・フラッシュにもレコード出しませんかっていう打診はあったらしいんだが、当時は「ヒップホップをレコードにするって?バカげている」って感覚だったので断ってたんだと。この辺の感覚が面白い。現場では「ラップ」そのものが場つなぎ的な、その場しのぎの余興みたいなもんであくまでも主役はDJであった。DJこそがパーティの王者だったわけです。それに対して、よそからやって来たレーベル側は、なにか売れるとしたらラップじゃないかっていう感覚があった。この現場と産業側の食い違いは、実は音楽産業には20世紀初頭から、いや19世紀のミンストレル・ショーから、ずーっと繰り返されて来たっつーわけですなあ。

ちょうどその頃、Fatback Bandが出したシングルのB面曲「King Tim III」などがリリースされて、いよいよレーベルの連中は焦った。焦るよなそりゃあ。

King Tim III - Fatback

このギリギリラップかラップじゃないか、っていう感じがやばいすね。いち早くラップを出して出し抜こうと思ってるのに、なにやら「惜しい!」って感じのものが出てくるってスリリングっすね。同じ年にジョー・パターンも「rap-o clap-o」というスレスレの曲を出してる。

Joe Bataan - El rap-o clap-o 1979

誰が一番最初に市場に旗を立てるかっていう競争は、結局シュガーヒルが勝利する。「素人集団」であるシュガーヒル・ギャングが、なんのしがらみもなくラップしたパーティ・チューン、「Rapper's Delight」が大ヒットした、それが1979年10月。
the sugar hill gang rapper's delight

んで、こういう道筋がひとつできると、次々と後に道を踏み固めてくれる曲が出てくる。

Kurtis Blow - Christmas Rapping (live on TOTP jan'80)

Grandmaster Flash And The Furious Five - Superappin'

Spoonie Gee featuring The Treacherous Three - Love Rap

"Grandmaster Flash And The Furious Five"という名義からも分かる通り、モノホンの方々は「DJが主役です」という考えに凝り固まってたんすよね。もちろん「フラッシュさんすげえよ」って歌詞なんだけど、現場とは関係ないリスナーにとっては、クイック・ミックスと言われてもなんだか分からないっていう。

あと面白かったのは、NYのレゲエ・レーベルである名門Wackie'sやJoe Gibbsからもラップレコードを出したっていう(黒?)歴史は実にスリリング。後に伝説となる二人のレゲエクリエイター、ロイド・バーンズもジョー・ギブスも、これ聞く限りはまだまだどインディって感じがする。

Wackie's Disco Rock Band 'Wack Rap' (Wackie's 1979)

XANADU-RAPPERS DELIGHT disco funk rap

さて、ダンスとグラフィティはどうだったか。ジャジー・ジェイと同じく「ヒップホップ大干ばつ」の時代に「くそつまんねえな!」って心持ちで、ダンスでストリートでのし上がったクレイジー・レッグスが、ついにRock Steady Crewを立ち上げますって話。五毒拳なんていうカンフーのカルト映画にも影響受けてる。実際、誰も語っちゃくれないんだが、20世紀初頭からこのカンフー映画の時代まで、西インド諸島からニューヨーク、フロリダあたりでの、中国系のCultural influenceは相当なもんだと思うんですよねー誰かピンポイントで狙い絞って語ってくれないだろうか。


それから「反グラフィティ運動」を前面に押し出してまでアピールしてきた市当局とグラフィティライターとの対立はいよいよ深まる。

そして、グレイザーとウィルソンの論文は、違う種類の転換点も提示していた。グラフィティに対するネオコン派の態度は、静観姿勢という放棄の政治から、封じ込めの政治へ変化する上での要となるだろうと示唆していたのである。そして、これらの政治方針が、ヒップホップ世代を大きく様変わりさせることになる。

封じ込めっていうのは、マスコミから市民団体総動員で、「グラフィティは暴力の入り口である」ということを始終繰り返すこと。かの有名な「割れ窓理論」が、偉い学者の学説として引っ張り出されて来たのはこの頃。結局この封じ込めのピークは1984年、地下鉄自警団を自称するBernhard Goetzって男が、4人の黒人の少年に発砲して国民的英雄として有名になってしまう。これは本当におっかない話である。

もちろん、一方ではグラフィティをカルチャーとして擁護する側もあったわけでそれは次章で。

第八章 爆発寸前のズールーたち

第六章 フューリアス・スタイル

ヒップホップ・ジェネレーション 「スタイル」で世界を変えた若者たちの物語について書いてます。

ヒップホップ3人目の「オリジネーター」とも言えるグランドマスター・フラッシュ、ロっク・ステディ・クルーのリッチー"クレイジー・レッグス"コロン、あるいは伝説のグラフィティ・ライターたちがいろいろ登場。この章では、ヒップホップのブロンクス内での盛り上がりを例示して、その後のブロンクス外部への広がりを示唆している。

こうして、ショウは完成された。スクラッチ・アンド・ミックスといったテクニックや、目も眩むような高性能のパフォーマンスで観客を楽しませるフラッシュの革新的DJプレイがとうとう確立されたのだ。「二、三年の間、俺はずっとからかわれていたんだ。『お前がレコードを痛めつける男か!』なんてね」とフラッシュは笑う。「でも、他のDJは全員、スタイルを変える必要に迫られたよ」

しかし、Bボーイングは極めて限定的な時期及び場所で発展したと、クレイジー・レッグスは力説する。「俺たち、カポエイラが何かすら知らなかったよ。ゲットーに住んでいたんだからな! ダンス・スクールもなかったし。あったとしても、タップにジャズ、バレエの教室だった。当時、ゲットーで俺が唯一目にしたダンス・スクールは、ブロンクスのヴァン・ネスト・アヴェニューにあるバレエ教室だった。俺たちのBボーイングに直接的影響を与えたのは、ジェームズ・ブラウンだ。それは断言できる」

それぞれ味わい深いので、引用させていただきました。

バンバータが提唱したヒップホップの四大要素の中で、グラフィティが地下鉄路線沿いに広がって、いち早くブロンクスの外に出た。70年代半ばには人種も多様化し、「ただの落書き」はインパクトのあるサブウェイ・グラフィティへと変化していく。

地下鉄車両の外側は、グラフィティを描くのが非常に困難なスペースだった。アクセスも難しく、多数のライターがそのスペースを狙って競い合っている上、大きな危険を伴うからだ。そのため、初期のグラフィティ・ライターは、その序列を細かな点まではっきりさせた。地下鉄のキングになるためには、あらゆる場所に作品を描いたり、大胆なスタイルを披露するなどして、誰にも負けない存在感を示さなければならない。

グラフィティが飛び抜けて好きな人なら。とっくにドキュメンタリー映画『Style Wars』やMartha Cooperの写真集で洗礼を受けてるんでしょうね。

ヒップホップよりもむしろジャズやロックにだって影響を受けたんだよ、ってグラフィティライターのLady Pinkがこの章で言ってて、はたと気がついた。落書きっていう行為そのものはブロンクスだけの話ではなくて、世界中のあらゆる都市の若者がやる遊びの一種だから、もともとユニヴァーサルなものなのだ。じゃあ日本の場合は? グラフィティって言うと桜木町の壁を思い出すんだがきっとアレではない。そりゃやっぱコミケ痛車の世界になってくるのか?

コミケ的なエロアニメ絵の反逆性みたいなものが、ようやく世界にも知られてきたんじゃないかな、なんて言ってみる。でも当時の連中は地下鉄の車両全部にすごい絵を書ききってるんだから、いまの日本でそれに匹敵するようなインパクトってなんだろう…メコスジ幼女漫画を都庁に書くとかいう事件があればね、世界にニュースが届くだろうなあ。

次章はブロンクスの外へ、という流れ。いい曲順ですねえ。

第七章 世界は俺たちのもの