イタロ・カルヴィーノと荒川修作

ひところカルヴィーノにはまっていた。その入口は『冬の夜ひとりの旅人が』で、開けても開けても次がある館のドアをくぐっていくような感覚で読んでいくうちに、いつのまにか迷路に入り込んでいた感じ、と言えばよいでしょうか。

冬の夜ひとりの旅人が (ちくま文庫)

冬の夜ひとりの旅人が (ちくま文庫)

わたしの場合はそこから『パロマー』や『むずかしい愛』といった、岩波文庫に収録されているどちらかというと短めの作品へと進み、『見えない都市』や『柔らかい月』などの言ってみればSFやファンタジーを意識したような作品を読んでから、『木のぼり男爵』『まっぷたつの子爵』『不在の騎士』の三作へと読み進んだのでした*1。ひところ手に入れづらかった本も、今では河出文庫で出ていてよろこばしい。
パロマー (岩波文庫)

パロマー (岩波文庫)

むずかしい愛 (岩波文庫)

むずかしい愛 (岩波文庫)

見えない都市 (河出文庫)

見えない都市 (河出文庫)

柔かい月 (河出文庫)

柔かい月 (河出文庫)

木のぼり男爵 (白水Uブックス)

木のぼり男爵 (白水Uブックス)

まっぷたつの子爵 (ベスト版 文学のおくりもの)

まっぷたつの子爵 (ベスト版 文学のおくりもの)

不在の騎士 (文学の冒険シリーズ)

不在の騎士 (文学の冒険シリーズ)

やはりカルヴィーノといえばその実験的な手法というか仕掛けが面白く、相当込み入ったことをしながらも一種の軽みのうちに読ませきる力量はすばらしいものがあるのではと思います。日本では高橋源一郎が非常に推していたというか、カルヴィーノをかなり意識した作品を書いてましたね。
わたしとしてはカルヴィーノのエピソードとしては、荒川修作と仲がよかったというのが興味深く、毀誉褒貶はげしい「養老天命反転地」と『木のぼり男爵』は発想としては少し似ているものがあるんじゃないかと勘ぐっています(『木のぼり男爵』は子供の頃木にのぼって一生下りてこなかった人の話)。要するにそれは、「生得的」な環境を抜け出たところでも人は生きていけるし、むしろ生存の条件と見なされているものを積極的に「反転」させることが新たな「生命」の創出へとつながる、という発想なのではないかと思うんですね。ただし荒川の押しの強さとでも言うべきものに対し、カルヴィーノは非常に柔和な態度を取り続けていた(それほど強いことは言わない)と言えるでしょう。カルヴィーノの小説の実験性は、読者に読む体験を意識化させ、物語を読みながらもそこには「別の可能性」がつねにありうることを想起させるものだったのではないかと思いますが(『見えない都市』など)、「読む」体験だけではなく「生活」全てにそれを演繹しようとすると、荒川的なものが出てくるのかもしれません*2
建築する身体―人間を超えていくために

建築する身体―人間を超えていくために

これらの試みを見るにつれ、彼らが行った(行っている)「実験」とは何だったのか、またそれに「着地点」はそもそも必要なのか……とか、そういったことを考えさせられますね。
そういえば、ニーチェは、生は認識の実験であると言ったんでしたっけ。

*1:どうでもいいですが、今「読み進んだ」と入力したら「黄泉進んだ」と変換された……。

*2:ここでの二者はあくまでコンセプトが見えやすくなるかと思って引き合いに出している面もあるので、一方で両者は全く質の違うものに思われ、それぞれ独立に論じた方がより面白いことが言えると思いますが。