風と、光と・・・

すべての人を照らすまことの光があって、世にきた。(ヨハネによる福音書1:9)

このところ夫の記憶がうすれてきている気がする。(主治医への手紙追記)

昨日、面会に行った時、最初の頃、私のことも分からなかったようだった。

2月にコロナに罹って以降、嚥下力も落ちているということで、ゼリー等を食べる訓練も中止になった。

痰の吸引の練習に二日続けて行った二日目に熱を出しているということだった。時折高い熱を出すが、冷やすくらいで何もしないで一日で下がる、と。

カルシウム拮抗薬はARB系の降圧剤との合剤で、この3年、月・水・金の処方になっている。熱を出していたのは、薬を飲んでいない木曜日だった。

 

 

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 心臓や血管の筋肉細胞や神経細胞の興奮には、ナトリウム(塩分)とカリウム、カルシウムが関係しています。

 平滑筋の収縮には、カルシウムが大きく関わっています。平滑筋が収縮するためには、細胞の外から内側にカルシウムイオンが流入する必要がありますが、細胞の表面にあるカルシウムが出入りする穴を、カルシウムチャンネル(カルシウムの通り道)といいます。

 カルシウム拮抗剤はこのカルシウムチャンネルに蓋をして、カルシウムが細胞内に流入するのを妨害し、平滑筋が収縮するのを妨げ、弛緩させます。こうして血管を拡張させるのです。降圧剤として有用だという気がしますね。

 ところが、カルシウム拮抗剤には大きな問題があります。カルシウムチャンネルは血管の平滑筋だけでなく、体中のすべての細胞にあります。平滑筋だけでなく、すべての細胞にとって、その働きを全うするためにカルシウムチャンネルが必要なのです。カルシウム拮抗剤は、他の細胞の必要なカルシウムチャンネルにまで蓋をすることになり、細胞が本来の機能を全うできなくする危険性があるのです。(浜六郎=著『高血圧は薬で下げるな!』)

 

 なかでももっとも問題なのが、免疫細胞の不活性化です。免疫細胞は、体に侵入したウイルスなどをいち早く見つけて退治してくれます。ウイルスだけでなく、体内に常に出現しているがん細胞や、がんに発展する異常細胞を見つけ出して退治する働きも持っています。

(略)

 カルシウム拮抗剤には、むくみが起きやすい、少し脈が速くなる、便秘しやすいなどの副作用があるのですが、あまりそのことが不都合なこととして印象にのぼっていないようです。むくみや便秘は「年のせい」で片づけられていることが多いのでしょう。そのため、さしあたり重大な副作用はないと思われているのです。

 しかし、長期に使うと…。(略)しかし、緩やかに効くようにしたカルシウム拮抗薬は現在もよく使われています。いくら緩やかに効くといっても基本的な作用は同じですから、安全というわけではありません。(浜六郎=著『高血圧は薬で下げるな!』)

 

この本は割と早くに買って持っていたのだが、あまりきちんと読んでいなかった。

読み返すと副作用に「便秘しやすい」と書いてある。

断続的ではあるが、夫は心不全になって以来、このカルシウム拮抗薬を8年近く飲んできた。

脳内出血で倒れた後、今の病院に転院して直ぐに腸閉塞を起こした時、私はカルシウム拮抗薬が悪さをしていると考え主治医に手紙を書いて減量して頂いたのだが、倒れる前から、夫は便秘で苦しんでいた。

私はその頃はカルシウム欠乏と便秘との関連に気づいていなかったのだが、カルシウム不足では弛緩性の便秘になるので、通常の下剤(マグネシウム製剤)を飲むと根本的な便秘の解消にはならず状態を悪化させるものと思われる。

 

さて、カルシウム拮抗薬を飲んだ翌日の飲まなかった日に高い熱を出すというのは、薬で蓋をされていたカルシウムチャンネルが開き、細胞内にカルシウムが一気に流入するために、抑えられていた免疫反応が活性化、あるいは激化して熱が出るのではないだろうか?

そもそもコロナに感染したのも、カルシウム拮抗薬を飲み続けているために免疫が働かなくなっていたためではないだろうか?と思える。

そしてコロナに罹って、小胞体内のなけなしのカルシウムが免疫反応に使われるために他で働けないということではないだろうか?

 

そして問題は、記憶がうすれてきているということなのだ。

倒れる前から夫は記憶が覚束なくなってきていた。「教会員から話を聞いても覚えていられない気がする」、「牧会が出来なくなる気がする」と言っていた。

 

カルシウムは記憶形成や感覚伝達など脳のあらゆる神経系の情報伝達に関与する。

ニューロンの興奮によって神経終末から放出される神経伝達物質がその受容体と結合すると、細胞質内のカルシウムイオン濃度が上昇する。この細胞内カルシウムイオン濃度の上昇は神経系の情報伝達のトリガーとして必要条件である。そのメカニズムは細胞内カルシウムイオンプールからの放出以外に、細胞外からのカルシウムイオンの流入によるものであり、例を挙げれば、ノルアドレナリン作動性ニューロンやコリン作動性ニューロンにおけるそれぞれノルアドレナリンアセチルコリンとα1-受容体、ムスカリン受容体との結合によるカルシウムチャンネルからの細胞外カルシウムの流入、記憶学習の基礎過程として海馬シナプス終末におけるN-メチル-D-アスパラギン酸受容体(NMDA受容体)やnon-NMDA受容体のイオン型グルタミン酸受容体と代謝グルタミン酸受容体とに大別されるグルタミン酸作動性受容体ファミリー、ATP作動性受容体、電位依存性カルシウムチャンネルなどからの細胞外カルシウムの流入(図1)、嗅覚情報伝達系におけるcAMP依存性カルシウムチャンネルやIP3作動性カルシウムチャンネルを介する細胞外カルシウムの流入などがある。この細胞内カルシウムイオン濃度の上昇がプロテインキナーゼC(PKC)、Ca2+/カルモジュリン依存性プロテインキナーゼⅡ(CaMキナーゼⅡ)、チロシンリン酸化酵素(Fyn)などのタンパク質リン酸化酵素の活性化を高め、ある種のタンパク質のリン酸化を促進し、情報伝達に都合の良い立体配座を構築する。このように、情報伝達を媒介するカルシウムの補給は脳の活性化にとって極めて重要である。(略)

 

亜鉛は記憶形成や感覚伝達など脳神経系の情報伝達に関与する神経調節因子(ニューロモヂュレーター)である。とくに記憶学習系では海馬シナプス終末における受容体やカルシウムチャンネルの調節因子である(図1)。すなわち、カルシウムイオン増大に関与するグルタミン酸アスパラギン酸などの興奮性アミノ酸受容体(NMDA 受容体やnon-NMDA 受容体)、ATP作動性受容体、カリウムチャンネルを含む種々の電位作動性イオンチャンネルなどの活性化を調節する。そして、記憶・学習の基礎となる長期増強/長期抑制(LTP/LTD)の誘導、発現、持続には海馬亜鉛ホメオスタシスが重要である。(略)

 

亜鉛が欠乏すると、脳では前述のような脳神経情報伝達系の調節が不可能となり、学習記憶障害や嗅覚障害、味覚障害などの感覚障害を誘発する。亜鉛欠乏に伴って脳内微量金属は著しく変動する。とくに、海馬においてはアルミニウム、嗅覚系(嗅球、嗅上皮など)においてはカルシウムの著しい蓄積が観察される。従って、亜鉛欠乏による種々の脳障害の発症には有意に変動する他の微量元素による可能性も考慮しなければならない。また、亜鉛欠乏以外に、ある種の薬物暴露やアルツハイマー病においてみられる記憶学習障害には亜鉛が重要な関わりをもっている。亜鉛キレート剤、トリアルキル錫、エンケファリンなどの外来性薬物により海馬亜鉛が消失する。また、内因的には周産期の甲状腺機能低下が海馬苔状線維亜鉛の低下を引き起こす。

https://www.arakawa-yasuaki.com/course/brain-signaltransduction.html

 

「内因的には周産期の甲状腺機能低下が海馬苔状線維亜鉛の低下を引き起こす」と書かれている。夫は、どちらかというと生まれつきは甲状腺機能は亢進気味だったのではないかと思う。記憶力も良い方だった。けれど若い頃に、甲状腺機能亢進症で薬を飲み続けて亜鉛を排出し続けたためだと考えられるが、低下症に変わっていた。

今はレボチロキシンが処方されている。これは甲状腺ホルモンだがT4なので、この薬を処方されれば、T3に変換するために亜鉛が使われ、記憶で働く亜鉛は欠乏するだろう。

 

記憶に関わる栄養素である亜鉛とカルシウムが、甲状腺剤と降圧剤によって働けなくなっている可能性がある。

 

 

以下、追記。

今日は午後、主治医に手紙を書いて持って行った。

○○先生

退院前ですが薬のことでお願いいたします。

コロナにかかってから、えん下する力が弱くなっているとリハビリの○○先生からうかがっていましたが、このところ記憶もうすれてきている気がしています。

昨日は面会に行きましたが、私のことも最初わからないようでした。

カルシウムは免疫や記憶にもかかわっていると聞きます。コロナにかかって免疫の方にカルシウムが使われて記憶に使われないのではないかと考えております。

月・水・金にして頂いているアムバロを週に2回にしてみて頂けないでしょうか。

それと少しやせてきているのも気になっております。レボチロキシンも少し減らして頂けないでしょうか。レボチロキシンをT3に変換するために亜鉛が使われて亜鉛も記憶の方で働けない気がします。

どうかよろしくお願いいたします。

「血液検査をして判断させて頂きます」と言って頂いた。

 

今日の夫の様子は落ち着いているようだった。私のことも分かっているようだった。

 

 

 

 

 

 

エズレルは、「神が植える」という祝福の意味を取り戻す。(説教のためのメモ書きから ホセア書1:4~2:1口語訳)

今から2700年前、紀元前8世紀、北イスラエル王国アッシリア帝国によって滅ぼされようとしている頃、ホセアは預言者として立てられた。そしてホセアは、神の示しによって淫行の妻をめとった。そして3人の子供が生まれた。二人は男の子で、一人は女の子。この子供に対する命名は、結婚それ自体に続くホセアの第2の務めだった。それは、それぞれの子供の名前においてイスラエルの民に対する使信が伝えられていたから。

最初に生まれた男の子は、エズレルと名付けられました。このエズレルという名前自体は「神は種を蒔かれる」あるいは「神は植えられる」という意味の喜ばしい名前です。そしてエズレルは、サマリアガリラヤの山間の美しい町と谷の地名なのですが、その場所の美しさは、そこで生じた出来事によって損なわれてしまっていました。

この地で王妃イゼベルが葡萄園を略奪するためにナボテを殺害させ(1King.21ch.)、王妃イゼベルを含むオムリ王家がエヒウの家によってみな殺しにされ、根絶させられました(1King.9-10chs.)。これはホセアが預言者として働く100年ほど前の出来事です。

このことによって美しい谷と町の名前は、暴力と大量殺人とに結び付けられてしまったのです。子供に対してエズレルと名付けることは、今日子供に対して「アウシュビッツ」とか「南京」と名付けるようなものです。この名を最初の子に付けさせることによって神は、イスラエルの王家に迫りつつある審きを示されました。

二番目の子供は女の子で、やはり異常な名前を与えられました。彼女は、ロルハマ、「憐れまれぬ者」と呼ばれました。

一連のこれらの名前には恐ろしい宣告がある。第一は、イスラエルが王を欠いて生きなければならない未来を宣告したのであり、第二は神の憐れみのない未来を宣告したのであり、第三は神なき未来を宣告したのである。

 

審きの言葉のすぐ後に赦しと祝福の言葉が続く。

これは、神の審きが滅ぼすことを目的になされるのではないことを示す。

神の審きの目的は、神を忘れ、離れて行く者たちを「生ける神の子」とすることである。

しかし、罪の中に沈み込んでしまっている人々は、この言葉の真意を理解できない。最後は、神が救ってくださるのだからいいじゃないか、と思ってしまう。自分の罪が分かっていない。その罪がどれほど大きな、厳しい審きをもたらすか分かっていない。
e.g.今日繁栄していても、繁栄が後に待っていたのだから戦争も良かったじゃないかと言う人はいない。しかし、罪が分からない人は、今の豊かさの中で溺れてしまう。

 

罪の行き着く先は、イエスの十字架。「何故神はお見捨てになるのですか」と叫ばなければならない孤独。誰も耐えることのできない、孤独。それが人には分からない。神の方で赦してくれるとはありがたいじゃないか、と罪の中に留まり続ける。人は、神を侮り、罪を見くびって生きる。

 

神が私たちを導こうとしておられるところは、分裂していた人々が共に集い、ただ一人の主イエス・キリストのもとに和合する人々の多くの罪、血で汚されたエズレルは、本来の意味の「神が植える」という祝福の意味を取り戻す、創造の初め神が地を見て「はなはだ良かった」と言われたあの祝福に帰る。

そこに集う人々は、互いに「神の民」「神の憐れみを受ける者」として交わりを深めることができる。

罪の世にあってただ神の御心だけが我々を愛と交わりへと導く。

 

この一週間もいろいろなことがあった。罪を引きずって生きる私たちが今ここに集っているのは当り前ではない。神の言葉が私たちを招き続けるからキリストにあって共に集っている。あらゆる違いを超えてキリストが私たちを御自身に結び付けて一つとしてくださる。

神の言葉に心を開いていく時、どんな罪を抱えるときも、時代がどれほどひどくなっても、疲れ倒れて起き上がる力がないような時にも、未来に希望を持つことができる。

 

Jn.1:4f.「この言葉に命があった。そしてこの命は人の光であった。光は闇の中に輝いている。そして、闇はこれに勝たなかった。」

 

罪の世にあって、この神の言葉だけが神の愛を証し、神の愛だけが時の流れの中で揺ぎないことを証し、私たちを大いなる救い、神の祝福の中へと導く。

 

 

 

うらうらほろほろ花がちる 山頭火

字が下手だから、葉書の絵を活かせない(しょぼん)。

 

花が散って葉桜になろうとしている。



近くの小さな公園の桜は、

ようやく開き始めたと思ったら、

もう今日は満開で、中にはぼとりと落ちているものもあった。

 

 

 

 

 

 

甜菜オリゴに含有されるらしいベタインが回すメチレーション回路

VB12と葉酸によってメチオニンメチオニンに戻す経路とは別に、ベタインによってメチオニンメチオニンに戻す経路があるようだ。

メチオニンから生成されたホモシステインシステイン(シスチン)やタウリンに変換する過程ではVB6が働いている。

シスチンやタウリンに変換されない場合のホモシステインはVB12と葉酸によってメチオニンに戻される経路とベタインによってメチオニンに戻される経路とがある、というのだ。

これらの栄養素が不足してこのホモシステイン濃度が上昇すると慢性疾患を引き起こすと言われているようだ。

 

さて、甜菜というのは砂糖をとるためのビートの品種の一つということだが、このビート(ビーツ)にベタインが多く含有されているという。

しかし、

ただし、ベタイン投与の結果、メチオニンが異常に増加し、脳浮腫を誘発する場合があるため、血漿中のメチオニンとホモシステインの濃度を適宜検査し、必要に応じて投与量を増減させる。https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%99%E3%82%BF%E3%82%A4%E3%83%B3

このような記載もある。

 

甜菜オリゴ糖

うちでは甜菜オリゴ糖は昔から常備していた物の一つで、娘は良く飲み物にオリゴ糖を入れていたのだが、私はオリゴ糖を入れることはなかった。

甜菜オリゴ糖にビート由来のベタインが含有されているかどうかは定かではないが、メチオニンシスチンのご飯喰いの私はメチオニン過多となって脳浮腫を起こすのを無意識のうちに避けていたのではないかと思ったりする。

一方、娘はご飯が嫌いで、毎朝パンに納豆の朝食で学校に行っていた。パンも納豆もメチオニンシスチンなので、不足しているメチオニンオリゴ糖で補っていたのではないかと思う。

 

こんな風に考え出したのは、最近になって、私自身がコーヒーに砂糖を入れて飲んで(通でないので砂糖を入れないと飲めない)、何か物足りないと思い、オリゴ糖を入れてみると美味しかったということが何度かあったからなのだ(特にパンに納豆を載せて食べた時など)。

恐らくこのところの私の体質がメチオニンシスチンに変わってきていたせいかと思う。

 

逆に、頭がもわる時は、亜鉛の多いコーヒーシュガーやオリゴ糖は摂らない方が良いように思う。ホモシステインメチオニンに戻す酵素亜鉛含有酵素だからだ。

頭がもわる時は、ホモシステインをシスチンに変換するVB6の多い黒糖を摂るのが良いかも知れない。

 

甘味一つで随分違ってくるものだ。

 

 

基本、私は、生命維持に必要な最小限は塩と砂糖だと思ってる。

 

 

 

 

 

捨てないで持ってきた物を活かすことが出来て嬉しい。

夏になると勝手口を開けて風を通したいので、暖簾をかけることにした。

暖簾の横には

猫の奥さん。

 

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こちらは、頂いた手作りの

袋収納袋。

 

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引っ越し先のリビングから見えるのは向かいのマンションのベランダの洗濯物なので、眺めはあまり良くない。庭の桜は今年で見納め。

 

 

 

 

 

「愛において神を知る」(ホセア書6:4~11)(過去の説教から)

「時を貫いて変わることのない永遠の愛において神を知る」(ホセア書6:4~11)

 わたしたちは移りゆくこの世にあって、変わらないものに対するあこがれをもっています。中でも愛情・友情といった人間同士の関係の中で変わらないものに対して強いあこがれをもっています。映画や小説などで「永遠の愛を誓う」という場面があります。様々の愛を誓う言葉が人々の心を捉えました。映画の有名なセリフに「愛とは決して後悔しないことよ」(ある愛の詩)というものがあります。この言葉には、何があっても後悔しない、愛する相手に対する揺るがぬ想いが込められています。そして、わたしたちはこの変わらぬ想いに対して惹かれ続けるのです。

 わたしたちが、このように永遠なるもの、変わらざるものに対してあこがれを持ち続けるのは、わたしたち人間が永遠なる神の姿に似せて造られたものだからです。神の似姿に造られているからわたしたちは永遠なるもの、変わらざるもの、特に愛において変わらざるものに惹かれるのです。そして本来、わたしたちはこの変わらぬ愛の世界に生きる存在だったのです。

 しかし、わたしたちは罪を犯したことによって、永遠に変わらない愛の世界からすべてが移りゆく世へと生きる世界を変えてしまったのです。してしまったことはほんのささいなことだったのです。神が食べてはいけないと命じておられた木の実を食べただけなのです。たったそれだけのことなのです。

 しかし、行為自身はささいであっても、その行為の持っていた意味は大きかったのです。それは、信頼というものを破棄するというものでした。約束していた事柄を反故にする、信頼関係を捨て裏切るという意味を持った行為だったのです。

 このことによって、わたしたちは永遠に変わらない愛の世界から、すべてが移りゆく世に身を移すことになったのです。そしてついには「あなた方の愛は朝の雲のごとく、たちまち消える露のようなもの」と言われるまでになってしまったのです。

 しかし、わたしたちは図星を指されると腹が立つものです。自分でも「ここがいけないところだ」と分かっていても、面と向かって他人から批判されると腹が立ちますし、認めたくなくなります。確かに、今のわたしたちの愛は完全でもなければ、永遠でも、不変でもありません。しかし、「あなた方の愛は朝の雲のごとく、たちまち消える露のようなもの」とまで言われてしまうと、反論したくなるものです。完全でも、永遠でも、不変でもないが、たちまち消える露よりは豊かな愛がいくらでもあるじゃないかと言いたくなります。

 

 7節から神は罪の事例をあげておられます。「彼らはアダムで契約を破り、かしこでわたしに背いた」

 ここに記されているアダムという土地は、かつてイスラエルの民がエジプトから救い出されて40年の荒れ野の旅を終え、約束の地カナンに入る際にヨルダン川を渡ったところです。ヨシュアという指導者に率いられたイスラエルヨルダン川を渡ったとき、このアダムというところでヨルダン川の水が神の力によってせき止められ、イスラエルの民は歩いてヨルダン川を渡り、カナンの地へと入っていったのです。ヨシュア3:9−17)

 8節に「ギレアデは悪を行う者の町で、血の足跡で満たされている」とあります。ギレアデは、高原で樹木が多く、牧草も豊富で牧畜が盛んでした。さらに乳香の産地でもありました。

 9節には「盗賊が人を待ち伏せするように、祭司たちは党を組み、シケムへ行く道で人を殺す」とあります。

 ここに出てくるシケムという町は、過失によって人を殺してしまった人が、血の復讐から保護されるために設けられた「逃れの町」です。

 これらの土地がどのような土地であるかを考えながらここの聖書の言葉を読みますと、神の民イスラエルは、神が奇跡をもって神の救いの約束が確かであることを明らかにしたアダムの町で神との契約を破り、神の祝福を受け豊かなところで血を流し、人の物を奪い去り、保護を求めてシケムの町へ向かう者を暴力的な祭司たちが襲い、殺してしまうというようなことが起こっていたということなのです。

 ここにあげられた土地の名前はどれも神のイスラエルに対する愛を表すものです。

 長年の約束を果たした記念すべき町であり、神の祝福を覚える土地であり、神のあわれみと守りを確認する町でした。

 しかしイスラエルはそれらの場所でことごとく神に背いたのです。神の恩寵を受け、愛を注がれた場所で神の民は神の恵みを踏みにじったのです。

 大切にしていた思い出を踏みにじられ、愛を確かめ合った場所で裏切られるのです。神が負われた痛みは一体どれほどのものだったでしょうか。

 

 イスラエルのすべての人が悪人だったのではありません。おそらく大多数の人は、家族や親しい人にとってはとてもいい人だったに違いありません。しかし、イスラエルの社会には悲惨な出来事が起こっていました。それは、罪人であるわたしがどれほど家族や親しい人にとって良い人であり、「たちまち消える露」より豊かな愛を注いだとしても、この社会から差別や迫害や争いがなくならないのと同じです。

 神から「あなた方の愛は朝の雲のごとく、たちまち消える露のようなもの」との言葉を突きつけられて、そんなことはないと断言できる人は、神の愛の大きさを知らず、自己中心的な愛を見ている人です。そして、もしその自己中心的なささやかな罪人の愛でいいじゃないかと言うならば、その人は罪の世で起こってくる差別・迫害・争いの中で、愛する者が苦しみ、傷つき、命奪われるのもやむを得ないとあきらめる人生を生きるのでしょう。

 

 しかし、神は愛する者が傷つき、滅んでいくのをやむを得ないなどとすることはできないのです。神の愛は、あきらめではなく、愛する者の救いのために独り子イエス=キリストを差し出す愛なのです。

 

 神は真実な愛によって結び合うことを願っておられます。預言者ホセアによってこれらの言葉が語られたときも礼拝は行われていました。しかし、イスラエルの人々は献げ物は出しましたが、自分自身を神の前に差し出すことはしませんでした。

 6節をご覧ください。「わたしはいつくしみを喜び、犠牲を喜ばない。燔祭よりもむしろ神を知ることを喜ぶ。」と神は言われます。

 

 神はわたしたちと知り合うことを望んでおられます。知り合うと言っても、顔を見たことがありますとか、隣りに座ったことがありますという程度ではありません。本気になって向かい合って相手のことを知り、確かな信頼を築くために知り合うことを望んでおられるのです。禁じられた木の実を食べたことによって壊されてしまった信頼を回復し、罪によって離れていったわたしたちをどれほど神が愛しているかを知らせるために、神は礼拝においてわたしたちに出会い、向かい合ってくださるのです。

 神はわたしたちを求めておられます。わたしたちが神の言うとおりに礼拝という儀式を型どおり執り行うことや、たくさんのお金を持ってくることを望んでおられるのではありません。神は、わたしたちが神と出会い、神を本当に知ることを望んでおられるのです。

 

 そして、わたしたちは愛において神を知るのです。時を貫いて変わることのない永遠の愛においてわたしたちは神を知るのです。わたしたちが心密かにあこがれている永遠の愛、変わることのない愛が、神から注がれているのです。

 

 わたしたちが今与っているこの礼拝、神はご自身を知らせるために、変わることのない愛と信頼を回復するために、わたしたちを召し集められました。毎週主の日毎に礼拝は行われますが、わたしたちが熱心だから主の日毎に開かれるのではありません。わたしたちを最後まで救おうとする神の愛が真実だから主の日毎に礼拝はあるのです。だから、わたしたちは毎週招かれるのです。誰一人として「もう来なくていい」とは言われないのです。そして、すべての人が、掛け値なしにすべての人がこの礼拝に招かれているのです。真実なる神が、救いの業を押し進めておられるのです。

 

 この礼拝の場から救いの御業が、神の愛が広がっていくのです。すべての人を包み、全世界を包む神の愛が今注がれています。

 

 

神様 あなたに会いたくなった(重吉)