『日本の言語の起源の補綴――La prothèse d'origine de la langue : j(aponaise) 』について

ようやく『日本の言語の起源の補綴』を書き上げることができた。翻訳論のつもりで書いたが、ジャンルとしては、オールドスタイルの――反時代的というべきか――文芸評論にあたる。こんなもの、いまどき誰が読むのか、という気がする。世間的にはまったく無意味な仕事であり、自己満足の賜物というほかない。

14万字、400字詰め原稿用紙換算で350枚になる。

書き始めたのが2018年5月5日だから、6年近くもの月日を費やしている。さらにいえば、同名の記事をこのブログに上げたのが2015年7月10日、構想メモを取り始めたのが2013年5月20日。この程度の文章を完成させるのに10年以上もかけてしまった。文才がなくて、ほんといやんなる。

古文も漢文もろくすっぽ読めない自分であるが、やるだけのことはやったという自負はある。

高密度で書いた。難解なところもあると思う。できるかぎり不遜な物言いを心がけた。読んで不快な思いをする方もおられるだろう。

書きたいから書いたものだ。発表のあてはない。自費出版するつもりである。

松浦寿輝と日本語

さて小松英雄は『仮名文の構文原理』で「句読点の挿入を積極的に拒否する」連接構文的な「〈付かず離れず〉の弾力的な文体の特性」が「和歌において極限まで追求された」と述べている。ところが釈迢空は短歌に平気で句読点を放り込む。折口信夫が日本語の持てる資源を最大限に活用しようと試みていることは、このことからもうかがえよう。「句読点の挿入や『一字空き』をどう神経質にいじったところで、無意識の底から響いてくる音楽を持たない詩人が人工的に継ぎ接ぎした言葉は、字数こそ合っていても真正の『うた』にはなりようがない。釈迢空の『和歌』は七・五の音律の幻妙な魔術から見放されている」――これは松浦寿輝による印象批評だが、折口は七五調のリズムを「自身の呼吸や、思想の休止点」(『海山のあひだ』後記「この集のすゑに」)によって上書きすることを目論んでいたのであり、「真正の『うた』」などには最初から関心を抱いていなかったのではないかとも思える。

文筆家としてのそのキャリアを詩人として開始した松浦寿輝は、最初の詩集に収められた詩編を書き始めた頃のことを、ある談話の中でこう振り返っている。「私が最初に書いた一連の詩は『読む』『書く』『物語』というもので、これはやはり私自身の外国語体験、あるいは外国体験と切り離せないものなのです。外国語の環境の中に身を置いて、一種の危機感やストレスにさらされつつ、自分にとって日本語とはいったい何なのかということを、観念的にではなく身体的に確かめたいという必要を感じたということです」(「身体と言葉が共振する」)。しかし、松浦寿輝の文筆活動は、「日本語とはいったい何なのか」というこの出発点の問いを、これ以降もずっと引きずっているのではないだろうか。松浦はその談話で、自分の「思考の師」であるというロラン・バルトについて、「『フランス語で』書くというのではなくて、『フランス語を』書く人という気がした」と語っているが、松浦の書くものを読んで同じような印象――松浦寿輝は「日本語で」物語を、エッセイを、いわんや詩を書いているのではない、ただひたすら「日本語を」書いている――を抱かずにいられないのも、日本語それ自体を対象化する始まりの問い――「とにかくただひたすら日本語の文章を紡ぎ上げてみたいというあてどない渇き」(『口唇論』新装版のための後記)、「何かを書いてみたいという欲望」(『方法叙説』)と表裏一体となったこの問いが、詩であると小説であると、評論であると随筆であるとを問わず、松浦寿輝の綴る「きれいな美意識」(同)に裏打ちされた言葉のつぶさに伏在しているからではないか。

この松浦が言語的猥雑の化身みたいな折口信夫について一書をものしていること、さらにはその一書『折口信夫論』において折口の言語についての分析を「われわれの国語」の本質をめぐる洞察に直結させていることには、なにか必然めいたものが感じられなくもない。同書で松浦は始まりの問いをこう繰り返している。「端的に言って、日本語とはいったい何か」。この問いに対して松浦が突きつけた答えはこういうものである。「ひとことで言えば、われわれの国語は跫音なのだ」――ここにいわれる「跫音」とは、まずなによりも『死者の書』の巻頭、二上山の岩室に蘇った死者、滋賀(シガ)津彦(ツヒコ)が、ある暖かな夜、藤原南家の郎女が身を横たえる庵室に忍び寄る際に立てる、その「跫音」を指している。

物の音。――つた つたと来て、ふうと佇(タ)ち止るけはひ。耳をすますと、元の寂かな夜に、――激(タギ)ち降(クダ)る谷のとよみ。

つた つた つた。

又、ひたと止(ヤ)む。

この狭い廬の中を、何時まで歩く、跫音だらう。

つた。

右に見える「つた つた つた」というオノマトペ折口信夫が独自に編み出したものであり、日本語の語彙に予め登記されていない。「下ろした片足の蹠(アシノウラ)が床の上でかすかに滑り、皮膚と木目とが一瞬擦り合い、そこで摩擦が生じてぎゅっと踏みとどまり、そのうえで改めてその足が床を蹴るといった一連の微妙な過程の交替」を「つ」と「た」の二音からなる構成によって巧みに写し取るこの独創的なオノマトペは、「上方へと浮遊し、同時にまた、下方へと抑圧する」「両義的な存在」と規定される「折口の『神』概念の独創」を「感覚的な水準で鮮烈に表現している」。そのように指摘する松浦が、折口の言語をめぐる分析を「われわれの国語」をめぐる分析に重ね合わせ、そこからいわば「国語の事実」(時枝誠記)を引き出す過程でまず立脚するのは、あの「言語の物質性」である。おおざっぱにはソシュール以降と位置づけられるある種の思想圏における定番概念であり、松浦の著作のあちらにもこちらにも顔を出すこの言葉は、もちろん、言語媒体の物理性や即物性をいうものではない。「言語の物質性」とは、言語の意味作用への抵抗と、表象機能の後退においてむき出しになる、言語の言語的存在への視線の固着のことだ。松浦は、オノマトペにおいて、こうした「言語の物質性の至純形態が見出される」と述べる。とはいえ「ぽたぽた」だとか「ひらひら」だとかいった陳腐化したオノマトペは「すでに透明な表象記号と化しており、われわれを遅滞なく意味の安全圏へと送り届けてしまう」。だが「つた つた つた」は違う。「折口がその恐るべき音感によって発見した」この擬声語は、その擬態の「絶妙さ」において、オノマトペの「音響的な物質性を回復させる」――そういうのだ。

「言語はシステムを食い破ろうとする物質性と、その侵食を押し戻そうとする表象性との戦いの舞台」であるといい、「オノマトペにおいて特権的な現れかたをする言語の物質性を、われわれは、本来、ありとあらゆる言語現象において体験しうるはずなのだ」ともいう松浦は、ここで、ミシェル・フーコーが『言葉と物』で区別した「言語(ランガージュ)の存在(エートル)」の二つの存立態様、すなわち、物との類似に依拠した非恣意的記号としてのあり方(表象以前)と、表象機能の括弧入れにより焦点化される客体としてのあり方(表象以後)とを、恐らくは敢えて混同することにより議論の説得力を高めようとしているわけだが、それにしても、「擬声語において露呈する」と松浦のいうこの「言語の物質性」に係る事実は、オノマトペについて「他の諸国語と比べて日本語にはとくに豊富なストックがあると言われる」(強調引用者)というようなことがあるにせよ、およそ言語一般に妥当する、珍しくもない事実のひとつであるにすぎず、だから「国語の事実」と呼ぶに値しない。土井光和のいわゆる音歩説――「二音ずつの単位が日本語による韻律というもの全体の基盤をなしていて、五音と七音の組合せによる和歌の定型もこの二音一拍のリズムの上に築かれたものだという説」――が補足的に持ち出される所以である。「日本語のオノマトペが、『ぽ・た』なり『ひ・ら』なり、多くの場合二音を単位として反復されるのはいったいなぜなのか。それが跫音だからなのではないだろうか」、「実のところ、オノマトペに限らず、他のすべての品詞を含めた日本語という言語システムによって発話されるありとあらゆる言表が、実を言えば、跫音なのではないだろうか」、「われわれは、日本語を、そのありとあらゆる音韻的使用の現場で、まず突き当たり、次いで突き放すというこの二音の拍の連続と断絶の組合わせとして体験しているのではないだろうか」――日本語は、その意味作用の減衰と表象機能の失調において、「跫音」として、それも「接近する跫音」として姿を現す。これこそが松浦の言葉から引き出される「国語の事実」であるといえよう。

こうした形での「言語の物質性」の露呈は、むろん折口の言語に限って見られる事態ではない。松浦は『明治の表象空間』において、「言文一致体」と「風景」や「内面」との連関のうちに「近代」を見る制度的文学史を、それに対する柄谷行人の「脱構築」的な批評ともどもきっぱり斥けた上で、次のように言葉を継いでいる。

たかだか「言文一致体」によって表現可能になった程度の「風景」や「内面」などには最初から洟も引っ掛けず、「鷗外を頂点として形成」されていった「近代日本文学の秩序」(山田有策)に取り込まれることを頑として拒みながら、あの「空白の枡目」にのみ衝き動かされ、透明な「内面」ならざる空白の「内部」という不可能性のトポスを日本語によって浮かび上がらせようと試みた一群の作家や詩人たちが、日本の現実の近代に実在したこともまた事実である。

そのとき、彼らが文語で書いたか口語で書いたかという差異は、実のところ真に「関与的」なパラメーターではない。真の問題は、口語散文の成立とともに立ち上がった「秩序」を自然なものと見なし、そのうちに安住して「空白の枡目」をせっせと埋めることに専心するか、それともその「秩序」を自明な環境として受け入れることを拒み、言語の不透明な物質性が差し向けてくるしぶとい抵抗との徹底的な格闘に身を投じるか、この二者択一の選択にある。いずれにせよ、国木田独歩によって創始され有象無象の私小説等に継承されてゆく「風景」と「内面」のエクリチュールなど、「近代」文学にあって最初から最後まで傍系でしかなく、その爽快な没落のさまは今や白日の下にさらけ出されている。

透谷、一葉、露伴、鏡花、そしてさらに時代を下れば言語の物質性の露出によって絶えず「風景」からも「内面」からも大胆に逸脱しつづけた内田百閒や吉田健一こそ、「近代」のもっとも過敏な特異点に触れえた作家たちなのであり、彼らが自己の全存在を賭けて織り上げた限界的なテクスト群の傍らに置くとき、漱石のお説教臭い通俗心理小説やら鷗外の華麗な文体見本帳やらは、所詮、知識人の慰戯の域を超えるものではない。そして、「近代」の核心に触れえなかった二流作家の制度性を撃って大見得を切る批評の力業もまた、言語の物質性と出会いそこねて空を切るほかはない。

わけあって長めに引用した。「空白の枡目」とは、「人がそれを探し求めるところに決まってなく、それがないところに決まって発見されるといった、絶えず視線から逃れて他処へ飛び移りつづける特異な空白であり欠如」であり、「作品が作品として機能するためには決して充填されてはならない構造的な空白」のことだ。いまはこの、ジル・ドゥルーズ由来の概念に深入りする必要はない。「主体が『空白の枡目』を実質的に占拠し、空白を埋めてしまった場合、動きを止めた表象作用の廃墟が現われる」ということにだけ留意しておけばそれでいい。

最後の段落に挙げられた作家たちの言葉と、折口的言語とを引き比べた場合に特筆すべき事実があるとすれば、それは何か。換言すれば、折口論としての松浦の議論の肝はどこにあるか。それは、松浦が、折口の言語の物質性、不透明性、その反面としての「無意味(ノンサンス)」のトポスに、「不可視の権力」の所在と機能を探り当てたという点に求められるだろう。「この国の、奇妙に柔らかく弾性に富んだ不可視の権力システムの謎は、折口のあの薄気味悪い文章や詩歌の中に、ことごとく畳みこまれているのではないか」。たとえば折口は次のような文章を書く。

一度発生した原因は、ある状態の発生した後も、終熄するものではない。発生は、あるものを発生させるを目的としてゐるのでなく、自ら一つの傾向を保つて、唯進んで行くのだから、ある状態の発生したことが、其力の休止或は移動といふことにはならぬ訣である。だから、其力は発生させたものを、その発生した形において、更なる発生を促すと共に、ある発生をさせたと同じ方向に、やはり動いても居る。だから、発生の終へた後にも、おなじ原因は存してゐて、既に或る状態をも、相変わらず起し、促してゐる訣なのだ。

『日本文学の発生 序説』の一節。松浦が指摘するように、このくだりを構成する四つの文は、ほぼ同一の命題を反復している。したがって繰り返し現れる「だから」は、論理的な「構造化の装置としてほとんど機能して」おらず、意味をなさない。また、どこか舌足らずな第三の文に顕著だが、このくだりの全体が、丁寧に読もうとすればするほどかえって不透明さが増すという「奇妙な読みづらさ」にまといつかれている。『死者の書』冒頭部に見られる「統辞法の不整合」についてすでに確認したとおり、「無意味」はまず第一に、「連接構文」を駆使して折口が産出する言葉の連なりそれ自体において、あからさまに現れているといえよう。しかしそれだけではない。「無意味」は、こうした言葉の組み立て現場にとどまらず、その流通ないし再生産の過程においても抜け目なく顔を出しているのである。

たとえば折口は、愛弟子が大学の講師になって初めて講義を行う日の前夜、自ら口述した文章をその弟子に書き取らせ、教室ではそれを一語一句そのまま読み上げるようにと命じている。のみならず、「そこに誤りや逸脱が紛れこまないことを確認すべく、口述が終るとただちにそれを自分の前で弟子に繰り返させる」。仮に講義で時間が余ったとしても、「自分の考えを述べて、時間をつなごうなどと考えるんじゃないよ」(岡野弘彦折口信夫の晩年』)と釘を刺すのを忘れない。松浦によれば、

折口は、自分の言葉を弟子が理解することも「学ぶ」ことも求めていない。かと言って「聞いた」言葉を鵜呑みに「信じる」ことを求めているのでもない。彼がひたすら欲しているのは、自分の言葉が弟子に「口移し」に伝わり、それがまた弟子の弟子へと「口移し」に波及してゆくことである。近代的な学習システムが構築されているのではもちろんないが、かと言ってまた、前近代的信仰共同体を主宰しようとしているのでもない。折口にとって現実的なのは、「口」から「口」へと移ってゆく――写されつつ移されてゆく――言葉の表層的運動への、ほとんど病的な偏執だけなのだ。

折口が弟子に命ずるのは、自ら口にした言葉を、ひたすら意味を欠いた純然たる音の連なりとして受容すること、そしてそれを機械的に反復、再生することである。こうした「折口の『口移し』は、権力の行使にほかならなかった。それは、征服と圧政を伴う政治的身振りだったのである」。とはいえ折口には「自分の意志や思想を他者に共有させたい、最大多数の人々に広めたいという、語のありきたりの意味における『政治的』野心」はなかった。というのも、

折口自身、自分は単に、絶えずすでに「発生」している――「発生」が「発生」させている――言葉を「相変らず起し」ているだけのことだと思っていたはずだ。彼独自の個性に帰属する何ごとか絶対的に新しい言説を基礎づけてみせようといった野心など、彼にはなかったはずなのだ。折口自身もまた、神たる「まれびと」の「もどき」であったとも言える。そのとき「まれびと」とは、永遠に不在でしかありえないそのものであり、起源ならざる起源に刻印されると同時に抹消された還元不可能な差異性であり、日ごと、年ごと、天皇の代替わりごと「相変らず」規則的に現勢化されつづける不可能な始まり、ないし始まりの不可能性の別名である。

つまり折口は、意味する主体、権力の主体足り得なかった。彼は権力の伝播過程に組み込まれた歯車の一部であるにすぎず、「永遠に不在」の権力主体の、「起源ならざる起源」から受け取った権力を律義に、そのまま右から左へと受け渡す媒体でしかなかった。権力は権力意志なしに機械的に連鎖する力の流れとして、ただひたすら「犠牲者」だけを生み出し続ける。折口の言語活動においては、「無意味(ノンサンス)」が、不明瞭な言葉と理解の排除という二重の形態をとって、こうした「不可視の権力システム」を円滑に動かす潤滑剤としての役割を担っているのである。

以上が松浦の言葉から読みとれる無意味と権力との結託の像である。しかし、このような像が折口の言語についてほんとうに描かれて然るべきものなのか、ちょっと疑わしいといわざるを得ないようである。

松浦は「つた つた つた」について、こう書いている。「『つた』には『伝ふ』といった言葉が断片的に反響しているというのは見易い事実であり、そうした『有意味的』な音の選択が事態の迫真性をいっそう増大させているということはあるだろう」。しかし松浦はこの「見易い事実」を「事後的に見出される理由づけにすぎない」と一蹴する。「たぶん折口はこれらの音を、適切な連想を誘う音の組合せを探すという知的な操作によって創造したわけではあるまい」というのだ。だが『死者の書』冒頭部に見られる「統辞法の不整合」を「意図的に」狙われたものとみなしていたはずの松浦のこの言い分にはあまり納得がいかない。この「見易い事実」は、本来であれば「他のいかなる品詞にもまして仮名で表記される権利を主張しうる記号」であり、「いかなる『漢意(カラゴコロ)』にも還元されえない音それ自体の即物的な提示である」はずの擬声語に、折口が漢字への翻訳の余地、意味作用の余地を開いていたことを示す露骨な事実と見るべきなのではないか。折口の開発したこのオノマトペは「純粋仮名文字」ではなかった。あるいはこれを「本能的な直観によって不意に摑み取られてきた音」であるというのなら、折口の「本能」だとか「直観」だとかはすでに「漢意(カラゴコロ)」による汚染をじゅうぶんに被っていたのである。

もうひとつある。松浦は、折口の愛弟子のひとり、加藤守雄の回想録から次の挿話を引いている。加藤は折口の周旋で大学講師の職を得たのだが、その加藤が初講義を行っている教室に折口が姿を見せる。その後の出来事――

講義を終えて研究室にもどると、ちょっと前に教室を出てゆかれた先生が、待ち構えていて、

「完璧(ぺき)の璧をかべだなんて言うから、ひやりとしたよ」と注意された。

講義の途中で、手をあげて質問した学生があった。

かんぺきと言われましたが、どう書くんですか」と言うのだ。

かべという字さ」と答えて、私は平気であとを続けた。

「土じゃないよ。玉だよ」先生にそう言われるまで、私は知らなかったのだ。

「昨日注意しといたことが、すぐ役立ったね」と、先生は得意そうだ。

「黒板には絶対に字を書いちゃいけないよ。書いたものは証拠が残るからね。字なんか間違えたりすると、学生は単純だから、それだけで学力を批判する。その点は中学生と変わらないよ」と、昨夜教えられたのだ。

(加藤守雄『わが師 折口信夫』)

しかし松浦は「加藤守雄は『壁』の一字を黒板に大書すべきてあった」という。なぜなら「『璧』ではなく『壁』。輝かしい『玉』を見ずぼらしい『土』へと変じてしまうこと」は、折口の「口移し」への「抵抗」の拠点となり得るからだ。黒板に字を書くなというのは学生の前で赤恥をさらすことを予防するためだと折口はいうが、それは本意ではないのではないか。そうではなく、

「口移し」の空間にはひたすら声のみが響いているのでなければならず、その音響的な純粋性が文字の介入によって混濁してはならないというのが、折口の指令の本意だったのではないだろうか。「移し=写し」に正確を期するためには筆記の助けを借りる必要があるとしても、操作の本質はあくまで「口から口へ」でなければならない。そして、「口移し」に抵抗し、その専制から身を振り解くことのできる言葉がもしあるとすれば、それは音韻原理に依拠することのない書き言葉だけである。具体的に言えば、漢字ということになろう。折口が警戒するのは、言葉が「口」の支配を逃れて一人歩きしはじめることである。

ここでも、持論に合わせるため余計な部分を切除し、事実を巧みに整形していく松浦の手腕が冴えわたっている。だが折口は事実として弟子にノートをとらせ、事実として漢字の字面と、その意味への参照を求めている。「文字に表される文学」(「この集のすゑに」)という言葉を記していることからもわかるとおり、折口の意識と思考において、漢字、文字、書き言葉が旺盛に働いていたことは明らかであり、折口的権力は、そのようなものが特筆すべきものとしてほんとうにありえるとすれば、そのありようは、「口唇論的権力」といった単純な像に結びつけて済ますわけにはいかないものであろう。しかし松浦はさらにこう続ける。

間違った漢字を一字書きつけること。あっけらかんとした間抜けな失策。しかしそれは、あの「エクリチュール大嘗祭」を不意に脱臼させてしまう貴重な契機たりえたはずなのだ。おおらかに誇張されたこの失態は、漢字と仮名の交合を見事に頓挫させてしまっただろう。純潔な仮名の白い肉体を犯すべく勃起していた猛々しい漢字の男根が、間の抜けた誤記の一瞬、不意に萎えてしまうからである。挿入されるべき女陰を取り違えて、いきなりすべてが「間違いつづき」の笑劇に転じてしまうと言ってもよい。はじける笑いの中で欲望は見る見るしぼみ、折口信夫の権力装置は機能不全に陥ることとなっただろう。

エクリチュール大嘗祭」――ここにいう「大嘗祭」とは、折口独自の解釈による「大嘗祭」のことである。すなわち、新天皇が、そのもとに訪れた神との交合を通じて唯一にして不変なる魂(天皇霊)を自己の魂と引き換えに受け取ることにより、権力の正当性を確保するという儀式をいうものであるが、この大嘗祭こそが折口にとって「ありとあらゆる『発生』儀礼の象徴的な祖型として、ないし根源的な雛形として」あったと考える松浦は、同型のロジックを日本の言葉の発生の現場にも適用してみせる。

エクリチュール大嘗祭とは何か。それは、仮名という音韻的記号と漢字という書記的記号との併用によって成立している日本語の特質から発する、音と意味との婚姻の祭礼である。大嘗祭の「ミタマフリ」において天皇が神を迎える、ちょうどそれと同様に、日本語のエクリチュールにおいては、仮名が漢字を迎えるのだ、それによって言葉が「発生」するのだと言えはしまいか。(中略)音声文字の仮名が、漢字という表意文字の「まれびと」から「魂」=「玉」を受け取るのである。

仮名が漢字を迎える」。しかし、「いかなる漢字が訪れるかは、出来事が起きてみるまではわかりはしない」と松浦はいう。たとえば、

「ほ」にはしばしば「秀」や「穂」が当てられるが、はたしてそれでよいのか。それはむしろ「象」ではないのか。その場合、「火」「陰」「仄」が無関係と言いきれるのか、等々。これらの問いを横断して引き延ばされてゆく忍耐の「時間」の劇として演じられるものが、エクリチュール大嘗祭なのだ。

さらに松浦はこうもいう。

「魂」を吹きこまれたとは言うが、仮名はそれをみずから進んで漢字から受け取ったのか。むしろ、悪意ある漢字が仮名の肉体を無理やり犯し、仮名の方では望んでもいなかった忌まわしい負の「霊感」を暴力によって注ぎ入れてしまったのではないか。エクリチュール大嘗祭とは、音声文字の幸福なユートピア表意文字の侵攻によって陥落する瞬間を徴づける、不吉このうえもない儀式のことなのではないか。

「漢字の男根が仮名のヒーメンを引き裂くこととなろう」というのだ。

ようするに「エクリチュール大嘗祭」とは、正しさから限りなく遠く離れた場所に生起する、高度に不確定な出来事である。ならば「間違った漢字を一字書きつけること」、すなわち「完璧」の「璧」を誤って「壁」と文字に記すことは、「『エクリチュール大嘗祭』を不意に脱臼させてしまう貴重な契機たりえ」ないし、「漢字と仮名の交合を見事に頓挫させてしま」うものでもない。それはむしろ事の性質上、「エクリチュール大嘗祭」に極めて近い出来事であるというべきだろう。いや「エクリチュール大嘗祭」そのものである、とさえいっても過言ではないようだ。

いやしかしそんなことより松浦は、この一節に先立つ頁で「概念的な『漢意(カラゴコロ)』とは無縁」な「てにをは」を「至高の仮名文字」と呼んでいる。また「いかなる漢字でも代替されようのない」「ほう」を「絶対仮名」と呼んでいる。「仮名」ということで松浦の念頭にあるものが、和語にとって本来的な音の表示であることは明らかであろう。ようするに「エクリチュール大嘗祭」とは、和語に対する漢字のあてがい、それによる意味概念の注入、ないし本来の意味と外来の意味との不等価交換のことである。そう考えるのが理に適っている。

ところが「完璧」はいうまでもなく字音語である。つまり和語ではなく漢語であり、「かんぺき」は漢音の模写である。したがって「へき」という音に対し「壁」という誤字をあてがうことは「エクリチュール大嘗祭」とは無関係な出来事というべきであろう。「折口信夫の権力装置」というのであれば、そこにおいては、文字と音声の双方、意味と無意味の双方が等価で機能していると見るべきであろう。松浦の主張は破綻しているようである。しかし、それを論うことが目的なのではない。「日本語とはいったい何なのか」という問いを問う松浦の言葉をさらに研ぎ澄ませば、そこに日本の言語の起源の真なる像が映り込んでくるのではないかという期待があるのだ。たとえば「エクリチュール大嘗祭」は、日本の言語の圏域において《書く》を可能にした原初の一撃のことではないと松浦は述べている。

念を押すまでもあるまいが、われわれは、古代の或る時点で仏教とともに漢字が輸入されたときに生起し、そのようなものとして年表に記載されている歴史的な出来事――起源に位置する一度かぎりの「発生」のことを言っているのではない。われわれの言語生活のもっとも日常的な場面で数限りなく反復されている絶えざる「発生」のことを言っているのだ。

天皇制とは言語そのもの」という一句を「自明と言えば自明の命題」と呼ぶ松浦の考え方は「天皇制と日本語」というプロブレマティックの系譜に連なるものであり、すでに指摘した理由により、これに同調することはできない。しかし、「われわれの言語生活のもっとも日常的な場面で数限りなく反復されている絶えざる『発生』」という言葉が「国語の事実」の急所の一面を鋭く突いていることはたしかであろう。松浦はいう。「日本語においては、こうして遂行される『鎮魂』が、言葉の『発生』のためには不可欠の儀礼なのであり、それが一字ごと、一音ごとに反復されないかぎり、われわれは自分たちの母国語を体験することができないのである」。「音と意味との婚礼の祭礼」とは、「大嘗祭」「鎮魂」「天皇霊」といった天皇制がらみの隠喩の覆いを取り払えば、シニフィアンシニフィエとの「一回的」な「聯合」に基づく記号の作製という、あの能動的な事態を、中動態の相において見直したものにほかならないといえよう。

そのたびごとにただひとつの記号が発生する。ということは結局、記号なるものの発生が不発に終わっているということであろう。だとしたら、記号の総体としてのラングがあるなどというのは、幻想にすぎないのではないか。錯覚にすぎないのではないか。虚構にすぎないのではないか。この根本的な疑念は、西欧言語学を横目に日本語について独自のやり方で深い思索をめぐらした時枝誠記吉本隆明のような人たちに特徴的な、「言語(ラング)」の自存的な存在を頑なに否認する態度の源泉であるといえるだろう。そして次のように述べる松浦もまた、この疑念を共有しているといえるだろう。

ラングとパロールの二元論というのも、わかるようで実はよくわからないものなんですね。ランガージュ(言語活動)の概念はまあいいですよ。誰でも日常的に行っている自明の行為のことだから。しかしラングとはいったい何なのか。ラングは、フランス語なり日本語なり、むしろ国語と訳したほうがいいのかもしれないけど、客観的に実在するシステムで、パロールはそのシステムに依拠しながら、それを適宜利用しつつ一人一人の個体が行う個人的な発話だと、まあ普通は理解するわけなんだけど、ラングなどというものが実在するかといえば、その実体はよくわからないわけで、やはり一種の「実用的なフィクション」でしかありえない概念だと思います。

松浦寿輝沼野充義田中純『徹底討議 二〇世紀の思想・文学・芸術』における松浦の発言)

しかしながら、いまここで問題にしたいのは、ラングなるものが地球上の諸言語のそれぞれについて実在するか否か、といったことではない。ラングの実在が日本語の圏域において疑われる、その特有の疑われ方、そしてその特有の疑われ方においてむき出しになる「国語の事実」だ。「われわれの国語」をめぐる思考において、シニフィアンシニフィエの結合体としてのシーニュ、そしてそのシーニュの体系としてのラングへの疑念は、意味の理解、意味の伝達、ようするに意味作用(シニフィカシオン)への疑念と結びついている。この疑念は、その奥底に、日本語において作動する、意味作用(シニフィカシオン)とは別の原理への気づきを秘めているに相違ない。しかし、この別の原理を、日本語は無意味の座としてあるのだ、日本語の「近代」もまた物質性の露出なのだ、というかたちで結晶させることが「国語の事実」の摘示足り得るかといえば、それには留保が必要だと思うのだ。

たとえば折口の言語から取り出される「奇妙な読みづらさ」は、「おおよそのところは理解できるが隈なく明晰になることが決してない」という形をとっている。端から端まで無意味(ノンサンス)を貫くものではないのだ。こうした折口の言語は、意味と無意味の対立の彼岸を生きる――意味への反発でも無意味への志向でもなく、意味への無頓着を生きる――「われわれの国語」の本性を知的に搾取したものであり、その存立構造をトレースすることによって成り立っているのではないだろうか。

おそらく「われわれの国語」は、先に引用した『明治の表象空間』の一節にあるような「二者択一の選択」が正常に機能しない次元に成立している。意味か無意味か、物質か表象か、漢字か仮名か、近代か古代か――こうした対立を無効化し、そのことごとくを機能不全に陥らせる場所、それが「われわれの国語」の圏域なのだ。折口の言語は、このような力学のもとにある「われわれの国語」のポテンシャルを十全に活用するものであり、だからこそ、このような力学をもたらす契機たる「国語の事実」をめぐる根本的な問い――「日本語とはいったい何か」――を喚起してやまないのである。

意味作用への無関心が支配するこうした日本語の圏域においては、意味作用の失調として定義される「言語の物質性」もそれ相応の変性を被っているはずである。すでに見たように時枝誠記はこういっている。「話手甲から、聞手乙に受け渡されるものは、空間を経由してくる音声、文字だけである。更に云えば、それは空間を伝わってくる物理的な波に過ぎない」。この「物理的な波」に対する感受性のあり方については、これもすでに引用したものだが、川端康成の言葉が示唆的である。「源氏を『湖月抄』の木版本で読むと、小さい活字本で読むのとはかなり感じがちがう」。日本語の圏域に居を定める意識においては、意味的差異を構成しない実質上の差異が、ある種の「『関与的』なパラメーター」として作動しているのである。こうした、意味的差異とは別様の差異において関与的に働く実質の束を「言語の物質性」と区別して、いまから「言語の物理性」と呼ぶことにしたい。

時枝のいう「言語過程」とは、「或る者の声帯から発せられた言葉が別の者の鼓膜ににじり寄ってゆく過程」(松浦)の謂いである。それは「おのずからな親しい流れが触れてくる」(川端)過程でもあるだろう。この過程においては、「空間を伝わってくる物理的な波」にほかならない「接近する跫音」が、ただひたすら受け手の視聴覚を物理的に刺激する。無理な記号の構成は意味論的目まいを引き起こすだろう。記号の発生は不発に終わるだろう。決して記号を構成しない、ラングを構成しない、意味作用とは無縁の純粋言語が飛び交う空間――これが日本の言語の圏域なのであろう。「怪物は、一回限りの現在のできごととして教育する」(蓮實重彦『表層批評宣言』)というが、「荒唐無稽な記号として自分を支える奇型の怪物」(同)によるこの一度限りの教育が徹底的に回避される場所――それが日本の言語の圏域なのである。

どうやらこのような場所の、このような言語を生み出した、あの原初の一撃の場面に立ち戻るときがきたようだ。

 

付記:引用に際して原文中の傍点は太字で、ルビは丸括弧で示した。

 

 

音声中心主義と日本語

 

吉森佳奈子「「日本紀」による注――『河海抄』と契沖・真淵」も注意を促すところだが、本居宣長源氏物語玉の小櫛』五の巻に次の記載がある。

花やかなる

河海に、声花(ハナヤカ)[白氏文集]とあり、すべて此物語のうち、詞の注に、かやうにからぶみ又は日本紀などの文字を引れたることおほし、それが中に、まれにはあたれるも有て、一ツの心得にはなるべきもあれども、おほくはあたりがたくして、みだりなることもおほし、さればひたぶるに注のもじにすがる時は、詞の意を誤ること也、大かたいづれいづれも、注の文字にはよるべからず、こゝの声花も、白氏文集にては、はなやかとよみて、かなふべけれども、然りとて、はなやかを、声花の意とのみ心得ては、いたく違ふべし、されば声花をはなやかとは訓(ヨム)べけれども、はなやかを、声花とは心得べきにあらず、おほかたいづれの調の注も、此わきまへ有べきなり、

『河海抄』は白氏文集から「声花(ハナヤカ)」を取り出し注釈に代えているけれど、「はなやか」を「声花」の意味で理解しようとすることはできないだろうというのが宣長の考えだ。「ひたぶるに注のもじにすがる時は、詞の意を誤ること也」というのである。『河海抄』についてはすでに一の巻の「注釈」のところに「語の注などには、殊にひがごとのみおほくして、用ひがたし」とある。源氏の和語を和語として読まず、その背後に漢字を透かし見るなど「国学者宣長にとっては倒錯の極みといえるものであったろう。しかし倒錯ならば宣長にもあったというべきだ。またその倒錯のかたちは講書博士らの意識のありようと同型であったともいわなければならない。「かならずしも字のとおりにはよまないとして『倭語』をもとめる」(神野志隆光『漢字テキストとしての古事記』)ということである。近世国学と、私記の学風との類似性については、訓詁学的という観点から太田晶二郎が指摘している。その指摘は中国儒学と日本の学問とのあいだに並行関係を見いだすものである。大意を取れば、講書の博士・尚復らが漢唐訓詁学の影響下にあったのと同様、国学者もまた、宋学への反動として訓詁への復帰を説いた考証学の影響下にあるはずであり、ゆえに両者は似ているのだというのである。関晃が批判的に取り上げているところだ*1国学考証学に通じる実証主義的な側面があったことは無論否定しがたいにせよ、とりわけ宣長についていえば、それはあくまで取るに足らない一側面にすぎず、むしろ実証の正道を踏み外していく動きにおいてこそ、その本質が強く深く宿っているのであり、そうした逸脱の運動においてこそ、講書の姿勢との共通性を見ておくほうがいいと思える。

宣長がこうした倒錯に打って出たのは、いわずとしれた古事記の漢字に対してである。古事記伝一之巻「訓法の事」で「殊に字には拘(カカ)はるまじく」と書いている。「本居宣長にとって、『古事記』をよむのは、漢字の覆いを取り去って元来の『古語』『古伝』をあらわしだすことをめざすものでした」(神野志前掲)。「文字を文字どおりに受け取らない」という講書の姿勢は和語を求めることであり、和語は文字以前のものであって音声であるしかないから、この志向を「音声中心主義」と呼べるとすれば、村井紀(『文字の抑圧――国学イデオロギーの成立』)などがそう呼んでいるように、たしかに宣長について、ひいては国学全般について、ある面において「音声中心主義」があったといって、ぜんぜん構わないのではないかと思える。これはありふれた見方だ。

西欧の音声中心主義の背景であり前提であるところの音声と文字との対立の土台となる平面が日本語の圏域には欠片も見うけられないという事実については、「文字中心主義」について検討する段で触れることになるはずだが、国学の「音声中心主義」という場合にも、同じことが当てはまるとして、さして不都合はないようである。しかし少し詳しく見ていくと、西欧型音声中心主義との要素面の違いが、また別な形で二三はっきりと浮かび上がってくるようでもある。小林秀雄は、『古事記伝』においては「訓法の一番難しい、微妙な個所となると、いつも断案が下されている」といっている。

宣長が「古言のふり」とか「古言の調(シラベ)」とか呼んだところは、観察され、実証された資料を、凡て寄せ集めてみたところで、その姿が現ずるというものではあるまい。「訓法(ヨミザマ)の事」は、「古事記伝」の土台であり、宣長の努力の集中したところだが、彼が、「古言のふり」を知ったという事には、古い言い方で、実証が終るところに、内証が熟したとでも言うのが適切なものがあったと見るべきで、これは勿論修正など利くものではない。「古言」は発見されたかも知れないが、「古言のふり」は、むしろ発明されたと言った方がよい。

小林秀雄本居宣長』)

この「断案」、「発明」の実際がどういう具合であったかを見るのに、小林は、笹月清美本居宣長の研究』を参照しつつ、景行天皇の巻、倭建命の挿話に対する宣長の注解をやや長めに引いている。宣長が「いといと悲哀しとも悲哀き御語にざりける」としている箇所である。天皇に命じられた西征を終えて帰京するや、今度は東征を命じられた倭建命が、叔母の倭比売命に心情を打ち明ける。宣長は、その嘆きの言葉に含まれる文字列「天皇既所以思吾死乎」を「天皇早く吾れを死ねとや思ほすらむ」(天皇は私なんかさっさと死んでしまえとお思いなのか)と訓むべきだとし、また、その少し先「猶所思看吾既死焉」とあるところ、これを「猶吾れはやく死ねと思ほし看すなりけり」(やはり私なんかさっさと死んでしまえとお思いであったのだ)と訓むべきだとする。前者の訓みで問題とされているのは、「以」の位置に誤りがあるのではないかということである。「天皇所以思吾死乎」ではなく「天皇所思以吾死乎」が正しい。つまり宣長は「所以」を取り出さない。このあたり解釈が割れているところで、宣長の訓みは西郷信綱古事記注釈』において疑問視されており、また、その西郷らの「通説的な読み方」を構文解釈上「不適切」とする山口佳紀・神野志隆光(新編日本古典文学全集)の訓みとも違っている。「通説」ならびに山口・神野志の考えでは「所以」が維持されている。対して宣長の考え方ではこれが解体される。「所以」を「ユヱ」と訓めば「穏(オダヤカ)」ではないし、またすぐ下に「所思」とあるのだから、それに照らしてここも「所思」であるべきだというのである。「ユヱ」が穏当ではないというのについては、その神野志隆光の『本居宣長古事記伝」を読む』にわかりやすい解説がある。「所以」は、あることの原因・理由をその下に導く構文を作るものだから、その上に来るものを事実として認定することになる。つまり「所以」を「ユエ」と訓む場合、「天皇が私なんかさっさと死ねと思っているその理由は」云々、といっていることになり、これは天皇がそのような考えを抱いているということを既定の事実と見ていることになるわけで、たしかに「穏(オダヤカ)」ではない。

他方「猶所思看吾既死焉」の訓みに関する指摘は、単に「思ほし看す」ではなく、下に「なりけり」と付け加える必要があるということである。これは前の箇所の解釈の延長線上にあるもので、「早く吾れを死ねとや思ほすらむ」という疑念がここに至り確信に変わったという表現なのであり、そうであるならば、「なりけり」という言葉がおのずから現れ出てくるというものである。

ここに明らかなように、訓は、倭建命の心中を思い度るところから、定まってくる。「いといと悲哀しとも悲哀き」と思っていると、「なりけり」と読み添えねばならぬという内心の声が、聞こえて来るらしい。そう訓むのが正しいという証拠が、外部に見附かったわけではない。

(小林同前)

笹月は、この「内心の声」について、こう考えている。宣長は「古事記の内的生命、文字の底に流動している生命そのもの」に先導されていた。こうした「生命の把握は詳細な実証的研究と漢籍訓、後世訓及び先哲の説に対する批判とによってなされるのであるが、究極的には直接の感得によるの外はない」。「実証」から「内証」、「内証」から「断案」へと至るその道筋は、『本居宣長古事記伝』を読む』の中でも幾度となく辿られている。ここではひとつだけ例を借りる。伊邪那岐命伊邪那美命が交わるところで三度出てくる「不良」の訓みとして、宣長は、「ヨカラズ」「サガナシ」「フサハズ」の三つのそれぞれについて、宣命や私記等いくつもの古文献にあたり、いずれの訓みにも可能性のあることを認めながらも、結局最後には「なほ布佐波受(フサハズ)と訓むぞまさりて聞ゆる」。「直接の感得」で決めているのだ。

先ず、文の「調」とか「勢」とか「さま」とか呼ばれる全体的なものの直知があり、そこから部分的なものへの働きが現れる。「調」は完全な形で感じられているのだから、「云々とのみ訓みては、何とかやことたらはぬこゝちすれば」という事になる。理由ははっきり説明出来ぬし、説明する必要もない、「何とかやことたらはぬこゝち」がすれば充分なので、訓の断定は、遅疑なく行われる。

(小林同前)

こんなふうに、文字にこだわらず直観によって訓みを確定し、さらには「新(アラタ)たに訓ミを造(ツク)りしも有ルべし」(『古事記伝』)とさえいってのける宣長の姿勢を「音声中心主義」と呼ぶとすれば、ただちに、この「音声中心主義」には、西欧のそれには見られない、ある固有の特質が刻印されている、と付言しなければならなくなる。ある固有の特質とは何か。音声の不在である。稗田阿礼の声は、宣長の耳には聞こえていないのだ。「中心」に置かれているはずの「音声」、重視すべき対象としての声が、その場に現前していない。これが国学の「音声中心主義」の本質を規定する根本的な条件を形づくっていることは論を俟たないと思うが、たとえば明治の言文一致論の基盤となった西欧近代言語学由来の「音声中心主義」と、近世国学にあるとされる「音声中心主義」とを重ね合わせる思考に強い抵抗感が湧き出すのは、この地点においてだ。音声の不在という事実の本質的な重さへの感受性が、少し足りないような気がするのである。音声の不在、逆にいえば文字の現前である。音声中心主義というからには二次的な存在者にすぎないはずの文字が、一次的な存在者として、音声の前に立ちはだかり、音声の基体をなしているのだ。文字が音声を生み出し、音声中心主義を生み出しているといえよう。なぜなら、文字を文字どおりに受け取らないという態度に出るためには、まずいったん文字を受け取らなければならない。内奥にある音声は、そのうえでこれを否定することにより、ようやく立ち現れてくる。音声中心主義の条件としての音声の不在といってもいいし、音声中心主義の起源としての文字の現前といってもいいだろう。音声中心主義と文字中心主義は、ここでも絡み合っている。ある何かが、ある局面において音声中心主義のような相貌を帯び、別の局面において文字中心主義のような相貌を帯びる。そのような「ある何か」の所在や存在態様を見定め、えぐりだすことが日本の言語の起源に迫ることだ。

宣長は、古事記本文の冒頭に置かれた「天地初発之時、於高天原成神名……」のくだりについての注釈文を「天地は、阿米都知(アメツチ)の漢字(カラモジ)にして、天は阿米(アメ)なり、かくて阿米(アメ)てふ名義(ナノココロ)は、未ダ思ヒ得ず」(『古事記伝』三の巻)と始めている。「天」は「アメ」に対応する漢字であり、「アメ」と訓むが、しかし「アメ」の意味はわからない。そう述べているわけである。この言い方でまず当然に否定されているものが和語を漢字の意味で理解することであることについて疑いの余地を開くことは難しい。『河海抄』の「注のもじにすがる」ことへの拒絶と同型の身振りがここに潜伏しているといえる。「天」は「アメ」と訓むべきだが「アメ」を「天」が表す意味で受けとってはならない。では、どういう意味で受け取ればいいのか。宣長の答えはこうだ。「阿米(アメ)てふ名義(ナノココロ)は、未ダ思ヒ得ず」。この答えにちょっとすかを食ったような気になるのは、「アメ」を「天」の意味で解することを禁じるには「アメ」の意味がわかっていなければならないと考えられるからだ。宣長が漢字の有する意味を、それが漢字であるというだけで無条件に否定しているという事実がここにあらわになっているといっていいが、しかし、そのことを確認しただけでは、日本の言語の起源に攻め込むには不足である。宣長は「アメ」の意味がわからなくてちっともかまわないと考えている。この考えは、直観により強引に〈訓み〉、すなわち音声を求める姿勢の対極にあるといえる。なぜ意味がわからなくてかまわないのか。宣長はいう。「諸(モロモロ)の言(コト)の、然云(シカイフ)本(モト)の意(ココロ)を釈(トク)は、甚難(イトカタ)きわざなるを、強(シヒ)て解(トカ)むとすれば、必僻(ヒガ)める説(コト)の出来(イデク)るものなり」。「僻める」というのは「理」、すなわち「漢意(カラゴコロ)」による歪曲のことだ。つまり宣長は、「アメ」を「天」の意味で、すなわち「漢籍意(カラブミゴコロ)」で解することの禁止を超えて、語の意味を是が非でも求めねばならぬという志向そのもの、「本の意」を解釈するという姿勢そのものを「漢意」と断じているのである。

ここで「本の意」とはようするに語源のことをいうのだが、そういうことで宣長のいわんとしていることを正しく把握するには、時枝誠記国語学史』の記述に目を通しておくのが遠回りのようで、じつは近道だ。時枝は、近世国語研究における語の意味の探求は、いわゆる「解釈」と「語源研究」の二つに大別できるとしたうえで、次のように語っている。

語源研究ということは、今日においては、語の意味の起源的なものを歴史的に遡ることを意味しているから、語源の研究は、語の解釈とは関係ないわけであるが、元来etyomologyという語それ自身の意味は、語の正義(etumon)を求めることである。国語学史上における語源研究も、多分にその意味で研究せられている。そして一方、解釈ということも、語の根本的な意義を求めてそれによって古典を解釈しよという風に考えられて居ったのであるから、いはゆる語源研究に類するような研究も、実は本義の探求であって、その点解釈と別物ではなかったのである。

ここに本義あるいは正義というのは何を意味するのであるか。一の語に数義が存在する場合に、その一つを本義あるいは正義と考え、他の意味をその転義あるいはその崩壊したもののように考える。今日においては、一般にそれらを時間的に変遷したものとして考えるのが普通であるが、歴史的観念の成立しない以前においては、右のように考えるのも当然であったと言えるであろう。

(『国語学史』)

こうした「本の意」すなわち語のレベルにおける意味の探索は、たとえば契沖や賀茂真淵において顕著である。吉森佳奈子は先に挙げた論文の中で、漢字による和語の解釈を批判する宣長の態度は契沖や真淵の『河海抄』への向き合い方とは「別な地平に出ている」と指摘しているが、無暗矢鱈な語釈に冷淡な宣長は、ここでもやはり、先行する国学者たちの傾向から外れているといえよう。

さて、語の意味の取り扱いをめぐるこの宣長の思想から、大事な意味を二つ取り出すことができる。そのひとつは、宣長の音声中心主義と西欧の音声中心主義との相違点に関わっている。ジャック・デリダは、『グラマトロジーについて』の中で、フォネー、すなわち声というシニフィアンが「シニフィエに限りなく近接している」という印象をもたらすことに注意を払っている。その際デリダは、オグデン=リチャーズ式というか、時枝誠記式というか、とにかく「シニフィエ」という言葉をだいぶ緩やかに用いており、いわゆる「意味(sens)」だけでなく、「事物(chose)」も含めてそう呼んでいる。他方ジュリア・クリステヴァとの対談においては「シニフィエ」を「概念(concept)」と置換可能な言葉として扱っているが、それはそこで問題とされているものがソシュールその人の記号概念であることと深い関係がある。

フォネーは、シニフィエたる概念の思考に緊密に結合したものとして意識に与えられるシニフィアンたる実質である。この見方によれば、声は意識そのものであるとさえ言える。私は自分が話すとき、自分が考えていることの現前にいるという意識を抱く。のみならず、外の世界にこぼれ落ちる前のシニフィアンを自分の思考あるいは「概念」のすぐそばに保持しているという意識を抱く。このシニフィアンは、私がそれを口にするや即座に耳にするものであり、完全に私の意のままであり、ほかに何か道具を用いたり、余計なものを付けくわえたり、外の世界から力を借りたりするようなことはまったく必要ないように思える。単にシニフィアンシニフィエとが結合しているように思えるのみならず、こうした混同においてシニフィアンが消失し、あるいは透明化し、そのため概念が、ありのままの姿でおのずから現前しているように、己の現前以外の何ものにも依拠していないように思える。シニフィアンの外在性が還元されているように思えるのである。もちろんこの経験はまやかしである。しかし、このまやかしがもたらす必然性の上に、ひとつの構造の全体、ひとつの時代の全体が組織されたのである。

ジャック・デリダ『ポジシオン』、拙訳)

西欧において声が重視されるのは、デリダが「現前の形而上学」と呼ぶ制度的まやかしにおいて、シニフィアンたる声が意識=自己のもとに直接的に現前することを通じて、声と結合したシニフィエの〈自己への現前〉が保証されるからである、といえる。声という透明なシニフィアンを蝶番にしたシニフィエと自己との密着の確保。しかしすでに見たように、国学の音声中心主義においては、声の現前が参与していないばかりか、むしろ声の不在がその本質的構成要素となっているのである。加えて、いましがた確かめたように、宣長は語の意味、「本の意」の追求を漢意として痛斥する。シニフィエの現前を問題にしていないということだ。〈概念=声=意識〉の三幅対、音声中心主義と一体化したロゴス中心主義を、宣長は西欧と共有していないのである。

 

(続く)

*1:関は論考「上代に於ける日本書紀講読の研究」で、日本書紀の講書において作業の中心を占める「訓読」の性質について問い直し、「書紀の講義を以て訓詁の学・訳語の業なりとする従来の通説」を「排撃」している。これは第一に、書紀の文章は漢文としてさほど難解なものではなく訓詁の必要性が認められないこと、第二に、私記の訓注において当時の現代語や日常語ではなく古語が当てられていること、そしてまた、「『報命・復命・報聞・有復命・報告・返』等」を「すべて一様に『カヘリゴトマウス』と読」むなど漢語間の微細な意味の違いを問題にしない場面が多いこと等を根拠とするものである。