工藤遥は「わたしの推し」ではない

僕には「推し」が分からない。「推し」というからには誰かに推薦するのだろうが一体なぜ、誰に推薦するのか分からない。アイドルは映画やガジェットではない。ましてや神でもない。誰かにオススメできる気持ちが分からない。

アイドルのブログを読み、アイドルの出演番組を見て、アイドルのイベントに行き、アイドルについて一日中考え、アイドルが好き過ぎて悶絶しながら酒ばかり飲んでいた僕は、他人から見ればアイドルを「推し」ているように、あるいは「応援」しているように見えたかもしれない。そんな気は毛頭なかった。僕にとってそれは単に「恋」だった。

 

昨年の秋、アイドルから女優になった彼女が久々にファンクラブバースデーイベントを開催した。僕は当然それに行った。特に理由はない。当然だからだ。そこで彼女がステージの上で歌って踊っておしゃべりするのを見て、僕は考え込んでしまった。そこで湧き上がって来た感情をまだ「恋」と呼んでいても良いのか分からなくなった。

イベント後、会場のあった新小岩の立ち飲み屋で泥酔し、人の車で爆睡、放り出されたコンビニのトイレで嘔吐しながら僕が出した答えは「これはおそらくその大部分は愛や恋ではない。僕が彼女を追ってしまうのは、ただ単に生活に染み渡った寂しさの発露である」というものだった。僕はその日、妙にスッキリとした気分になり、アパートの玄関で眠った。

 

僕の生活は寂しい。365日、おそらく全て寂しい。おそらく、とつけたのは自分ではその寂しさに気付いていないことが多いからだ。普段の生活で寂しいと思うことは無い。僕は自分が寂しいということを認識できなくなるほど寂しい生活を20年近く続けたせいで、寂しさ認識機能がほとんど壊れてしまった。

ところが彼女を見ている時には僕は寂しさを感じることが出来る。彼女を見ると胸がぎゅっとなるのを「恋」のせいだと思っていた。しかしそれは寂しさを感じた時の心臓の音だったのではないか。生活に染み渡った寂しさに彼女はいつも気付かせてくれる。

誰かを好きだ、という気持ちに身を任せるのは快楽である。単純に気持ちが良い。だからその気持ち良さに惑わされてしまう。誰かを好きだと言っていたいのは単純に気持ちがいいからだと思ってしまう。もちろんそれは理由のひとつだろうが、人を好きになりたいという気持ちの奥には寂しさがある。

誰かに本気の好きをぶつけるというのは、その相手に甘えるということだ。本気で好きだと言えるほど甘えられる人が僕の生活には居ない。僕をただただ甘やかしてくれるのは彼女の幻影だけである。アイドルが作り出す幻には本気の好きをぶつけても耐えられるだけの強度がある、ような気がする。アイドル本人そのものに本気の好きをぶつけてしまうと様々な問題が起こる。僕がここで言及しているのは「アイドルが作り出す幻」に本気の好きをぶつける場合についてである。本気の好きをぶつけても良い幻を作り出すのがアイドルの商売だ、という気がする。僕はそんな気がずっとしている。

 

僕は「推し」や「応援」の他にも「経済を回す」や「布教」などの言葉も分からない。はっきり言って苦手である。これらの言葉は先ほど述べたような「本気の好きをぶつける」ような行為とは別のものを指しているように感じるからだ。

これも苦手な言葉である「顔が良い」を使う人に「なぜ顔が好き、と言わず顔が良いと言うのですか」と聞いたことがある。答えは「顔が良い、の方が客観的な評価で世間への通りが良いような気がする。顔が好きという自分だけの評価よりもそちらの方が使いやすい」というものだった。明快な答えである。納得出来る。理屈が通っている。その理屈こそが僕がそれらの言葉が苦手な原因そのものだ。

寂しさの果てに生まれた行き場のない好きをぶつける先がアイドルの作る幻である、という僕の基本とする考えに他者は必要ない。結果として「経済を回し」たり自分の行動がアイドルへの「応援」になっていることはあっても、行動の根本的な理由に自分と相手以外の他者は介在しない。苦手な言葉はどれも自分と相手以外の別の誰かへの言い訳をしているように僕には感じられる。自分の外に評価を求めている言葉だ。

自分の外に評価を求める事こそが大事だ、という考え方も出来る。例えば、好きを共有することで根本にある寂しさごと人と共有している、という見方もできる。自分以外の誰かも同じように相手に好きをぶつけていると感じることで安心する、といったようなこともあるかもしれない。自分がその人を好きなんだということを他人に認めさせることそのものに意味がある、という考え方もあるかもしれない。そこそこ売れているアイドルが好きだからそんな事を言っていられるだけだ、という意見もあるだろう。「そもそもそんな事を考えて使ってない。語感とパッションだよ。わからんかね君ィ?」という人も沢山いるだろう。だから僕はそれらの言葉を使うな、とは言わない。僕はそれを使わない、というだけだ。

アイドルは神ではない。ならば我々も敬虔な信者になる必要はない。僕は「寂しさの果てに生まれた行き場のない好きをぶつけてくるヤツ」くらいで自分はちょうど良いと思う。これを読んだあなたが自分をどれくらいでちょうど良いと思うのか、僕は酒を飲みながら聞きたい。万人に当てはまるちょうど良いなどではない、あなたのちょうど良いが聞きたい。

 

恋という字を辞書で引いた。彼女の名前をそこに足しておくことはしなかったが、恋の定義は僕が思っていたよりも多様であった。辞書に載っている意味ですら、今のところ揺らぎがある。つまり僕のこの「対象の相手を見ると寂しさで胸がぎゅっとなること」や「寂しさの果てに生まれた行き場のない好きをぶつける行為」なども「恋」の定義として使っても良さそうに見える。僕はこの感情をまだ「恋」と呼んでおこうと思う。一人よりも楽しいぞ。。。。。

 

バースデーイベントから一か月後、今度はカレンダー発売お話会に行った。いつものようにモゴモゴとよくわからない事を喋って逃げるように会場を離れ飲み屋に行った。彼女はまた一段と綺麗になっており、僕はまた一段と寂しくなった。またも泥酔した僕は「みんな!俺はな!好きかもしれん!工藤遥が好きなんかもしれん!」と言い続けた。10年来の知人に「かもしれんじゃない!お前は工藤遥が好きなんだよ!ずっと!」と言われた。そうか、僕は工藤遥が好きだったのか。ただ寂しいだけじゃなかったのか。

工藤遥を見る時、諦めたはずのものがそこに見える。目がつぶれるほどキラキラ光っている。普段の生活で忘れたはずの感情が全て置いてある。孤独に死のうと決めた決意が揺らぎ、脳みそが揺れる。そして胸がぎゅ~~~~っとなる。

工藤遥はブログを書いている。ファンクラブ会員限定というクローズドな空間で。そこで彼女は度々書く。「嬉しい報告や幸せな報告があなたたちにもある、それを私に聞かせてくれる、それが嬉しい。私はあなた達の人生の一部になれるのが嬉しい」などと。残念ながら僕には嬉しい報告はない。

しかし、生活に嬉しい報告など無くても構わない。寂しい生活の中に彼女がたまに現れて、それを感じることで僕はギリギリで寂しさを認識する機能を保っている。あるいは寂しさ以外の様々な感情を認識する機能をも保っている。その認識から生まれた行き場の無い好きを大きく振りかぶって僕は彼女に投げつける。好きは幻の霧の中にもやもやっと消えて行き、手ごたえは無く、僕はまた寂しさを忘れて寂しい生活をする。それが僕の暮らしである。僕はこの暮らしを寂しいとは思わない。

 

工藤遥わたしの推しではない。ただ暮らしの中に彼女がいるだけである。