白洲次郎論#11

白洲次郎近衛文麿吉田茂との関係について書いたが、読者は次郎が帰国後、「ジャパン・アドバイザー」という英字新聞社に勤めたことは理解したが、その後次郎がどのような仕事に就いたかなどの動向について、分からない部分が多いであろう。それを知らずして次郎の実像が掴めないと思われている方もいるであろう。そこで、「ジャパン・アドバイザー」以降の次郎の動向について書く。

「ジャパン・アドバイザー」以降の白州次郎の動向

昭和6年(1931年)、次郎はケンブリッジ時代の同級生ジョージ・セールからは一通の手紙を受け取った。貿易商社の御曹司だった彼から、不振だった日本法人の整理を手伝ってくれという内容であった。次郎の父・文平が綿花貿易をしていたことから次郎も貿易には興味を持っていたので、すぐに引き受けた。ジャパン・アドバイザーを退社し、セール・フレーザー商会の取締役に就任した。月給は500円、当時の東京府知事の月給が450円の時代であった。次郎は給料に見あった仕事をするため猛烈に働いた。当時の日本ではまだ欧米を知る者はそう多くなかった。次郎のような人材は引く手あまたであった。この頃彼は、共同漁業の田村啓三社長から強烈なアプローチを受けていた。田村社長は日産コンツェルンの鮎川(あいかわ)義(よし)介(すけ)の協力を得て業務を急拡大させようとした。そのためには次郎の英語力と海外の人脈が必要だったのである。田村は次郎に次のようなことを言った。「わが国は鉱物資源のない国。外貨を稼ぐのも至難。ただ日本には海洋資源がある、それを冷凍したり缶詰にして加工すれば付加価値がでて、外貨を稼ぐことが出来る。これはまさに国のためである」。金儲けのためではなく、国のためだということに次郎の心は動いた。セール・フレーザー商会の仕事が一段落していたので、田村の申し出を受けた。田村の次の言葉の方が白州を動かせた理由なのかもしれない。「白洲さんには役員になってもらい好きにやっていただきます。世界中を回ってもらいますが、とくに英国には毎年行ってもらうことになるでしょう」。昭和12年(1937年)3月、まずは買収先の日本食糧工業に入社して合併準備を行い、同年12月、共同漁業と合併後名前が変わった新生"日本水産"の取締役外地部部長に就任した。35歳の時であった。缶詰、鯨油の輸出先拡大が主な仕事であった。鯨油はマッコウ油とナガス油に大別されるが、前者は蝋燭や洗剤、口紅などの原料になり、後者はマーガリンに加工された。鯨油マーガリンはこの当時、オランダ、ドイツ、イギリス、デンマークなどで大規模生産が行われており、次郎の仕事の中心はこれらに国への日本産鯨油の売り込みであった。当時次郎は一年に4ヵ月ほどしか日本にはおらず、世界中を飛び回っていた。毎年ロンドンにも出かけ、ロビンとの友情も復活した。彼から大口の顧客を紹介してもらったりした。次郎は当時、貿易こそ、国を豊かにするとことを身をもって知ることになる。次郎が出張している間、正子はひとり暮らしをしていると錯覚するほどであったが、結構次郎のいない生活をエンジョイしていたようである。というのは、正子は華やかな社交界によく呼ばれることがあったからだ。長男・春正が最初に覚えた言葉が“お呼ばれ”だったというから、笑えない話である。春正は成人してから、次のようなことを言っている。「戦前の華やかな社交界の生活が、戦後振り返ってみるといかにむなしい虚飾の世界であったかいうことに気づき、そのことが正子を”侘(わ)び寂(さ)び“の世界に駆り立てたのではないでしょうか」。

ドンキホーテーと見られた吉田

海外出張の多い次郎は吉田のために、イギリスの駐日大使ロバート・クレーギーとの連絡役も買って出た。英国のチェンバレン首相は当初、吉田の開戦回避の動きが、宮中に影響力を持つ牧野を通じて皇室にまで繋がっていることを高く評価していたが、やがて外務省内が松岡の息のかかった枢軸派(親ドイツ派)で占められるようになると、吉田の提案と日本の外務省の動きとがあまりにも離れてきたため、次第に吉田がドンキ・ホーテのようにしか見えなくなっていった。失意の中、昭和13年9月3日、吉田に帰国命令が出た。帰国して浪人状態となった吉田だがまだあきらめてはいなかった。昭和15年7月、第二次近衛内閣が発足。三国軍事同盟締結の機運が高まると、吉田は。「是が非でも同盟締結だけは阻止しなければ」と、近衛に対し内閣総辞職を求めた。しかし、吉田の願いもむなしく、同盟は締結された。近衛は蒋介石とは対決姿勢を明確にしていたが、米英との開戦だけは何とか阻止しようと努力した。だが、第二次近衛内閣に閣僚として入れた東条英機陸相と松岡洋祐外相に振りまわされ、なかでも南仏進駐は致命的で、米国の対日石油禁止措置・在米日本資産凍結という態度硬化をもたらした。時間がむなしく過ぎ、昭和16年11月、ついに“ハルノート"を手渡された。

  この一連の歴史の流れの中で、吉田、近衛、東条、松岡の行動をどう分析するか。これは歴史家によって解釈が違ってくる。吉田茂のこの当時の活動を高く評価すれば、当然東条や松岡を非難することになる。東条は東京裁判での堂々たる態度に、東条の一連の動きを評価する風潮も現れている。ところが松岡に関しては、特に松岡は昭和天皇からも嫌われていたということから、よく書いているものをあまり見たことがない。

松岡擁護論

歴史上の人物にしても普通の人間にしても、完全な悪人や善人という者は存在しない。松岡は少なくとも日本の国を思って国際連盟脱退、日独伊同盟を推進したのであって、現在の歴史家が彼の行った選択は全て悪かったとするのは、どこか浅い了見のように思える。松岡が強気の選択をせざるをえなかった国際情勢や国内事情があったことを考えなければならない。未来を予見する読みが浅かったことはあるだろう。直情型松岡が世界情勢を冷徹に見ることが出来なかったことはあるだろう。前述したように、松岡が連盟総会に脱退を決意して参加するとき、吉田から、「出かける前に頭から水でも浴びて、冷静になりなさい」と言われたように、松岡は察するに策士ではなかったようである。連盟を脱退した後、どのような情勢が待っているかの把握が甘かったようである。よく言われることであるが、「脱退後、日本が世界から孤立したが故に松岡の選択は間違っていた」という論点を木庵は納得しない。なぜなら、脱退することが当時の国際情勢から考えると、孤立への道を進むとは考えられないからである。アメリカはもともと連盟に参加していない。連盟自身の機能が戦後できた連合とは比べものにならないほど弱体であった以上、脱退の意味するのはそれほど大きなことではなかった。だから、連盟脱退を日本の孤立化とは直接結びつかない。ただ、日独伊同盟の決断は孤立化というより、明らかに米英を敵とする意思表示であったと言える。当時の一連の動きの中で、松岡一人に責任を押しつけているのは、戦後の風潮である。江戸時代農民が一揆をおこない、処罰の段階で、リーダーの一人が処刑されることによって収拾を図る(処罰する側においても、される側においても)日本的解決法があった。そのとき、処罰される側において、犠牲者の魂を永遠に伝えようとした。例えば義民の碑を建てて犠牲的精神を後の世まで伝えようとした。このような人情があった。ところが、松岡に対して、松岡は一種の戦争の生贄であったのだが、一揆のリーダーのような人情的同情や尊敬がない。木庵は松岡が戦前にどのようなことを行ったか、それがどのように戦争への道を歩ませる要因になったかのようなことに対して興味を持つと同時に、戦後の松岡に対する国民感情があまりにも冷たく、戦後日本人のある種の感覚の欠落を発見する。戦前の日本国民は多少の違いはあれ、ほとんど松岡の考えを支持し、どちらかというと松岡的であった。それを戦争が負けたとたん、松岡一人を悪者にして、自分はあたかも吉田や白州のように反戦の考えであったとか、米英と結びついていた方がよかったという戦後の流れに迎合した考えに自己を変えていった浅慮さに呆れている。こういうのを厚顔無恥という。ただ松岡を批判するとするなら、戦前の時流の流れに彼は乗りすぎた。時流に乗るような人間は自分の考えではなく大きな流れの中に自己を埋没させてしまう傾向がある。その点、戦前の吉田や白州には自己を埋没させることはなかった。ただ言えることは、同じ人間でも、時代の流れに同調しなかった時期があっても、ある時から時流に乗り出すと、自己を失うことがある。人間とはそのようなものである。そういう意味で、戦後権力側に立つようになった吉田、白州が、自己を失っていくようになるのか失わなかったのか、興味のあるところである。そのあたりも後に分析できればよいと思っている。
つづく

白洲次郎論#10

戦後マッカーサーは日本にアメリカ民主主義を浸透させるために、当初近衛を利用した。昭和20年、10月4日、近衛は第一生命ビルに呼び出され、決定的なことをマッカーサーから告げられた。「近衛公は世界を知り、コスモポリタンで、年齢も若いのだから、自由主義者を集めて帝国憲法を改正すべきでしょう。できるだけ早く草案を作成して新聞に発表するべきある」。近衛は京大時代の恩師である憲法学者佐々木惣一に声をかけ、憲法調査会を編成し、憲法改正に動いた。その後の紆余曲折は省略するとして、当時、近衛は米国の世論やGHQから不人気であった。特にニューヨーク・ヘラルド・トリビューンの社説で次のような記事が掲載された。「少年院の規則を決める人間にガンマンを選んだようなものだ」。また、戦犯容疑の濃い近衛を重用するマッカーサー批判の記事が掲載され、それをマッカーサーの知るところとなった。マッカーサーは豹変し、「近衛は憲法改正を行っているが、これはGHQの関知せぬことである」という発表を行わせた。近衛をたきつけた日から一ヵ月も経っていない。この当時、次郎はGHQと関係していたので、マッカーサーの思惑が手に取るように読み取れた。マッカーサーアメリカ世論を気にしていたのである。なぜなら、彼は大統領になりたくてしかたがなかったからである。その間、近衛は憲法改正に努力したが、アメリカ世論を気にするマッカーサーの方針は、近衛を戦犯として逮捕する方向に傾かせた。12月6日の夜、静養先の軽井沢の別荘荻外荘にいた近衛に、外務省から戦犯指名された旨の電話が入った。次郎と牛場は吉田外相のところに集まり、善後策を話し合った。吉田は「東郷茂徳元外相は病気で巣鴨入りが延期になった。病気だといって東大病院に入れさせるんだ」と知恵を授けた。牛場と次郎はそのことを近衛に伝えたが、「入院はやめましょう」と静かに言った。この段階で近衛は自殺を決意したのである。近衛が自殺する前日12月15日、近衛は親しい友人たちを夕食に招待した。その中に次郎も含まれていたが、彼は誘いを断っている。カンの鋭い次郎は、夕食会がどういう目的で開かれるか痛いほど解り、“最期の晩餐“に出席する気持ちになれなかったのである。牛場たちはその後も近衛が自殺しないように、衣類などを近衛の二男通隆に調べさせたが、夫人はもうあきらめて、「私はお考えのとおりなさるのがいいと思うから探しません」と言って断った。刀剣や薬物はいっさい見つからなかった。晩餐会の当日、来客が全部帰り、牛場と松本烝(じょう)治(じ)(国務大臣)の二人だけが残り、近衛の寝室の隣に寝ることにした。息子の道隆は近衛に「一緒に寝ましょう」と声をかけたが、「人がいては眠れないから」とやんわり断られた。その代わり、「少し話していかないか」と言われ、遅くまで近衛の部屋で話し込んだ。盧溝橋事件以来の自分の活動や日本の将来について、まるで言い残すようにしてあつく語ったという。「何か書いてください」、そう通隆が手近にあった鉛筆を渡すと、近衛はそのときの心境をつづった。それはいつに似ず殴り書きのような文字であった。結局それが彼の遺書になった。通隆が部屋を出たのは午前2時ごろであった。「明日巣鴨へ行っていただけますね」と最後に念を押すと。近衛は暗い顔をしたまま、何も答えなかったという。そして午前6時、寝室にまだ明かりがついているのを不審に思った夫人が部屋に入ってみると、布団の中で近衛はすでに息絶えていた。

近衛の死後、あろうことかGHQは、「近衛は日本政府の行政機構改革を研究するように言ったのを、通訳の誤訳のために、憲法改正と考えたのだ」という噂を意図的に流した。次郎は「GHQに正義はない」と確信した。マッカーサーは自らの回顧録の中で、憲法改正に多くの紙数を割いたが、近衛についての言及は全くなかった。吉田はその後、未亡人の生活の足しになればと、近衛が自殺した荻外荘を借りて時々寝泊りに使うこともあった。「近衛閣下が亡くなった部屋で寝起きされるのは気持ち悪くないですか?」と尋ねられると。「幽霊が出たところで、近衛のお化けなんか怖くないわい」と言ったという。

北氏の文章を相当引用させてもらったが、高級貴族近衛文麿に相応しい堂々とした最期であった。また夫人も立派な態度であった。

白洲次郎にとって、吉田茂はどういう人間であったか

近衛文麿」のところで、白州次郎と吉田の関係が少しは理解できたと思うが、もう少し詳しく、次郎、吉田の糸の絡みを説明する。

吉田は明治39年(1906年)東京帝大を卒業して外務省に入省した。同期の中でも特に気のあった友人が後の首相また戦犯として処刑された広田弘毅であった。吉田が結婚した相手が牧野伸(のぶ)顕(あき)の娘・雪子であった。牧野は明治の元勲大久保利通の次男で、文相、農商務相、外相、パリ講和会議次席全権、宮内相、内大臣を歴任した大物政治家であった。白洲正子の父・樺山愛輔は、同じ薩摩出身で牧野と境遇が似ていることから親しい関係であった。牧野はよく樺山家の御殿場の別荘を訪ね、正子も“牧野のおじ様”と呼んで幼い頃から慕っていた。
   
次郎は結婚直後、大磯の樺山邸で吉田と初めて顔を合わせた。次郎27歳、吉田51歳のときであった。
  
 昭和7年(1932年)、松岡洋右国際連盟総会に全権として参加することになったとき、吉田はその危うさを感じた。松岡は英米の実力を軽視し、ドイツの力を過大評価していたからだ。松岡が出かけるまえ、吉田は「あなたはドイツしか見えていないようですが、出かける前に頭から水でも浴びて少し落ちついてから行かれては如何でしょうかな」と言い放っている。吉田は東条英機のことを、顔を合わせても挨拶をしないほど嫌っていた、一方東条を中心とする軍部は、開戦阻止に動く吉田や牧野、樺山たちのことを“ヨハンセングループ("吉田反戦”のもじり)という符号で呼んで警戒していた。そしてついに、昭和10年12月26日、軍部から“君側(くんそく)の奸(かん)”と指弾されていた牧野は、彼らの圧力によって内大臣を更迭された。それでも吉田はあきらめず、千葉県の柏に隠棲した牧野と手紙のやりとりしながら策を練った。だが検閲の目は日増しに厳しくなっていく。そこで活躍したのが次郎であった。 
  その頃、次郎は近衛のところに出入りするようになっており、近衛と吉田が親しい関係にあったことから、吉田と接触する機会も次第に増えていた。噂どおり、頑固者である。だが、そのような吉田に次郎は心惹かれていった。しばしば次郎は、吉田の依頼で牧野のところへと使いに行っている。樺山家と牧野家の関係を考えれば、次郎の出入りは不自然ではなかった。懐には吉田からの手紙を持ち、さらに重要なことは口頭で伝えた。当時、ヨハンセングループには身の危険さえあった。昭和11年、次郎が海外出張で、正子と一緒に欧州に渡っていたとき起こった。それがかの有名な2・26事件である。牧野は反乱軍の襲撃に遭って、危機一髪、難を逃れ九死に一生を得た。同年、広田内閣が発足し、吉田を外務大臣に迎えようとしたが、軍部の猛反対によって、吉田は入閣できなかった。その代わりに吉田は駐英大使に任命された。着任早々「日独防共協定」が俎上にのり、吉田は頑強に反対し続けた。吉田は外務省でも孤立していた。結局吉田を無視して協定は結ばれた。苛立ち募るばかりの吉田の前に次郎が現れた。次郎はロンドン出張のたびに大使館に吉田を訪ね、寝泊りをするようになった。しばしば二人は大使館地下でビリヤードを楽しんでいたがその様子が尋常でなかった。「このバカやろう!」「こんちくしょう!」罵声が飛び交っていた。喧嘩しているのではないかと周囲の人は心配したが、実は罵倒している相手は親ドイツ派に対してあったようである。吉田が孤独な時代を向えていたのを、次郎流の慰めであったのだ。
  麻生太郎(現総理大臣)が祖父・吉田茂を回想した「祖父吉田茂の流儀」の中に、「祖父・吉田茂は『カン』のいい人を可愛がった」というくだりがある。その点次郎は並外れて「カン」の働く男で、吉田に可愛がられるものを持っていた。次郎は吉田の妻・雪子にもかわいがられた。あるとき次郎は雪子から三女和子の結婚相手を探すことを頼まれた。吉田には健一(後の英文学者、評論家、小説家)という長男がいたが、吉田とは性格が正反対だったことから、吉田の愛情はもっぱら男勝りの和子に集中していた。その吉田にとってとても大事な娘の結婚をいとも簡単に次郎は見つけてきた。「欧州出張から帰る船の中でいい男を見つけてきた。この男性と結婚するように」と命令口調の手紙を和子に送りつけた。この“いい男"というのは、九州の炭鉱王の息子・麻生太賀(たか)吉(きち)のことであった。そして、あれよあれよという間に、和子は太賀吉と結婚した。次郎は吉田家にとって縁結びの神であった。この結婚によって、吉田はその後金に不自由することはなくなった。吉田が自由な政治活動が出来たのは、麻生財閥の経済的バックアップを受けるようになったからである。
つづく

白洲次郎論#9

白洲正子小林秀雄との出会い

白洲次郎、正子を語るとき、小林秀雄についてどうしても触れなければならない。小林秀雄論は後ほどに書くとして、正子は、次郎、正子と小林の最初の出会いについて、「白州正子自伝」で次のように書いている。

小林秀雄さんに私がはじめて会ったのは、終戦後(1946年)のことである。その頃白州は吉田茂氏の下で働いていたが、重大な話があるというので河上さんの紹介で鶴川村(木庵注:戦争が始まってからだと思うが、白州次郎は戦争が負けることを予見し、また東京は空襲で焼け野原になることも予見して、東京の郊外の鶴川村に引っ越し、農民生活を送っている。このことは、後ほど触れるであろう)訪ねて来られた。重大な用件とは、吉田満の『戦艦大和ノ最期』の出版の許可が降りないので、GHQに頼んでくれ、というのだった。・・・田圃の中の一本道をせかせかと歩いてくる男がいた。すぐ小林さんと解った。玄関(土間)へ入って外套を脱ぐ間もなく、暖炉の前に座っていた白州と、ろくに挨拶もせずはや口で喋べりはじめた。まわりにいる河上さんも私も子供たちも完全に無視され、進駐軍から貰ったとっときのウイスキーにも手をふれなかった。これこれしかじかで、・・・今、どうしても出版しなければならない本なんだ。よろしく頼む。・・・会談はそれだけで終わった。小林さんの単刀直入の話しぶりは気持ちよく、初対面の人間を全面的に信用している風に見えた、白州もそういう人間が好きだったから、話は一発できまり、必ず通してみせると胸を叩いた。後は酒宴となり、世間話に打ち興じたが、著者の吉田満のことを小林さんが『そりゃダイアモンドみたいな眼をした男だ』と、ひと言で評したのを覚えている。・・・間もなく創元社から『戦艦大和ノ最期』は出版されたが、・・・その後吉田満は(私の知る範囲では)大した仕事もせずに亡くなったが、作家にとって、数多い凡作を残すより、ただ一冊の名著を後世に伝えることの方がどれほど意味のあることか。『戦艦大和ノ最期』は今や日本の古典となって生きつづけている。」


正子は小林の最初の印象を実に旨く表現している。小林が「ダイアモンドみたいな眼をした男」吉田満という作家のことが気になる。また『戦艦大和ノ最期』も読みたいところである。

ところで、ym7**2さんという方が以下のような吉田満の文章や『戦艦大和ノ最期』について書いておられたので、紹介する。


   死の存在は、太陽のように明々白々であり、かつ測り難く奥深い。死は永遠の時を支配し、しかも人間の思慮をこえて唐突にやってくる。死にたいしては、ただ謙虚におのれを差し出して、一日一日を生きるほかないであろう。

                 吉田 満  『戦中派の死生観』「死」
 
    吉川英治小林秀雄林房雄河上徹太郎三島由紀夫。『戦艦大和の最期』の跋文に名を連ねた作家、評論家である。だからといって言うわけではないが、同書は戦争文学の名作として長く記憶されるべきものであろう。世界に誇る戦艦大和が沖縄の海に轟沈されるまでの悲劇が、抑制された文語体により格調高く描かれている。その作者が、戦後折にふれて書いたエッセイ集が『戦中派の死生観』である。『戦艦大和の最期』は当初、進駐軍の検閲により出版が出来なかった。小林秀雄白洲次郎に頼み、進駐軍に許可の働きかけをしてもらったという興味深いエピソードも、披露されている。しかし、内容の多くは、平和な時代にあって、戦争とは何だったのかという真摯で知的な内省である。戦後レジュームの見直しなどという時代にあって、ますます読み継がれるべき一冊であろう。
    上の「死」と題する文章も、死の淵から生還した人間にしか言えない重みをもっているのは言うまでもない。

   上の文章のブログアドレスは次の通りである。http://blogs.yahoo.co.jp/ym7562/trackback/1512351/45800860

木庵は『戦艦大和の最期』を読んでいないので吉田満の文学について何も言えないが、「死」の文章は、死を「太陽のように明々白々」とは、少し次元が違うが、小林が「ダイアモンドみたいな眼をした男」と賞賛した意味が理解できそうである。

白洲次郎吉田茂との繋がりがなければ、小林との接点はなかったことは間違いない。そこで、これから白洲と吉田茂との出会いから絡みについて、青柳恵介著「風の男白次郎」や北康利著「白洲次郎占領を背負った男」を参考にしながら白洲がどのようにして政治と関わってきたかを述べる。吉田茂は戦前戦中戦後における、日本に大きな影響を与えた外交官、政治家であることは誰も知るところである。二人の関係を述べていくのに、当時の政界、世情にも触れなければならないであろう。吉田について述べる前に、近衛文麿について簡単に触れる。


近衛文麿
 
近衛家藤原鎌足を始祖とし、平安時代以降、摂政関白を輩出してきた五摂家の一つ。天皇家から養子を迎えたことがある唯一の家系である。同じ家族でも明治以降の論功行賞で爵位をもらった”新華族”とは格が違う。近衛文麿は貴族社会の頂点に立つ人物、まだ40代前半と若く、世間では“近衛首相待望論"が出ていた時代に、白洲は近衛に接近しだしている。二人の仲をもったのは白洲の幼なじみの牛場友彦であった。牛場は近衛の私設秘書をしていた。次郎は貴族的な雰囲気が嫌いではない。牛場がいるという気安さもあって、しばしば近衛邸を訪れるようになった。そしてそれは、白洲が政治の世界に関心を持ち始めるきっかけとなった。近衛は昭和天皇の前でひざを組む唯一の人間として知られていた。「後年次郎が時代の風潮である天皇崇拝に染まらなかった一つの理由は、近衛の近くにいて天皇制度を客観的に見ることが出来たからかもしれない」と、北は述べている。牛場は第一次近衛内閣「昭和12年6月~14年1月」の成立に際して首相秘書官に起用され、側近たちの活動はより活発なものとなっていった。松本重治、西園寺公一(きんいち)、細川護(もり)、犬養健(たける)、尾崎秀(ほつ)実(み)、といった面々が側近グループの中心である彼らはいつも近衛と朝食をともにしながら情報交換を行っていた。ところで尾崎はゾルゲ事件で死刑になるが、彼のペンネームが"白川次郎”であったから、次郎のことを親しみを持って見ていたにちがいない。側近は近衛のことを“カンパク"と呼んでいたが次郎は”オトッチャン"と呼んでいた。次郎は一時近衛の要請で長男文隆の面倒を見ていたときがあった。文隆はプリンストン大学に学んでおり、ゴルフ部の部長を務めたほどの活発な青年であった。ところが次郎のケンブリッジ時代と同じようにカーレースに熱中したりして学業不振のため卒業できずに帰国していた。帰国後も名家に生まれたことに反発し、わざと不良っぽいことをしたりして、手を焼かせていた。近衛は文隆に面と向かって小言を言えないので、次郎に説教役を頼んだ。ある時次郎が近衛邸の二階で文隆を大声で叱っていると、「そんなに言わなくても文隆は分かるよ」と近衛が泣きをいれた。それに対して次郎は、「これはもともと、あなたの指図でやっていることでしょう」と声を荒げて言い返すと、近衛は肩をすくめながらほうほうの体で階下に降りていった。次郎、近衛の人間性がよく出ている逸話である。ところで、近衛文隆はその後出征し、満州終戦を迎えた。近衛の息子だと目をつけられ、11年の長きにわたり極寒の地シベリアに抑留され、昭和31年10月29日、ついにチェルンツイ収容所で最期を遂げている。
つづく

白洲次郎論#8

白洲次郎論#8
白洲正子

白洲正子の著書については、#1でも書いたように、「両性具有の美」と「白洲正子自伝」の2冊を読んだ。最初読んだ「両性具有の美」ははっきり言って、つまらない本であった。タイトルに興味があったので買ったが、内容的には光るものがあまりなかった。それでも次郎の妻ということから、次郎との関係がどこか見出せるのではないかと辛抱して読破した。「これではきっと、彼女の師である小林秀雄から酷評されるだろう」と、正子フアンの方には申し訳ないが正直思ってしまった。ただこの本の最後の章「竜女成仏」の最後のところが光っていた。その部分だけコピーして、本の内容についてはここでは触れない。

「両性具有の美」というご大層な題名で書きはじめたが、読者も私もそのうち忘れてしまったのではないかと思う。はじめから辻褄を合わせることなど考えていなかったから、いつまで書いても終わらないのでこのへんで一旦筆をおくことにする。それにつけてもこの頃の新宿二丁目あたりのおかまは、私が昔知っていた人たちとどこかちがう。私がおもうに、真物の衆道室町時代で終わっていたのだと思う。私がごたごた書くよりも、次のひと言が何よりもそのことをよく語っていたのだと思う。古いおかまの友人の一人に訊いてみると、言下にこう答えた。「そりゃ命賭けじゃないからよ」
   
辻褄を合わせようとしなかったのは師匠小林秀雄譲りである。大塚ひかりという人がこの本の解説で正子の人間性を表現しているので、それを書いてみる。
「『男の友情もここまで深くなれば男色関係などあってもなくても同じことで、男女や主従を超えたところにある美しい愛のかたちが、雲間を出ずる月影のように、あまねく下界を照らしているように見える』 本書のこの箇所を初めて読んだとき、素直にこういうふうに思える白洲正子が妬ましいと同時に、『嘘つき』と思った。男色関係があったかなかったかは、ものすごく大きな違いだろう。この人、夫以外の男とあんまり'セックスしてないんじゃないか・・・と、下界の私は邪推したのである。白洲正子は夫以外の男と付き合いがなかったわけではない。それどころか男友達のとても多い人だ。小林秀雄青山二郎河上徹太郎正宗白鳥梅原龍三郎、晩年は、高橋延清、河合隼雄(はやお)、多田富雄など、広い交友があった。女を感じさせないタイプだったのかというと、写真を見る限りそうでもなく、特に小林秀雄青山二郎と夜を徹して酒盛りをした三十代後半や四十代などは、しっとりとした色香を漂わせた美人に映っている。・・・白州正子は、小林秀雄青山二郎河上徹太郎といった男たちが『特別な友情で結ばれていること』を知ると、『猛烈な嫉妬を覚え』、『どうしてもあの中に割って入りたい、切り込んででも入ってみせる』・・・と決心した。そして彼らと、文学や骨董の子弟として、友人として、生涯つきあった。…白洲正子河合隼雄との対談で言っている。『私の祖父は薩摩隼人なんです。彼ら武士の集団では、男色の道を知らない者は一人前扱いされなかった。武士として鍛えられ、教育されることは、男どうしの契りを結ぶことでもあったんですね』(『波』97年3月号、『縁は異なもの』所収)

   ここで、また飛んで、白洲正子の祖父のことについて述べる。「白洲正子自伝」の表紙には儀式用軍服姿祖父樺山(かばやま)資紀(すけのり)の膝の上で抱かれた少女正子の写真がある。巻頭の章は、「祖父・樺山資紀」である。この本の解説をした車谷長吉氏がこの章をうまくまとめているので、それを紹介する。

白洲正子はまず、いきなりみずからの魂の源泉について語り始める。幕末の京都、祇園石段下で、薩摩藩士、指宿(いぶすき)藤次郎という侍が、見廻組に殺された。彼は薩摩示現(じげん)流の剣の使い手であったが、五人の敵を倒したところで、下駄の鼻緒が切れて転倒し、最期を遂げた。そのとき、前田某という侍が同行していたが、彼はいち早く遁走していた。その葬儀の場に、橋口覚之進という下級藩士がいて、焼香のときがきても、棺の蓋を覆わず、指宿の死顔を灯しびの下にさらしていた。橋口は参列者の中から、前田を呼んだ、「お前が一番焼香じゃ。さきィ拝め。」前田はおそるおそる進み出て香を手向け、指宿の屍の上にうなだれた。そのとき、橋口は腰の刀を抜き、一刀のもとに首を斬った。首は棺の中に落ちた。「これでよか。ふたをせい」・・そのあとも音信(おとず)れたなんともいえぬ静寂な空気まで、私には感じとれる。と白洲正子は書いている。」

 凄い話である。橋口覚之進こそ白洲正子の祖父樺山資紀である。このような勇猛な侍を祖父にもつ正子の血は普通ではない。大塚ひかりも指摘している。

白洲正子は時に、これほど女の性に関して残酷なことが言えるのは男だからじゃないかと思えるほどのことを平気で書くことがあるのだ。・・・いや男だけとは言えない。この視線、どこかで感じたことがあると思ったら、話はそれるが、紫式部がどれほど「男の目」をもっていたかは、(源氏物語)を読んだ男たちが、「男の気持ちがなぜこれほどわかるのか」と不気味がるのを見てもわかるが、紫式部がそうした男の目をくぐんだいきさつと白洲正子のそれは意外なほど似ている。漢書から外来思想を学び、抜群の才を発揮した紫式部は「口惜しう、男子にてもたらぬこと幸なかりけれ」と父の嘆きを「常に」聞いていた。一方、白洲も「『この子が男の子だったら、海軍兵学校に入れたのに』と、ふた言目には家族たちが残念がっているのを耳にし、生まれ損ないみたいな気がし、しまいには本気でそう信じるようになって行った」(『白洲正子自伝』)そして、男のものだった能に4,5歳から親しみ、アメリカ留学し、骨董という男の道楽をたしなみ、評論という当時としては男の仕事に挑んだ。同性の性愛に厳しく、「女の子があんな格好して、セクハラもないもんだわ。当たり前よ)((現代)94年9月号、『日本の伝統美を訪ねて』所収)と語る白洲の道徳観も、恋多き和泉式部や、男に伍して女が宮仕する良さを謳った清少納言に、筆誅を加えた紫式部と響きあうものがある。」

男の目で白洲正子は書いていると、女性である大塚ひかりは書いているが、木庵はそうは思わない。やはり白洲正子はまさしく女性である。ただ男性の目で書きたいと小林などと接触し、男の感性を勉強したのであろうが、やはり彼女の感性は男性のそのものではない。どこか無理がある。例えば「両性具有の美」には、男らしさを装った文体が目立つ。そのような箇所を抜書きにしてみる。

「このほかにも男を女に見たて束面は数ヵ所あったと記憶するが、うるさいので省く」
「かわりに『軒端の荻』との情交を結ぶのだが、それは省略することにして・・・」
「それについては考えてみなくてはならないことが山ほどあるが、それはまた別の機会ゆずりたい」
「一々述べるのはわずらわしいのでそのうち二、三をあげると・・・」
「今までいったことは既に周知の事柄であるから、ここらへんで止めておきたい。」
「御進講に至るまでにはさまざまの面倒ないきさつがあったが、それは省く」
「拝見する機会を得た、詳細については省くが、・・」
「細かいことは省くが、・・・」
「舞台が違うのでそれぞれ面白いのだが、いちいち述べているひまはない」
「それについていちいち書く自信も興味もない。」

この書き方は師匠小林秀雄的男らしさのモノマネではないだろうか。その無理さ加減のいやらしさが熟年になった彼女に分かりだしたのだろう。「白洲正子自伝」では、多くの箇所に女性らしい謙虚さが目立つようになる。若いときの反動なのだろう。しかし、若いころの男らしさ願望への反省がどこか中途半端な正子の姿を浮かばせている。男にもなれない、女でも通せなかった正子の憂鬱さが文章の行間から見えてくる。文章などというものは謙虚に書けばよいというものではない。己の性(サガ)をさらけ出した方が読者に感動を与える場合がある。ありのままの自分をさらけ出したとしても、男らしさとか女らしさというものが自然に出てくるものである。若い頃の正子には男らしい文章を書いているつもりでも女が出ている。年をとってから女性らしい文章を書こうとしても、染み付いた男性的な性格は隠せず、謙虚な文章もどこか嫌味として映る。このあたり、薩摩の下級武士の祖父が明治という時代から急に上流階級に上り詰めた、成り上がり血の悩めるところではないかと思う。日本人には多かれ少なかれ、この成り上がり趣味から脱することができない煩悶がある。そういう意味からも長い歴史を擁する皇室の尊さがあるのである。家柄などというまやかしの世界に浮き沈みするなら、一層のこと最下層の安らぎを得た方が正直で幸せだと思うのだが。このような見方は、木庵の歪みひがみ人生からくるのであろうか。
つづく

白洲次郎論#7

<#6の反応は大きい。紹介する。木庵>
あはは、面白いです。天国で小林さんや白洲さんが「うん、よく言ってくれた。その通りだよ」と喜んでゐるやうな気がします。 [ koreyjp ]
『次郎と正子』の筆者である牧山桂子さんの次兄と、小林秀雄の娘が結婚したのです。小林が神田に住んでゐたころ、近所に住んでゐていつもやさしくしてくれたお兄ちゃんがゐましたが、戦死してしまひました。小林は自分の息子が生まれたら、その兄ちゃんの名前「龍太」(りょうた)をつけようと思ってゐましたが、女の子で、白洲次郎の息子に嫁いだ。しかし姓名判断上、白洲に龍太は合はないと言はれた。そこで、妹の息子に付けた、といふことなのださうです。
「『まきやまりょうた」と口に出して言ってみろ。何といういい響きだ、「牧山龍太」と書いてみろ、何と美しい字だ、と、小林さんは自分の孫のように喜んで下さり、将来の幸せが約束されたような気になりました」と桂子さんは書いてゐます。なんとなくジンとくる話ですね。 [ koreyjp ]
[ koreyjp ] さん、喜んでいただき嬉しいです。貴方のコメントが、思わぬ白洲次郎論、小林秀雄論日本人批判論に展開しました。今後も本質に繋がる次郎、正子、小林の逸話やコメントをお願いします。木庵
なにも知識のない私も、おもしろかったです。koreyさんとのやり取りも、とてもおもしろいです。この場所にくることができて、よかったです。
kayomiさん、これからどの場所に行くのでしょうか。私も分かりません。kayomiさんやkoreyjpさんのコメント次第で、たどり着く場所も変わってくるのでしょうね。木庵
木庵先生。
トラックバックありがとうございました。小林秀雄。一冊だけ持っております。
中学の時に買った「考えるヒント」です。時折、ペロッとめくって楽に読めますんで、未だに持っています。ページは、もう茶色くなっていますけど。愛読書というわけではないんです。これ1冊だけですし。書店に行き、「なんとなく」という緩慢な気持ちで購入した事を覚えています。それから30年。ずっと「なんとなく」読んでいるような。そんな事を思い出してしまいました。
白洲次郎論」毎回、楽しみであります。ありがとうございます。 [ ケロっと。君 ]
ケロっとさん、先日私も「考えるヒント」を買いました。古本屋でなんと1ドルでした、他の小林の二冊もそれぞれ1ドルでした。とても安い買い物をしたことになります。「考えるヒント」、これから読むところです。知り合いのレストランが私の図書館です。現在ロス時間の午後3時5分、今から出かけます。木庵

ご訪問、コメント有難うございます。
小林家と白洲家とは、小林秀雄の長女明子が白洲次郎・正子の次男兼正に嫁いでいるという関係です。小林と正子の関係は骨董を通じた交流があり、正子は小林について、「たいへんこわい先生」という言い方でその畏敬の念を示しています。
戦後小林は、「俺は反省しない」と述べた意味は、けっして戦争が勝つなどと思っていたからではなく、「神国日本」とか「討ちてし止まん」とか叫んでいた日本人が、戦後いとも簡単に、軽薄に、民主主義を謳歌し、反省している姿に苛立ったからに他ならないものと思われます。(ある読者から)
ある読者さん、私の読んだ本によると「戦争は勝つと小林は信じていた」と書いてありましたが、戦後「俺は反省しない」と言った理由は貴方の言われたことが主な理由だと思います。貴方のブログを覗かせていましたが、貴方の考え方の深さを感じました。今後とも宜しくお願いします。木庵(注:内緒でコメントがきましたので、ある読者からと表示した)
久しぶりにコメントをさせていただきます。日本がドイツと手を結んだのは日本一国では列強に対抗できないと、感じていたからでしょう。ドイツと組む前は、日英同盟というものがあり、それを一方的に破棄したのは英国ですから、当時の権力者は危機感を募らせ独逸、伊太利へと走らざるを得なかったと考えます。その結果は歴史の示す通りです。 [ 天空小僧 ]
[ 天空小僧 ] さん、コメントありがとうございました。英国の日英同盟の一方的な破棄の背景について、GHQ焚書図書開封西尾幹二http://blogs.yahoo.co.jp/takaonaitousa/27916666.htmlで書いております。宜しかったら読んでください。体質的に日本とイギリスが結びつかないものがあったのでしょうね。木庵

父の事業破綻と次郎の帰国

 次郎のケンブリッジでの日々は夢のように過ぎ去った。車やデートだけに夢中だったわけではない。優秀な教授陣に囲まれて学問の楽しさも理解できるようになり、「できれば学者になりたい」と、いつしか思うようになっていた。白洲家は元々儒学者の家柄であり、学者の血が目覚めたのである。そのような希望に夢膨らましていたときに、一つの電報を受け取った。金融恐慌のあおりで父・文平が経営していた白洲商店が倒産したという知らせであった。家が倒産した以上、イギリスにはおれない。あまり好きでない父親でも、支えなければならない。兄が心の病気に侵されているからには、次郎が長男の役割を演じなければならない。友人ロビンは真剣に心配してくれたがどうすることもできない。再会を約束して、一路帰国の途についた。

  昭和3年(1928年)、8年間の留学生活にピリオドをうち、次郎は日本の土を踏んだ。心配していた兄・尚蔵は思ったより落ち込んでいないのに安心した。父・文平はもはやかつての実業家としての張がなくなっていた。それも家にいると債権者との対応をしなければいけないので、しょっちゅう家を空けて花柳界に憂き晴らしをしていた。家にいるときは、部屋を一歩も出てこない。いつも逃げられどうしの債権者は、文平にぶつけられない不満の捌(は)け口をしばしばよし子に向けた。次郎は無責任な文平に迫ることがあった。文平は次郎の生意気な態度が許せなく、次郎を殴りとばした。次郎はもはや父親より大きくなり本気になれば父を殴り返すこともできたが、さすがにそれはしなかった。よし子が中に入ったからである。しかし、次郎はもはや父親とともに生活することをやめ、東京で仕事を探すことにした。結局次郎が就職したのは「ジェパン・アドバタイザー」という英字新聞社であった。ちょうど昭和3年11月に昭和天皇即位の御大典が行われたこともあって、日本の歴史や文化を外国人にわかりやすく紹介する連載記事を持たされ、相当の収入を得ることができた。そのほとんどは伊丹への仕送りにあてた。もちろんよし子宛であった。
   この時代に次郎にとって運命的な出会いがあった。その相手は後に妻となる樺山正子である。ここで、樺山正子、後の白洲正子について述べてみる。木庵の白洲次郎論はどのように展開するかわからないと最初の断ったように、ここから少し脱線する。言い訳をする。小林秀雄を今読んでいて、このあと小林秀雄論を書くと前に書いた。小林秀雄の文章が難しいのは、語彙の豊富さやトピックスの高尚さだけではなさそうであることを今の段階で木庵は感じだしている。難解さのもう一つの理由は、小林が文章の構成とか順序を無視して自由気ままに、瞬間瞬間に思いついたことを書いているところからきているようだ。彼も告白している。「今書いているが、この後どうなるか判らないのだ」と。要するに自由人小林は関西弁の言葉で言えば「エエカゲン」にペンを動かしていたのである。ただ天才小林にはそれでも十分、読者を引き付ける筆力があり、文化勲章までもらう文豪としての評価が定着した。木庵は文学など理解できないいわば文学における子供である。この子供木庵が裸の王様の小林秀雄を後ほど批判、批評しようと思っているが、白洲次郎論で、小林の悪乗りを真似てみたくなり、支離滅裂にも白州次郎論から急遽白洲正子論へとレールをスイッチすることにする。読者は、まだ次郎のことがまだ掴めていないのに正子論への移動に拍子抜けされたであろうが、これも最初に述べたように、もはや読者は白洲次郎については大体のことがわかっておられるとした上での、木庵の独断と偏見の白洲次郎論にお付き合いを願いたい。
つづく

白洲次郎論#6

白洲次郎小林秀雄と親交があったことは興味がある。小林秀雄の娘(息子かもしれない)と白洲の息子(娘か?)が結婚している。要するに親戚なのである。 [ koreyjp ]さんも書いておられるように、二人はお互い、向う気の強いところがウマがあったようである。小林は次郎の妻・正子の文学における師匠でもあり、正子は小林から薫陶を受けたようである。次郎、正子ともに小林との関係があることから、次郎研究のため、木庵は今小林の本を読んでいる。文学とは縁のない白洲と、文学、批評の神様小林との間にどのような引き付けあいがあったのだろうか、興味のあるところである。小林秀雄について、木庵が大学時代、父親の勧めもあり読もうとしたが、本は2,3冊買って読み始めたものの難しすぎて、結局分らずじまいで投げ出してしまった。大学時代から相当の年月を重ね、国語力もついたのか、今は小林の文章を何とか理解できる。もっと先で告白する予定であったが、白洲次郎論が終わってからか、途中で小林秀雄論を展開しようと思っている。小林文学における、うっすらとした考えが今木庵の頭の中で徘徊しているが、何か書けそうである。

   [ koreyjp ]さんも指摘されているように、戦前の人間は勝つか負けるかといういたって判り易い判断基準で考える傾向があった。ある意味で人間の本質に根ざした心理作用であろう。木庵が現在のアメリカ人と接して、彼らもこの勝ち負けが大きな意味を持っていることを感じる。それに対して、戦後の日本人の頭脳構造は白黒をはっきりすることを軽薄であるとか、正しくないとかいうように変わってしまったようである。勘ぐって考えれば、物事をクレアーに理解できないように誰かが仕組んだようにさえ思う。忍者が煙を噴射して相手を誑(たぶら)かす、混乱させるような仕打ちを受けているように思う。ようするにありのままにものが見えないようにされているのである。霧の中でものが見えない現代日本人がより見えるようになるには、小林秀雄白州次郎の世界を覗く必要があるのかもしれない。ところで、小林秀雄の文章は難しいが彼の生き様は判り易い。彼の判り易い人間性を次の逸話は語っている。戦争に負けたとき、小林は言っている。「多くの日本人は戦争に負けた後反省したが、俺は頭が悪いから反省などしない」。小林秀雄にとって大東亜戦争は勝つと心から思っていたし、負けても反省などしない。戦後ある程度の年月の間は、判り易い戦前型日本人がまだいくらか生き残り活躍もしていた。ところが、戦後60年経った現在、果たして、小林や白洲のような戦前型人間(?)が生存しているのであろうか。近頃の白洲次郎ブームは戦前人間の懐古なのだろうか、ただ単なる、遺物としての戦前人間の展示なのだろうか。現在の日本人が煙の中で生息しているとするなら、果たして小林や白洲の世界に辿り着くことが出来るのだろうか。

   先ごろ、『朝まで生テレビ』を観た。田母神氏を中心に日本の防衛問題について議論していた。出席者の中で一番明瞭な意見をもつ田母神が、曇ったあいまいな意見を持つ国会議員、学者、ジャーナリスト、司会の田原総一郎氏に押し切られていた。議論をするときに白黒をはっきりするとよくわかるのだが、田原は、灰色の議論を持ち出していた。実際は他の人たちの介入があり、議論は複雑だったのだが、より判り易くするために、内容を変えずに、議論の様相を二人の対話形式にする。

田母神:「日本が戦争したのは、アメリカ、イギリスの侵略主義に対する防衛戦争であった」
田原:「自分はハト派でもタカ派でもない。田母神氏が今回の戦争が侵略戦争でないというのはそれでよい。侵略戦争であったか侵略戦争でなかったかどうかはどちらでも言えるからだ。ところで、負ける戦争をなぜしたか、それが問題なのだ。そこを田母神氏に聞きたい」
田母神:「ハルノートを突きつけられ、戦争するしか仕方がないように締め付けられたからだ」
田原:「でも負けただろう。負けたということは悪い戦争ではないか。そのような悪い戦争をしたのは、戦略がなかったからだ」
田母神:「しかし、その選択しか方法がなかったのだ。戦争を回避する方法があったのだろうか。もし、日本が戦争をしていなければ今は奴隷になっている」
田原:「それは玉砕思想だ。つまり負けると判っていながらなぜ戦争をしたかが問題である。日本がアメリカやイギリスにではなくドイツと結びついたのが問題なのだ」

  この議論の最初に田原は自分は「ハト派でもタカ派でもない」と灰色宣言をしている。「侵略戦争侵略戦争でないかのどちらでもよい」という発言も灰色宣言である。ただ、戦争に負けたのが悪であり、日本がドイツの組んだのが悪であると、ようやく白黒議論をし出しているようだが、これも白黒がはっきりできない灰色宣言である。田原という人物は、時代の動きに敏感で、田母神の意見が日本国民に大分受け入れられるようになったのを敏感に感じ取り、いくらか田母神理論を受け入れながら、その欠陥を指摘し、斬新さを売り物にしようとしている。ここで大事なことは、田原が言う、日本がアメリカやイギリスと同盟を結ぶのではなくドイツとなぜ結ばなかったという考え方は田原の独創的なものではない。戦後よくもてはやされた考えである。それより、戦前から白洲次郎が力説していた論点であったのだ。後で触れるが、白洲や白洲を弟分にように使った吉田茂は戦前、戦中、英米派であった。現に彼らは英米との戦争を回避するために命がけで戦った。小林秀雄はおそらくドイツ派というより、当時の鬼畜米英の流れの中にいた人物であろう。何はともあれ、吉田、白洲、小林は考え方は違っても白黒のはっきりした人物であった。それに対して、田原は時流に流される、白黒をはっきりすることができない灰色論客なのである。しかも、「朝まで・・」に登場した人たちは灰色でありしかも色の薄い灰色論客たちである。田母神を除いて。彼らの語っている内容に注目しながら同時に表情も観察していた。ある人物などは、「日本を守るためには、平和憲法しかない」とか、「今6カ国協議で北に核をもたせないようにしているのに、なぜいま 日本が保有国になる必要があるのか」などのピンボケの議論をする人もいた。そのようなことを言う人物の顔はどことなくバカ面に見えるのは木庵の偏見であろうか。ぬるま湯につかった人生を歩んでいるから顔にもそれが出ているのである。しかしこの程度の人間が大きな顔をして全国ネットのテレビに出てきているということは、彼たちを支持する人間が多いということである。また彼たちの言うことの幼稚さを見抜けない視聴者が多いということである。もしこの番組に小林秀雄白洲次郎が登場するなら、どのようなことを言うであろうか。木庵の妄想を膨らませてみよう。

まず小林秀雄に登場してもらおう。

「戦争が終わって、60年経って、ドイツについたのが悪かったかどうか何をほざいている。当時、ドイツが一番強いと思ったんだ。アメリカやイギリスなどくそくらえだったんだ、特にアメリカは映画をつくったり、物質文明かどうかしらないが、へなへなしてこいつら日本の大和魂とは合わない人種だと思ったんだ。どこかずる賢くて、竹を割ったところがない奴らだよ。こいつらとなぜ仲間なんかになれるか。それに対してドイツ人は勤勉で日本人と気質が合うところがあるんだ。資本主義への乗り遅れも日本と似ている。ドイツ人もヨーロッパ人だから本質的には信用できないが、イギリス人やアメリカ人に比べればましだと思ったんだ。俺はどちらかというと政治に疎く、文学に集中していたので、その点では日本の大衆と同じレベルであったことを認めるが、それがなぜ悪い。この度の戦争も結局軍部が悪い、政治家が悪いと戦後になってほざいているが、結局は日本人全員の総意で戦争をしたのだ。戦争をしなければ日本が滅びると思ったからだ。結果は無残な敗北であったが、よく頑張ったと思うよ。もし戦っていなければ田母神君が言っているように、日本人はアメリカやイギリスの奴隷になっていただろうな。男らしく戦ったから、敵も恐れをなして、敬意を払うようになっただろう。」

次に白洲次郎はどう言うだろうか。

「田母神君は『戦争回避の道はなかった』と言っているが、私や吉田の親父さんは必死になってドイツに組することが如何に無謀であるかを軍部や政治家に説き、陰でも動いたが、駄目であった。我々のような米英派は少数派であったからな。でも考えてみれば、戦争なんてものは我々のような良識派がいくら頑張ってもどうすることができないところがあるんだ。ただ言えることは、当時、私や吉田の親父さんのような人間が少なくとも2倍いれば、戦争を回避することが出来ただろう。それも、日本がアメリカやイギリスにつくことによって、戦勝国になる可能性もあったのだ。その当時のことを振り返ると、今でも悔しい思いをするんだ。

木庵の勝手な妄想、読者の皆さんはどう思われただろうか。小林の言い方はヤクザ調で、小林崇拝者から叱責されるだろう。#7では、次郎のケンブリッジから帰国の後を辿る。
つづく

*白洲次郎論#5
<ロス在住で私のブログを見ておられる方もいる、その方からメールで次のようなコメントをいただいた。木庵>
木庵様

『次郎と正子・娘が語る素顔の白洲家』をお読みになるとおもしろいですよ。
私は去年すでに読んで、その本を友人にあげてしまいました。(戻ってこ
ないで行方がわからないためあげたことにしたのです)。

私達が住んでおりました家は白州邸(東京都町田市鶴川)の丘をはさんで
反対側でしたので、白州邸が今のように観光化される前から知っております。
娘さんはなかなかのやり手で、今や観光バスで白州邸見学に多くの人がや
ってくるそうです。このようにしたのはその娘さんとその旦那様だそうです。
わが娘が白州邸の近くに住んでおりますが、入場料1,000円は高いな
と言っておりました。
柿生、鶴川、は新宿から近いわりには、未だ自然がいっぱい残っている良い所ですよ。(ロス在住読者の一人より)
<この本はkoreyjpさんも読まれた本だが、木庵も読んでみたい本である。白洲の娘さんのビジネス感覚が伝わってきた。木庵>
#2の反応
木庵さん

丸暗記は精神集中によいと岡先生も仰ってゐますから、小さいときはそれでよいとして、ある程度判断力が身についてきたら、自分の頭で考へるのがよいと思ひます。
今日、白洲氏の娘さん・牧山桂子さんの書いた『次郎と正子・娘が語る素顔の白洲家』を読み始めました。これがなかなか面白いのです。忘れかけてゐた昭和が、なつかしく思ひ出されました。 [ koreyjp ]
[ koreyjp ]さん、白洲は丸暗記の日本式教育になじめなかったぶん、英国式の教育、文化を礼賛することになったのでしょう。その意味でいくと、白洲は戦後のアメリカ式教育(問題解決学習教育)を良しとする先駆者になるわけで、そのあたりのところ、これから分析していきます。とても良い観点ありがとうございました。『次郎と正子・娘が語る素顔の白洲家』読み終えたら、内容をお知らせ下さい。木庵
#3の反応
こんばんは。
私は、ドラマも見ていませんし、まだ本も読んでいません。
新聞か何かの雑誌で、チラッとみただけのような気がします。
外国の人達に対等に向き合った、スマートでおしゃれな男、ということしか知りません。記事を読ませて貰って、貧しい家庭の人間とは考え方の基本が違っていたように感じます。同じ環境で育ちながら、兄尚蔵との生き方の違いは、幼い頃からの育て方にも関係があるのかもしれないと思いました。長男という立場は、今とは比べられないほどに、重責だったのではないでしょうか。母親の接し方さえも、次郎とは違っていたのかもしれません。

写真の左のおおきな葉っぱはアボガドですよね?実はこんな風に付くのですね〜。初めてみました。ありがとうございました(^−^)
kayomiさん、写真、左から柿、ぐみ、ざくろ枇杷です。雑然としていますが、生命力を感じませんか。やはり次郎は二男ということで甘やかされたところはあると思いますが、私の考えでは、長男が生真面目であったのは長男であったというより天性のものだと思います。ただ長男・尚蔵のことをどの本もあまり書いていないのですが、次郎のことを書くのに長男と比較すると、次郎がより理解できると私は思うのですが。木庵
ほんとですね!柿です。
思い込みって、間違います(笑)おハズカシ〜^^;kayomi
kayomiさん、自然農法#48で載せたバナナ、今日3個熟していました。友達にあげると喜んでいました。昨日はズッキーニーがとれ、これから野菜がたくさん収穫できるようになります。柿今年は、50個はなるだろうと期待しております。ぐみはまだ実をならしません。木庵
今日、『次郎と正子』を読み終へました。白洲次郎の性格を現すエピソードをこの本から紹介します。(P.84より)

「私(娘の桂子)が、学校の宿題などで辞書を引くのが面倒くさいときに英単語の意味を聞きますと、父(次郎)は英語を日本語に訳せないことがしばしばありました。例えば "book" の意味を問いますと、「本」とは答えず、「 book は book だ 」と頑張るのです。こりゃ駄目だと、私も諦めてしまいました。」(かっこ内koreyjp補足)

ここにあるのは、やや誇張して言へば、皮相的な解釈に満足せず、常に本質を見ようとする眼です。かういふ人だったからこそ、マッカーサーが米国製の憲法草案を押し付けてきたとき、「今に見ていろ、と秘かに涙す」と日記に書いたのでせう。 [ koreyjp ]
[ koreyjp ] さん、また面白い次郎の逸話を教えてください。常に本質を見ようした目の逸話が特にほしいですね。木庵
こんばんは!
楽しく拝見させていただいております。白洲次郎もですが、小さな畑で野菜を育てている身には植物、野菜に関する記事も気になるところです。時間をかけてゆっくり読ませていただきます。 ゆず
私は今、このコメントを、ベートーヴェンの「運命」を聴きながら書いてゐます。この曲は、戦死した父方の伯父が「とても美しいところがある」と好きだったさうです。『次郎と正子』には、勝ち負けの話がよくでてきます。例へば「父の火好き」といふ章の話です。「父の火好きはその後も変らず、鶴川や軽井沢の庭の隅に焼却炉を据え、家中の紙屑を燃やすのを日課としていました。ある時は請求書の封筒に自分でお金を入れたものを、ゴミと一緒に焼却炉につっこんで出かけてしまい、(中略)また父は、勝ち誇った妻の非難を聞く羽目になりました。
ある日、母が水上勉氏から、火を燃やすのが好きな男は助平だという話を聞いて来て、また例の顔で、「次郎さん、あんたは助平よ」と言いますと、父はやったとばかりに報復の矢を射ました。「助平じゃない男など世の中に居るものか」。この勝負は父に軍配があがりました。白洲次郎小林秀雄と親交がありました。お互ひ、向う気の強いところがウマがあったのでせうか。この有名な評論家は、勝ち負けにこだはることで知られてゐます。たとへば、「ランボオ」?には、
「僕が、はじめてランボオに出くはしたのは、廿三歳の春であった。そのとき、僕は、神田をぶらぶらと歩いてゐた、と書いてもよい。向うからやって来た見知らぬ男がいきなり僕を叩きのめしたのである」と、このやうな書き方をしてゐます。小林や白洲の場合は特にさうですが、しかし考へてみると、戦前までの日本人は、全てのことを、全ての理非曲直を、勝ち負けといふ概念で捉へてゐたと言へます。真剣に闘へば闘ふほど、勝負を意識する。それは単純ですが極めて判り易いことでした。ところが日本が戦争に負けると、勝ち負けの概念そのものを否定する風潮が生まれました。大体、敗戦と言はず終戦といふ事からして、負けたといふ事実を隠蔽する偽善であります。昭和が過ぎて、平成の御世になってから廿年を閲して、日本はシナや朝鮮からの反日思想の洪水に見舞はれるといふ情けない状態が続いてゐます。このことは、明日を担ふ青少年の心に、隠微な悪影響を及ぼしてゐます。このやうなご時勢にあり、白洲次郎が見直されるのも、故なしとしないのです。 [ koreyjp ]
< [ koreyjp ]さんのコメントはこれだけで、深い文化論になっている。この文化論に対しての木庵の反応は#6で書く。木庵>
つづく