「かのか」の思い出

 自宅に焼酎を常備している。「かのか」という1.8リットル紙パック入りの高くない酒だ。缶ビールだけでは満足できないときに、ロックで1、2杯飲む。

 妻と結婚する前のこと。彼女の実家に行った何回目かの夜、お父さんが「飲みますか」と言って、この焼酎を注いでくれた。「案外飲みやすいもんでしょ」と言う通り、すっきり飲めた。以来、自宅で飲む焼酎は基本的に「かのか」である。
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 その後、私たちは結婚し2人の子供が産まれる。義父は最初は赤ちゃんを抱くのはおっかなびっくりで、「俺はいいよ」と見ていることが多かった。それでも上の子が2歳くらいになると一緒に自転車に乗って近所をブラブラすることが増えた。「この子はほんとに賢いなあ」「将来確実に美人になるよ」。ぶっきらぼうなところもあった義父は、孫を前にするとすっかりおじいさんの顔をするようになっていた。

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 今年10月。60代半ばで、その義父は逝った。肝臓がんだった。発覚したのは8月で、既に末期だった。なんとか治療できないかといろいろあたってみたけれど、手遅れだった。病院に家族で見舞いに行ったとき、言葉少なに孫たちをじっと見ていた。最期は実家で迎えた。逝く数時間前、どこまで意識がはっきりしていたかわからないが、何度か孫の名前を呼んだ。
 
 「それは誰しも通る、当たり前のことなんだよ」。 葬儀が終わってしばらくして、自分の実家に帰っていたとき、私のの祖母は、しみじみと言った。人はいつか身内の死に直面する。80歳を超え、人の生き死にを数多く見てきた彼女の言葉は、確かにその通りで、なぐさめようとしてくれる意味があったろう。だけど、あまりに早過ぎた。もっともっと、孫たちが育っていくさまを見届けていってほしかった。
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  「かのか」は今も家に常備してあり、ちびちびと飲んでいる。いつか自分の子どもたちが結婚相手を連れてきたとき、「案外飲みやすいもんだろう」と言って勧めたい。そのとき義父は、そばにいて喜んでくれるだろう。

「あたりまえ」の有難さ

 3月11日。妻が「テレビを付けたくない」と言っていた。どこを見ても震災の話で、当日を思い出してしまうと。1年という節目だ。振り返りは大切だ。それでも、被災した人々のなかには、「騒がないでほしい」と思う人もいたかもしれない。マスコミはほとんど、そういう報道をしない。

 去年1年間で、3回、泣いた。

 1回目。3月12日。原発が爆発した日。ほぼ徹夜で迎えた夜。「被爆者」がいるという情報が伝わる。愕然とするしかなくて、へたり込んだ。広島で小学校教育を受けた身としては、原爆の酷さは知っているつもりだ。あの災厄を経験した日本人が、同じ過ちを繰り返してしまった。「もう休め」と会社の指示を受けて家に帰る道すがら、自転車を引きずりながら声を出して泣いた。

 2回目。4月中旬。勤務地が東京に変わる。職場でNHKの午後7時のニュースを見ていた。被災した人に取材した映像が流れていた。内容はあまりよく憶えていない。津波に襲われた場所だったか、放射線にさらされた土地だったか、いずれにせよ、そこで暮らす人たちの言葉を拾ったリポートだった。震災前だったら「今年の収穫はどうですか」みたいな、平和で面白くもないやり取りだったろうに、地元の人の、ぽつり、ぽつりと話す言葉の重さに耐えられなかった。
 松岡正剛という人が、「日々報道される被災地の光景と被災者の言葉は、その片言隻句さえドストエフスキーなのである」(http://1000ya.isis.ne.jp/1407.html)と喝破したけれど、まったく同意する。ただただ映像を見ながら涙した。

 3回目。年末。喫茶店で茶をすすりながら新聞を読んでいた。何気なく目を留めた12月18日の日経新聞の俳句評、2011年の秀作。選者は黒田杏子氏。

 「さくらさくらさくらさくら万の死者」

 ぎょっと。ぎょっとしたけど、涙したのはこの句じゃあなかった。

 「見る人もなき夜の森のさくらかな」

 福島の浜通り原発からそう遠くない場所に、夜の森という名の土地がある。地元では桜の名所として知られるけれど、東京やほかの地域の人はほとんど知らないだろう。自分も2年半福島市に住んだけれど、夜の森へは桜が終わった季節に1回通りかかったくらいに過ぎない。

 そんな田舎に、今年も桜が咲く。震災前は特段注目されることもなく、どこにでもあるような暮らしが営まれていただろう。しかし震災を経て、この土地から「あたりまえ」の生活は奪われた。不条理と言うしかない。気づくと涙がこぼれていた。

 ただただ、「あたりまえ」の日常があることの尊さをかみしめる。「あたりまえ」の暮らしの有難さをかみしめる。できるかぎり多くの人が、「あたりまえ」に生きられる世の中でなければならないと強く思う。

仏像を掘り出すかのように

 「2行で1分」。もしかしたら「1行で1分」だったかもしれない。新人のころ、原稿を書くのにかかる時間の目安として聞いた。1つのテーマについて120行で書くことがままある。1行が10文字ちょっと。原稿用紙だと3枚分。目安にしたがうなら1〜2時間で書き上げることになる。これがいまだにできない。締め切りが迫ってものすごく集中できたら可能なときはある。ただしだいたいのところ、自分が聞いてきた話をどうまとめたものか悩み、構成が決まってからもどんな表現が良いのか悩み、だらだらと何時間もかかって夜が更けてゆく。毎回そんな感じ。
 10年近く勤めてきて、書くためのスキルが上がったという実感はある。何が変わったのかというと、昔は原稿を書き上げてみたところで「これで大丈夫だろうか」と不安で、電話が鳴るたび、びくびくしていた。実際、「こんなんじゃ成立しないだろ」と何回何年怒られてきたことか。いまはまぁ、どんな仕事を降られようとも、とにかく最低限満たすべき条件はわかるし、そう文句を言われないだけの最低限のものに仕上げることはできる。それでも、原稿を書くのにかかる時間は、新人時代と比べて短くなったということはない。
 原稿を書き上げるまでには3つのステップがある。1、何を書くか決める。2、誰に話を聞くか決める。3、まとめる。実際に執筆に入る前の1と2が実に肝心だ。新人のころ、誰かに聞いた話をもとに書けると思って書いてみると、ほかに必要なファクト(事実)が足りずあとから困るということはしょっちゅうだった。肉じゃがを作りたいのにジャガイモとニンジンしかない。肉がない。慌てて、やっぱりポテトサラダにします、という感じ。
 いまはもう、どんなメニューを作るか、どんな食材が必要か、こうした点の段取りでしくじることはほとんどない。問題はどう料理するのか・・・。
 話を聞いた人の生き方そのものに触れることがあったり、関係各所に良くも悪くも影響を与えたり、そういうことは多い。3の部分、聞いた話をどうまとめるのかは、やっぱり半端な気持ちでは臨めない。パソコンに向かい、メモを眺め、うんうん考え、キーボードを叩き・・・。あのひとが言ったこの台詞はこんなニュアンスだろう、この話はこの部分が肝だな、などと1つ1つ文字にしていく。
 けっきょくのところ、自分が感じて理解した以上のことは書けないから、原稿を書くという作業は、話を聞いた人たちと向き合うのと同時に、自分の内面に向き合う過程でもある。木の塊から仏像を掘り出すようなイメージを持っている。
 長々と書いてきたけれど、そういうふうにして仕上がった「作品」は、じゃあ満足いく出来映えなのかというと、そういうわけでもない。俺がこれを書いたんだと胸を張れるようなものは、1年間で何本あることか。
 どこまでいっても研鑽が必要なのだと思う。

おとうしゃん

 先週、女の子が誕生し、2児の父になった。震災だの原発爆発だの色々あったけれど、無事に生まれてくれてほっとしている。出産のためしばらく前から奥さんと長男は里帰り中。週末は会いにいけるけれど、平日は電話でやり取り。

 1歳10ヶ月となった長男は成長著しい。電話越しに「は〜い」「バイバイ」などの言葉を発する。「おとうしゃん」と呼んだりする。こんな俺が父親として慕われるだなんて、恐ろしさと喜びと非現実感の入り混じった何とも言えない気持ちになる。

 10代後半から20代にかけて、「何のために生きるんだろう」と何度も何度も考えて、答えが出ることはなかった。今は、「この子達の未来が、少しでも良くあるように」というのが正解なんだろうと思いつつある。父親としても大人としても。

空はこんなに青いのに(その4、終わり)

 2011年4月3日撮影。

 福島県相馬市の松川浦付近。

 

 

 
 

 こんなところまで乗り入れるクール宅急便に復興の兆しを感じた。




 しばらくネットにつながらず、更新しないと思います。