資料3

[レポート] 文化人類学 08/01/11

日本のマンガ・アニメーションは国境を越えるか

0.はじめに
ここ10年で海外における日本のマンガ・アニメーションの普及率は格段に上昇している。
しかしこの現象は、数字上の部分のみを把握していても内実は中々見えてこない。海外に日本のマンガ・アニメーションはどのように受け入れられているのか。そもそも本当に受け入れられているのか。様々な疑問が残る。
そこで今回はあえて身近ではないが、日本のマンガ・アニメーションという文化(ただのカルチャーとしてではなく日本における独特の慣習や観念として捉える)が海外ににどのような影響を及ぼしているのかを私の知る限りの資料・研究を用いて断片的ではあるが考えてみたいと思う。

1.ポケモンの絶大な人気
「POKEMON」と言えば、今さらではあるが世界的に有名なヒット商品である。そしてその中でも特にアメリカは当時絶大な人気を博した。アメリカで発売されたゲームボーイソフト「ポケモン赤 青」は99年に800万本。またその年公開された劇場映画では公開5日で興行収55億円を記録している。
それでは肝心の、なぜそこまで絶大な人気を得られたのかというところだが、この問題はポケモンという商品がいかに優れているかということを語るだけでは問題は解決しない。ここに文化人類学的なアメリカの文化との影響がみえてくるのである。
当時、まだアメリカではアニメは子どものものであるという考えが強く残っていた。その考え(文化)に反発・対抗する格好の概念としてちょうど参入してきた日本のマンガ・アニメーションカルチャー(ここでは文化人類学の定義ではない「文化」を「カルチャー」と明記することにする。)が受け入れられたのである。このことを踏まえると、アメリカでのポケモンをはじめとした日本のマンガ・アニメーションブームは我々が見ている自国での純粋なブームとは若干ニュアンスが違う側面を持つ。これは、日本のオタクが批判的な対象になりがちなことに対し、アメリカでは堂々とオタクと公言しているオタクが多いことにも繋がっているのかもしれない。(最近では日本も状況が変わってきたがまだアメリカほど屈託なくオタクと公言できる状況ではない。)
こういった現象はヨーロッパや東アジアでも同様でハリウッドやディズニーなど米国商品に対抗するカウンターカルチャーとして日本のマンガ・アニメーションカルチャーが普及している側面は見逃せない。


2.中国のマンガ描き方入門
最初に明記した通り、我々が普段何気なく読んでいるマンガは紛れも無くある特定の集団や地域だけつまり日本で共有されている慣習や観念である。それは海外の人たちがどのようにマンガを受け入れるかを調査していくことで客観化され、改めて日本のマンガ文化が浮き彫りになってくる。
それを試みる中で、中国のマンガの描き方入門の本が非常に面白い。[図1]は日本の学園物マンガの中に出てくる登場人物たちを説明したものである。服装や髪型、靴に至るまでこと細かに違いが書かれており、妙に滑稽な違和感がある。これを見てもらうと、「マンガは国境を越えた」なんていう言説に対して素直に肯定できない。やはり文化はそう簡単に国境を越えないし、仮に超えたとしても本当に同じように受け入れられるのかは疑問である。
アニメでも、当時『うる星やつら』で劇中の中に出てくる「こたつ」が海外では不思議に思われ、後に解説サイトができるなど日本の文化がアニメーションの浸透のネックになっているという現象もある。

3.アメリカにおけるマンガの成立と議論
また、他国から受け入れた文化を自国で発信する時にもかなりの捻じれが生じる。最近アメリカではマンガの成立を巡って「マンガは日本人が描かないとマンガにならないのか」という議論がマジメに行われている[図2]。それも我々からすると非常に滑稽な捻じれに映ってしまうが、昔日本でもジャズやロックは日本人にはできないのではないかという議論をマジメにしていたことからも特別この現象が特異なことではないはずで、普遍的な軋轢なのかもしれない。

4.おわりに
やはり、表面上だけで「今、日本のマンガ・アニメは海外で人気である」というような言説を鵜呑みにしては危うい部分が多い。それは文化を受け入れる時や発信する時に軋轢が生じる場合や、そもそも文化がイデオロギーとして受け入れられる場合もあるということである。それに対して良い・悪いの価値判断は出来ないが、そもそも文化とはそういうものだといういうことを捉えておくことは重要なことかも知れない。

参考文献
堀淵 清治 2006 『萌えるアメリカ 米国人はいかにしてMANGAを読むようになったか』 日経BP
夏目房之介 2007 『花園大学後期集中講義レジュメ』
パトリック・マシアス/町山 智浩訳 2006 『オタク・イン・USA 愛と誤解のAnime輸入史』 太田出版
「『ポケモン』ゲーム、世界販売数1億5000万本を達成へ」
http://hotwired.goo.ne.jp/news/business/story/20051005105.html
ポケモン金・銀」今期中に800万本見込む米国では2作目劇場アニメ版をWBで夏に公開」 http://plusd.itmedia.co.jp/games/gsnews/9912/01/news03.html

資料2

[レポート] 社会学 08/01/11
恋愛の未来像について −「状態」としての恋愛−


0.はじめに
今回、「社会学」の授業を通して、一番自分語りが出来るものは何かと考えてみた時、やはり恥ずかしながらも恋愛の社会学について論じるという結果になってしまった。サブカルチャーポストモダンについて論じてみても面白いかとは思ったが、どうしても先行で研究している方のエピゴーネンにしか、なりそうにないという判断から今回は諦めることにした。

1.素朴な問いからギデンズへ
「なぜ、今私は恋愛で幸せになれないのか」、という素朴な問いがここ数年間、私の中の問題として非常に深刻な状況でたち上がっていた。しかしこの問題と向き合う中で、私だけの問題として消化するのではなく、社会的な枠組みの中でたち上がってきた私たちの問題として捉えるべきではないのかという意識が非常に高まってきたのである。そこで、今回はあえて「なぜ、今私たちは恋愛で幸せになれないのか」という問題設定のもと話を進めていきたいと思う。
その問題の内実とは概ね次のようなものである。好きな人と恋愛をして、ふさわしい時期になれば結婚をし、子どもを産んで、安らぎのある家庭を作るという「平凡だが小さな幸せ」というものへの憧れと、この憧れがどこか現状と合わないもしくは幻想なのではないかという感情との矛盾である。
 この矛盾を考える上でまずギデンズによる「ロマンチック・ラブからコンフルエント・ラブへ」の主張を取りあげておく。
ロマンチック・ラブとは、近代以前の恋愛と結婚が別物として捉えられていた時代、つまり結婚を経済的・社会的要因でなされていた時代から「個人」が浮上する中で登場した概念である。そうした個人主義自由主義思想の時代に結婚/家族という中に恋愛という概念を入れ込んだ「近代家族」が形成される。つまり、法や経済的な要素が入り込む近代以前の結婚の概念をそのまま肯定的に受け入れ、その中に新たに浮上した「恋愛」という概念を入れ込んだ関係性である。
一方、コンフルエント・ラブとは、そこからより「恋愛」が中心的な位置を占めた関係性を指し、結婚も以前の概念ではない、「情念の結びつき」のみで繋がる純粋な関係性へと変容していくというのが、ギデンズの主張である。
では、先の矛盾をこのギデンズの主張と照らし合わせてみた時、現代の恋愛はロマンチック・ラブ的な結婚の概念の呪縛から解き放たれずに、関係性だけはコンフルエント・ラブを望んでいるという不安定な状態であると言えるのではないだろうか。

2.改めて「恋愛」の定義を考える
そうすると次にこの不安定な状態からいかに抜け出すかという問題が浮上してくる。
そこで、その問題を考える前に改めて「恋愛」という定義についてギデンズから離れたところで少し考えてみたい。
岡田斗司夫は、恋愛の構造をテニスに例えてこう説明している。

テニスをする人々を「純粋にテニスが好きな人」と「チャンピオンの座が好きな人」に分けた場合、たいていの人は前者に属すると思います。それが「テニスが好き」ということですね。しかし、これを恋愛に置き換えた場合、私はみな「チャンピオンの座」が好きなのではないか、と考えるのです。これまで、恋愛と呼ばれていたのは「自分だけのたった一人の人と出逢って、その人とずっとラブラブでいる」ことですね。それは、テニスの例でいうところの「チャンピオンの座」になるわけです。本当にテニスが好きな人は、毎年のようにトーナメントを一からやり直します。つねに試合、試合の連続なわけです。恋愛においても、本当に“恋愛そのもの”が好きだ、というのなら、一つの恋愛に絞る必要はありません。何回も、何人とでも試合を繰り返せばいいのです。[岡田,2003,p.120-121]

この説明によると、「恋愛」とは人を好きになる行為そのものということになる。ここに私は恋愛の本質を見た気がする。この主張を用いるならば、「浮気をするな」などの自分以外の人間を恋愛対象として見てはいけないという考えも「恋愛」そのものを否定することになり、ギデンズの着目する「純粋な関係性」の概念だけでは捉えきれなくなってくる。
そこで私は「関係性」に代わる新しい恋愛の概念として、最後に「状態」としての恋愛という概念を新たに提示したい。

3.「状態」としての恋愛
「状態」とは、人を好きになっているという状態をいかに作り上げるかというのが価値になってくる。?それはどのような理由であれ、自分自身が他人に対して魅力を感じ、好きになった時点で価値とされ、その理由は経済的・社会的魅力でも構わない。?自分自身の「状態」に重きをおく為、複数の人を好きになっても構わない。(しかし、同時に相手にも複数の人を好きになる権利を与えなければならない)?結婚という自分自身の気持ちを妨げる束縛された社会制度には否定的となる。?自分自身にあった「状態」を作り上げることが重要視される為、「特別な」人や関係性という概念は解消される。

4.おわりに
いささか飛躍し過ぎた論を提示してしまったと自分でも思っている。しかし、ギデンズの「特別」や「純粋」という恋愛に対する価値をもっと身近な「日用品」の恋愛として転倒させる狙いが一つにはあった。又、近年出てきた『電波男』に象徴される二次元に萌える男たちという事象をも取り込める恋愛の概念が自分としても必要だと感じていたからである。もちろん、二次元に萌える彼らも自分自身の「状態」に価値を見出している為、恋愛の一つの形態であると判断できる。
最後に「今、私たちはどのように恋愛をしていけばよいのか」という問いを解消してみたい。まず、結婚にも密接につながる一人の人といつまでも愛し合うという幻想を捨て、又恋愛は特別な関係性を維持し続けなければならないという幻想も捨てるべきである。その先に、複数対複数の恋愛や片思い、二次元の世界など自分にあった開かれた恋愛モデルを見つけることができるのではないだろうか。

参考・引用文献
Anthony Giddens 1992“The Transformation of Intimacy” Polity Press =1995,
松尾精文ほか訳『親密性の変容』而立書房
1999 “Runaway World” Profile Books =2001,
佐和隆光訳『暴走する世界』ダイヤモンド社
本田透 2005『電波男三才ブックス
岡田斗司夫 2001『30独身女、どうよ!?』現代書林
2003『恋愛自由市場主義宣言!』ぶんか社

資料1

[レポート]倫理学B 08/01/10

安楽死に「死ぬ権利」は適用されるか

0.はじめに
今回受講した「倫理学B」は、私にとっていささかやり切れない事態を生みだした。それは、今回の「倫理学B」を受講することによって、日々私が思考している道徳的な考えを既成の倫理学という学問を導入することによりどれだけ進歩させるかを期待していたのだが、授業を通して得られたことはやはり自分自身の考え方を再考する機会を得られただけであって、少々授業として刺激が小さかった嫌いがあるからだ。
哲学や社会学の授業では、極めて悪く言ってしまえば日々私たちが考えているところからどれだけセンセーショナルな形で離れられるかという、私たちからすると非常に刺激が大きい学問である。そう考えると、この倫理学という学問は一般的な規範や道徳について考察する学問とある通り、規範の中でいくら思考してみてもその中で生み出された思考は既にバイアスがかかった非常に危険なものとなる可能性があるということを認識しつつ、できるだけ規範の外で論じることを自覚しながら、やはり私の道徳的な考えを再考してみたいと思う。

1.安楽死を「死ぬ権利」から考察
まず、この問題を考える前に具体的事例として東海大学安楽死事件を取り上げてみたい。それは、1991年4月、東海大学医学部付属病院(神奈川県伊勢原市)の助手医師が、ガンで入院していた男性患者の家族から強い要請を受け、患者に塩化カリウムなどを注射し死亡させたとして、殺人罪で起訴された事件である。
この事件は当時様々なところで安楽死を焦点に議論が交わされた。そこで、私もこの議論に参加する前に自分なりに安楽死の定義を構築してみることにする。安楽死とは、大辞林 第二版によれば「助かる見込みがない病人を苦痛から解放する目的で、延命のための処置を中止したり死期を早める処置をとること。また、その死。」とある。ここで重要なことは、常に第三者の介助なしにはその人が死に至ることはできないという点である。もしその当人が自らの力によって命を絶つことが可能であれば、それはたんなる自殺である。よって、安楽死は常に第三者による慈悲殺であり、それゆえにその第三者の倫理的あるいは法律上の責任(自殺幇助あるいは嘱託殺人)が問われるのである。
ここで、人は「死ぬ権利」があるのかという問いについて私の考えを明確に示しておきたい。私は人が死を自ら選択する権利は存在すると思っているし、存在するべきだと思っている。反論として、「生まれる権利」が考えられないように、「死ぬ権利」も根拠の乏しい権利主張であるという考え方がある。しかし、今のところ論理的に説明する能力が私にないことが非常に歯がゆいのだが、感覚的に生と死の概念はどこか違う気がしてならない。生まれるという行為は、当人にとって主体性なき行為である。主体性が存在するのは、もちろん生む側の人間であろう。そう考えると、あくまでも生まれるという概念は生むという概念に置換されるべきだし、この行為はあくまでも生む側の生殖行為にすぎない。一方、死ぬという行為は、一般的に見てみれば死ぬ当人による主体的行為である。社会学的見地などから考えれば、社会や当人以外の力によって死を選択させられているという見方も存在するが、それは置いておいて生と死の概念はそもそも意味合いが違うというところだけをひとまず結論とさせて頂きたい。
そして、再度安楽死である。では安楽死による「死ぬ権利」とはどういうものを意味するのか。ここで意味される「死ぬ権利」とは、当人が死にたいという持続的でかつ強固な意思を表明するとき、第三者には彼を死なせる、あるいは死を援助する義務が発生するということである。「死ぬ権利」とは、そもそも人間の自由意志を尊重するという個人主義的文脈で語られるものである。ならばその自由意志とは、国家や他人の干渉を受けずに私的なことを自分で決定する権利であるはずであって、国家や他人に対してそれら道徳的あるいは法律上の義務を課すという意味での権利ではない。
では、ここでやっと東海大学安楽死事件の考察に入るが、判決は殺人罪となっている。これは、患者の死を望む意思表示がなかったことからであるが、これまでの私の考えを踏まえるならば、患者の意思表示なき死に対しては、死に至らしめた行為者が殺人罪を問われるのは自明である。
しかし、もし患者の意思表示がある場合、私たちはどうすればよいのだろうか。現行の倫理から依拠した形での私なりの結論は先の通りだが、それから一歩進んでどうすれば積極的安楽死を倫理的・法理論的に認めることができるのかということをあえて考えることによって、非常にセンセーショナルな形での反証を試みてみたい。
先の結論を導き出した上で非常に重要であった積極的安楽死は国家や他人に対して道徳的あるいは法律上の義務を課すことができるのか否かという問題だが、実際にこの問題に対して社会が悩んでる姿を如実に映し出している興味深い事件がある。オランダの1991年に起きたシャボット事件は、離婚や息子の死により精神的苦痛を訴えた患者を医師シャボットが死に至らしめたというもので、判決は自殺幇助罪により有罪であったが刑罰は科さないという奇妙な判例であった。これは、オランダ刑法第9条「裁判官は、事案の軽微性、行為者の人柄、または行為が行われた際の事情、さらには行為後の事情を総合して、適切であると考える場合には、不処罰または不処分の判断を下すことができる」によるもので、今回の行為は医療行為の一部であり、又その行為が適切だったとの判断から無処罰であった。しかし、このように正当な医療行為という盾によって刑罰を免除することは、一般社会の倫理規範の及ばない非常に危険なものになりかねないのではないだろうか。このように医師だけの特権を認めれば、倫理規範そのものを崩す可能性もあり、やはり積極的安楽死については相当慎重な姿勢であるべきだと考えられる。

2.おわりに
今まで私なりに考えてきた結論としては、自殺以外に積極的死というものは存在するべきではないという主張だ。
考察の組み立てとして、「死ぬ権利」の肯定。次に、第三者の介する安楽死という概念は「死ぬ権利」に該当しない為存在するべきではないという主張。そして、第三者の介する安楽死の危険性という風に進めてみた。ここからぎこちなくではあったが、最後の、第三者の介しない死つまり自殺のみを「死ぬ権利」に基づいて肯定するという結論に至った。ここで全く取り上げていない尊厳死については、正直言ってまた次の機会に譲るしかない。が、ここでの結論に準拠にしながら、簡単に考えてみれば自らの力のみで行う死については紛れもなく自殺と同義であることからこれは肯定したい。それ以外については、今のところ否定の考えを取ることにする。
今回、このレポートを書き始める前は、安楽死に対して正直言って何の結論も持っていなかった。それが、今回をきっかけに自分なりの結論を持てたことはこの課題に非常に感謝している。非常に有意義な時間を持てたことを担当講師にも合わせて感謝したい。

参考文献
坂井昭宏編 1996『安楽死尊厳死か』北海道大学図書刊行会

「インタビューするということ/されるということ」(mixi転載)

インタビューはして、それで終わりではない。
インタビューされた対象者は、思い考え、そして動く。
そうなった時、インタビュアーは何も手出しができない。
私のインタビューが対象者の言葉によって上書きされていき、あっけなくも全てが無効化される恐れがある。

インタビューとは何なのか。なぜ聞き手が存在しなければならないのか。
そういう問い自体に気づかされたきっかけが、まさにインタビューされた対象者の言葉からなのである。

インタビューされた対象者がインタビューされたことについてこうも語ることは非常にめずらしいだろう。
私は、「あのインタビュー」と「これから転載する彼の言葉」を合わせて一つの新たな作品なのではないかと、彼の言葉を読んだ時に思った。

前置きが長くなった。読んで欲しいのはここからである。一息ついて僕の文章と切りかえて欲しい。
私にとって、インタビューされた対象者が思考する瞬間である。


(以下転載)
「あたし!インタビューされる人になりたかった」


安彦麻理絵の自伝的漫画『あたしのすべて』の台詞である。


 私は、何でもいい、何らかの分野で注目、そして成功してインタビューをされたかった。何者にも取って代わることなく人生の主人公でありたい。そんな自分を見て欲しい。肥大した自意識、自己顕示欲を持つ若者の多くに響き渡る言葉なのではないだろうか。紛うことなく私もそんな一人であった。

 つい先日私は、自分が趣味で行っているラジオを通じて知り合った方から、大学の授業で他人のライフヒストリーを調べレポートするという課題のためインタビューを受けた。私にとって願っても無い場面であったため二つ返事で了承し、自分の生い立ちを語らせてもらった。
 そのレポートがついしがた出来上がったという事で読ませてもらったのである。

 最初にあまりにも見慣れすぎた自分を今更振り返っているという事への一抹の恥ずかしさがついて回った。私は注意深く一語一語追って文を読んだ。見慣れた内容であるのにそれを客観に置き換えて書かれるという事が自分にはとても新鮮な事であった。
 タイトル「自分の力で上京した青年の苦労と葛藤」
青年。そうか、私は世から青年として括られているのだった。

 読み終わると私にはもの悲しさと恐れが残った。私の今までの人生はこの数十行程度のものだったのか、と。レポートは私の喋った事の書くべき要点がきちんと抑えてあり非常にいい出来だと思った。だからこそ数十行で片がついた事はもの悲しさが残ったのである。
 筆者の弁を借りれば、
「5時間近くも話した内容が今回のレポートには詰まっている。時間の割に分量が少なくなってしまったが、これはまだまだ私の能力が足りないせいだろう」
 との事だが、私はそうは思わない。それほどまでに密の薄い、希薄な人生を私は過ごしてきたのではないかと思った。そして筆者は取ってつけたようだが、と前置きした上で
 「就職に対して肯定的になれない現代の若者の心情を捉えることができたと言えなくもない」との解釈を提示している。この文面の内容がこの場において重要なのではない。私は現代の若者なのである、という事実がこの文から強く頭に残ったのである。私が今まで様々なところで耳にした現代の若者というもの、時に私もそれに対し何らかの批評を試みた事もある。しかし何のことはない。私も現代の若者として括られていたのだ。
 インタビューを通したことで直接的に自分が批評の対象となった事が私には恐怖だった。私は主人公でありたかった。それは決して今自分が主人公として生きてはいないということを意味しており、私は自分を見て欲しいという感情とそれにより値踏みをされるという事を恐れる感情の両方を持ち合わせていたのだった。

 今回のインタビューというものは自分の人生を他人を通して客観的に把握できたという貴重な体験である。私はこの先、私が思うままに生きられるだろうか。もの悲しさを克服すべく、わが道を歩めるだろうか。それともそんな道に恐れおののいて隅でうずくまっているのだろうか。
希望的観測を持ってしてこの文を締めたいところだがそれもできそうもない。
 ただ一つ言える事はこれからも私の物語は続いていくという事だけである。

 人は誰でも自分のことを書けば物語を一つ作れるという。そして他人の個人史というものは否応無しに面白いものである。私の物語は誰かにとって読むに耐えうるものであったのだろうか。
 そして私も今度誰かにインタビューというものを行ってみたい。

そう思った今回の出来事である。

社会調査法のレポート(mixiより転載)

「誰でもいいので一人ライフヒストリーを聞いてインタビューしてこい」っていうレポートがあったので、やったんですわ。
マイミクの人にお願いして、凄い時間かかってこんなもん出来ました。
言葉も文体も変だけど面倒くさいのでこのまま提出。
あれだけ頑張ったのにこの出来ですかというしょうもないレポートに仕上がってしまいましたけど、次はもっと上手くいくはずです。

にしても、mixiにupするには長文すぎたかも。。絶対、誰も読まないし。。
でも、誰か読んでくれー。



「自分の力で上京した青年の苦労と葛藤」

はじめに
今回インタビューする方は、インターネットから知り合った22歳のフリーターである。個人で放送するネットラジオというものをしていて、マンガを話題の中心として放送をしている。彼のライフヒストリーから何が見えてくるのか今は正直分からない。が、とりあえず進めていこう。

−お名前は?
松澤です。

−どこでお生まれですか?
長野県長野市に生まれたんですけど、すぐ一年後に新潟県西蒲原郡分水町ってとこに引っ越しましたね。そのきっかけはよく分かんないけど聞いたところによると父親の実家がその長野県でそこを追い出されたのがきっかけなんじゃないかな。そこから、適当な借家に引っ越しました。かなりボロい一軒屋でしたね。そこからまた、小学一年生の時に三島郡寺泊町に引っ越して持ち家を買ったんです。田舎だから、家は割と大きかった。親の寝室と子ども三人の部屋も応接間や庭なんかもあったし。まあ、決して特別お金持ちという訳ではないんだけどさ。

−親御さんはどのような方ですか?
父親は普通にサラリーマンをやってて、ダイハツかなんかの自動車会社の営業もやってたみたいだし、農作業の機械を作るところの営業でそこでは一応部長ぐらいだったみたい。性格的には典型的な亭主関白で、怒るとこわかった。顔も中尾彬に似てて実際会うとたぶんこわいと思うよ(笑)。

−ご兄弟はどのようなは方々で、どんな関係性でしたか?
3つ上の姉と6つ上の姉がいる。
−ほう。男兄弟を欲しいと思ったことはないんでしょうか?
別に男兄弟を欲しいとは思わなかったねー。ゲームを共同で買えるみたいなお得感があるといいなと思ったくらいかな。そんな金銭的な単純なこと以外、姉が二人とも男っぽい性格だからかそういう感情は全く湧かなかったな。一緒にゲームとか普通にしてたしね。
6つ上の姉は年が離れすぎてて、あんまり話さなかったな。
3つ上の方とは、結構話したよ。人生の話や将来の話なんか結構した。
母親は一人じゃ何もできない人だね。始終明るくて、楽しい人。父親と良い関係ではあるんじゃないかな。女っぽい女性ではあると思うよ。話してて結構面倒くさい親だよー。本当典型的だねー二人とも。悪い意味でナイスカップルなんじゃない(笑) 僕ら子どもが大学や就職で出て行ってますます仲良くなったんじゃないかな。よく二人で出かけてたりするみたいよ。

−どんな小学生でした?
保育所時代から記憶あるからそこから話そうか。普通に友達と遊んでたし、昼寝の時間が嫌いで、タオルとかかんでたなあ。今から考えたら、移行対象の表れなんじゃないかな。今でも、時々指をかんだりするよ。悩んでる時期とか特に痛いぐらい噛んでたよ。
小学生時代は、特筆して何も言うことがないなぁ。友達を作るのに困ったこともないし、普通に友達とも遊んでたし、普通にいじめてたりもしたしね。
1学年12人くらいの小さい学校にいたから、いわゆるクラスの立ち位置がどうのとか無かったね。みんながみんな主人公だったから、客観的にみる機会がなったわけよ。みんなが主人公だからほんといい気になってたよ。みんながいい気になってた。そうだね、今からもつながる性格の傾向としては、やっぱり本が好きだったね。図書館で昼休みよくいたりしたね。人数が少ないから図書館によくオレ一人ってことが多かったんだよ。
でも、基本的にはみんな主人公だったから何も考えて無かったね(笑)だって、今小学校の友達と会いたくないもん。あの頃の自分と今の自分の考え方やスタンスが全然違うからね。

−どんな中学生でした?
1クラス40人で4クラスぐらいだから、いわゆるかなり一般的な中学校。小学生の時と比べて大人しくなったよ。でも結構スレてきてもいた。それを象徴する事件があって、クラスでの調理実習が嫌で一人で抜け出したりしたね。それで、すごいクラスで問題になったりもして、二年生からは友達の付き合い方にちょっと以前までと違和感があったことは確かだね。部活はテニスだった。体育会系の中では、あんまり運動ちゃんとやってない部活で、そんな部活に集まってくるのも変な奴が多かった。その分、面白かったことは面白かったよ。だから、中学で特筆するべきものはほんと部活くらいで何もないや。高校受験は推薦だからやってないしね。でも、高校は普通のところに行きたくなかったから、普通科じゃなく農業か工業か商業とかにしたかった。で、結果として商業高校に行ったっていうわけ。短絡的だけど、「普通」っていう言葉が嫌いだったっていうのがあったよね。ただ漠然と。その時は馬鹿だったんで(笑)あとは、同じ中学の奴が行かないようなところあえて行きたかった。どこか、やりなおせるという願望があったんじゃないかな。恥ずかしい話だけど(笑)。

−どんな高校生でした?
高校でも一応テニスに入ったけど、一ヶ月で辞めちゃったね。ほとんど女の子だったし、そもそも友達の付き合いで入っただけだからね。で、何してたかというと、普通に皆で遊んでた。すごい面倒くさかったけど。本当はすぐに家に帰りたかったんだけど、ノリが「お前もう帰んのかよー」って感じで相当ウザかったね。死ねよお前らとか思ってた。
二年生ぐらいの時には、もうそんな友達付き合いもしなくなって、ひたすら自分との対話を本格的にし始めたね。日々、非常に生きづらさを感じていたのもこの辺の時期からだね。それがきっかけかどうか分かんないけど、同時期に青年誌のマンガが面白いと思い始めて、『バガボンド』とかをきっかけに『MONSTER』や『ジパング』なんか割とメジャーではあるんだけど、青年マンガをどんどん読み漁っていったね。
三年になってからは、マンガを買うためにブックオフに毎日通ってた。生涯読んだ本ベストテンとか今から考えるとイタイことを頻繁にしてた時期でもある(笑)。
進路の問題は、高校側からも親側からも色んなことを言われたけど、お前らに言われる筋合いはないよみたいな反抗心があったね。就職とか進学とか私たちがさせてやるみたいな偉そうな発言に対して、良い気になんなよみたいな感情が常にあった。それで、自力で何とかしてやるという気持ちがあって、進路相談の時に「卒業後、一年間独学で勉強して公務員を目指します」とかもっともらしいこと言ったんだけど、親にも先生にも凄い怒られた。

−なぜそんなに自力で何とかするという気持ちが強かったんですか?
親に養われているという問題が自分の中ですごく大きくてそのことが解消されない間は人生楽しめなかったんだ。親に養われているのにバイトをやるのは違うという考えからバイトもできなかったし。
で、結局親を説得できずに大学に行くことになった。でも、その代わりとして大学を利用して県外に出て一人暮らしをしてやろうみたいな企みがあったわけ。

−どんな大学生でした?
入る前から希望はなかったし、人と付き合う気もなかった。マンガが読めることと一人暮らしができることが唯一の救いだった。大学については本当に何も考えてなかった。
マンガについてはさらに色々読み始め、原付を手に入れたこともあり、色んなブックオフを回ったりした。あと、学科が哲学だったこともあって、哲学書を読み始めたのもこの頃だね。これをきっかけにやっぱり人生を考えたりもした。もう一つ、音楽的に言えば大学一年の時はずっとブルーハーツ聞いてた(笑)
一年の後期の秋頃からマンガを描きはじめ、同時に日記を書き始めたんだ。
二年生になってからは、哲学書を自分で読んでるという免罪符のもと全く授業には出なくなった。で、どうなったかというと、寂しい、苦しい、僕孤独みたいな(笑)でも、やっぱり人と関わりあいたい、人と分かりあいたい、という気持ちはあって。で、ネットラジオというものをし始めたわわけ。その中で人と気後れせずに関わるにはやはりマンガしかないということで、ラジオタイトルも「マンガラジオ」というものにした。
で、実はあらかじめ父親と約束していた、大学に対してやる気が起きなければ二年で辞めていいというのがあって、自分の中でも結果として二年間辞めることだけを考えて生活していた状況もあり、退学届を書いてもらうということで大学に関しては決着をつけた。
−それからはどうしたんですか?
当然ながら、親からもこれからどうするんだ?というのは聞かれるわけですよ。で、住み込みのバイトをしますということで、2月に大学辞めてすぐ3月に引越しして、神奈川の箱根で住み込みのバイトをし始めたわけです。

−それはどんな生活だったんですか?
やっぱり寮だったし、まず仕事ありきでしたよ。外界から遮断された山の上でやることもなかったですしね。でも、生きてれば幸せみたいなゆるい価値観がその当時は哲学なんかを通してあったんで精神的にはしんどくなかったよ。でも肉体的にはホテルの皿洗いだけあってやっぱりしんどくて、腱鞘炎になりましたね。そういうきっかけもあって、4ヶ月程度でそれは辞めました。後やっぱり、僕が飽き性っていうのが一番大きな要因で、ずっと同じ環境で過ごすのは楽だろうけど、果たしてそれでいいのかという戸惑いもありましたしね。

−で、東京に上京してくるわけですね。
そうですね。そういえば、東京に上京してからもうすぐでちょうど一年になります。この一年は、部屋を探して、仕事を探してという感じで割と忙しい一年だったんですけど、今までの人生をリセットする気でいたんで、そういう意味では自分の生活をやり直すことができたんじゃないかなという気がしています。

−では、松澤さんが生きていくうえで、一つ鍵であった自分の力で生きていこうという試みがあった訳ですが、それを達成した上で何か見えるものはありますか?
ないですね。達成した上でこれからも生きていこうという気持ちがあるだけです。

−それでは最後に、今の大学生について先輩としてどう生きていけば良いかアドバイスはありますか?
人生は甘い。よく甘くない、甘くないと言われるけれど甘いと思う。
だから、どんどん道を踏み外してもいい。やりたいことをやるべきだと思う。
甘いからこそ、甘えに浸っていず、何か無茶なことをして欲しい。
あと、単純ですが自分の楽しいことをやれよっていうのはありますね。

おわりに
ネットを介した音声でのやりとり(電話と同じ機能)ではあるが、5時間近くも話した内容が今回のレポートには詰まっている。時間の割に分量が少なくなってしまったが、これはまだまだ私の能力が足りないせいだろう。先の「はじめに」で語り残した今回のインタビューによる収穫であるが、取って付けたように言ってしまえば就職に対して肯定的になれない現代の若者の心情を捉えることができたと言えなくもないが、正直言ってこんなものはケースバイケースであって、こういう総括の仕方はどうにもうそ臭い。しかし、何も価値は無かったのかというとそうでもないはずだ。個人的な感想に留まってしまうのだが、私たち大学生に向けられたアドバイスは現代の大学生の葛藤を上手く言い当ててつつ解消する非常に価値のある助言ではないだろうか。私としては、あの最後の言葉を引き出せただけでもインタビュアーとしては非常に幸せである。

僕と安達哲について(mixiより転載)

さて、皆が気になる「安達哲」君について書いてみよう。

彼の作品で、今まで読んだことがあるのは『さくらの唄』と『バカ姉弟』である。そして、今からは『さくらの唄』に焦点を絞っていこう。

さくらの唄』について、僕の正直な所を言ってしまおうと思う。僕はこの作品を愛していない。

端的に言ってそんなに共感できない。
ストーリーや主人公にということではなく、「安達哲」に共感できないのだ。
再度あの作品を手にとって詳細に考察するのが面倒くさいから、感覚だけで語ることになるが、鬱屈した「僕ら」であるはずの主人公がいつの間にか完全に「僕ら」と乖離した主人公になってしまっていて、当時読み進めていくそばから記憶を消し去りたくなってしまった辛い作品なのだ。。
そんなくせに、主人公はモラトリアムを難なく脱出し、憧れの先生に「最初から自分信じてやってればよかったのよ」なんて言われ、「僕ら」モラトリアム達があの最後のコマを見て希望を持ってしまうなんていう構図全てひっくるめて凄まじい挫折感というか絶望感を抱いたのだった。

何ていうか、僕はあの作品に救われなかったから、「安達哲」を好きになれないのかもしれない。伝説的青春漫画などと言われながらも、あの作品の本質を見てみれば「安達哲」は途中で完全にそれを放棄しているわけで、それでもあの作品の賞賛の声がやまないということが不可解でならなかったのだ。

まぁ、こんなまとまってない自分語りはどうでもいいとして。
今まで、「安達哲」に対してそのような感情を抱いていたのは事実である。
しかし、つい最近『キラキラ!』を読んだ。









普通に面白かった。
全6巻中の最後2巻は基本的に蛇足と言っていいレベルだが、僕の女の子に対する考え方に前進性を持たせてくれたことは非常に評価できる。
それについては、安達哲が一巻の1ページ目から明示してくれている。大好きな箇所なので恥を忍んで引用させて欲しい。
僕が今まで生きてきて思っていたことを、すでに安達哲にこんなにもはっきりと言われてしまっていたことに、爽快な笑みさえ出てくるのだから。



主人公「学校がなんだ。親がなんだ。勉強がなんだ。オレは理想の女のコにあいたい。身も心も奪われるような天使にあいたいんだよ」

闇の声「だが、その女のコにあった時の苦しみに、君は耐えられるだろうか?」

主人公「苦しみ?」

闇の声「天使を天使にしておくためには、ただ遠くで見つめているしかないんだ」

主人公「手に入れようとしちゃいけないの?」

闇の声「手に入れたとたん、天使は人間となる。欠点を持ち、君の理想とくい違う実体を持った、ただの人間となるのだ。」



※これへの主人公の回答が最終巻で綴られる。安達哲の傑作である。

風俗実話マンガ作品


日本の出版業界では、数々の雑誌でマンガが連載されている。
その中でも、いわゆる風俗雑誌や実話雑誌といった、コンビニの隅っこに置いてあるいかがわしい雑誌の中に数ページオマケのように載っているマンガが今回紹介する作品である。

元祖フーゾク魂

元祖フーゾク魂

この作品は2007年に発行された平口広美という作家の「風俗潜入ルポマンガ」だ。
ひとまず作品の方は置いておいて、こういった本来ならば誰に知られることもなく消えていくような作品を一冊の単行本として社会に残していくという作業をし続けている発行元の青林工藝社には絶大なる賛美をしなければならないと思う。(次に紹介する作品も同じく青林工藝社である。)
この平口広美という作者は風俗に潜入し続けて25年という中々の大ベテランであり、その意味では1ページの連載であれ何であれ毎回お店に出向いて体験取材を必ず行なう