続・猫に腕まくら

ぶっこわれています

悩ましい

大人しめの動悸がする。

激しい動悸ではなく、左胸が重くなって背中がこってるような。

 

はじめは苦手な人や焦ったり緊張する場面など、動悸がすることもあるよねっていう時だけだったのが、次第に時を選ばなくなり一日中ドキドキするようになり、そのうち自分の動悸の振動で朝目が覚めるようになる。そうやって一年経った頃、パニック障害の発作が復活するようになり社会生活ができなくなったーーそれが私のひきこもりのきっかけだった。

 

 

その動悸がまた始まってしまった。

社会復帰して6年目の危機。

この前兆を踏まえて、いろいろなことをセーブした方がいいのか。とくに職場。

また同じ轍につまづくのかよお前はって、負けずに現状維持で突っ走るほうがいいのか。

 

 

積まれたままの本。聴いてない未開封のCD。溜まっていく録画と録音。本音をいえば、どんなことも楽しくなくなっている。ライブがあれば条件反射みたいに申し込むけど、当たらなくてもいいかって思ってる。会いたい人は特にいない。ただ布団に転がってスマホを見ていたい。

 

でもなんでいつも人間関係で同じつまづきをするのか。学習できてないから何度も同じ事になるのか。

めんどくせえな。

 

 

 

平板な感情

今年4月18日に、猫のひかりは亡くなりました。

最後まで本当に頑張りました。

そして食いしん坊というのは、生きることにも諦めない…食べることは生きることだっていうことを改めて感じさせてくれました。

人のそばが好き、真ん中が好き。そんな子だったから居なくなった不在がこたえます。

 

 

去年のゆうが亡くなった時、一回だけ泣いた。だけどひかりの時はついに一度も涙が出なかった。

悲しくない訳ではない。猫が亡くなると隙あらば思い出し涙で視界が曇るような人生を送ってきたのに、もう涙が出ない。やはり深刻なドライアイになってしまったか。いや、「悲しくない訳ではない」と書いたものの、気持ちがずんと落ちてゆくのは感じるけど、最近「悲しいってなんだろう」と思うようにもなってきた。わからなくなってきたように思ったりする。

 

これは長年の投薬の影響なのか。それとも心がまた壊れてきて、強烈なバイアスが心を守っているのか。わからない。それとも老化?

辛い感情も以前より鈍くなっているのと同時に、楽しい嬉しいという感情もじんわり感じる程度で、どうも平板化している。そのうち感情がなくなるのだろうか。

 

 

父は去年の話で今年の正月が迎えられるかどうかは「そういうこともある」と医者に言われていたが無事正月も迎え現在に至るが、先日のステント交換の手術の後、「何かまた違う癌や疾患が出てこなければ今年の年末くらいまで大丈夫」という話だったらしい。そうなの、と私は母の話をボンヤリ聞いていたけど、それって余命半年?今五月の終わりだから六ヶ月後。またそんなこと言ってその後一年位大丈夫なんじゃない?と実感ない。これも平板化?ただ父に関心がないだけかもしれない。

涙と熱

 

 

ゆうが亡くなり、お寺の関係で1日遅れで荼毘にふそうという前夜に私が発熱。37.2℃。

 

朝寝起きで37℃で、母に一人で行ってきてもらうことにした。コロナの可能性ないとは言えない…というのと、猛烈な怠さで布団から出られなかった。昨日のうちに(お葬式のためだったけど)休みを交代してもらっておいてよかった。

 

目をつぶりながら、元気だった頃やつい最近の苦しい様子やあれこれの思い出が入れ替わり立ち替わり現れては、切なさを「ゆうは今苦しさから解放されてるんだよね。楽になっているよね」とゴマかす。

 

前日、一足先に火葬場に向かうゆうちゃんを業者さんと一緒に専用の段ボールに入れて玄関から出す時に「ゆうちゃんありがとう。ゴメンね」といって別れてから、一人になった家で少し泣いた。

 

実は私はこの数年で涙が出なくなってしまった。そしてドライアイにもなっている。

 

風太が亡くなった時も引きこもり明けに勤めた場所を辞める時も、これでもかこれでもかも涙がとめどなく出てきたのだけれど、あれ以降感情が平板になっているのは社会に順応するために感情に蓋をしているのか、長年の投薬のせいなのかわからない。

諸々の感情もある上にこの枯渇した涙腺では、父が亡くなっても泣かないんじゃないかと思う。

 

涙の代わりに熱がでたのか⁉︎

 

 

相変わらずの日常

入院中の父には、ゆうちゃんが天国に行ったことを伏せている。

来月の携帯電話の支払いが怖いくらい(ガラケーの父はもう仕事で使うこともないので一番安い基本料金な分、通話料が高い)毎日のように電話をかけてくる。「ゆうは?」の質問に「元気だよ」と母が答えたところまでは良かったけれど、運動靴だかスリッパだかがないという話になったところで「ナニ?何言ってるかわからないよ」と母が言ったところで電話が切れて、直後に看護師さんが父が泣いていると電話をかけ直してきてくれた。冷たいと言って泣いているらしい。

結局後から滅多に話さない私から電話をして、父はもう泣いてはいなかったがスリッパはあるけど運動靴が見つからないということだった。実際はビニール袋に入れた運動靴とダウンの上着を入院する時に看護師さんに渡した記憶があるので、どこかにあるはずなんだけど。近々母が病院に行く時に持っていくからということで、一件落着。

 

うちの両親は感情がフリーダムだ。父の涙なんて子供の頃から数え切れぬほど見ている。父の涙、男泣き……など感動的な話は皆無だ。母は頭に浮かんだ全てのことを話さずにいられない病かのように、自分の体調、愚痴、自画自賛の話のループを延々と繰り返している。

そして、おばさんとはいえその娘である私は能面のように感情を顔に出さないよう無表情でやり過ごす。老化か進んで顔がたるむのは無表情のせいもあるとわかっていても、両親の前では無表情が心のバリアだ。申し訳ないけど、耐えられないのだ。不本意だかブルドック化が進む。

 

そして、お寺付属のペット火葬場が本日定休日だったので、休みを交換してもらい明日ゆうちゃんを荼毘に伏すというのに、さっきから地味に熱が出てきてひとり焦っている。いやはやいやはやどうしよう。

またね、ゆうちゃん

猫のゆうちゃんは、1月27日午前9時15分頃虹の橋に向かい旅立ちました。

 

私のシフトが2連休初日という、そのタイミングを見計らったかのように。

 

最期の最後までよく頑張りました。ゆうちゃんはどんな状態でもやっぱり可愛いゆうちゃんに変わりありませんでした。

戦うゆうちゃん

猫のゆうちゃんが悪性リンパ腫と診断された頃のことを、このブログに書いてないかと遡ってみたら全く書いてなかった。確かにその頃はほとんど何も書かなく放置ブログと化した頃であったけれど、あの時は先が見えないゆうちゃんの病気に加えて、アンドレ(仮)が発熱したり、マーくんも調子を崩したり。両手に一つずつ重量級の猫入りキャリーを握りしめ背中にリュックで動物病院にヨタヨタ顔面蒼白で行って、待合室の長椅子にへばり込んでいた記憶がある。 

 

そして、今。

先が見えてしまっているゆうちゃんの病状は、切ない。数日前から水も食事も受け付けなくなった。それでも自分で猫トイレに入り、小さくふんばり、疲れてトイレの砂の上にへばってしまうので帰りは人間が抱いて連れて帰る。砂の上にはなんの痕跡もない。きっとウンチがしたくて来たというのに。

寝場所を頻繁に変えるのだけど、きっと身の置き所がない辛さがあるのだろう、と思うとこちらも辛い。

 

何匹も見送って来たけれど、これは慣れるものではない。

 

年明けから入院していた父が、数値が安定したということで退院した当日の夜、食後全身をブルブル震わせて発熱し救急車に乗ってまた即入院した。後日必要なものを持っていった母に看護師さんが「(父が)しきりに猫のことを心配しています」と話しかけてきたという。

父が退院する頃までは難しい、と思う。

 

強い、弱い、ズルイ

街頭占い師の姓名判断の張り紙を見ると、私の画数は「女にしては強すぎる」と書かれている。

生年月日判断で「女にしては強すぎる」。

「女にしては」とは???

と、釈然としない気持ちになることが2度ほどあったけど、実際私はとても強いのだと思う。

クヨクヨうじうじするけど、最終的には強いのだ。

弱いのは自律神経の調整力くらいなのだろう。

実際、どんなに強くても、病の症状に負けてしまう時もある。

全てにおいて強い人なんていないのだ。誰だって弱いところと強いところが区画整理されてない住宅地のように入り組んでいるのだろう。

 

ただ、自分自身が心の中で「うむ、なんだか知らぬがワタシは金太郎並みに強いかもしれないぞ」と勝手に思うのは、お好きにどうぞと言うしかない。

 

しかし、どうだろう。励ますシーンでもない状況の時に、他人が人に向かって「あなたは強い人」と言う時、言外に「弱いふりして実は強いよね」「私とは違う」「ズルい」という批判的なメッセージが含まれているように思うのは考えすぎか。特に話の前後で褒めてるわけでも、ふざけたやり取りをしているわけでもなく、好意を全く感じない場合。深読みしすぎ?

女性対女性の話です。私にあった実話です。

 

これってジェンダーの話に繋がるのか。どんどん変容してゆく意識改革があるにしても、まだまだ女(の子)は「か弱い方が最強」という意識はまだまだ健在であるから。「弱いふりしてホントは強いのに。ズルイ」と。強さに良き美点としておもきを置くより、弱そうにしているのが許せない、と。

 

でもまあこういうことを言う人は、こちらから見たら全ての言動において、抜け目なくしたたかなのが面白い。「したたか」は「強か」と書く。わはは。

 

相手の嫌なところは必ず自分自身のなかにも宿ってる。

 

「酒に強い」とか「火を吹くような辛いのに強い」とかお互いが認めていてかつ湿度のない笑いに持っていけるような強さだけ話題にしようと思う。