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このブログを始めたときから、予防線を張るように何度も書いてきたこと。それが「おれは飽きっぱいからいつまで続くことやら」だった。
で、その時がやってきた。いちおう最後ということで、「飽きた」の内についておれらしく、ぐちぐちと説明して中締めとさせていただこう。
ペン習字、とくにパイロットの講座で上達するためには「自分が選んだ系統の講師の字に惚れ、近づこうと努力する」ことが必要だ。 最初のころこそ、おれは「この"え"の形には納得できん」とか、「"感"のしたごころが小さすぎるんじゃねーの?」などと文句ばかり垂れていた。しかしある時期、両手を挙げて降参することに決め、お手本にすこしでも近づくための練習に切り替えた。
するとそれまで昇級せずにくすぶっていたのが、堰を切ったようと言ったら大げさだが、順調に級を進めることができた。最終的には今年の2月の時点で、7級Bまで昇級させてもらった。
「パイロットでペン習字を学んだことがあります」と言うには最低でも7級にはならなくちゃな、と思っていたので、ぎりぎりの線には辿りつけたと思っている。
困ったのは、ある時期からお手本の字が美しいと感じられなくなっちまったことだ。
生意気を承知で書けば、もともとおれ自信がペン集字的な美しさを求めていなかったのだと気づいてしまったのだ。どうやら自分が求めていたのは"万年筆で書かれた味のある癖字"だったようだ。そして、おれにとっての"よい手"の代表が亡父の字であることは、いまも変わっていない。そうだ、父の筆跡はまったくペン習字っぽくなかったもんな。
姉から聞いた話では、父はもともと字が上手で、字を書く行為そのものも好きだったようだ。
おれの父親だけあって、すぐいろんなものに手を出す。あるとき、ペン習字の通信講座を始めようとしたらしい。おそらくおれが生まれるまえだろう。それがどこの通信教育なのかは知るべくもないが、父は教材を前に一日だけ練習すると「この字は好きじゃない」とやめてしまったそうだ。おれより決断が早い。
ひとつ、はっきり書き残しておきたいことがある。「パイロットでペン習字を学んだことは無駄ではなかった」という感謝の念。
無駄どころか、字や、それを構成する点画、そして字によって姿を表す言葉や文章。こういった、おれにとって大切なものに対して、ペン習字はおれの目から薄皮を一枚また一枚と剥ぎとってくれた。
それまで意味の側からしか捉えていなかった言葉に対して、形の面からアプローチすること。その形の背後には心があること。ペン習字のおかげで気づけたことは、とても大きい。
ありがとうございます。
ついでに書くと、この自己満足のブログに背を押されてペン習字を始めた人も何人かはいるようで、ちょっとはパイロットに恩返しができたかな、と思っている。
ペン習字や万年筆の本、B5原稿用紙など、始めたままで放り出してしまうものが多いのは、申し訳なく思っている。ごめんな。そして、もう一度、ありがとう。
ペン習字にも万年筆にも無関係なテレビの話。でも書きたかったんだ。許せ。
決勝戦で競う8組が紹介された時点から「ちがう匂い」を放っていたスリムクラブ。その匂いは「終わらせる力」に思えてならない。
お笑いの流行を追いかけることに興味のないおれがスリムクラブを初めて見た『エンタの神様』だった。そう、フランチェンネタだ。真栄田がフランケンシュタインの扮装をし、内間はナレーションだけ。笑うようなネタではなかったが、存在感だけが光っていた。はやくも登場2周目で、フランチェンが一回転するアクションに、客席から手拍子が入った。まちがいなくスタッフの指導による手拍子だ。この瞬間に『エンタの神様』が終わったとおれは見ている。
「自分たちがいちばん笑いを理解している。だから芸人のネタに手を加えるし、キャラすらも塗り替える。自分たちスタッフが扱いやすいように客も選ぶ」。そんな宣言が聞こえた気がした。なんだ、神様ってのはスタッフの一人称だったのか。おれにとってこの番組の終わりは、スリムクラブによって告げられた。
当のスリムクラブは、スタッフの計算も、無邪気に手拍子する従順な客もおかまいなしで、楽しそうにフランチェンを演じていた。太いな、この人たちは。そんな印象だけが残った。
さて、最後のM-1だ。
今回の主役はまちがいなくスリムクラブだった。登場しなかった第1回を含め、放送間隔の長い帯番組としてのM-1の主役はまちがいなく笑い飯なのだが、最終回でスリムクラブがすべてをさらった。そしてスリムクラブはM-1を終わらせた。
スリムクラブは、この10年のM-1のなかでも「異色度」が突出していた。これまでにキワモノ扱いされてきた千鳥やポイズンガールバンド、ジャルジャルが「異色マンザイ」という一ジャンルのなかに安住しているように見えてしまうほど、今日のスリムクラブは異色さは際立っていた。
おれはテレビ画面の左下にポストイットを貼って審査員の表情が見えないようにしていたので、7人の審査員がどんな反応を見せたのかは知らない。
しかし観客の反応からだけでも、スリムクラブが異質な波を起こしたのは明らかだった。笑い声の半分が、どよもしなのだ。人は、理解を超える凄味に触れたとき、笑うかわりにざわめくのである。無意識に息を吐くだけで、声帯を動かすことすら忘れてしまうのだ。今日のスリムクラブの最初のネタに対する客席の反応は、まさにそれであった。
今回のM-1で興味深かったのは、最終決戦に勝ち進んだ3組が3組とも、1席目と同じネタをかけ点だ。
去年までは、裏で規則があるんじゃないかと思えるほどに、どのコンビも1席目と2席目のネタの色合いを変えていた。ところが今回にかぎり、どのコンビも1席目と同じ色合い、同じ構成のネタを最終決戦に持ち込んだ。芸の幅を問うのではなく、今日の時点でいちばんおもしろいと信じる武器を「おれたちはこれだ!」と両手でぐいと押しつけてみせたように感じた。
最終決戦のネタがただの反復にしか見えなかったパンクブーブーに一票も投じられなかったのには、腐ってもM-1審査員と思った。
マンザイというジャンルに対する明確なイメージができていて、それを疑うことなく、ジャンルのなかで点数を稼ぐことに力を注ぐパンクブーブー。マンザイの枠をはみだす運動を続けているうちに、それがまたひとつのマンザイの型になってしまうという矛盾と向き合い続ける笑い飯。ジャンルなんてはなから感じていないかのように見えるスリムクラブ。マンザイに対するスタンスがはっきりと色分けされている3組が、それぞれの信じる型にすがり、ぶつけてきた。この意味で、じつに見応えのある最終回だった。
「今日いちばんおもしろい奴を決める」というお題目に従うなら、優勝はスリムクラブであるべきだった。
しかし、連続ドラマの主役への功労賞のぶんだけ、票は笑い飯に寄った。この結果について、浪花節的であると批判する気はまったくない。おれだって笑い飯に優勝してほしかったのだから。そもそも、明らかに制限時間をオーバーしたネタに対して主催者が満点を与えた去年の時点で、厳正な審査などないということは明らかになっている。それ以前に、笑いに点をつけることじたいが無理な試みであることを、審査員たちは熟知している。
今日いちばんおもしろかったのは、まちがいなくスリムクラブだ。そのことを日本でもっとも強く感じているのは、おそらく笑い飯のふたりだろう。
笑い飯は、9大会連続で負け続けてきたように言われるが、じつはいちども負けていないと思う。9年にわたって期待の糸車が回り続けたことを思えば、笑い飯はつねに勝者だった。
ところが念願と言われるタイトルを手にした今回、笑い飯は初めて負けた。人生ってのは、よくできてる。
来年、スリムクラブへの仕事のオファーは爆発的に増えるだろう。
しかし、おれは他の芸人に混ざって賑やかしの雑音の一部になるスリムクラブを見たくない。転がし上手の仕切り屋のおもちゃにもなってほしくない。また、あのふたりはマスコミへの露出が増えることで光を増すタイプとも思えない。
あえて言うなら、バラエティーよりは芝居に出るふたりが見たい。
さらに勝手で無責任なことを言えば、ふたりには今日かぎりで消えてほしいとすら思う。「あの日、おれを大笑いさせてくれたスリムクラブって、ほんとは夢だったんじゃないか」。
M-1の最終回。そんな幻の夜。
第43回 万年筆に関する本を買い集めるうちに、けっこうな数になった。備忘録の役目も兼ねて、1冊ずつまとめておこう。
『復刻版 萬年筆の印象と図解カタログ』
発行:丸善株式会社 1989年2月10日
編者: 丸善株式会社
定価:2000円
万年筆の本を一冊ずつ紹介するなら、『世界の万年筆ブランド』か『趣味の文具箱』、あるいは『万年筆の達人』あたりから始めるのがわかりやすいし、ふつうの感覚だろうと思う。
しかしおれのへそは曲がっているからこれを選んだ。
『復刻版 萬年筆の印象と図解カタログ』である。
復刻された版、すなわちオリジナルは明治45年6月30日発行としてある。西暦に直せば1912年。いまから98年前のことで、当時の定価は30銭だったようだ。
復刻版は1989年2月発行……このふたつの発行日を並べてみて、ピンと来る人がどのくらいいるだろう。おれなどは「じつにおもしろい符合があったものだ」とほくそ笑んでしまった。
種を明かすと、どちらの発行日も改元にきわめて近いのである。
オリジナルが発行された明治45年は大正元年でもあり、6月30日は改元のちょうど1ヵ月前だ。
かたや復刻版が出た1989年は、昭和64年が平成元年に名を変えた年であり、発行日の2月10日は改元の1ヵ月と3日後にあたる。
ひとつの時代が幕を閉じようとするときに出版された本が、玄孫にあたる時代の産声が響くなかで復刻された。
両脚をおもいきり広げ、左右のつま先をひっかけてようやっと4代をまたいだ本。こう考えるだけでも楽しいじゃないか。
おれはこの本を100円で落札した。肉まんより安い。どんなにつまらない本が届いても怒ってはいけない金額だ。なもんで、本が届いたときにも「そういや落札したんだっけ」程度の気持ちだったのだが、実物を見て唸ってしまった。
まず、本のコンディションがたいへんよかった。ケースにかけられた腰巻にわずかなたわみがあるほかは、新品として新刊書店の棚に並んでいても通用する状態だった。
「こりゃ得したね」とページを開き、100円で落札したことが申し訳なくなった。これなら5000円出しても惜しくない。
この本は、万、いや、萬年筆文化を盛りたてようとする丸善によって企画・編集・発行されたものだ。
約100年後のいまでさえ、万年筆は趣味としてマイナーな部類に属していると思うが、当時にあってはなおさらのことで、道楽以外のなにものでもなかったはずだ。そんな状況は、収録されている文章にも表れている。
『萬年筆!?。フン、絹のハンケチで洟をかむのは、一寸、田舎漢を驚かすには足ろうが、幾度も洗っては、又使ふといふやうな根性は、憚りながら、宵越しの金を使はないといふ吾々江戸ッ子には、持合せがない、』と、エラク江戸がッた男もあつたが、一應は多とすべき申分なれど、再應の吟味を遂げるに於ては、蓋し、宵越しの金と共に、朝出来の銭も無かつたに相違なきなり。
(高島米峰『洟紙とペン』より抜粋)
「!?」のあとに「。」が来るあたりに時代を感じるが、この和洋折衷の匂いこそが、当時の萬年筆そのものから発せられているように感じる。
この本に寄稿しているような"西洋かぶれの新しもの好き"がいてくれなかったら、今日のおれは万年筆で字を書くことができていなかったかもしれない。
これは、まごうことなき"万年筆本"であるが、つい笑ってしまうのが、現代の"万年筆本"の作りが、1世紀前にを完成しちまっている点だ。
『萬年筆の印象と図解』。書名が無駄なく表しているように、本の内容は2つの部分から成っている。万年筆を嗜む人の文章と、万年筆についての解説である。
解説のパートでは、図版をふんだんに使って万年筆の構造を説明し、当時にあって主要とされていたであろうブランドの品がカタログ的に並べられている。
筆頭はオノトで、オリオン、ウォーターマン、ペリカン、ゼニス、カウスと続く。モンブランの設立は1906年だから、載っていないのは当然のことだ。
"印象"の部分には、夏目漱石の随筆(『余と萬年筆』)や北原白秋の詩("Onoto")も載っているが、おれなどが名前を知らないような筆者の文章がおもしろい。
万年筆の構造とカタログ、そして愛好家の意見。これは21世紀の万年筆本のほとんどに踏襲されている構成である。
意地悪な見かたをすれば、100年かけて布教を続けてきた万年筆は、いまだに道楽の池から身を上げきることができていない、ってことだ。
ま、そのへんも含めて万年筆が好きなんだけどね。
ちょっと高いコーヒーを飲ませるような、落ちついた喫茶店で読むには、万年筆本の枠を外し、全ジャンルを対象としても最適な一冊だと思う。
第42回 字のうまさを数字で表すことには無理がある。その無理を承知であれこれ考えてみた。
パイロットのペン習字通信講座の受講を決めたとき、つまり7ヵ月まえのおれはこんなふうに考えていた。
「ペン習字を学ぶことで、毎月1割くらい上達できれば御の字だ」と。
当時のおれが、深く考えることなく、なんとなく感じたことだ。でも、甘いね。大甘だぞ、4月のおれ。毎月1割なんて、いま思えばとんでもない高望みであった。
スタート時点の字のうまさ(へたさ)を1.00とした場合、毎月1割ずつ上達すると、1年後には……という計算結果を表にしてみよう。
なんと、1年後には3倍以上も字がうまくなることになる。
こりゃいくらなんでも欲張り過ぎていた。と思うと同時に、字のうまさを数字で量ることの無理も感じた。
身長や体重であれば、数字を基準に「奴は俺の1.5倍でかい」ということはできる。陸上競技の記録であれば、数字は信頼すべき指標となる。ホームランを40本打つバッターを「20本の選手の倍打つ」と言ったとしても嘘にはならない。
しかし字のうまさを数字で表そうとすると、どうもしっくりこない。
「あの人はおれより3倍は字がうまい」と言えば、なんとなくの雰囲気は伝わるだろうが、「じゃあ3倍ってどのくらい?」と聞かれて答えられる人はいないだろう。
文字と数字の相性がいまいちなのは、字のうまさを物理的に計測することが難しいからだ。
たとえば、手本となる字と自分の字をサイズを合わせて重ね、その差の面積を計算し、数値が小さければ字がうまいことになるかといえば、答えはノーだろう。字で大事なのはバランスであり、手本との物理的な面積差だけでは判断できないのだ。
そもそも手本の字のなにをもって"うまい"とするのか? すでにこの時点で、数字が入り込む余地はそうとう狭い。
「うまく見える字は横線が6度の右上がり」とか、「漢字とひらがなとカタカナの大きさは10:8:7」といった、数字を用いたコツならいくつかある。しかしそれはあくまで「統計的なコツ」を数字で表しただけで、文字そのものを数字で評価することは、じつに難しい。
たとえばパイロットの講座では、月々の添削課題が100点満点で採点される。パイロットは点数について「絶対評価である」こと以外の詳細を明らかにしていないが、そもそも詳細などあってないようなものだろうな、とおれは見ている。
ではこの点数を信用していないかといえば、そんなこともない。70点よりは80点、80点よりは85点のほうがいいに決まってる。でも採点する講師だって人間だから、82点と83点の差は感覚でしかないだろうし、見る人によって順位が逆になることだってあるだろうと思っている。
講師の経験と目を愚直に信じ、「前月より1点でもよい点のつく字が書けますように」と願いながら練習すればよい。ただそれだけのものだと思っている。
つまり、文字の評価に数字を用いることじたいには、たいした意味はないのだ。と、いったんは承知しながら、あとにつく単位が点であれ円であれ、長年にわたって数字で評価されることに慣れてしまった身としては、どうしても数字にすがりたくなる気持ちが残る。そして数字を使った説明に安心感や信頼感をおぼえてしまうのも事実なのだ。
そんなことを考えながら日々の練習を続けているなかで、twitterでこんな言葉に出会った。
「人は、一日0.2%ずつ毎日成長していけば
1年後には約2倍に成長している計算となる。
毎日5%成長していけと言われれば無理を
感じても、0.2%でいいと言われれば
なんだか出来る気がしてこないだろうか
もし、毎日1%成長し続けた場合は
その5倍も、だ」
0.2%といえば1000分の2である。約分すれば500分の1だ。1日という時間が1年のなかで占める長さよりも小さな数字。10分間における1秒の重みとたいして変わらない。
そんなちっぽけな数字だから、昨日よりも0.2%成長できたところで、どこが成長できたのかを自覚するのは難しいだろう。
それでも倦むことなく0.2%を積み重ねてゆくなら、1年後には2倍になるなんてすごいじゃないか。好きな落語家の言葉に「努力とは馬鹿に与えた夢である」ってのがあるが、この夢、捨てたものでもないぞ。
ひょっとして計算が間違っているのかと勘繰り、自分でも試してみた。ついでに、1日0.1%ずつ成長した場合についても計算した。結果はこうだ。
本当だった。
様々な諺を持ち出すまでもなく、ほんのすこしの歩みを重ねれば遠くに届く。おれのような自分の成長に不安を感じる者にとって、これはうれしい。数字のトリック、いやレトリックだったとしても、うれしい。
同時に、大きな戒めも孕んでいる。「積み重ねることをやめれば結果は変わらん」ってことだ。
おれはペン習字に関する本をすこしずつ買い揃えているが、どの本にもかならず書いてあることがある。表現は違っても、こんなことだ。
「週に一度、10日に一度まとめて練習するのではなく、たとえ10分でも5分でも、毎日練習を続けてください」。
この言葉が書かれている意味がようやくわかった気がする。毎日続けること。それだけが、昨日の0.1%を明日につなぐ唯一の方法なんだ。言いかたを変えれば、「継続のみが今日の積を明日の被乗数とする」ってとこか。かっこいー。
さ、練習しよっと。
第41回 後編:ブロッターと3本の万年筆のこと。
前編は → こちら
7.ブロッター
ブロッターなる名称と正確な用途を知ったのは最近だが、おれは小さなころからそれを見ていた。
実家は商売をしていた。店の奥にあるレジ台の、小切手用のごっつい数字スタンパーの横が、にそれの指定席だった。形が黒板消しと似ていて、子供の目には野暮ったいものと映った。
40年経って万年筆に興味を抱くようになると、くすんでいた黒板消しもどきの記憶がとたんに輝きだした。
「時代のついた、実用一点張りのあのブロッターをいまこそ使いたい」。そう思って実家に聞いてみた。すでに20年以上もまえに店をたたんじまっていたから期待は薄かったが、実家の姉に問い合わせてみた。
「ブロッターって名前らしいんだけど、インクを吸い取る黒板消しに似たあれ、まだあるかな」。すぐさま「ないねー」と返ってきた。まあ、そうだろうね。
いま買うことのできるブロッターは、木製のものとプラスチック製のものに大別されるようだ。風情を楽しむのであれば、木製に真鍮のグリップがついたもので決まりなのだが、おれが選んだのはプラスチック製のほうだ。
最大の理由は値段。加えて、実用性の面でもプラスチック製のほうが上なのでは、と思えた。
で、いま机の上にあるのこれだ。メーカー名はクラウン、商品名は吸取器。じつに素っ気ない。品番はCR-SE145-Rとなっている。定価800円である。
おれのペン習字の練習法はスキャナーを多用するものだ。自分で書いた字をスキャンし、画像処理ソフトで手本と重ね合わせて比較する(セルフ添削システム。ただし現在はこの記事よりも手順が簡略化されている)。
インクが乾いていないと、スキャナーのガラスが汚れてしまう。万年筆のインクは水溶性だから拭けば汚れは取れるが、はなから汚さないほうがいいに決まってる。
ブロッターの導入は大正解だった。
これまではティッシュペーパーを丸めて紙に押し当てることで余分なインクを吸っていたが、ブロッターを使うようになってからあきらかに効率が上がった。
おれのような、万年筆の字を頻繁にスキャンする人間にとって、ブロッターは必需品である、と言ってしまおう。そんな人間、日本に100人くらいしかいないと思うけど。
クラウンのブロッターを選んだいちばん大きな理由は、値段が安いから。国内のメーカーではコレクトが有名で、雑誌にも紹介されることが多いようだが、 ほんのすこしだけ高いのである。
もうひとつ、コレクトのプラスチック製ブロッターのデザインが「惜しい」のだ。曲線を強調したフォルムは、もうすこしでかっこよくなるのに、「頓知が効きすぎちゃいましたね」って感じを受ける。 同じコレクトでも木製ブロッターのほうは「まさにこれがブロッターの正統派」といった形。おれが買ったクラウン製もほぼ同じ形だが、見た目はやっぱり木製のほうがいいね、といまでも思う。
ブロッターは本体だけでは使えない。吸取紙が必要だ。
おれは運のいいことに吸取紙を買う必要がなかった。以前ネットオークションで万年筆(パイロットのミュー)を落札したときに、 おまけで吸取紙がついてきたのだ。
吸取紙には東京ユニバーサルK.K.と書いてはあるが、「良質吸取紙」の文字を見るかぎり中国製らしい。いまどきの日本の企業ならわざわざ「良質」なんて書かないだろうし。
ブロッターを使い始める前に疑問だったのが、連続で使っても大丈夫かってこと。吸取紙に移ったインクが、続けて使うことで筆記用の紙にスタンプされてしまうのでは? って不安だ。
しかしそれは杞憂だったようで、常識的な使いかたをしているぶんには問題はない。また、吸取紙は1枚でけっこう長く使えるものらしく、紙全体にインクの色がついてしまったとしても「まだ吸えるならだいじょうぶ」らしい。おれくらいの使いかたなら、1枚で3〜4ヵ月はもちそうである。
ところで。
英語のblotには「(文字など)を(吸取紙で)乾かす」というそのものずばりの意味もあるのだが、もともとは「しみ、汚れ」「汚す、にじむ」といった意味で、あまりよいイメージの単語ではないようだ。
さらにerがついてblotterとなると「吸取紙、吸取器」のほかに、俗語で「酔いどれ」の意味もある。吸い取るようにアルコールをくらうイメージかな。
アクセントはブ「ロ」ッターと、前のほうにある。最近はやりの日本語だと無抑揚になっていそうだけど、おれはちゃんと発音しよう。
8.WALITYの透明軸万年筆
万年筆に興味をもっていろいろと調べるうちに、『趣味の文具箱』には載らないようなメーカーが存在することを知った。伊東屋や丸善では売られることのない万年筆が、世界にはたくさん存在するのだ。
ネットオークションで落札したPICASSOが当りだったことに味をしめて入手したのが、これだ。
メーカーはWALITYだが、ウォルティーなのかウォリティーなのか、はたまたヴァリティーか、読みかたからしてわからない。品名も不明だ。キャップの刻印をよく見ると「REGD」と彫ってあるので、それが名前かもしれない。
(軸内のインクはウォーターマンのグリーン)
この写真を見て、万年筆通ならピンとくるものがあるだろう。そう、フランスのメーカー・レシーフのクリスタル万年筆とそっくりなのだ。
ぱっと見てわかる本家とのちがいは、本家の天冠がクリップと一体の金属なのに対し、こちらは本体と同色の樹脂である点。好みによることだが、おれはWALITYの天冠のほうが好きだ。
WALITYはインドの会社だが、かつてはレシーフの下請けだったらしい。契約終了後、こっそり保管していた金型を使ってこの万年筆を作っている、と事情通が言っていた。とても信憑性のある話だと思う。インド人、たくましいなあ。
おれはこの万年筆を1580円で落札した。本家のおよそ5分の1の値段だ。
オリジナルを知らないので書き味も4分の1かどうかはわからないが、こいつの5倍も書き味のよい万年筆があるなら、5万円払ってもいいと思う。それほど書きやすい万年筆である。
ペン先は鉄で、柔らかくはないが堅すぎることもない。軸の太さとのバランスがちょうどよく、廉価なこともあって遠慮なく字が書ける。
「意外といい」どころではなく、おれにとっては「いいよこれ!」な万年筆だ。
インク吸入はスポイト式。主軸を9回転ほどまわすと透明の胴軸部分だけが外れる。ここにスポイトでインクをぶち込むという、男らしくも単純な機構である。
胴軸=インクタンクというシンプルさが奏功して、通常の万年筆よりも多くのインクが入る。理屈からすれば、インクそのものの圧力によってフローもよくなるわけだ。実際に文を書いてみると、たしかに悪くない。
おれにとってこれが初めての透明軸万年筆だ。10年ほどまえがピークだっただろうか、スケルトン(トランスルーセント)製品をもてはやす風潮に嫌気がさしたのと、どうにも安っぽい印象があって、この手のものを敬遠していた。
ところが実際に使ってみたら便利だった。つねにインクの残量が明らかになっていることの安心感が、想像以上に大きかったのである。
万年筆としての作りがしっかりしていて、レシーフ流用説の説得力を増している。ところがWALITYのオリジナル部分であるロゴの刻印となると、とたんに仕事が雑になる。REGDの文字を判読するのにずいぶん苦労した。
カラーバリエーションも本家顔負けの充実ぶりで、「全色まとめていくら」といった叩き売り行われることもあるようだ。
いかにもパチ物っぽいが、実力のある万年筆である。
9.KAIGELU K226
金属軸で細身の「ストンとした」万年筆に弱い。
まさにそのツボを突かれた思いがして、入札競争に参加してしまったのがこれだ。ま、10円ずつ上げていくという遊びのようなバトルで、落札価格は510円だったけど。
510円は、撮影はしなかったがコンバーターつきの値段だ。コンバーターにもカンガルーをかたどったロゴマークが入っている。
メーカー名はカイゲル。2回繰り返してトットの目、と加えたくなるような名前だが、カンガルーのことらしい。たやすく連想されるようにオーストラリアのメーカーなのだが、どこかに中国の匂いもする。この匂いについてはおれが勝手に嗅いでるだけだが。
とにかく形が気に入っているので、持っているだけでもうれしい。キャップの2ヵ所にカンガルーを模したマークがあり、ふつうならそれによって安っぽくなってしまうところが、この万年筆では気にならない。それどころか、愛嬌があってかわいいとすら感じる。
ペン先は鉄製だが、銀の地に金色の刻印がなかなかお見事。本体に見合った細身のフォルムもかっこいい。
書き味はしっかりしていて、細いから頼りないということもない。510円は安すぎるでしょ、と思ったが、定価でも1680円なのだそうだ。
万年筆の値段、わからんなあ。
10.ペリカン P560
ペリカンといえば、モンブランと双璧を成す巨頭である。どっちも他企業の傘下になっちゃって、ペリカンの本社はスイスだけど、おれの心のなかの双璧であることに変わりはない。
「いつかはM800がほしいものよ」と思いつつ、なかなか機会が訪れない。機会と書いて金と読む。
ペリカンの万年筆の型番は、Mで始まるものがMechanik(=機構)の略で吸入式、Pで始まるものはPatronen(=筒)の略でカートリッジ式だ。ということくらいは勉強しましたよ、おれも。
正直なところ、おれがペリカンに興味を持っているのは、Mのほうのラインアップだ。しかし、こんなデザインのものを見つけてしまったら、入札せずにおられるだろうか。いや、できん。
と、つい反語を形成してしまうくらいのひと目ぼれをしてしまったのがこいつだ。ネットオークションで、なかなか熱い入札競争の末に4100円で落札した。
Pだから機構はカートリッジ(またはコンバーター)式なのだが、サイズの合うものを持っていないので、いまはつけペン方式で使っている。
本体の軸色はうすいゴールドで、平面が強調されたペン先の形がおもしろい。こう見えても鉄ではなくて14金。字幅はMで、なかなか太い字が書ける。
首軸は金属ではなく樹脂製なので軽く、実際に手にしてみると少々安っぽい感じを受ける。使ってるうちにすぐ慣れるだろうけどね。ここが樹脂製であることが全体のバランスにも影響しており、リアヘビーってんですか、頭が軽く感じる。
現行のペリカン製品では1羽のところ、天冠のマークには子ペリカンが2羽いる。
1羽だろうと2羽だろうと、ペリカンマークのついた万年筆に憧れがあったので、いてくれるだけでうれしいのである。
本体に比べてクリップがごつい印象を受けるが、スプリング式でかっちりしたホールド感があるので、気に入っている。と言ったところで、胸ポケットに挿すことなんてないんだけどね。
出品者からの情報によるとP560は1980年代のモデルで、定価は18000円だったそうだ。おれが落札したものは試筆の形跡すらないデッドストック品。いい買い物だったと思っている。
似たタイプのフォルムなので、カイゲルとペリカンを並べてみた。
細さはおなじくらいで、ペリカンのほうがすこし長い。
ついでに今回紹介した3本で落書きをしてみた。たてと横の平行線を引くのは忘れました。見てわかるように、ペリカンの字がもっとも太い。
好みの問題だが、3本のなかでいちばん書きやすいのはいまのところWARITYのパチ物万年筆だった。
やはり貧乏手なのか、おれ。
字形について、今回はノーコメント。
第40回 筆記関係の小物が時間とともに着々と増えている。万年筆も増えている。最近おれが入手したものを中心にまとめておこう。まず前編として、小物編。
8月までに購入したものは
↓
こちら(前編)
と、
↓
こちら(後編)
「書く」関連の小物から。
1.地球儀型ペーパーウェイト
ネットオークションで購入したものだ。地球儀なので球体だが、真球だとごろんごろとん転がってしまうので南極のあたりが平らに切られ、そこにフェルトが貼ってある。あ、いまの「そこに」は駄洒落ね。
サイズは直径約8センチ、重量422グラム。けっこう重い。素材は石なので、鈍器としての活用も可能だ。
おれが入手したのは海の部分が黒の、渋いカラーリングのものだ。しかし同じデザインでも色違いが多くあるようて、赤、青、、白、緑の存在を確認している。
色とりどりの石を組み合わせて球形に研磨したものだが、精度はなかなか高く、表面もすべすべである。日本は水色の石で、本州しかないのはご愛嬌。
鑑賞用としては満足できるデキである。しかしペン習字の練習をするときに文鎮として使うにはすこしばかり難がある。というのも、球形なのでどう置いても邪魔になってしまうから。そんなことは買う前に気づけよ、って話ですがね。
2.クリスタルペーパーウェイト
こちらはなにかのイベントでいただいたもの。中に埋め込まれたプレートにはこう記されている。
METAL GEAR SOLID2
SONS OF LIBERTY
WORLD PREMIERE
MAY 10,2000
書いてある以上、10年まえの5月にゲームソフトの発表会でいただいたことを疑う余地はない。しかし、おれには『メタルギアソリッド2』の発表会に行った記憶がまったくないのだ。残っているのは物的証拠であるこのペーパーウェイトだけ。
サイズは、たて横が7.5センチの正方形で、厚さが2.4センチ。重さは156グラムなので、先の地球儀ペーパーウェイトの3分の1といったところ。文鎮としては形状こそ地球儀よりも使いやすいが、ちと軽すぎる。ぴったりの形と重さってのはなかなかないもんだ。
ペーパーウェイトはこの2つのほかに金属製で木の葉形のものを持っていて、それがいちばん使いやすい。
さらにもうひとつ、『タクティクスオウガ』というゲームの発売を記念してこっそり配られた"デネブのかぼちゃ"という名のクリスタルペーパーウェイトも持っているはずなのだが、いくら探しても出てこない。
ゲームそのものにも思い出があるし、文鎮としても使いやすかったので、とても残念だ。
3.アピカ学習帳 じゆうちょう
これもネットオークションで落札したものだ。12冊セットで200円だったから、1冊あたり約17円である。安い、安すぎる。
こどもの頃からおれは「小さいもの」が好きだった。ただ小さいだけのものより、ミニチュアが好きだった。つまりオリジナルを正確な比率で縮小したもの。さらにミニチュアでありながら実際に使えたら最高だ。その意味では、じつにおれ好みのノートである。
とにかく小さい。何判というのかわからないが、似たものを探せば生徒手帳か。たて10.4×横7.5センチ。面積はA4サイズの8分の1ほどである。実用品として使える最小のノートと言ってもよいだろう。
どう使うかの具体的なイメージなど持たず、「なんだか楽しそう」という理由だけで落札した。たくさん持っていてもしかたないので、2冊くらい残して娘にプレゼントしようかと思う。
4.スタンプ3種類
自分だけのオリジナルデザインでシーリングワックスや焼きゴテを作ったら楽しいだろうな。そう思って実際に見積もりをとってみると、生活が圧迫される値段だった。無理して注文したところで、頻繁に使うものでもないから、宝の持ち腐れになっちまいそうだ。
それでもオリジナル印がほしい気持ちがくすぶり続けたので、スタンプを作ってみた。
ナゾベームをデザインしたものを図と地を逆転させて2パターン。
さらに、「田」1文字だけのスタンプをひとつ。このところ気に入って自分のシンボルとして使っているマークだ。右上の区画に色を塗ることで、視覚の4分の1が欠けたいまのおれを表す形だ。
製作をお願いしたのは大谷印舗というオンラインショップだ。
図案をこちらから送る必要があるので手続きは少々面倒だったが、目先の利益ぬきで相談に乗ってくれる良心的な店だった。
価格はスタンプ3つで1690円。よほどのことがないかぎり一生使えることを考えると、ずいぶん安い買い物だ。
5.万年筆ケース
万年筆を1本だけ持ち歩くのに使えるような、便利でおれらしい容れ物はないだろうか。と、けっこうまえから考えていた。
ふつうなら1本用のペンシースに落ち着くところだが、あいにくおれが気に入った商品はつねに品切れだ。それなら他の用途で作られたものを代用しよう。こう考えた末の結論がこれ。
正式名称はフジサワ ウッドシガーケースA(チャーチルサイズ)というらしい。540円だった。
なんのことはない、1本用の木製葉巻ケースである。
写真ではわかりにくいが、ケースに入れてあるのはウォーターマン ルマン100 オペラである。おれが持っている万年筆のなかでは大ぶりなほうだ。モンブラン146を入れても少しゆとりがあるので、将来149を入手したときにも活躍してくれるだろう。
運搬中に筒のなかで万年筆が暴れて傷つくのを避けるために、蓋と底にスポンジを詰めてある。
思い出したときにつやふきんで拭いているので、なかなかよい色合いになってきた。
6.2本のボールペン
万年筆に興味を抱くようになってからも、ボールペンに対しての態度は冷たかったように思う。利便性ならボールペンのほうがずっと上だと認めつつ、便利なぶんだけないがしろにしていた感がある。
そんなわけだから、おれのものになってしまったボールペンは不幸である。しかし、そのなかでも例外的に大事にされてきたのが、これだ。
名前もメーカーもわからないが、とにかく木軸のボールペンである。本当は姉の持ちものなのに、借りて使っているうちにおれの握り癖がついてしまい、「あげる」となった。もちろん「ありがとう」といただいた。
サイズは長さ15.5センチ。グリップのいちばん太いところの幅が1.9センチなので、モンブラン149のインク窓の部分とほぼ同じだ。重さは10グラと、かなり軽い。
グリップ部分は、もとは白木だったのに、おれの指の脂とつやふきんでずいぶん色がついた。かなり柔らかい木が使われているので、しっくりとしたホールド感が心地よい。
しかし全体の軽さのせいか、つい筆圧が高くなってしまうのが欠点といえば欠点である。
そこで「重めのボールペンが1本あってもいいな」と思って手に入れたのがこちら。
入手方法は例によってネットオークションである。上の木軸ボールペンと同じく、正しい名前はわからない。オークションでは欧州ボールペンとなっていた。
定価は6090円らしいのだが、450円で落札した。新品なのに、である。素直に考えれば92%引きとなるが、「定価なんて赤い二重線で消す見せ値のようなものだろうから、 たいした品ではないだろう」とたかをくくっていた。
しかし、ところが、お客さん。実物を手にしてみると、いいんだなこれが。
サイズは、ペン先を出した状態で長さが13.5センチ、軸の太さは約1センチ。重さは36グラムあって、この重量が字を書くときの"頼り甲斐"になる。やや寝かせた角度で、軽い筆圧で書いてもだいじょうぶ、という気にさせてくれるのだ。
ボディーは出品者によれば"特殊カーボン製"とのことだが、2種類の色でそれぞれのパターンを織り込んだあたりが"特殊"らしい。
たしかに実物を見ると、濃いピンクのV字パターンと、銀に近い色の縄文が立体的に重なり、眺めて飽きることがない。写真では中学生女子に似合いそうな柄に見えるが、実物はずいぶん落ち着いたデザインである。
字やロゴマークが本体のどこにも刻印されていない。どうやら、このボールペンを作っているメーカーに「パターン以外は無地で」と注文したらしい。これ、なかなかの英断だと思う。
機構はツイスト式というらしい。クリップリングより上の部分を右にまわすと、ペン先が螺旋状に回転しながら出てくる。左にまわせば引っ込み、さらにまわし続けると上部が本体から分離してペン芯が交換できる状態になる。
じつはボールペン素人のおれはこの仕組みがわからず、ペンを持ったまま数分間悩んだのだった。
おれが落札したのはピンクだが、ほかに赤、青、黄、緑(これは赤と緑のクリスマスっぽいカラーリング)が存在するようだ。
もし450円で買えるなら、全種類ほしいところである。
3本の新入り万年筆については、→ こちら。