ヤノベケンジ「トらやんの大冒険」
アートコートギャラリーでやってるヤノベケンジの展覧会を見てきました。
最近発売された絵本『トらやんの大冒険』の原画展という体裁をとっています。
実は北海道でも見たのですが、展示内容が少しだけ違っています。
北海道では小屋を背中に乗っけた象の立体作品がありましたが、
大阪では、小さい太陽をたくさんぶら下げた亀の作品があります。
これが新作で「ファンタスマゴリア」というそうです。
中心に照明があり、その明滅によって光が透明の太陽や亀の目に反射し、また亀の甲羅に空けられた模様が影となって天井に浮かび上がります。意外にに目を奪われる面白いインスタレーションでした。
他にもミッキー・ザ・ナイトなどが展示されていました。
関西では久々の個展ということで、みなさんもこの機会に足を運んでみてください。
河口龍夫展
行かねばと思いつつなかなか行けなかった、兵庫県立美術館での展覧会を見てきました。
同時開催で名古屋市美でもやってます。
この作家をまとまった形でみたのは初めてでした。
展示された中で気に入ったのは「DARK-BOX」が置いてある部屋です。
そこには「闇」を閉じ込めた金属製の箱が等間隔で整然と並んでいます。
照明は少し暗めで、全室の明かりが煌々とした所からやって来るとスタティックな印象を受けます。
箱は一番古いのが1997年のもので3000年のものもありました。
後者はまだ、闇を封じ込めておらず、箱を締めるねじが横においてあります。
なのでキャプション中に素材として闇が記してあったのは完成した2007年までの分で、
それ以降のものには記されてませんでした。
近い将来の分はそのうち完成するでしょうが、果たして3000年と書かれた箱は無事「DARK‐BOX]となることが出来るのでしょうか?
仮に美術館などに収蔵され、1000年後に誰かが完成させるとして、闇は新しいのに箱は1000年ものの古色を帯びたものというのは面白いと思います。
そしてキャプションには素材に闇が加えられ、制作年が3000年とかかれることになるのです。
単に時間のスケールが大きいというだけでなく、そういった時間の齟齬がこの作品の魅力だと感じました。
稲垣智子「嘔吐」展
現在、大阪の現美センターでやっている「嘔吐」を見てきました。
展示室Aを使った映像をメインとしたインスタレーション作品です。
そこそこ広い空間なんですが、ほとんど物を置かずに
部屋の隅にプロジェクターで映像を壁に投影してました。
そして、その一角を区切るように、映像内で使われていた衣服が一列に並べられています。
映像は白の背景で女性が嘔吐するというものです。
女性が何か硬質の色のついた物を吐き、
それと同時に女性には衣服が付け加えられていきます。
吐瀉物と衣服に現れている対立を見て取ると
体から出て行く/体に付け加わる
硬い/柔らかい
無機的/有機的
色彩/白の単色
音/無音
などが挙げられます。ただし、どちらも人工的なもののようなので、
完全に相容れないものとしてみていいのかは分かりません。
というのも、インタビューを読むと「嘔吐」の別の見方を提示するためのようなのです。ジェンダー的な含みはあると思うのですが、あまり単純に読み解いてはいけないように見うけられました。(7日まで)
哲学的玩具
今日は大谷でやってる藤本由紀夫展に行ってきました。
展示作品は「美術館の遠足」で見てきたものが多く、
回顧展のような展示でした。
国際美での展示は触れる作品はないのですが、こちらは触れるものが多いです。
音が出るのがサウンド・オブジェの特徴ではありますが、
オルゴールの小ささというのも特徴的だと思います。
実際に手に持ったりして、ねじを回す際の距離や感触は
親近感を感じさせるものでしょう。
実際に見る人を圧倒するような大型の作品はありません。
一番大きいので、アクリル板にオルゴールを取り付けた2mほどの作品が
ありました。しかし、これは透明なので、それほど存在感を主張しません。
比較的小型で、目線が上にはいかない物が大半です。
そういう側面も「玩具」的と言えるでしょう。
単に思考で遊ぶのではなく、手を使いながら考える。
面白いアートのおもちゃでした。
三館同時開催なので、次は和歌山に行かねばなりません。
いったことのない美術館ですが、遠いので一日仕事になるでしょう。
気合い、入れてきます。
ブログはじめます
このブログでは、読んだ本や、見てきた展覧会の感想など、
すこし真面目なことを書こうと思います。
では早速、今日聞いてきた発表について、思ったことを書きたいと思います。
発表内容は、イタリアの美術運動アルテ・ポーヴェラについてでした。気にはなっていた対象ですが、よく知らなかったところなので面白かったです。
発表によると、アルテ・ポーヴェラには定義と実作とのズレがあり、また時代を下るとそれらも変容していたということです。
定義からはみ出すものがあるというのは、ままあることですけれど、
アルテ・ポーヴェラの場合、その一因には、その定義が芸術家が出したものではなく、
批評家チェラントがギャラリー所属のアーティストたちの作品から事後的、演繹的に
導き出したところにあるのかなと思いました。
例えば他のイズムで、芸術家が宣言書を作ったりして、制作をしていた場合と比べると、アルテ・ポーヴェラの場合は「貧しさ」という概念がどれほど正確に共有されていたのかは疑問の残るところではあります。
だから当初からズレが大きかったのではないかと。
まあ、推測ですが。
今後の展開もチェキです。