成熟した大人とは

約束された場所で (underground2)

この作品は副題に「underground2」とあるように、村上春樹地下鉄サリン事件で被害を受けた人たちにインタビューした作品『アンダーグラウンド』の姉妹編のような作品です。本作はオウム信者や元信者にインタビューした内容を綴っています。この2作品についての著者村上春樹自身の解説が『雑文集』の中の「『アンダーグラウンド』をめぐって」という章にわりと長めに書かれていて、著者自身の問題意識についてはこれを読むのがよいと思います。
 本書の内容についてはオウムに関わった人たちのそれぞれの人生が語られていて興味深いのですが、私は「あとがき」に村上春樹が書いている文章に納得したので、それについて書こうと思います。オウムの(元)信者たちに「オウム真理教に入信したことを後悔していますか」問いかけたときに、ほぼ全員が口をそろえて「後悔していない」と答えたそうです。村上春樹は「それはどうしてだろう?答えは簡単だ。現世ではまず手に入れることのできない純粋な価値がたしかにそこには存在していたからだ。」と言っています。また、「残念なことだが、現実性を欠いた言葉や論理は、現実性を含んだ(それ故にいちいち夾雑物を重石のようにひきずって行動しなくてはならない)言葉や論理よりも往々にして強い力を持つからだ。」とも語っています。『雑文集』ではこの話をさらに展開して、物語の力について語っており、読み応えがあります。オウム(元)信者たちは優秀な人が多く、高学歴のエリートが多いのですが、小説の類をほとんど読んでいないと村上春樹は指摘しています。本書でも小説は読めないと語るオウム信者が出てきます。村上春樹は物語に親しむことが、オウム真理教のようなカルトに深く入り込んでしまわないために大切だと語っています。麻原彰晃は確かにストーリーテラーとしての才能があり、多くの人を引きつけた。しかしそれは閉じた物語であって、麻原が意図した読みしかできない物語であった、と村上春樹は言っています。優れた物語は開かれており、読む者によって、多様な読みが可能であり、その物語世界に入って、外に出た時に、現実世界の見方が変わるような体験をさせてくれるが、現実世界と物語世界は違うものなんだと読者は分かっています。優れた物語には必ず読後にも謎が残るし、再読した時には前とは違うことに気づいたりします。自分の年齢や境遇が変われば違う答えが引き出されてきます。こうした読み物を「読めない」オウム(元)信者たちの硬直した正しさ、真理というものには、ある意味の幼さがあるように思います。しかしそれゆえに力強く、純粋です。大人になるということは、決着のつかない曖昧さを飲み込みながら生きるということかもしれません。筆者の言う「夾雑物を重石をひきずって」ということです。それを拒絶して純粋に生きようとするのは、一見清らかなようですが、何か無責任な感じがします。池波正太郎の『鬼平犯科帳』の中に「人間というのは妙な生きものよ。悪いことをしながら善いことをし、善いことをしながら悪事を働く。」とありますが、心に染みる言葉です。善悪をはっきり付けられないことに関わっていくというのは、自分自身も汚れる覚悟を持たなくてはいけません。結局オウム(元)信者たちは、そういう汚れを引き受けるような生き方をしたくなかったのだろうと思います。『鬼平犯科帳』の主人公「鬼平」こと長谷川平蔵は、罪を裁く側にいながら、しばしば自分も悪に染まることを厭いません。そういえば、村上春樹が愛しているレイモンド・チャンドラーの描く探偵フィリップ・マーロウもほとんど悪人のようでありながら、誠と愛を貫こうとするところがあります。そして黙って自分の胸のうちに納めて去って行くのです。大人だなぁ。 

 

無理と言う前に

                  あなたを諦めない 自殺救済の現場から (フォレストブックス) (Forest・Books)

藤籔庸一 いのちのこ とば社

 藤籔先生は和歌山県白浜町で三段壁から自殺しようとする人たちを保護し、自立まで導いていく活動をしている、キリスト教の牧師です。藤籔先生自身、この白浜で育ち、白浜の教会に通い、牧師として故地に戻ってきたのでした。自殺志願者の救助はもともとこの教会の牧師がしていたことを藤籔先生が引き継ぎ、発展させてきたものです。
 三段壁には教会の電話場号が書かれた看板が出ています。近くの公衆電話には10円玉が藤籔先生の手によって常にいくつか置いてあり、先生は24時間態勢で電話を待っています。
 本書には実際に救助した人たちと共同生活を営みながら自立に向けて援助する藤籔先生や、そのご家族の記録が詳しく(といっても言えないこともたくさんあっただろう)書かれています。この活動の記録に読み応えがあるのはもちろんですが、もう一つ、活動の資金を得るためにNPO法人を立ち上げ、宅配の弁当屋を始め、恒常的に活動を行う営利事業を展開していくくだりも読み応えがあります。
 まず、はじめの共同生活のくだりでは、本当に現代の日本でこんなことができるのだと驚いたというのが率直なところです。見ず知らずの人と共同生活を送る、お金はない、牧師の給料ではとても生活は賄えない、奥さんに子どもができる、弁当屋の運営もなかなかうまくいかない、このような状況でも、神様に祈りながら何とかしていってしまうのが、奇跡を目の当たりにしている感じがします。でもその内容をよく読めば、その奇跡はそこにいる人たちへの信頼と、お互い様の気持ちで支え合う関係性によって、成るべくしてなっていることに気づきます。自殺まで追い込まれる人の背景は様々だと思いますが、この社会でうまく立ち回れないからそうなっているのであって、そういう人たちと共に暮らすというのは、やはりかなり心理的な負担があると思います。小さな子どももいるのにやめた方がよいという周囲の忠告は真っ当な感じがします。しかし本書を読んでいると、藤藪先生の子どもたちは多くの他人と関わることで、タフで優しいお子さんたちに育っている印象を受けます。
 藤籔先生は本書の中で「長屋」のような人間関係という表現を使っていましたが、まさに近代化の中で日本人が「しがらみ」として捨ててきた「地縁」というものが、この藤籔先生の周りには復活しています。しがらみを捨てて、代わりに手に入れたプライバシーはそんなにいいものだったろうか、と改めて反省させられます。藤籔先生の目は高齢で誰とも関わらず、独り暮らしをしている地域の老人たちにも向けられています。また、夏の観光地である白浜町で、夏休みに家で一人ほったらかしになっている子ども達に向けられています。
 日本人はしがらみを捨てて人間関係の希薄な世界に生き、人間関係づくりの下手な人たちになってしまったと思います。そして今、人間関係の難しさに直面して、再びそうしたしがらみの中でタフに生きていくコツを学び直さねばならない時期に来ているようです。しかしプライバシーの権利や、親の子に対する権利など、それらは必要なものではあると思いますが、様々な場面で障壁になっています。最近話題になっている虐待死の事件でも、他者がどこまで家庭の中に介入できるのかが大きな問題となっています。
 藤籔先生は終わりの方で今後の展望として、私立の全寮制の学校を作るというヴィジョンを示しています。親から子を離し、きちんとした生活習慣をつけ、型にはめることでかえって個性を伸ばす教育ができる、地域に密着した学校作りをしたいというヴィジョンだ。その子ども達が地域のお年寄りの見守り活動も担う、そんな学校です。「そんなことは無理だ」という声があちこちから、(私の心からも)漏れ出る。しかし藤籔先生が辿ってきた道を本書で窺い知ると、そうした無理だと思われることを次々と実現しているのも事実です。
 二つ目のことに入りますが、藤籔先生は本当にすごい人だと思いつつも、欠けの多い人だというのも事実です。弁当屋を巡るくだりを読んでいると、そう思います。これは藤籔先生が特に欠けが多いという話ではなく、そうした自分の至らない部分を隠そうとしない人だということです。誰でも得意なことと不得意なことがあるでしょう。でも必要なら不得意なことでもしようとするのが藤籔先生であり、最後までやりきってしまうのがおそらく他の人と違うところです。そこにはやはり神様との約束、神様のヴィジョンというのが働いている、そういう気がします。私たちは得意なことを伸ばして、自分のできることを探そうとします。進学でも、就職でもそういうアドヴァイスをもらうはずです。ところが藤藪先生の場合は、先にヴィジョンが与えられ、とにかく始めるというところから出発です。必要な人材はあとから与えられるはずであるという確信があります。なぜならそれは神の計画だから。
 もちろん、現実的な路線変更などはいくつもあり、現実的なアドヴァイスをしてくれる人や、嫌になって群れから離れていく人もいます。でも藤籔先生も言っていますが、「牧師が理想を語らなくなったら終わり」なのであり、それは学校の教師も同じであると思います。ヴィジョンを示す仕事ができる人は少ない。現実的な課題が与えられてそれに現実的に対処する能力に長けた人たちは日々量産されています。そのメインロードから外れた人ばかりを集めて現実世界でお金を稼ごうとしているのですから、難しいに決まっています。でも、やる。それが神のヴィジョンだから。実にシンプルで力強いリーダーです。こういう事業があり、そのためにはこんな人材が必要だから、そういうことに長けた人を雇おうというのが普通に順序です。ここではすべてがひっくり返っています。でも事業はちゃんと回っています。藤籔先生の活動を見ていると、おかしいのは世界の方ではないか、という気がしてきます。それはある意味、イエス・キリストが生まれた古代のパレスチナでも同じだったのではないでしょうか。みんなが常識と思っていることと逆のことをし続け、十字架に架けられた男。でも彼のことばに耳を傾けると、間違っているのは世の中の方ではと思わされます。しかし人々はずっと「そんなのは理想論だよ」と切り捨ててきたのです。キリストが死んだ後も。
 藤籔先生を見ていると、キリスト者である、特にその福音の伝道者であるということがいかに苛酷で、すべてを神が要求するものであるかがわかります。聖書には「行け。あの者は、異邦人や王たち、またイスラエルの子らにわたしの名を伝えるために、わたしが選んだ器である。わたしの名のためにどんなに苦しまなくてはならないかを、わたしは彼に示そう」(使徒9:15・16)とあります。これはキリスト教徒の迫害者が復活したイエスに出会って回心したあとの場面で出てくることばです。これはパウロが迫害者であったから、罰としてキリストの福音を苦しんで伝えよという意味ではないのでしょう。キリストの福音を伝えるものは、常に世の無理解にさらされ、常にマイノリティとして、神の福音を宣べ伝えなければならないのだという宣言であり、パウロのあとに続くすべての福音宣教者にも同じように言われているのだと思います。

 

否定と肯定

否定と肯定 ホロコーストの真実をめぐる闘い (ハーパーBOOKS)

否定と肯定 ホロコーストの真実をめぐる闘い (ハーパーBOOKS)

 本書は映画『否定と肯定』の原作である。2000年、第二次大戦をテーマにして、ナチスに好意的な内容の著書を数多く出している英国の歴史家、デイヴィッド・アーヴィングがデボラ・E・リップシュタットを相手取ってロンドンの高等学院に告訴状を提出した。リップシュタットの著書『ホロコーストの真実 大量虐殺否定者たちの嘘ともくろみ』で、ホロコースト否定者呼ばわりされて名誉を傷つけられたというのがアーヴィングの主張だった。
 第1部 前奏曲では、アトランタのエモリー大学で現代ユダヤ史とホロコースト学を教える教授であるリップシュタットが、急に裁判に引きずり出されて困惑している様子が描かれている。アメリカでは名誉毀損裁判では原告側に立証責任があるが、イギリスでは被告に立証責任があり、放っておけば、リップシュタットは敗訴してしまうのだ。アーヴィングは歴史資料を意図的に歪曲してホロコーストをなかった、ヒトラーには責任がなかったと主張するような歴史家であり、リップシュタット教授の友人には相手にする必要はないという者もいたが、この裁判には一人リップシュタット教授の立場にとどまらない意味があることがだんだん明らかになってくる。やっかいなのは、アーヴィングが誰も話を聞かないようなペテン師とは思われていないことで、名の知られた歴史家などがアーヴィングを優れた歴史家として認めていることであった。またアーヴィングはこの種の裁判をいくつも起こしており、出版社の中にはこうした裁判に関わり合うのを嫌がって、リップシュタット教授のような良心的な歴史家の著書を出版することを拒否したりする傾向にあったことだ。アーヴィングの訴えを無視して彼を勝訴させてしまうことは、まともな歴史家やそうした歴史認識を持つ良識ある人たちの言論の自由を脅かすものであった。また、リップシュタット教授自身のアイデンティティでもあるユダヤ人への名誉を傷つけるだけでなく、ホロコースト生存者への侮辱を見過ごすことになってしまう。アーヴィングは右翼系の政治団体やネオナチの団体とつながりを持ち、そうした会合での講演でホロコースト生存者たちを侮辱する発言を繰り返している(これらは裁判で次々と明るみに出される)。ホロコースト生存者の腕にある囚人番号の刺青を示しながら、「あなたはこれでいくら稼いだのか?」と発言したりしている。
 リップシュタット教授は裁判に向けてしなければならないことがたくさんあった。優秀な弁護士を見つけること、アーヴィングの著書の誤りを指摘して正しい証拠に基づいて論破できる歴史家を見つけること、莫大な資金を集めること(この裁判は6年に渡って行われた)、裁判中の生活をどうするか、など。これらが多くのユダヤ人や非ユダヤ人の協力を得て実現していく。これはこの裁判の重要性を物語るとともに、リップシュタット教授の業績と人格への敬意によるものであるだろう。
 第2部 裁判が本書の中核を成す部分であり、一番読み応えがある。裁判の記録を元に書かれているため、繰り返しなどもあり、臨場感がある。読んでいくうちにこれは本当に膨大な時間がかかる作業だと気が遠くなりそうだった。この裁判のために何年も資料集めや検証に時間がかけられたのも当然である。多くの出版社が尻込みをして先鋭的な著書を出版したがらないのもわかる気がする。そしてそれこそ歴史修正主義者たちの目的なのだとよくわかる。アーヴィングは敗訴し、莫大な訴訟費用を支払わねばならなくなったが、多くの団体や個人が彼に寄付をしている。また、あれこれと理由をつけて費用の支払いを拒否する。このあたりの様子は第3部 余波に描かれている。
 本書を読みながら、日本でも起こっている歴史修正主義者の活動は無関係ではないと感じる。南京虐殺はなかったとか、日韓併合朝鮮人が望んだことだとか、朝鮮人の強制連行はなかった、慰安婦はいなかったなど根拠のないデマが主張される。そういうのは昔からあったのだが、今はそうした言説が以前よりも力を持ち始めている。検定教科書レベルにまで浸透しつつある。リップシュタット教授も警告しているが、この闘いには終わりはない。事実を積み重ね、真実を語る努力をし続けなければならない。根拠のないデマであっても、そういうものを信じたい人にとってはそれが真実になってしまう。デマを流す方が、それがデマだと論証するよりもはるかに容易で、聞く方もデマを聞く方が簡単でわかりやすい。しかしたいてい事実は細かく、ややこしく、理解には時間と忍耐力を要する。世の中からそうした忍耐力がどんどん失われている気がするのが不安である。

ファウスト

新訳決定版 ファウスト 文庫版 全2巻完結セット (集英社文庫ヘリテージ)
 休みに入ったので、まとまった時間で名作を読むことにする。訳者の池内紀が第二巻巻末で述べているとおり、「有名な名作であれば、たいていの人が名前を知っている。そしてたいていの人が一度も読んだことがない」からである。名作と呼ばれるものはたいてい長くて難解なものが多いが、戯曲はとりわけ手を付けにくい。原語が美しく韻を踏んだ気の利いたしゃれに満ちているからだ。それなら原語で読めばいいのだが、そこまでの語学力がないので翻訳に頼ることになる。そうするとしゃれや韻は味わえない。意味の取りにくいだらだらした詩句をひたすら読むことになる。訳者の池内氏はその辺をよくわかっているのか、第一部巻末で次のように述べている。「……しかしながら翻訳すると、ゲーテがドイツ語で苦心した一切が消えてしまう。韻律が乏しく、まるきりべつの構造をもった日本語にあって、詩句を踏襲しても、はたしてどのような再現ができるだろう。詩句をなぞるかわりに、ゲーテが詩体を通して伝えようとしたことを、より柔軟な散文でとらえることはできないか。いまの私たちの日本語で受けとめてみてはどうだろう。そんな考えで、この訳をつくった。」そういうわけで、この「ファウスト」は小説のように読める。宮澤賢治オノマトペの豊穣さや、谷川俊太郎の詩であえてすべてひらながにしている面白さや、詩歌における掛詞がたぶん翻訳不可能であるのと同じだろう。
 ファウスト博士が学問を究めながら、年老いて退屈で何も楽しみを見いだせない姿には、超高齢化社会の日本の孤独な高齢者と重なって見えてくる。幸福が何であるのか、若い時には自分の学問が認められることや、地位が高くなることや財産が増えることなどが成功だったと思うが、それらを手に入れているように見える晩年の博士は幸福そうではない。そこに悪魔メフィストフェレスがつけいる隙がある。悪魔というからにはもっと無制限に魔法などが使えるのかと思えば、人間に知恵を貸したり、そそのかすくらいで、実行するのは人間である。メフィストフェレスファウストから依頼されて実行する場合にも、普通の人間のようにするばかりなのが面白い。第一部で誘惑される処女グレートヒェンにしても、相当に手間をかけ、普通に女の子を口説くのとそう変わらない。この辺が妙にリアルである。魔法の力であっという間に虜にしましたということなら、話は簡単だが詩にはならない。
 第二部はとても読みにくかった。第一部とどう繋がっているのかがわからないし、ファウスト博士は現実にはどこにいるのか、夢なのか、わかりにくい。ファウストよりもメフィストフェレスの方が魅力的に立ち回っている感じがする。最後の最後で現実的な場面に戻ってきて、ファウストが契約の言葉を口にして死に、天使たちがメフィストフェレスを出し抜いてファウスト博士を天国へ連れていく。そこにはグレートヒェンまで天使のような姿で出てくる。これには少し驚いた。こういう形でハッピーエンドなのか?と。「協同の意思こそ人知の至りつくところであって、日ごとに努める者は自由に生きる資格がある。どのように危険にとり巻かれていても、子供も大人も老人も、意味深い歳月を生きる。そんな人々の群れつどう姿を見たいのだ。自由な土地を自由な人々とともに踏みしめたい。そのときこそ、時よ、とどまれ、おまえはじつに美しいと、呼びかけてやる。」というファウスト博士は冒頭の孤独な老人とは違う、大勢の中の一人として、人々の一人として協同する幸せをかみしめている。そういう意味でファウスト博士の二回目の晩年はより優れたものとなったと言える。しかし、罪のない処女を誘惑して堕落させ、母親を殺させ、兄をファウスト自身が殺し、嬰児を殺させ、グレートヒェンは処刑される。最後の多くの人に「協同」の場を提供する干拓地を完成させるために、立ち退きを拒む、菩提樹のそばに住む老夫婦を殺害する(殺害はファウストの意思ではなかったにしても)。このような罪を犯しても神はすべてを赦すということなのだろうか?釈然としない幕切れである。私の経験が不足しているだけなのだろうか。

ルター

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 本書は?「ルターの住んだとき、ところ」?「マルチン・ルターの生涯」?「ルターの思想」の三部構成になっています。?によってルターの生きた時代と、当時のドイツの状況が概観されます。面白いのは何と言っても?の、ルターの生涯ですが、時代背景をきちんと知っておかないと宗教改革がなぜ起きたのか分からないので、はるか昔に習った世界史の記憶を引き出しながら読む。ドイツがヨーロッパの中では後進国で小さな邦に分かれており、絶対王政が敷かれてしなかったことがあって、ローマ教皇の力が及びやすかったために、教皇による政治的な干渉や、財政上の搾取を受けやすい土地でした。そのことがいわゆる免罪符(「贖宥状」の方がIndulgentia インドゥルゲンティアの訳としては適当のようです。罪を免ずるのではなく、罪による罰を免除することであり、償いの免除だそうです。また贖宥状のキリスト教的な理屈としては、聖人やイエス・キリスト自身が有り余るほどの徳を天上に積んでいるため、教皇はその徳を引き出して、一定の条件のもとで分与できるというのが元々の考えだったそうです。)を売るのにも好都合でした。また、ルネサンスの影響で人間解放の機運が高まり、さらに十字軍の遠征によって物流が盛んになり、貿易、商業が発達します。多くの富を蓄えた大商人は領主や司教に高利の金貸しをするようになり、神聖ローマ皇帝の選定にも影響を行使するようになります。さらに教会は十字軍の遠征の失敗により、権威を失いつつあり、各地で農民一揆が頻発するようになっていました。
 ルターははじめ、修道士になる予定ではありませんでしたが、ある日目の前で落雷があり、修道院に入る決意をします。ルターの思想が形成された時として「塔の体験」と呼ばれる時があります。神学博士となったルターは大学の神学部でパウロの書簡を学生たちに講義していたが、修道院の塔の書斎で苦悶の末に新たな義の理解に至ったというものです。それは「信仰によってのみ義とされる」というルターの福音主義の中核です。
 ルターは腐敗したローマ教会を改革して正しい道に戻ってほしいと思っていましたが、はじめから教会をつぶすことや、教皇を否定する意図はありませんでした。宗教改革ののろしに位置づけられた「九五か条の提題」もラテン語で書かれており、専門家に向けて書かれた神学上の問いかけであって、一般民衆には無関係でしたし、教会の扉にそうした問答を貼り付ける行為も、当時の一般的な慣習であり、ルターが特に過激だったわけではありません。しかしこの提題は筆写されて大学を中心に話題となり、さらに独訳されて民衆にも広まりました。このことによってルターは宗教改革の火付け役に祭り上げられていきます。冒頭に記した当時の背景から考えると、機が熟していたということでしょう。ルターは真剣に聖書に向き合い、真剣に信仰を考えた結果、当時の常識を打ち破る事になってしまったのです。その後起こった農民大一揆にルターが反対したことについて、権力者側に与したのだという批判もあるようですが、ルターからすれば、そうした革命的な運動の旗振り役を買って出た覚えはないというところでしょうか。ただ、自ら農民の子を自称し、庶民の側に立とうとしてきたルターは農民たちからの支持を失ったことは非常に悲しかったようです。その後も事態はルターの手には余る展開を見せ、ついにカトリック諸国と新教諸国の戦争にまで発展していくのです。
 20世紀になって同じマルティンの名を持つ、キング牧師公民権運動を開始した時にも、事態がどんどん展開していき、大きな運動となっていきますが、キング牧師は聖書に基づいて行動を起こし、あの偉大な行進へと繋がっていくのです。「わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ。」と聖書にあるが、そもそもキリスト自身が、当時のユダヤ教の常識を壊してキリスト教を創ることになったのです。キリスト教には常にそうした自己改革機能のようなものが備わっていて、みせかけの平和を打ち壊して新たな創造の業を行っていきます。現代の日本も機は熟しているように思いますが、さて、次のマーティンは出てくるか。
 

ルポ 難民追跡

 本書は新聞記者である筆者がある難民の一家を追跡取材した報告である。バルカンルートと呼ばれる、ギリシャからドイツまでの移動ルートを追っていく。はじめは密着取材のような形で追う形式なのかと思っていたが、筆者自身は近くのホテルに宿泊したりしながら、アフガン出身、シリア在住のアリ・バグリさん一家(妻と4歳の娘)と何度も接触をする形だ。難民と一般の人では国境を越えるルートや難民キャンプへのアクセスも異なるからである。そういうわけで何度も行方を見失い、もう再会できないのでは?と読者もハラハラしながらページをめくることになる。またあとがきで筆者も書いている通り、分からないことだらけ、ハプニングだらけで取材をしている筆者が予想もしない展開になってしまう。結果的にこの本はサスペンスドラマのような面白さがあり、はやく次のページをめくりたくなる。途中に書かれている難民をめぐる政治的な事情や歴史的な経緯が、具体的なアリさんの置かれている立場と重なって、理解が進む。ニュースなどで難民が何万人などと言われてもピンと来ないが、アリさんという具体的な人が置かれている状況を見ると、難民として生きていくとはどういうことかが見えてくる。
 本書の優れているところは、難民はこんなに悲惨なのだ、だから人道的な立場から助けなければというような単純なきれい事を語っているわけではないところだ。受け入れ国の歴史的・政治的なさまざまな事情を取材によって明らかにしている。自分の国で仕事がなくて困っていたり、怒っている若者を取材し、そこへ町の人口をはるかに上回る難民が押し寄せる現実を浮き彫りにしている。問題はそう単純ではない。
 筆者はあからさまに主張していないが、アメリカをはじめとする大国の自国の利益を優先する事情が難民を生み、問題の解決を遅らせているのは明らかだ。国連の常任理事国が武器輸出大国であるという事実の前で、戦争の終結を「国際社会」に委ねる現状には矛盾と無力感を感じる。しかし、目の前のアリさんを取材して難民の事実を訴える本書のような良書が世の中を変えていく一歩になるのもまた間違いない。

モチベーションはどこから

 池上彰佐藤優の対談形式でとても読みやすいメディアリテラシー本とも言うべき書籍です。お二人の質や量の大きさには圧倒されるばかりですが、行為そのものは本当に基本的でまじめな日々の積み重ねです。これはプロの運動選手が基本的なストレッチや筋トレを決して疎かにしないことと同じだと思う。驚きべきはこういうことを毎日続けていけるモチベーションです。