外人術

外人術―大蟻食の生活と意見 欧州指南編 (ちくま文庫)

外人術―大蟻食の生活と意見 欧州指南編 (ちくま文庫)

外人なんて呼ばないでほしい!とて、旅先の国へと入り込みたい「外人」の悲痛な願いと、その語に込められた差別的なニュアンスを佐藤亜紀はばっさり斬り捨てる。外人」なる者の特権をもっと使わずしてどうする、という豪気な旅の「裏実用書」。重苦しい国への帰属意識を軽やかに脱ぎ捨てて、旅先でくつろいでみせる、その優雅さよ。
「金のない外人はただの不良外人である」「タクシーに乗るとは即ちぼられること」といった旅のクールな視点がかっこよい。フランス、イタリア、チェコハンガリー云々といった各国を旅しながらも、常に「外人」ならざるを得ないことで、やや毒混じりの、しかしはしごく真っ当な言質を述べてみせる。
そのような実践的な旅を重ねてきた佐藤亜紀だからこそか、旅先の生活も良い意味でぐだぐだ。日本的な感覚でいえば、湯治に近いだろうか。旅先に過剰な期待をせず、ただまったり暮らす、そういった「無気力と停滞こそが夏場の旅行の醍醐味である」は本書の白眉。
その一方で、単なる毒舌家だと思っていた佐藤亜紀のちょっといい話(「無骨な男とチーズ」なんか素敵だ)や幽霊譚なんかも語られる。このような軽い小文と毒混じりの実践術とのバランスがほど良くて、それも本作の魅力だ。
いや、このような優雅な「外人術」を身につけるのは生半のことでないように感じるが、とにかく贅沢な人生の蕩尽にうっとりすることしばし。実用的な側面はさておき、面白い読物だ。

外人術。或いは、日本人たるに草臥れ果て、ささやかな休息を求めて暫し居場所を変え、余所者たらんとする人々に供する体験的手引書。

イジー・バルタ講演

ハジメマシテ、コンニチワ。ちぇこノばるたサンデス」

といきなり会場の笑いをとる。実は萌えキャラか、というかバルタカッコいいぞ。
今六本木で開催中の第十三回文化庁メディア芸術祭で色々とアニメーションネタを収集してきた。その際に、『屋根裏のポムネンカ』でアニメーション部門優秀賞を受賞したイジー・バルタの講演があった。このイベントを当日になって知ったのだが、もっと早く知っていればミーハー根性を出して、サインもらう準備をしていったのに。

しかし、時間が45分とかなり限られているうえに、『屋根裏のポムネンカ』と中篇『笛吹き男』を少し、それに現在製作中『ゴーレム』のパイロット版も上映したので、話しいていたのは少し。あまり突っ込んだ話もなくて物足りない。まあ、仕方のない話ですが。
最後に質疑応答でも「『ゴーレム』のように長いあいだ制作していると、途中で意図や心境が変化してきたりしませんか?」という質問にも、「これはチェコの伝説『ゴーレム』を、現代から寓話的な意味で捉えなおしています。そして、日本の皆様もご存知のように(なのか?)グスタフ・マイリンクの『ゴーレム』ともちょっと異なり、云々(忘れてもうた……」ということであったが、質問と答がちょっとズレていて残念。

そして、これはバルタに限らず、世界各国の共通だとは思うのだが、制作費用の捻出が困難であると語られた。特に『ゴーレム』のように技法が凝っていて、そのぶん金もかかるとのこと。とりあえず、芸術祭の優秀賞で30万は出るようだが、後は気長に待とう。
プラハの町並みが過去とオーバーラップするキリコを意識したような光と影の演出から始まる。そして後半の、粘土細工の町並みを破るようにして、内側から何かが現れ、雨で一瞬で崩落するところのぬめぬめした質感が誠に素晴らしい。これが無事完成したらチェコの長編アニメーション史ではシュヴァンクマイエルを遥かに凌駕する傑作だ! と絶賛する準備は出来ている(いや、一時的な興奮で適当に言うてるだけかもしらんけど)が、早く完成しないものか。

名短篇、ここにあり

名短篇、ここにあり (ちくま文庫)

名短篇、ここにあり (ちくま文庫)

北村薫『自分だけの一冊』(新潮新書)が素晴らしかったので、そのノリで北村(&宮部)アンソロジーを読む。小説に限らず、ナイスなエッセイや絵本、詩を世界各国から集めてみせる新潮文庫の北村アンソロジーに比べると、ちょっとセレクトが真っ当に感じてしまい物足りない。まあ、真っ当ながら素敵な小品が多くて充分楽しく読めたのですが。
主に講談社文芸文庫系の日本文学(円地文子とか黒井千次とか)とジャンルに関係なく色々な作品を書いた作家(松本清張とか小松左京とか戸板康二とか)がバランスよく配置されている。
ベストは吉村昭「少女架刑」。死体一人称で、少女が体中をばらされ、荼毘にふされるまでを描いた強烈な傑作。解剖医の好奇に満ちた視線に不快を感じながらも、徹底的に突き放したような視線を保っているのが特徴的。
魂は脳に宿るか心臓に宿るか……などという素朴な質問を掲げるつもりはないが、死体一人称がどこまで引っ張られるのかを考えると、げに恐ろしきものなり……なんせ全身を焼かれて骨になってなお、物語が継続するのだから。
ラストで、骨壺が納骨堂に安置されるのだが、周りで骨が崩れる「ぎしッ、ぎしッ、ぎしッ」と音が木霊している。こんな生の終わりと悲しみを、ここまで透徹して描けるのか、と感服いたしました。
あと黒井千次「冷たい仕事」も良い。冷蔵庫の霜取り作業に熱中する、いい歳したおっさんが二人……というだけの話。こんななんてことのない風景が天にも昇るような心地でもって描かれていて、不思議と気分が昂揚してくるから不思議だ。
あとは「めぞん一刻」ばりのアパートで宇宙人とのとぼけた会話をかわす半村良「となりの宇宙人」、世界的な詩歌文学賞を受賞した詩人の誤訳騒動という事態の大きさとオチの普通さにほっこりさせられる松本清張「誤訳」、即身成仏した木乃伊の生前を勝手に推測でっちあげして盛り上がる井上靖「考える人」なんかも良い。
初読作家があまり多くないのが残念だが、知らない作家を何人か教えてもらいました。これぞアンソロジーの愉しみ。全体的に「すごいいい!」作品よりも、「ちょっといいね」といった秀作が多い。

読んでいて楽しかったですよね。

黄金探索者

J・M・G・ル・クレジオ『黄金探索者』

南の島で海賊が隠した黄金を探す……っても、『宝島』(『ワンピース』のがむしろ例えとして通りがいいのか)みたいなドラマチックな物語ではない。むしろここで描かれるのは自然への憧憬と、少年のイノセンスな成長だ。
舞台はモーリシャス近海あたり。1892〜1922年にかけて嵐で崩壊した楽園を取り戻すために、少年は父の暗号と地図を頼りに海へと繰り出していく。嵐の襲撃や航海を通して、自然の姿が少年の目を通して執拗に描かれる。「今では光が出てくるのは海からである、その色彩の奥深くからである。空は澄んでほとんど色がない。ぼくは青い海の広がりと虚空とを、めまいがするほど見つめている」といった次第で、池澤曰く「純正な叙事詩」とのことだ。
地図を頼りに宝を探すが、その目的地の夕陽の光景が素晴らしくて、それが「宝」と勘違いする……といった話を小学校の教科書で読んだ覚えがある。なんとも他愛のない話だが、本作でも少年は自然の光景のなかに「黄金」を見出す。自然との再会であり、合一であり、それが至上の喜びだ。
これこそ「いい本」だなとは思いつつも、このようなシンプルな構成の叙事詩にあまり魅力を見出すことは出来なかった。毎日毎日少しずつ、それこそ微速前進の宝探しのようにして読むのが良かったかもしれない。

「黄金なんて何にもならない。黄金なんて恐れてはいけない。それに刺されるのはこわがる人だけだわ。蝮と同じよ」

儚い羊たちの祝宴

儚い羊たちの祝宴

儚い羊たちの祝宴

ラストの一行の衝撃、いわゆる「フィニッシング・ストローク」というと、クイーンの『フランス白粉の謎』などが特に有名だろうか。しかし、ラスト一行で犯人の名が明かされはするけど、それまでに推理や検証の流れがあるため、そこに至る前に(メタ的に)読者は犯人の名がわかっているわけものだろう。ということもあってか、ちょっと「最後の一撃」テーマでこの作品を評価するのは、ちょっと微妙に感じてしまう(クイーンに『最後の一撃』という作品はあるが、内容は忘れた)。まあ、叙述トリックのミステリなどは最後の一行でうっちゃる作品も多いが、成功してる作品というとあまりないよう気がする(まあ気のせいかもしらんけど)。
メタ的な視点を含めて、「最後の一行」までネタが読者に想定されないという点では、やはり乾くるみイニシエーション・ラブ』に尽きるのかなあという思いがしなくもない(あの作品は「最後の二行」だが)。まあ、別の理由でこの作品はあまり好きではないのだけれど。
このようなメタ的な読み方は意地が悪いだけかもしれない。『儚い羊たちの祝宴』にしたって、やっぱり真相の手前でネタは読めてしまうので、「あらゆる予想は、最後の最後で覆される」という帯の言葉をちょっと間違っている。しかし、それはそれとして上手いのが米澤穂信。「最後の一撃」というテーマをほとんど落語の下げに近いレベルの芸に昇華している。大いに笑かしてもらいました。

本が出た当時の「黒米澤降臨」みたいな宣伝文はどうかと思うが、この黒いネタを「最後の一撃」で思いっきりギャグにしてしまっているフシがあり、そこが誠に素晴らしい。特に「身内に不幸がありまして」「玉野五十鈴の誉れ」のラストはほとんど冗談だろう(だからこそ、落語の下げ的な)。
「最後の一撃」をどうすれば効果的に衝撃にすることが出来るか、物語の構成云々よりも、ワン・センテンスの魅力にこだわりぬいた作品、いや素晴らしい。

「わ、わたし、わたしは。あなたはわたしの、ジーヴスだと思っていたのに」
喉に声が絡みつく。わたしは、必死で、言葉を搾り出す。五十鈴の表情が動いた気がした。
「勘違いなさっては困ります。わたくしはあくまで、小栗家のイズレイル・ガウです」

プロジェクト宮殿

プロジェクト宮殿

プロジェクト宮殿

ロシアのコンセプチュアル・アーティストの作品集。作品自体はトータル・インスタレーションになっているのだが、そのネタをまとめたイラストレーションとテキストから纏められた作品集。読み心地は65から成る短篇集(掌編集)といった感じで、幅広く薦めたい本。
この「プロジェクト」なるものは、主に「世界を変革し改善する」ことで自分が幸せになることが目的となっている。といっても、そんな極端に革命家じみたユートピア思想があるわけではない。いや、カバコフ夫妻の根っこにあるのはそれなのだが、作品自体は日常から半歩ずれ込んだ妄想を無邪気に楽しんでいる節がある。また、作品は市井の人々のアイデアを夫婦が収集して再話する、という体裁となっている。
一章は「自分を改善する方法」。自分が不幸なのは何故か、どうすればもっと他人に優しくなれるか、ヒステリーをどうすればいいのか、といった素朴で普遍的な問いからの脱出法だ。天使の羽をつけて部屋にこもる、床に穴をあけて部屋を宙に浮かしてみるといった珍奇なアイデアから、ボロに身をやつして不幸を体感する、タンスにこもって集中力を高めるといった他愛ないものまで、まあ様々。
珍妙なアイデアの数々ながらも、その説明が無意味に凝っているのが楽しい。「上をみあげて」では上を見ることの重要性を説いて、人が日中の42%をまっすぐ前を向いて、56パーセントは下を向くのに対し、上を見ることは2%に過ぎない、と胡散臭い実験内容を引き合いに出す。作品によっては、ポールと人と詩集といった小道具で磁場を発生させる、とヒドいもの(笑)まであるのが楽しい。
全体に共通していえるのは、日常からちょっとずれた奇想天外なアイデアの数々を、頑張って後付理論で武装したような、とぼけたユーモアが味。結構SF的なアイデアに依ったものが多いのだが、その発想源はニューウェーブSF的な妄想力に近いのではないだろうか(まあ、そっちはあまり詳しくないので適当だが)。
個人的なベストは「白い小びとの物語」「天使に出会う」。前者は自分自身の魂に向き合って対話/物語を書くという小説家とも宗教家的な体験となっている。だが、その体験の最中に意識のなかに白い小びとが滑り込んできて、部屋のあちこちに現れるという、ムチャブリなトランス体験(笑)。後者は天使に会うには海抜1200メートル以上の場所で、かつ助けを呼びたくなるくらいやばいところでないといけない、だからどんな突風にも耐えられるはしごを作って、その上空で天使を待ちましょう、というもの。「どうにもこうにも自分の天使と出会わないわけにはいかない危機的な瞬間をつくりだしてしまう」って、どう考えても死亡フラグなんですけどwwww。

二章の「世界を改善する方法」ということで、地球全体に「エネルギーを均等に分配する」プロジェクトや、無重力装置で宙に飛び出す「地上になんてすめない!」、あるいは天井や壁だって走れる「どこでもマシン」と、もうちょっと外に目を向けた大規模なプロジェクトの数々。一章よりはマシなSF風……というか、やっぱり変かも。
三章はそのような「プロジェクトの発想を刺激する方法」となっている。あまりその企画自体に興味のない人と対話し説得することで、脳髄を必死に刺激する方法や、ホワイトボードの活用の仕方など、実際にビジネス・シーンにも通じるような(?)作品がないわけではない。が、やっぱり「天使に出会う」方法のように、ムチャブリな状況に自分を追い込むことで、脳髄を刺激するという発想は相変わらず(笑)。

こんなプロジェクト実践できるかい!というものも多いが、このイラストを眺めながら、こんなおバカなことを考えるのにマジメな人がいるんだなと考えるだけで、幸せな気持ちになれるのは間違いない。いや、素敵な本だ。

けれども私は確信しています。人間らしい価値ある人生をおくる唯一の手段とは、自分のプロジェクトをもつことであり、それを考えだして実現しようとすることなのだ、と。

ずっとお城で暮らしてる

ずっとお城で暮らしてる (創元推理文庫)

ずっとお城で暮らしてる (創元推理文庫)

素晴らしく、いや〜な気持ちになれる傑作。その手の作品が好きなら、うっとり陶酔するかもしれない。いや、でもイヤ傑作。
家族が謎の毒殺されたお屋敷で、娘のコニーとメアリ・キャサリン・ブラックウッド(メリキャット、このネーミングも絶妙すぎる)、そして伯父のジュリアン。事件がきっかけで悪意をぶつけてくる村人に対し、家族は皆「幸せ」な生活を送っているが、そこに常人の従兄がやってきて……。ああ、この設定だけでなんか幸せになれる。

これを読んでいると気づかされるのは、メリキャットたちの世界を眺める視点がイカレていることだ。家族に対し嫌がらせを執拗に続ける悪意の塊である村人たちが「ふつう」の人に見えてしまうくらい、メリキャットたちの外部への無関心と幸せな共同体の存在が不穏で、とにかく恐ろしい。少し外に目を向けようとするコニーや、「みんな帰ってくるなら、なんでも差し出すのにと思うことがあるんです」と語るジュリアンは、まだマシかもしれない。が、メリキャットにとって世界が見事に完結しており、とことん病めるも美しい。
人間の「悪意」や「狂気」を描いた作品は、それが臨界点を突破してカタストロフで終わるのが、普通だと思う。その点、この作品の一番クレイジーなところは、その悪意が爆発した後にある。その一大カタストロフの後、世界が新たに再生されるのか、一層ひどいところへと転落するのか、それは読んでからのお楽しみとして、ラスト50ページの超展開に呆然唖然としてしまった(といって、妙な期待をするべきでないかもしれないが)。この「悪意」のカウンターのあり方は、短篇集『くじ』とも共通するところか。

徹底的に人間の「悪意」をえぐりぬいてしまった作品だが、厳密にこの作品で描かれているのはちょっと違うような気もする。「好き」の反対が「嫌い」でなく「無関心」であるように、このラストはそれに近いかたちでの徹底的な世界の拒絶だ。だからこそ、世界の完結の仕方が途方も無く強靭で、どこまでも恐ろしい作品になっている。

メリキャット お茶でもいかがと コニー姉さん
とんでもない 毒入りでしょうと メリキャット