脳は手に、手は道具に、道具はネットワークに、「拡張」されてしまった

 ブレインマシンインタフェース。よくわからんなあ。福祉なんかの目的はともかく、積極的な「拡張」の役に立つのかどうか。身体を使った知覚・操作のほうが具体的な気もするし、そのぶん余計な訓練が必要そうな感がある。



 前に少し書いた「ネズミの道具」の研究では、脳内の活性部位を見て、ネズミのもつ熊手が手のように近くされていることを示したのが確か決定打だったはず。とすれば、おれたちはただ道具を使えばその分だけ、知覚を拡張しているかのようにも思える。


 ならば「電脳」はどうだろう。いまおれがキーボードを叩くとき、ほとんど打鍵一つ一つを意識することなく、言葉をイメージすれば勝手に手とキーボードが文字を紡いでいる。キーボードは手の延長として知覚されていてもいい。では液晶の上のコンソールは? 使い慣れたインタフェースなら、やはりほぼ操作の際のいちいちを意識することなく、おれはアプリケーションを操れる。液晶の上に表示された仮想のインタフェースは手の延長? 一方、視覚からのフィードバックが無ければこの「系」は作動しない。いや、それでもいいのか。道具を使うときもおれは、「目で見る」。



 いま、tweetdeckのコンソールを見ながらこれを書いている。おれの「手の中に」、フォローした人々の言葉がすっぽり収まってしまうようなこの感覚。世界の、少なくとも一部のある相として、高速のTLさえも確かにおれの「手の中」を駆け抜けていく。おれもまた1500人の人々の手中にある。



 「この街では誰もが神様みたいなもんさ、居ながらにしてその目で見、その手で触れることのできぬあらゆる現実を知る――――――何一つしない神様だ」

、と、仮想の2002年に荒川は語ったが、現実の2010年、おれは「自分の手の中に」1500人を捉えてしまったし、1500人に捉えられてしまった。今は言葉しか届かないにせよ。
 ひょっとしたら電脳はすでにここにある。脳は手に、手は道具に、道具はネットワークに「直結」しているのだから。




twitterにて呟いたものをまとめて多少修正し、転記。tweetdeckは、Twitterの専用クライアントの一つである。)

ついったでSF大会要不要とか盛り上がってたのを見てちょっと書いてみた件

なんかわからんがSF大会についての議論のまとめを読んだ。SFは好きだがそう熱心な読者ではないです、というのがおれであるがそれはどうでもよくて、なんというか、「大会いかにあるべきか」であそこまで盛り上がれる会合というのも世の中にそうはないのではないか。来たい奴は来い、そう思わない奴は別に来んでええよ?式の集まりしか知らないので、その熱さが逆に新鮮だ。「コミケいかにあるべきか」とかでも、もちろんそういう話もいさかいもあるそうだが、こうも熱く語られることなんかきっとないんじゃないかと思う。


 コミケであればそのコンセプトはかなり少数の人間がきちんと管理していると感じていて、それが明示された上で「来たい人は来てね」である。そしてさらに言うなら、運営の少なくともコアは、「このコンセプトに沿う場が必要なのだ」と確信しているだろう。彼らは参加者が減ろうが増えまいが根本的には気にしないのではないか(実務の変化を気にすることはあるだろうが)。30万人だろうが300人だろうが「同じコンセプトのもとに」それは開催されるだろう。


 SF大会、行ったことはない。行ってみようかと思ったことはある。でもそんなんある意味どうでもよくって、むしろおれが聞きたいのは、「SF大会をぜひ開催したい」という人(たち)による、「なぜSF大会みたいなのを開催したいのか」という動機なのだった。


 学会なんかでも、「この学会いらなくね?もうやめねえ?」みたいなことが参加者の間で囁かれるようなものはある。多くは年寄りか(かつての)学派の同窓会である……ならもう懇親会以外の機能はいらないのだ。
 集まることそれ自体が目的になった集まりは、当たり前だが排他的になる(同窓会の新参者、なんて語義矛盾もいいところだ)。にもかかわらず、そうした集まりに限って、参加者の減少や新規参入の少なさを嘆き、問題視し、人を動員したがるというのは、興味深いとぼくは思う。


 そして経験上、そうした集まりが息を吹き返す方法は一つ、「明確なコンセプトのもとに集まりなおす」しかない。SF大会の現状なんか知るべくもないけど、もしそれが必要だと感じる人がいるのなら、必要性を言明しなおすしかない。運営手法など二の次だ。それが出来ないなら、結局同窓会なんだろう。
 さらにいうなら、別に同窓会をしたい人は同窓会をしてて構わないし、コンセプト明示できる人はそれぞれにやればいいし、ひょっとしてそれらを全て包摂できるのがSF大会という場なのだ、というなら、それでもいいくらいかもしれない。


 ただ、コミケから得られる教訓ではないかと思うことには、運営の中枢に当たる人間は、少数で固定したほうがいいのではないかということだ。何のための場/集まりなのか、それを堅持し続けるために。そしてコンセプト(=運営中枢)の数だけ、大会はあってよいのではないか、と思う。

福島香織とおれ、または新聞記者と研究者

http://fukushimak.iza.ne.jp/blog/entry/1346247/



 産経新聞記者だった福島香織さんが、退職したそうである。


 記者をやっておられたのであるから、いずれジャーナリズムに近いかたちで書き物をしていかれるのであろう。それは応援したいし、おれ自身が書き物をなりわいにしたいという野望を持っている(サイエンスライター的なもの)ので、今後はぜひ参考にさせていただきたいと思う。



 で、そんな福島香織さんへの個人的共感などは、さておくとして。
 彼女の最近のtwitter上の発言を見ていた思ったことにはだ。


http://twitter.com/kaokaokaokao/status/6236521227


 新聞記者は会社が再就職を物質的に支援する。
 おれらポスドクは物質的援助なんか到底期待できないささやかな支援事業さえ、ムダと糾弾される。


 それこそ自民党構想日本の仕分けでは今よりもっと無理解な感じのこと言われてゼロ査定だったんだぜ。はあ、ブン屋ってええ商売でんな。




http://twitter.com/kaokaokaokao/status/6201489576


 しかしなんだ、おれが退職したところで、貴婦人がドンペリでお祝いしてくれるわけもなく。研究所が再就職支援でカネ出してくれるわけもなく。香織たんと我の差を思い知ることであるよ。




 まあいいや。これはただの愚痴、怨念、嫉妬。でもここで吐き出させてもらうよ。
 大事なことなので二回書くけど、ただの、妬み嫉み、愚痴怨念。

ラブプラスに「エンディング」をもたらすために

 おれが考えた、ラブプラスのよい終わらせ方。



「いつか/**年後に再会する、と決めて、ROMを封印する」



 これならみんな納得だろ。


 10年ぶりに訪れる街で10年後に再会したとき、高嶺はなんて言うだろうか。

ラブプラスのキャラ=「女に化けた人外」

 以前から、変な現象に気づいていた。



 おれが、


ラブプラス、面白いよ」
ラブプラス、ハマっても廃人にはならないよ」
ラブプラス、どんなにハマっても社会生活が可能だよ」
ラブプラス、社会生活が営めるからまたハマるんだよ」


などと主張し、ラブプラスがいかにカジュアルに楽しめるものかを主張すればするほど、周囲が引いていくのだ。



 で、ふと気づいたんだけど、こういうときのおれってひょっとして、民話とか神話でよくある、


「なにか女に化けた人外に魅入られてて、本人は自分は今幸せだと主張してるけど傍目にはどんどんやつれていく人」


みたいに見えるんじゃないかなーって。



 もっというと、ラブプラスのキャラって、確かに「女に化けた人外」には違いないよなーって。


 でさ、べつに人外でもいいよねって思っちゃう。チューリング・テストとかクソ食らえだ。「応答が人間に見えない」からって何の問題もないし。

徒競走ごときと、本物の競争と。または、戦いに勝って戦争に負ける国もある。


 いやま、皮肉つか洒落とか、だとは思ってるんだけども。

彼等は一貫して「競争してトップを目指す」という世界を否定してるんです。

2009-11-15


 そもそも「トップを目指す」ってそれ、「競争」なんだろうかと疑問に思う。レースではある。また、競争は「勝ち負け」が決まるゲーム、というのも違うと思う。なんだろうこれ。


競争しなくていいじゃん!

勝ち負け決めなくていいじゃん!

友愛だぜ、友愛!

2009-11-15

 この世に競争はある。その中で順位はつく。しかし、徒競走と違ってそこにはゴールも号砲も無い。ルールが無い。だから勝負は決まらない。勝ちを判定できない。


 くわえて、「トップを目指す」ことが最適な戦略かどうかもまた、分からない。10位の最適戦略は2位と組んで9位を潰すことかもしれない。
 なるほど、田中耕一は「トップ」をとってノーベル賞だ。けど島津は質量分析で儲かったわけじゃない。普及させたのはHillenkamp、Karasだか、彼らは(おそらく)それに見合う立場や影響力を得ているだろう。


 では「競争」の「勝者」は誰か?ゴールをどこに定義するかでそれはどうとでも取れる。ゲームでいえば「勝利条件」の設定次第というわけだ。(コーエーのゲーム、信長とか三国志で、「天下を統一」するまでエンディングを見られないことに疑問を感じたことは無いだろうか?あるいは、第二次世界大戦を扱うゲームがあるとする。もし歴史に反して大日本帝国が、連合国の反抗をどこかで防ぎきって講和に持ち込んだとして、それは勝利か敗北か?)


 研究の「勝ち」も現実は複雑だと思う。一番乗りで論文書いても、後発のほうが被参照数が多ければ、それまで。影響力に繋がらないっつか、たとえば学派とかは為せない。実際、論文出した後の学会向けの宣伝活動などかなり重要だ。理解者が増えると、いいことがたくさんある。たとえば査読に通りやすくなるし、予算もつきやすくなる。それはコネとか馴れ合いなんかではなくて、協調とか同盟とか、そういったものに近い。そしていかなる学派も仮説も永遠ではありえない。国家に永遠の敵はおらず、永遠の味方もいないように。



 さて、「トップ」とやらに付けられる値はいくらだろうか。