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組織ジャーナリズムに身を置き40年余

広く論議されていない戦闘機の輸出解禁~世論調査で民意は賛否が拮抗 ※追記:岸田政権が閣議決定

 日本が英国、イタリアと共同開発する戦闘機について、自民党と公明党が3月15日、第三国への輸出を解禁することに合意しました。この戦闘機の輸出方針をどう受け止めているか、16日以降に実施された3件の世論調査が質問をしています。結果はいずれも賛否二分。民意は真っ二つと言っていい状況です。

 かつて日本は、平和憲法の精神に鑑み、武器は輸出しないことが国是でした。安倍晋三政権が2014年、それまでの「武器輸出三原則」を撤廃し、「防衛装備移転三原則」を定めて原則を「輸出可能」に転換。他国と武器を共同開発することも可能にしました。さらに昨年12月には、岸田文雄政権の軍拡路線の一環として、殺傷能力の高い武器でも、ライセンス生産した完成品はライセンス元の国には輸出できるようになりました。今回の自公の合意は、その延長線上にあり、輸出先が広がります。しかも強力な殺傷能力を持つ戦闘機です。
 武器を禁輸としていたかつての「平和国家」のありようが大きく変容しているのですが、それでも賛否が拮抗している、言い方を変えれば、民意の大勢は否定的どころか、4割以上が肯定的にとらえていることに、正直なところ驚きがあります。近年、台湾情勢に絡んだ中国の軍事的脅威が強調されたり、北朝鮮がミサイル発射を繰り返したりといったことに加えて、ロシアのウクライナ侵攻が続いていることが、日本社会で軍事力増強による安全保障を支持する雰囲気の醸成につながっているように感じます。
 一方で、これだけ賛否が拮抗していることには、別の要因もあるように感じます。あくまでも可能性の問題なのですが、この戦闘機の輸出解禁をめぐって、メリットだけでなくどのようなリスクがあるのかや、なぜかつては禁輸が国是だったのか、敗戦にまでさかのぼる歴史的な経緯が社会で十分には共有されていないのではないか、ということです。今回の輸出解禁は自民党と公明党の協議で事実上決まり、公式の手続きも閣議決定によることになります。国会での審議はありません。そのこと自体、「それでいいのか」と思うのですが、主権者の目が十分に届かないところで、なし崩し的に決められてしまっているように感じます。
 そうだとすると、「よくは分からないが日本の安全につながるならいいのではないか」と考えたり、逆に、「よく分からないから慎重にした方がいい」と考える人もいて、結果的に賛否が拮抗している可能性もあると感じます。
 思い起こすのは安倍晋三元首相の国葬です。マスメディア各社は世論調査で是非を繰り返し問いました。その回答状況の変遷は、このブログの記事にまとめています。

news-worker.hatenablog.com

 当初は肯定的評価が否定的評価を上回っていました。まもなく賛否は拮抗。その後、国葬に対する疑義や反対論が報道され、周知されるようになって、否定的評価が肯定的評価を上回っていきました。国葬実施後もその傾向は変わりませんでした。
 現在、国会では自民党の派閥パーティー券の裏金事件が最大の焦点になっていることもあって、戦闘機の輸出解禁、あるいは武器輸出の拡大をめぐるリスクなどの論点は、マスメディアの報道でも十分に報じられているとは言い難い状況だと感じます。国会の論戦の対象になることが期待できないのであれば、マスメディアが独自に多角的に検証し、メリットもリスクも含めて多様な論点を継続的に報じていくことが必要なはずですし、今からでも可能なはずです。そうした報道が社会に届けば、世論調査の結果も今後、変わっていく可能性があると思います。

 日本国憲法9条の第1項は「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する」と規定しています。禁じているのは戦争だけではなく、「武力による威嚇」「武力の行使」もです。「抑止力」の強化は、相手の立場では「威嚇」とも映ります。強力な殺傷能力を持つ戦闘機の輸出は、場合によっては日本がこの「威嚇」に与することにならないか。このまま「アリの一穴」で武器輸出がどんどん広がる果てに、日本製の兵器が他国の人たちの命を奪う事態が現出することを危惧します。武器輸出と憲法をめぐり、そうした論点に対する突っ込んだ論議は現在、国会では見られません。今後の報道と、民意の動向を注視しています。

 

【追記】2024年3月26日10時20分

 岸田政権は3月26日午前、戦闘機輸出の解禁を閣議決定しました。国会での審議はありません。

www.47news.jp

パワハラで懲戒処分の空将はなぜ匿名発表なのか

 航空自衛隊は3月21日、部下に対するパワーハラスメントがあったとして、空将を停職4日の懲戒処分にしたことを公表しました。部下に長時間の指導を繰り返して精神的苦痛を与えた、とのことです。自衛隊では、元陸上自衛官の五ノ井里奈さんが部隊内での性被害を訴えたのを機に、セクハラやパワハラ事例が相次いで表面化しています。佐官クラスの幹部が加害者になっている事例もある中で、最高位である「将」の階級にある自衛官のパワハラはひときわ目を引き、上意下達の軍事組織の病理の根深さ、深刻さを感じさせます。空将は全国に四つある航空方面隊の司令などの要職を務め、本来なら、ハラスメントの根絶をそれぞれの組織内で徹底させなければならない立場です。どの組織の誰かも含めて、社会で共有すべき情報だと思うのですが、報道ではこの空将の氏名の表記は一様ではありません。
 航空自衛隊の総司令部とも言うべき、航空幕僚監部を日常的に直接取材していると思われる東京所在の新聞社とNHK、通信社2社の記事を、各社のWebサイトの記事でチェックした結果を、以下にまとめました。実名4社、匿名3社に二分されました。

 各社の記事を見ると、航空自衛隊の発表自体が匿名で、役職も明らかにしていないようです。記事でも匿名とした3社のうち、NHKは性別にも触れていません。一方で、朝日新聞、産経新聞が触れていない役職の「補給本部の本部長」は明らかにしています。
 実名にした4社はいずれも、発表ではない独自取材に基づいて氏名と役職を報じています。読売新聞と共同通信は、年齢も記載しています。匿名とした3社が、この空将の氏名や役職を知らなかったとは思えません。NHKは役職を報じているので、氏名も分かっていたはずです。あえて、発表通りに匿名としたのでしょう。実名とした4社も、それぞれ自社の責任でこれも「あえて」実名表記としたのだと思います。
 では、なぜ航空自衛隊は進んで氏名や役職を公表しないのか。産経新聞と共同通信は記事の中でその理由も報じています。空自は「個人が特定される恐れがあるため」と説明しているとのことです。
 自衛隊も国の機関であり、懲戒処分やその公表にも手続きが規定されています。検索すると、2005年の防衛省事務次官の通達にヒットしました。07年、17年に一部改正になっており、以下のような内容です(長いので一部は省略します)。

懲戒処分の防衛大臣への報告及び公表実施の要領について
(通達)
 標記について、下記のとおり定め、平成17年8月15日から実施(以下「実施日」という。)することとされたので、遺漏のないよう措置されたい。
 なお、同年4月1日から実施日の前日までの間における懲戒処分の公表については、別途、人事教育局長から通知させることとされたので念のため申し添える。

1 趣旨
 自衛隊員の懲戒処分の公表が適正に行われるよう公表の基準を定めるほか、全ての懲戒処分に係る防衛大臣への事前の報告要領について定めるものである。
 なお、個別の事案に関し、当該事案に係る行為の内容、被処分者の職責等を勘案して公表対象、公表内容等について別途の取扱いをすべき場合には適切な公表の措置を講ずるものとする。
2 公表の対象とする懲戒処分の種類
 次のいずれかに該当する懲戒処分は、公表するものとする。
 (1) 職務遂行上の行為又はこれに関連する行為(私的行為以外の行為をいう。)に係る懲戒処分
 (2) 職務に関連しない行為(私的行為をいう。)に係る懲戒処分のうち、免職、降任又は停職である懲戒処分
3 公表内容
 被処分者の所属等、事案の概要、処分年月日及び処分量定に関する情報を、個人が識別されない内容のものとすることを基本として公表するものとする。ただし、警察その他の公的機関により、被処分者の氏名が公表されている場合には、氏名も含めて公表するものとする。
4 公表時期
 懲戒処分を行った後、速やかに公表するものとする。
5 公表方法等
 公表実施担当官(防衛省の広報活動に関する訓令(昭和35年防衛庁訓令第36号)第3条に規定する実施担当官をいう。)は、懲戒処分を行った懲戒権者等と調整の上、別紙様式第1により報道機関への資料の提供その他適宜の方法をもって公表を行うものとする。
6 公表の例外
 懲戒権者等が、被害者又はその関係者のプライバシー等の権利利益を侵害するおそれがある場合等の理由により第2項及び第3項による公表が適当でないと認める場合には、公表内容の全部又は一部を公表しないことができる。
7 事前報告 (略)
8 委任規定 (略)

 「職務遂行上の行為」は処分の軽重を問わず公表する、その方法は「報道機関への資料の提供その他適宜の方法」とする一方で、「個人が識別されない内容のものとすることを基本として公表するものとする」と明記されています。
 国家公務員の人事制度を所管する人事院が2003年に策定した懲戒処分の公表の指針にも同様のことが盛り込まれており、防衛省の通達もこの指針に準じていると思われます。

※懲戒処分の公表指針について
(平成15年11月10日総参―786)
(人事院事務総長発)
https://www.jinji.go.jp/seisaku/kisoku/tsuuchi/12_choukai/1203000_H15sousan786.html

1 公表対象
  次のいずれかに該当する懲戒処分は、公表するものとする。
  (1) 職務遂行上の行為又はこれに関連する行為に係る懲戒処分
  (2) 職務に関連しない行為に係る懲戒処分のうち、免職又は停職である懲戒処分
 
2 公表内容
 事案の概要、処分量定及び処分年月日並びに所属、役職段階等の被処分者の属性に関する情報を、個人が識別されない内容のものとすることを基本として公表するものとする。

3~5 (略)

 パワハラの空将に話を戻すと、航空自衛隊が空将を匿名で、役職名も伏せて発表したことは、防衛省内の通達に沿った手続きであり、そうした発表の形式は特異でも異例でもなく他の省庁と変わらない、ということのようです。
 しかし、事例の重大さ、深刻さに鑑みれば、この匿名での公表が妥当なのかとも感じます。防衛省の通達も人事院の指針も、文面は「個人が識別されない内容のものとすることを基本として公表する」となっていて「基本として」の一語が入っています。通達の「6」では、例外規定として公表しないこともありうることを定めていることを考えても、この「基本として」は、事例によっては個人が識別される内容を公表することもありうることを想定している、とは考えられないのか。
 陸上自衛隊の五ノ井里奈さんの事例に代表されるように、自衛隊という軍事組織にはハラスメントがはびこっています。空将という最上位の階級の自衛官の中にまで加害者がいたことは、その病理の深刻さを示しています。ハラスメントの根絶と組織の体質の抜本的な改善が急務であり、そのためには、まずは何が起きたのか、その事実関係がありのままに社会で共有されることが必要ではないのか、と感じます。
 それでも、この「基本として」にそういう意味合いはない、個人が特定される発表は一切、行ってはならない、ということであれば、そうした手続きの規定や運用が適切なのか、という論点も出てきます。これらの規定や運用が適切かどうかは、最終的には主権者の判断に委ねるべきものではないのかと思います。その判断の材料として、マスメディアは、懲戒処分の発表の手続きの詳細をも報じていいのではないかと思います。

沖縄のオスプレイ飛行再開、全国メディアに報道を要請~日本本土の主権者に当事者性

 米軍オスプレイの飛行再開をめぐる重要なニュースがありました。以前の記事と合わせてお読みください。重要なことだと思い、別記事にしました。
 沖縄県の玉城デニー知事は、米軍普天間飛行場の米海兵隊所属のオスプレイが飛行を再開した翌15日の定例会見で、「全国メディアには、この沖縄の状況をしっかり伝えていただきたい」と述べました。沖縄タイムスの記事の一部を引用します。

※沖縄タイムス「玉城デニー知事、全国メディアに『報道を強くお願いしたい』 米軍オスプレイの飛行再開 『皆さんの熱い思いが絶対に必要だ』」=2024年3月16日
 https://www.okinawatimes.co.jp/articles/-/1326029

 共同通信が「日本国民全体の問題でもある」と問題提起した上で知事に見解を問うと、玉城知事は「全国メディアには、この沖縄の状況をしっかり伝えていただきたい」と要求。「県民の怒り、思いを全国で共有するためには、みなさんの熱い思いと協力が絶対に必要だ」と語気を強めた。

 このブログで何度も触れてきた通り、沖縄の基地の過剰な集中は、沖縄の住民が選択したことではなく、選挙を通じて合法的に成立している日本政府が強要していることです。だから、基地の過剰な集中は、日本本土に住む主権者はみな等しく当事者性を免れません。沖縄に基地が過剰に集中していることによるメリットがあるとして、それを享受しているのも日本本土の側です。
 加えて、オスプレイの墜落原因や再発防止策の詳細を明らかにしないままの飛行再開は、今後、日本中のどこで重大事故を引き起こしても不思議ではないという意味で、沖縄だけではなく日本全体にとっても、日本政府が住民の安全を第一には考えていないことを露呈しています。沖縄で何が起きているかを日本本土の住民が知ることには、極めて大きな意味があります。主権者として選挙権を行使する上で、知っておくべきことだと思います。
 ちなみに、普天間のオスプレイの飛行再開を、全国紙3紙(朝日新聞、毎日新聞、読売新聞)は翌15日付の東京本社発行の朝刊紙面でどのように報じたか、記事の扱いや見出しなどの概要を以下に残しておきます。

新幹線 敦賀延伸の「歓喜」と「関西~北陸」から「東京~北陸」へのシフト感

 北陸新幹線の金沢~敦賀の延伸区間が3月16日、開業しました。新幹線網に福井県が加わりました。この日はたまたま、所要でJR横浜駅に行く機会がありました。そこかしこで「北陸新幹線」と「福井」をアピール。「新幹線で福井へ行こう!」のモードでした。首都圏での話題性、ニュース性はやはり「東京から福井へ直結」のようです。同じように、福井では「東京直結」が話題なのかな、と思いました。インターネットで目にした地元紙、福井新聞のWeb号外は、一番列車「かがやき502号」が敦賀駅を出発する写真に「敦賀 歓喜の発車」の大きな見出しが添えられていました。
https://www.fukuishimbun.co.jp/common/dld/pdf/a4240def65c4c0ad1110eecb105d5f66.pdf

 待望の新幹線が開業した喜びは、実感としてとてもよく分かります。わたしが駆け出し記者生活を送った青森市に東北新幹線のレールが届いたのは、隣県・岩手の盛岡開業から28年も後のことでした。大宮~盛岡の暫定開業は、わたしが青森に赴任した前年の1982年。青森へ向かうには、盛岡で新幹線「やまびこ」から在来線の特急「はつかり」に乗り換えなければなりませんでした。87年3月に青森を離れるまでに、新幹線は東京駅には乗り入れましたが、盛岡以北の開業は見通しが立たないままでした。この間、北のターミナルとして盛岡はにぎわいを増していきました。在勤中に何度も盛岡駅で乗り換えながら、わたし自身、「新幹線が早く伸びればいいのに」と思っていました。「盛岡以北」は青森では悲願でした。
 新青森駅までの延伸開業は2010年12月4日。東北新幹線の基本計画策定から実に38年が過ぎていました。この日、地元紙の東奥日報はネット上に新青森駅の動画を配信。東京発の一番列車が到着したシーンを自宅のパソコンで見て、感無量でした。北陸新幹線の整備計画決定は1973年11月のこと。福井新聞の「歓喜」の見出しは、決して大げさではないと感じます。
 ※参考過去記事

news-worker.hatenablog.com

 ただ、北陸新幹線には、東北新幹線とは少し異なる事情もあるようです。
 整備計画は東京~大阪であり、敦賀延伸で全体計画の約8割が完成しましたが、敦賀~大阪の開業の見通しは立っていません。もともと北陸は関西と関係の深い地域です。新聞界でも、福井県は全国紙3社(朝日、毎日、読売)ではいずれも大阪本社の管内、石川県や富山県も朝日新聞社や毎日新聞社ではやはり大阪本社の管内です。鉄道も大阪から北陸へ直通の特急が走っていました。かつての「雷鳥」、現在の「サンダーバード」は、関西ではなじみの愛称です。新幹線の敦賀延伸で、「サンダーバード」は敦賀止まりとなり、大阪から「直通」の利便がなくなりました。東京から見れば「福井直結」、福井では「東京直結」でも、関西からは気持ちの上で「北陸が遠のいた」と感じる方も少なくないのではないかと思います。
 東海道新幹線や山陽新幹線、東北新幹線は、在来線の東海道本線、山陽本線、東北本線と路線図の上でもイメージの上でもおおむね重なっています。在来線の北陸本線はもともと滋賀県の米原から新潟県の直江津まで。関西から北陸へと向かう鉄路でした。「北陸新幹線」は現状では、東京から北陸へ向かう路線です。この在来線と新幹線の“不一致”は、ほかの新幹線とは異なる点かもしれません。言ってみれば、「北陸」の名を冠した基幹鉄路が「関西~北陸」から「東京~北陸」にシフトしたような感があります。単に「鉄道趣味」的な意味しかないのか、それとも今後、人の流れ、モノの流れ、金の流れに変化を起こし、地域にも影響を及ぼしていくのか、わたしにはよく分かりません。いずれにしても、新幹線が地域の振興に役立てばいいなと思います。

【写真3枚=いずれも横浜駅、3月16日撮影】

【写真:品川駅、3月17日撮影】

オスプレイ飛行再開、防衛相発言のグロテスクさ~「日米同盟の犠牲拒否する」(琉球新報)、「住民無視の暴走行為だ」(沖縄タイムス)

 鹿児島県屋久島沖で昨年11月29日、米空軍横田基地(東京)所属の輸送機CV22オスプレイが墜落し、乗員8人が死亡しました。その後も沖縄の米海兵隊普天間飛行場所属のMV22オスプレイはしばらくの間、飛び続けていました。米軍が海兵隊、海軍の所属機も含めてオスプレイ全機の飛行を停止することを発表したのは12月6日。日本で報じられたのは12月7日です。屋久島沖の墜落から1週間余りもたってからのことでした。この間、日本政府は米側に飛行停止を明確に求めなかったことは、このブログでも書きとめた通りです。

news-worker.hatenablog.com

 そのオスプレイについて米軍は3月8日、飛行停止を解除することを発表。日本政府も容認しました。沖縄県の玉城デニー知事は13日、沖縄県庁で会見を開き、事故原因の詳細などが明らかにされない中での飛行再開に対して「事故原因の具体的な説明はなかった。到底納得できず、これを認めることはできない」(琉球新報)と強く批判したと報じられています。普天間飛行場では14日、MV22が飛行を再開しました。

ryukyushimpo.jp

【写真出典】琉球新報の動画より

 飛行再開に際して、屋久島沖の墜落の原因の詳細も、再発防止対策の詳しい内容も明らかにされていません。この点に関して、木原稔防衛相は9日に行った記者会見で「特定の部品の不具合が事故原因だと、これまでにないレベルで詳細に報告を受けた。私自身も合理的であると納得している」(共同通信)と述べたと報じられています。詳しく説明できない理由は「米側の調査には訴訟や懲戒処分への対応も含まれるため、報告書が公開されるまでは米国内法上の制限により、詳細について明らかにできないと説明を受けた」(同)とのことです。説明できないのは米国側の事情だが、日本政府はそれを良しとする、というわけです。
 「これまでにないレベルで詳細に報告を受けた」「私自身も合理的であると納得している」とは異様な発言です。要は「特別な情報をもらっている自分が『納得している』と言っているのだから信じろ」というわけです。主権者である国民を見下していなければ出てこない物言いだと感じました。住民の生命、財産を守る責任を負っている立場の閣僚としては、異様と言うよりも「グロテスクな発言」と言ってもいいかもしれません。
 昨年11月の墜落翌日、木原防衛相は国会で「米国側に対し、国内に配備されたオスプレイについて、捜索・救助活動を除き、安全が確認されてから飛行を行うよう要請するとともに、事故の状況について早期の情報提供を求めている」(朝日新聞)と述べていました。「飛行停止」を米軍に明確に求めたわけではありませんでした。岸田文雄政権には、住民の安全よりも米軍への配慮、忖度を優先する姿勢が一貫している、と感じざるを得ません。
 基地を抱える自治体が納得せず、いくら飛行再開に反対しても、意に介することなくオスプレイは飛んでいます。およそ民間航空では考えられないことです。「軍事」の現実です。

 飛行再開に対して、沖縄の地元紙の琉球新報、沖縄タイムスはこの間、それぞれ3回ずつ、社説で反対を表明しています。特に再開翌日の15日付では見出しも「日米同盟の犠牲拒否する」(琉球新報)、「住民無視の暴走行為だ」(沖縄タイムス)と最大限に厳しいトーンです。
 ※琉球新報の社説はリンク先で全文が読めます

■琉球新報
・3月10日付「オスプレイ飛行再開へ 米の意向優先許されない」
 https://ryukyushimpo.jp/editorial/entry-2885924.html
・3月14日付「オスプレイ運用再開 政府は飛行断念を求めよ」
 https://ryukyushimpo.jp/editorial/entry-2896086.html
・3月15日付「米軍の無謀訓練強行 日米同盟の犠牲拒否する」
 https://ryukyushimpo.jp/editorial/entry-2899549.html

■沖縄タイムス
・3月15日付「オスプレイ飛行再開 住民無視の暴走行為だ」
・3月13日付「オスプレイ再開へ説明 見切り発進許されない」
・3月9日付「オスプレイ再開へ 安易な決定に反対する」

 オスプレイは日本全国の空を飛びます。日本全国、どこで重大事故を起こしても不思議はありません。そのためか、日本本土の新聞でも特に地方紙で、飛行再開を批判する内容の社説が目につきました。以下に、全国紙、地方紙でネット上の各紙のサイトで確認できた社説の見出しを書きとめておきます。

■全国紙
▽朝日新聞3月15日付「オスプレイ再開 説明尽くさぬ強行だ」
 https://digital.asahi.com/articles/DA3S15887335.html
▽毎日新聞3月13日付「オスプレイ停止解除 市民の安全が置き去りだ」
 https://mainichi.jp/articles/20240313/ddm/005/070/103000c

■地方紙
【3月9日付】
▽佐賀新聞「オスプレイ飛行再開 不安拭えず、拙速過ぎる」※共同通信
 https://www.saga-s.co.jp/articles/-/1206501

【3月10日付】
▽信濃毎日新聞「米軍オスプレイ 主権なき日本があらわに」
 https://www.shinmai.co.jp/news/article/CNTS2024031000061
▽山陰中央新報「オスプレイ飛行再開 不安拭えず拙速過ぎる」
 https://www.sanin-chuo.co.jp/articles/-/541150

【3月12日付】
▽東奥日報「住民の不安拭えず拙速だ/オスプレイ飛行再開決定」
 https://www.toonippo.co.jp/articles/-/1739989
▽新潟日報「オスプレイ再開へ 住民の安全軽んじている」
 https://www.niigata-nippo.co.jp/articles/-/372948
▽福井新聞「オスプレイ飛行再開 国民の不安は払拭されぬ」
 https://www.fukuishimbun.co.jp/articles/-/1993510
▽高知新聞「【オスプレイ再開】安全への懸念が拭えない」
 https://www.kochinews.co.jp/article/detail/727875
▽熊本日日新聞「オスプレイ 飛行再開の決定は拙速だ」

【3月13日付】
▽北海道新聞「オスプレイ再開 究明なき飛行許されぬ」
 https://www.hokkaido-np.co.jp/article/986644/
▽秋田魁新報「オスプレイ飛行再開 事故原因見えず拙速だ」
 https://www.sakigake.jp/news/article/20240313AK0009/

【3月14日付】
▽京都新聞「オスプレイ再開 もう、日本を飛ぶのか」
 https://www.kyoto-np.co.jp/articles/-/1218686
▽愛媛新聞「オスプレイ飛行再開へ 説明なき見切り発車 容認できぬ」

【3月15日付】
▽中国新聞「オスプレイ飛行再開 原因説明なき運用許されぬ」
 https://www.chugoku-np.co.jp/articles/-/438008
▽徳島新聞「オスプレイ 事故再発への不安拭えぬ」

【3月16日付】
▽宮崎日日新聞「オスプレイ飛行再開 不安解消されず拙速過ぎる」
 https://www.the-miyanichi.co.jp/shasetsu/_76560.html
▽南日本新聞「[オスプレイ]度外視された地元意向」

「敵兵でも人間」(吉川英治) 異国の地で生を閉じたB29搭乗員の若者たちを悼む

 第2次世界大戦末期の1945年3月10日未明、東京の下町地区は米軍B29爆撃機の大編隊の空襲を受け、焼夷弾による大火災の中、一夜で10万人以上が犠牲になりました。この「東京大空襲」を皮切りに、B29による各地の都市空襲が続き、8月6日には広島、9日には長崎に原爆が投下されました。空襲は、昭和天皇の「玉音放送」で敗戦が国民に告げられた8月15日当日の未明まで続きました。その最後は秋田市でした。日本の主要都市は焦土と化しました。
 このブログでは東京大空襲を中心に、日本本土への空襲について書きつづってきました。住民被害が中心ですが、日本軍の高射砲や迎撃機による撃墜など、米軍側の損害も決して小さくはありませんでした。今回は戦死した米兵の搭乗員のことです。

 ウイキペディア「日本本土空襲」に、米国戦略爆撃調査団による統計として、日本本土を爆撃したB29について、以下の数字が紹介されています。

 延べ出撃機数33401機/作戦中の総損失機数485機/延べ出撃機数に対する損失率1.45%/作戦中の破損機数2707機/投下爆弾147576トン。そして、搭乗員の戦死は3041名です。

 パラシュートで脱出し、日本軍の捕虜になった後に処刑された事例や、捕虜として収容されていた東京・代々木の陸軍刑務所が空襲を受け、そこで死亡した事例も記録に残っているようです。戦死した米軍搭乗員らの慰霊のために、墜落地点に建てられた慰霊碑が各地にあります。ネット上で「B29 慰霊碑」で検索すると、いくつもヒットします。戦後の日米の友好関係や、平和への願いが背景にあったのだと思います。
 米軍の日本本土空襲は、前例のない規模での都市住民に対する無差別攻撃であることは間違いがなく、その当否は勝者ではなく、歴史の審判にゆだねられるべきことだろうと思います。ただ一方で、戦死したB29の搭乗員たちも、戦争がなければ米国社会で普通の生活を送っていたはずの若者たちでした。

【B29:写真出典・ウイキペディア「B29」、パブリックドメイン】

 東京では当時の西多摩郡吉野村、現在の青梅市に1機が墜落しました。搭乗員11人のうち戦後、米国に生還できたのは4人だけでした。墜落場所にある慰霊碑を先日、訪ねてみました。
 東京・新宿からJR中央線・青梅線直通の青梅特快電車に乗って1時間ほどで青梅駅に着きます。各駅停車に乗り換えて10分余り、五つ目の駅が、戦国時代の古戦場であることに地名の由来を持つ「軍畑(いくさばた)」です。駅のホームから南に小高い山が見えます。その中腹に1945年4月2日未明、B29が墜落し炎上しました。

【軍畑駅ホームから。中央左手の中腹斜面にB29が墜落しました】

 青梅市郷土博物館でいただいた「青梅市文化財ニュース 第423号」(2023年1月15日発行)は以下のように解説しています。

アメリカ軍重爆撃機「B29」墜落地(柚木街の愛宕山中腹)
 鎌倉街道の柚木町3丁目と2丁目の境にあたる山道入口の足元に、「B29→」と書かれた小さな案内看板があります。太平洋戦争末期の昭和20(1945)年4月2日未明、B29が墜落炎上した現場近くの慰霊地を示しています。B29は多摩地方の軍需工場を大編隊で爆撃したのですが日本軍戦闘機の攻撃を受け、脱出した6人を除く5人が死亡しました。当時の村人は祖国を焦土化し同胞を殺戮するアメリカ兵は憎く、この遺体は穴でも掘って放り込んでおけばいいと思っていました。ところが、柚木に移住していた作家吉川英治の「敵兵でも人間。亡くなればていねいに葬ってやらなくてはいけない。」との言葉で、遺体は丁寧に収容され即清寺へ埋葬されました。その後、平成12(2000)年に地元のN氏が墜落現場近くに慰霊碑を建立し、平成18(2006)年には日米合同慰霊祭が行われました。当日は100人以上の地元民、横田基地副司令官をはじめとするアメリカ軍兵士等が参集し、慰霊と日米友好と平和が願われました。

 軍畑駅から慰霊碑まで、徒歩で20~30分ほどです。さして高い山ではないのですが、それなりの険しい斜面に、慰霊碑はひっそりと立っていました。近くにはハイキングコースもあり、軍畑駅で下車するハイカーもいましたが、ここは訪れる人もめったにいないようです。

 両手を合わせ、目を閉じて、墜落当時のことを想像してみました。被弾した機体はコントロールが効かず、どんどん高度を落としていたのかもしれません。パイロットは、何とか機体の姿勢を立て直そうと、必死だったはず。搭乗員たちは見知らぬ敵地の上空で、どんなにか恐ろしかったことか。
 慰霊碑のそばには「平和の鐘」と書かれた小さな鐘もありました。鎮魂と、平和への思いを込めて、そっと鳴らしてみました。チリン、チリンと澄んだ音色が、人気のない山中に響きました。

 墜落した機体は「Filthy FayⅡ」。直訳すると「汚れた妖精」でしょうか。B29以前に同名の機体があって、2代目ということなのでしょう。墜落直前、4基のエンジンのうち一つが脱落しました。戦後長らく、近くの多摩川に放置されていましたが、1979(昭和54)年に地元の方たちが引き上げ保管。その後、青梅市郷土博物館に寄贈されました。玄関を入ってすぐのホールに展示されています。実物を見学しました。B29の本土空襲の貴重な直接資料です。

 展示資料には、所属基地で撮影したと思われる「Filthy FayⅡ」を背に並んだ搭乗員たちの写真がありました。みな若く、恐らくは20代でしょう。英語表記の氏名も読み取れます。第2次大戦では米国も戦時体制に移行し、多くの若者が軍に動員されました。もともと自動車が発達した社会で車の運転に慣れていたので、航空機の操縦の上達も早かったようです。そんなところにも日米の国力の差があったとの指摘を、どなたかの著書で目にした記憶があります。

 B29のエンジンと並んで、日本陸軍の爆撃機「飛龍」のエンジンも展示されています。説明文によると、終戦4日前の1945年8月11日、やはり柚木の山中に墜落し、乗員12人全員が死亡しました。何らかの機体トラブルが原因だったようです。もう少し生き延びていれば、戦後日本の復興の力になったはずの人たちでした。

 「青梅市文化財ニュース」の記事中に登場する作家の吉川英治は「宮本武蔵」や「新・平家物語」などの代表作で知られます。1944年3月に東京都心から吉野村に移住し、1953年8月まで9年5カ月を過ごしました。戦前から邸宅を購入するなど準備していたようで、単なる戦時疎開ではなかったようです。邸宅と書斎は現在、青梅市が運営する吉川英治記念館として公開されています。
 「鬼畜米英」といったスローガンが横行していた戦時社会で、著名な作家とはいえ一人の民間人が「敵兵でも人間」と言って戦死者を丁寧に葬るよう求めるようなことは、よほどの信念に加えて、胆力がなければできることではなかったはずです。このエピソードについて「武士道」によるものとする解釈も目にします。そういう側面もあるのかもしれませんが、ほかにも吉川英治には個人的な強い思いがあったのではないか、とわたしは考えています。

【死亡した搭乗員が葬られた即清寺】
 吉川英治にはかわいがっていた養子の娘、つまり養女がいました。女子挺身隊員として動員され、都心に残っていました。吉野村にB29が墜落する約3週間前、3月10日の東京大空襲で行方不明になっていました。連絡を受けた吉川英治は連日、吉野村から都心に出かけ、行方を探しました。手掛かりは何も見つけられないまま、ある時、大空襲当夜に、墨田区にあった墨田電話局の交換手の女性たちが最後まで職場を離れず殉職したと聞いて、養女のことをあきらめて吉野村に戻りました。
 戦後、そのときのことを吉川英治自身が電電公社総裁との対談で語った時の様子が、「吉川英治記念館」のブログにありました(今はこのブログは閉鎖されているようです)。吉川英治の言葉を引用します。

 それをききましてぼくは、ああ、そんなにまで純真なおとめたちがあったのに、ぼくの養女一人がみえなくなったからっていって、そう途方にくれたように幾日も探し歩いてもしようがない、たくさん、日本のいい娘たちが、そうして亡くなったんだから……と思って、ぼくもそこですっかりあきらめて、ついにその晩雪のなかを奥多摩へ帰ったことがありました。その話を、ぼくはいつまでも忘れかねるんですね。

 B29が吉野村に墜落したのはその直後だったのではないでしょうか。戦争で前途有為の若い人たちがたくさん死んでいくことの虚しさ、無情を感じていたことが、例え敵国の軍人であっても、異国の地で無念の死を遂げた若者に対して「敵兵でも人間。亡くなればていねいに葬ってやらなくてはいけない」との気持ちにさせ、周囲にも強く語ったのではないか。そんな風に想像しています。

【吉川英治記念館として保存されている書斎】
 吉川英治の養女のことは、このブログの5年前の3月10日の記事で触れました。墨田電話局の跡地には慰霊碑が立っていて、吉川英治の自筆の追悼の碑文もあります。そこには「人々よ 日常機縁の間に ふとここに佇む折もあらば また何とぞ 一顧の歴史と 寸時の祈念とを惜しませ給うな」と刻まれています。
以下の記事に詳しく紹介しています。どうぞ、お読みください。

news-worker.hatenablog.com

 軍畑駅からスタートし、B29搭乗員の慰霊碑、吉川英治記念館、死亡した搭乗員を埋葬した即清寺、青梅市立郷土博物館と歩いて、たっぷり半日の行程でした。戦争の勝敗は相対的なことで、本質は敵であれ味方であれ、個人の「生」をすり潰すように奪っていくことです。個人は抗いようがありません。だから、戦争は最大の人権侵害です。そのことを改めて考えた道のりでした。

■付記
 旧吉野村のB29墜落をめぐっては、ユーチューブに「中央大学FLP松野良一ゼミ」の制作著作の動画「『61年目の祈り ~青梅に墜落したB29~』第28回 多摩探検隊」があります。敗戦から61年の2006年8月に合わせて制作されたようです。墜落当夜についての吉川英治の息子さんの証言、慰霊碑建立の経緯や、日米合同の慰霊祭の模様なども収録されています。非常にクオリティの高い動画です。
https://www.youtube.com/watch?v=EdO9hBLK6Uc

www.youtube.com

焦土を視察する天皇に土下座でわびた民衆~堀田善衛「優情」と伊丹万作「だまされる罪」

 第2次世界大戦末期の1945年(昭和20年)3月10日未明、東京の下町地区は米軍B29爆撃機の大編隊の空襲を受け、焦土と化しました。一夜で10万人以上が犠牲になったとされる東京大空襲から、ことしは79年になります。昨年、このブログで、昭和天皇が空襲から8日後の3月18日、現地を訪れ被害状況を視察していたこと、そのことを記した碑が、東京都江東区の富岡八幡宮にあることを紹介しました。
 ※参考過去記事 

news-worker.hatenablog.com

 記事を公開後、ツイッター(現X)を通じてある方から、この昭和天皇の現地視察を作家の堀田善衛(ほった・よしえ、1919~1998)がたまたま目撃していたこと、その時の様子を「方丈記私記」に書き残していることをご教示いただきました。そこに描かれているのは、天皇が到着すると、付近にいた人たちが集まって土下座し、涙を流しながら、自分たちの努力が足りなかったのでむざむざと焼いてしまったと、わびの言葉を口々につぶやく情景でした。

【写真】天皇の現地視察を伝える朝日新聞(1945年3月19日付)
 「方丈記私記」は筑摩書房の「ちくま文庫」に収録されていて、入手可能です。購入して読んでみました。
 空襲当時、富岡八幡宮の近くには堀田善衛の知り合いの女性が住んでいました。あの空襲を経て生きている見込みはまずないと思いながら、行って別れを告げたいとの気持ちから、早朝に現地へ向かいました。着いてみれば、富岡八幡宮のあたりは本当に何もありませんでした。ところどころで、疎開していて助かったか、奇跡的に空襲下を生き延びたか、焼け跡を掘り、焼け残った家財を探しているのだろうとおぼしき人々がいました。
 いったんその場を離れ、東の木場方面へ歩いていき、また富岡八幡宮のあたりに戻ってきて、思いもかけなかった光景を目にします。焼け跡が整理され、憲兵や警官、役人などが集まっていました。午前9時過ぎと思われる頃、ほとんどが外国製である乗用車の列が西の永代橋、つまり都心の方向から現れました。
 以下、本文の一部を引用します。

 小豆色の、ぴかぴかと、上天気な朝日の光を浴びて光る車のなかから、軍服に磨きたてられた長靴をはいた天皇が下りて来た。大きな勲章までつけていた。私が憲兵の眼をよけていた、なにかの工場跡であったらしいコンクリート塀のあたりから、二百メートルはなかったであろうと思われる距離。
 私は瞬間に、身体が凍るような思いがした。
 (中略)
 私が歩きながら、あるいは電車を乗りついで、うなだれて考えつづけていたことは、天皇自体についてではなかった。そうではなくて、廃墟でのこの奇怪な儀式のようなものが開始されたときに、あたりで焼け跡をほっくりかえしていた、まばらな人影がこそこそというふうに集まって来て、それが集まってみると実は可成りな人数になり、それぞれがもっていた鳶口や円匙を前に置いて、しめった灰のなかに土下座をした、その人たちの口から出たことばについて、であった。
 (中略)
 私は方々に穴のあいたコンクリート塀の陰にしゃがんでいたのだが、これらの人々は本当に土下座をして、涙を流しながら、陛下、私たちの努力が足りませんでしたので、むざむざと焼いてしまいました、まことに申訳ない次第でございます、生命をささげまして、といったことを、口々に小声で呟いていたのだ。
 私は本当におどろいてしまった。私はピカピカ光る小豆色の自動車と、ピカピカ光る長靴とをちらちらと眺めながら、こういうことになってしまった責任を、いったいどうしてとるものなのだろう、と考えていたのである。こいつらのぜーんぶを海のなかへ放り込む方法はないものか、と考えていた。ところが責任は、原因を作った方にはなくて、結果を、つまりは焼かれてしまい、身内の多くを殺されてしまった者の方にあることになる! そんな法外なことがどこにある! こういう奇怪な逆転がどうしていったい起こりうるのか!

 そうした怒りの感情の一方で、天皇に生命の全てをささげて生きる、当時の言葉で表現すれば「大義に生きる」ことを半ば受け入れる気持ちもあり、「この二つのものが私自身のなかで戦っていた。せめぎ合っていたのである。」とも吐露しています。
 1945年3月当時、堀田善衛は26歳。「方丈記私記」はそれから25年後の1970年に発表されています。東京大空襲の自身の経験を、平安末期の戦乱や政変、天変地異などを鴨長明が書き記した「方丈記」に重ね合わせて、歴史や人間の営みの普遍性と深く向き合った作品です。昭和天皇の視察はその中のごく一部なのですが、大本営発表を元にした戦意高揚の記事しかなかった当時の報道からは知り得ない情景です。
 家を焼かれ、家族を殺されながらも、「努力が足りませんでした」と涙とともに権力者にわびる精神性を、堀田善衛は「優情」という言葉で表現しています。権力者に対して、あまりにも優しい情感ということなのでしょうか。

 そうしてさらに、もう一つ私が考え込んでしまったことは、焼け跡の灰に土下座をして、その瓦礫に額をつけ、涙を流し、歔唏しながら、申し訳ありません、申し訳ありませんとくりかえしていた人々の、それは真底からのことばであり、その臣民としての優情もまた、まことにおどろくべきものであり、それを否定したりすることもまた許されないであろうという、そういう考えもまた、私自身において実在していたのである。
 もしそうだとしたら、そういう無限にやさしい、その優情というものは、いったいどこから出て来たものであるか。またその優情は、情として認められるものであるとしても、政治として果たしてそれをどう考えるべきものか。政治は現実に、眼前の事実として、のうのうとこの人民の優情に乗っかっていたではないか。政治がもしそれに乗ることが出来ない、許さるべくもないものであるとしたら、たとえ如何なる理由つけがなされても、のこのこと視察に出て来るなどということは、現実に不可能なことでなければならないであろう。
 支配者の側のこととしても、人民の側のこととしても、私には理解不可能であった。なぜ、どうして、というのが、二十五年前の焼け跡を歩いての、私の身体にいっぱいになっていた疑問であった。それは疑問である。つまりは、考えてみた上での、疑問であり、もしその疑問をトータルに提出しないとすれば、しかし、一切は、実はきわめて明瞭であって、理解も理解不可能もへったくれも、実はないのである。天皇陛下とその臣民であって、掌をさすが如くに明快であり、その明快さの上に居直ってだけいるとするなら、そこに何らの疑問の余地もありはしない。

 「優情」をめぐる堀田善衛の考察を目にして思い起こすのは、戦前に映画監督、脚本家として活躍した伊丹万作が敗戦翌年の1946年8月に発表した「戦争責任者の問題」と題した文章です。俳優、映画監督の故伊丹十三さんの父親です。
 「戦争責任者の問題」のことは、このブログでも何度も触れてきました。最初のブログ記事は2013年5月。安倍晋三首相(当時)が、悲願の改憲のハードルを下げるために、要件を定めた憲法96条の改変を模索していた時期です。
 ※参考過去記事

news-worker.hatenablog.com

 この過去記事で詳しく紹介していますので、関心を持たれた方は、お読みいただければと思うのですが、「戦争責任者の問題」は、内容から察するに、映画界で戦争遂行に協力した責任者を指弾し、追放することを主張していた団体に名前を使われた伊丹万作が、自分の考え方を明らかにして、当該の団体に自分の名前を削除するよう申し入れたことを公にした文章です。
 この中で伊丹万作は、敗戦後に多くの人が「今度の戦争でだまされていた」と言っていることを挙げ、「多くの人はだましたものとだまされたものとの区別は、はつきりしていると思つているようであるが、それが実は錯覚らしいのである」と指摘します。「一人の人間がだれかにだまされると、次の瞬間には、もうその男が別のだれかをつかまえてだますというようなことを際限なくくりかえしていたので、つまり日本人全体が夢中になつて互にだましたりだまされたりしていたのだろうと思う」というわけです。そして「だまされていた」と釈明することで戦争責任を逃れることができるのかと、たたみかけ、さらには「『だまされるということ自体がすでに一つの悪である』ことを主張したいのである」と強調しています。以下は、この文章の真骨頂だと感じた部分です。

 そしてだまされたものの罪は、ただ単にだまされたという事実そのものの中にあるのではなく、あんなにも造作なくだまされるほど批判力を失い、思考力を失い、信念を失い、家畜的な盲従に自己の一切をゆだねるようになつてしまつていた国民全体の文化的無気力、無自覚、無反省、無責任などが悪の本体なのである。

 このことは、過去の日本が、外国の力なしには封建制度も鎖国制度も独力で打破することができなかつた事実、個人の基本的人権さえも自力でつかみ得なかつた事実とまつたくその本質を等しくするものである。
 そして、このことはまた、同時にあのような専横と圧制を支配者にゆるした国民の奴隷根性とも密接につながるものである。

 さらには、日本国民の将来への「暗澹たる不安」をつづっています。

 「だまされていた」といつて平気でいられる国民なら、おそらく今後も何度でもだまされるだろう。いや、現在でもすでに別のうそによつてだまされ始めているにちがいないのである。
 一度だまされたら、二度とだまされまいとする真剣な自己反省と努力がなければ人間が進歩するわけはない。この意味から戦犯者の追求ということもむろん重要ではあるが、それ以上に現在の日本に必要なことは、まず国民全体がだまされたということの意味を本当に理解し、だまされるような脆弱な自分というものを解剖し、分析し、徹底的に自己を改造する努力を始めることである。

 堀田善衛が「優情」と表現した権力側の非を問おうとしない精神性は、伊丹万作が批判した、「だまされていた」と釈明することで免罪されるとの思考と表裏一体、ないしは通底しているようにも思えます。
 敗戦後、天皇は日本国憲法によって国民の統合の象徴と位置付けられ、政治からは距離を置くことになりました。では今、日本社会に権力者に対する優情はないのでしょうか。民主主義の社会では、権力は選挙によって合法性と正当性が備わります。だから、社会の一人一人が主権者として当事者意識を持ち、権力者が何をやろうとしているかをいつも見ていることが重要です。仮に、政治への関心を失い、「だれが政治をやっても同じ」と選挙にも行かないようなことになれば、それもまた形を変えた権力への「優情」ではないのかと感じます。戦争を始めるのは、いつの世でも、どこの世界でも権力者です。後で「だまされていた」と悔やむことのないように、今、自分自身に「優情」がないか、あるのならどうやって克服していくか、自身の内面と向き合うことが必要ではないか。そんなことを考えています。

 ※ウイキペディア「堀田善衛」
 ※ウイキペディア「伊丹万作」
 ※「戦争責任者の問題」は著作権フリーの青空文庫で読めます

www.aozora.gr.jp

 ※堀田善衛「方丈記私記」をご教示いただいたハンドルネームrakuseijinさんのブログ記事です。あらためてお礼申し上げます。ありがとうございました。

rakuseijin.exblog.jp

「中立」の壁を越えるジャーナリズムへ~MBS「記者たち~多数になびく社会の中で~」(視聴を推奨します)

 大阪市に本社を置く民放準キー局のMBS(毎日放送)は毎月1回、日曜深夜の0時50分から自局制作のドキュメンタリー番組「映像‘24」を放送しています。1980年4月に「映像‘80」で始まって以来、40年以上も続いており、質の高さで知られます。3月3日に放送された「記者たち~多数になびく社会の中で~」を、見逃し配信サイトのTVerで見ました。以下は、MBSの公式サイトにある番組内容の紹介の一部です。

 新聞もニュースも、なくなる日が近づいているのだろうか。過酷な現実は見たくない。エンタメに心地よく浸っていたい。日本の新聞の発行部数は、20年前の半分近くに激減した。
 社会の成熟度は、腐敗する権力を適切にチェックできるかどうか、よりマシな方向へ修正できるかにかかっている。だが、主権者である国民の判断を左右するニュースは弱っている。
 PV数など過剰な数字主義に走って、ニュースを「コンテンツ」扱いする。取材に時間をかけた調査報道より、炎上狙いのお手軽なコンテンツがネット言論で大量拡散される。記者たちを軽蔑し、叩く声がSNSに溢れる。言葉が軽く飛び交う社会でマイノリティーたちには差別が襲いかかる。
 こうしたなか、思いを託される記者たちがいる。隠される情報を掘り起こし、理不尽なことに真正面から闘って記者本来の仕事から撤退しない人たちだ。

 ※ https://www.mbs.jp/eizou/backno/24030300.shtml

【写真】MBSの公式サイト
 登場する記者は3人。琉球新報東京支社で防衛省を担当する明真南斗さん、毎日新聞記者を辞め、初任地だった広島に戻り被爆者の取材を続ける小山美砂さん、川崎の在日コリアンへの攻撃を始めとしたヘイトクライムを止めるために、時に街頭でレイシストから罵倒を浴びせられながらも、身を体して取材し書き続ける神奈川新聞川崎総局の編集委員、石橋学さんです。
 それぞれがどのような記者なのかは、実際に番組を視聴していただくのがいちばんだと思います。ここでは、わたしなりの感想を少し書きとめておきます。
 3人に共通するのは、「中立」の壁を超えたジャーナリズムだと感じました。マスメディアの報道現場でしばしば耳にするのは「中立公正」という言葉です。「中立公平」と呼ばれることもあります。どの立場、どの勢力にも与さず、客観的な立場で報道する、というのが本来の意味だと理解しています。
 例えば、あるニュースを深く理解するための一助として、その問題の専門家に取材して、新聞で言えば20行ほどの記事にまとめることがしばしばあります。「識者談話」と呼びます。一人だけではなく、異なった見解を持つ複数の専門家に取材し記事にすることで、多様な意見、ものの見方を紹介することができます。
 そうした「中立公正」は必ずしも悪いことではないと思います。しかし、自らの判断を抑えて、単に相対する意見をそれぞれ紹介すれば事足りる姿勢となるとどうでしょうか。特に人権に絡む問題では、人権侵害を止めることができるような変革が社会に必要で、そのために事実を社会に知らせるのがジャーナリズムの役割です。人権を侵害している側と、侵害を受けている側を対等に扱う、それが「中立」であり「公正」「公平」である、というようなスタンスで、その役割を果たせるでしょうか。「中立」は壁になってしまいます。その壁を乗り越えられるか、問われるのは報道する側の「人権」への感覚です。そのジャーナリズムの根源的な問題に、この番組は焦点を当てていると感じました。

 番組の冒頭は、琉球新報の明さんが入社2年目の2015年夏、米軍普天間飛行場の移設先として日米両政府が合意している辺野古で、反対運動を取材しているシーンです。番組の中で、明さんが口にしたいくつかの言葉が、印象に残ります。
 東京で過ごした大学時代、友人に「基地がないと沖縄はやっていけないんでしょ」と言われ、何も答えられなかったことが悔しくて、新聞記者になったこと、東京で取材するようになって気付いたのは、大手メディアの取材が政府や与党にばかり向かっていること、野党でもだれでも、等しく取材する沖縄のメディアと随分違うと感じると―。
 思い起こすのは、20年近く前、新聞労連の専従役員として初めて沖縄を訪ね、辺野古を見学した時に聞いた、地元紙の労組の方の言葉です。
 「東京から閣僚や与党議員が何度も視察に来ています。記者もたくさん付いてきます。でも皆さん、向こう側(閣僚や与党議員の側)からしか見ない。わたしたちと一緒に、こちら側から見れば、いろいろなことが見えてくるはずなのに」
 わたしが、沖縄の基地の過剰集中を自分自身にかかわる問題として意識した原点を、明さんの言葉で改めて自覚し、再確認できた気がしました。

 沖縄の基地の過剰集中の問題も、小山さんが取材する被爆者の認定の問題も、石橋さんが取材するヘイトクライムの規制の問題も、当事者は強大な国家権力や公権力と正面から対峙することを迫られています。力関係は全く対等ではありません。そして、問題の本質が広く知られることがなければ、この非対称は揺らぎません。権力にとってこれほど楽なことはありません。番組のサブタイトル「多数になびく社会の中で」の「多数になびく社会」とは、そういうことなのだろうと感じます。
 ではジャーナリズムにとって、「中立」に代わる言葉は何か。私見ですが「独立」ではないかと考えています。だれかのために報道するのではない。自分が「おかしい」と思ったら、それが取材の原動力になる。当事者が非対称の関係にあるのなら、立場の弱い側の声をより丁寧に聞き、社会に届ける。だけれども立場はあくまで「独立」。記者個々人のそうしたモチベーションを、マスメディアが組織として大切にすることも必要です。

 「記者たち」のディレクターは「教育と愛国」なども手掛けてきたことで知られる斉加尚代さんです。記者の仕事に関心がある若い人たち、記者の仕事に就いてまもない若い人たち、何よりも記者の仕事に「壁」を感じ、疑問を抱き始めた人たちに、ぜひ見てほしいと思います。
 TVerで来週いっぱいは視聴可能なようです。
 https://tver.jp/episodes/ep8zb6rg50

「沖縄の訴えを足蹴にするような暴挙」(琉球新報社説)~代執行訴訟、最高裁が上告不受理で終結

 米軍普天間飛行場の名護市辺野古への移設をめぐり、軟弱地盤の改良工事の設計変更を承認するよう、日本政府が沖縄県の玉城デニー知事に求めた代執行訴訟で、最高裁第1小法廷は、玉城知事側の上告を受理しない決定をしたと報じられています。2月29日付とのことで、3月1日に一斉に報じられました。福岡高裁那覇支部は昨年12月20日の判決で、設計変更の承認を知事に命じました。その後も知事は承認せず、斉藤鉄夫国土交通相が承認を代執行。ことし1月10日、既に工事は始まっています。
 高裁那覇支部判決は、結論としては日本政府の主張を全面的に認めつつ、「国と県が相互理解に向けて対話を重ね、抜本的解決が図られることが強く望まれている」と付言していました。このブログの以前の記事でも書きましたが、それこそが結論だったはずだと強く感じます。

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 最高裁は機械的な対応しか取れない機関だと言ってしまえばそれまでですが、極めて残念です。ことの本質は、沖縄という一地域だけの問題にとどまらず、同様に全国の自治体がいつ当事者になるか分からないことです。政府機関があたかも私人のように装うことで、自治体との紛争が別の政府機関に持ち込まれ、裁定されるようなことに本当に問題はないのか。素人目にも疑問なのに、政府の主張を丸ごと容認してしまう司法のありようには、主権者の一人として深刻な危機感を抱きます。

 最高裁の上告不受理に対して玉城知事は「憲法が託した『法の番人』としての正当な判決を最後まで期待していただけに、今回、司法が何らの具体的判断も示さずに門前払いをしたことは、極めて残念」とのコメントを発表しました。琉球新報のサイトに、記者団との質疑も含めた動画がアップされています。
※琉球新報「【速報・動画あり】デニー知事『門前払い、極めて残念』『新基地反対、つらぬく』 敗訴受けコメント 辺野古代執行訴訟、最高裁が不受理」
https://ryukyushimpo.jp/news/entry-2860693.html

【写真】コメントを発表する玉城知事(出典:琉球新報動画)
 琉球新報は3月2日付の社説で「責務を放棄した」「およそ歴史の審判に耐え得るものではない」などと厳しい言葉を連ねて、最高裁を批判しています。最高裁の裁判官たちに届いているでしょうか。
 ※琉球新報:社説「辺野古上告不受理 最高裁は責務を放棄した」=2024年3月2日
 https://ryukyushimpo.jp/editorial/entry-2860756.html

 「法の番人」はどこへ行ったのか。民意と地方自治に基づく沖縄の訴えを足蹴(あしげ)にするような暴挙である。司法のあからさまな政府への追随を許すわけにはいかない。
(中略)
 玉城デニー知事は「司法が何らの具体的判断も示さずに門前払いをしたことは、極めて残念」と述べた。沖縄の声に向き合い、公正に審理するべき司法としての責務を放棄したに等しい。上告に際し、県民が求めたのは実質審理であった。最高裁の上告不受理はおよそ歴史の審判に耐え得るものではない。
(中略)
 代執行訴訟の上告審で、県は沖縄の基地集中を放置する構造的差別と、日本全国に及ぶ地方自治の危機を訴えるはずであった。最高裁はこの機会を奪ったのだ。日本の司法はここまで後退した。

 沖縄タイムスは3月3日付で「代執行訴訟 県敗訴確定 国への権限集中を疑え」との見出しの社説を掲載し、「県敗訴が確定したことになるが、最高裁の判断に意外性はない」「地方分権改革の際、法定受託事務に対する国の関与を強化する制度を設け、日米安保体制の運用に支障が出ないような制度設計にしたからだ」と指摘しています。そして、以下のような懸念を示しています。

 懸念されるのは「台湾有事」を想定した沖縄の要塞(ようさい)化と、政府への権限集中の動きが、同時並行で進んでいることだ。その影響を直接受けるのは沖縄である。
 俳人の渡辺白泉は、日中戦争真っただ中の1939年にこんな銃後の句を詠んだ。
「戦争が廊下の奥に立ってゐた」
 太平洋戦争が始まったのはその2年後のことだ。
 国が進める離島から九州などへの避難計画には、この俳句ほどの現実味はない。
 白泉の一句を沖縄戦場化への警鐘と受け止めたい。

 今回の最高裁の決定は事前に予想できたこともあってか、東京発行の新聞各紙(朝日、毎日、読売、日経、産経、東京の6紙)はさほど大きくは扱っていません。3月2日付の朝刊で、1面に掲載したのは東京新聞のみ。朝日新聞は社会面。毎日、読売、産経の3紙は第2社会面、日経は総合面でした。関連の社説も2日付、3日付では見当たりません。

やはり「ザル法」温存したいのか~政倫審、岸田首相の弁明から読み取れること

 自民党パーティー券裏金事件をめぐり、衆議院の政治倫理審査会(政倫審)が2月29日と3月1日の2日間、開かれました。初日は岸田文雄首相(自民党総裁)と二階派の武田良太事務総長の2人が出席。2日目は安倍派から西村康稔・元事務総長、塩谷立・元座長ら幹部4人が出席しました。「首相として初めて」との異例さから注目されましたが、弁明の内容に新味はありませんでした。安倍派の幹部については、派閥の政治資金収支報告書への記載にどう関与したのかが焦点でしたが、4人とも否定しました。
 事前に予想できた展開であり、真相解明の観点からは進展はありませんでした。ただし、何の意味も見いだせないかと言えば、そうでもないように感じます。特に岸田首相を巡っては、東京発行の新聞各紙が消極的な評価の見出しとともに報じる中で、読売新聞の報じ方には「なるほど」と思いました。
 岸田首相の政倫審での発言については、東京発行の新聞各紙(朝日、毎日、読売、日経、産経、東京の6紙)は3月1日付朝刊で、1面をはじめ複数のページに関連記事を掲載して大きく扱っています。そのうち、事実関係を中心にした「本記」と呼ぶメインの記事の見出し2本分を以下にまとめました。

 岸田首相の弁明を巡っては、読売新聞だけは「岸田首相が前向きに語ったこと」を主見出しにしています。記事のリードでは「(岸田首相は)国会議員本人への罰則を強化する同法の改正を今国会中に実現する意向を表明した」とあり、再発防止に向けた法改正を国会で言明した、との位置付けを、ニュースバリューととらえていることがうかがえます。「おや」と思ったのは、しばらく読み進めてのことです。以下のようなくだりがありました。

 首相は「監督などで過失があった場合などに、その責任を問うという(公明党の)基本的な考え方は参考になる」とも語った。政治家本人の責任を問う場合、会計責任者への監督責任に過失があったかなど、条件付きとなることを示唆したものだ。

 やっぱりそんなことを考えているのか、と思いました。この事件では、派閥の収支報告書の虚偽記載で訴追されたのは、政治資金規正法に処罰対象者として明示されている事務方の会計責任者のみです。政治家を訴追するためには会計責任者との共謀を証明しなければなりません。捜査の上でも高いハードルになっているのは事実であり、罰則強化の方向性としては、共謀の有無を問わず、政治家本人の責任も問える「連座制」の導入が必要だと指摘されています。
 公明党の再発防止策の考え方は、政治家とその資金を扱う団体の会計責任者との関係について、政治家の監督に過失があった場合などは政治家の責任を問う、との内容であり、岸田首相がその考え方を取り入れ条件付きの法改正とする意向であることが明らかになったことを、読売新聞の記事は伝えています。
 政治資金規正法は、資金の流れを透明化するという法律本来の趣旨からも、政治家本人の責任を問うという観点からも抜け道だらけで、改正も重ねても「ザル法」と呼ばれるままです。政治家本人への連座制を導入するにしても、仮に「条件付き」となったらどうでしょうか。その条件のハードルが高ければ、今までと同じです。
 例えば、会計責任者の監督に過失があった場合は政治家本人の責任を問う、となっても、会計責任者が「政治家本人の指示に背いて独断で虚偽記載をした」と言い張ればどうでしょうか。政治家の過失を立証するのにも、現在の共謀の証明と同じように高いハードルがある、ということになりかねません。事件の教訓を生かし再発防止を期すと言うのであれば、一切の条件なしに、会計責任者の有罪確定という客観事実だけで連座制が適用できる仕組みでなければ意味はありません。
 「ザル法」が改正しても「ザル法」のままなのは、法改正の主体が当の国会議員たちであるからだ、ということがたびたび指摘されています。「政治とカネ」にルーズな政治家、中でも自民党の国会議員が、自らに厳しい対応を取るわけがない、ということです。今回の裏金事件で、どれだけ世論の批判を浴びようと、どれだけ内閣支持率、自民党の支持率が落ちようとも、そのことに変わりはないことを、政倫審で岸田首相自らが示しました。そのことが分かっただけでも、政倫審開催の意味はあったのかもしれません。読売新聞の報じ方に接して、そんなことを考えています。