夫れ諸宗の〜帰依を恐るるか

夫れ諸宗の人師等或は旧訳の経論を見て新訳の聖典を見ず或は新訳の経論を見て旧訳を捨置き或は自宗の曲に執著して己義に随い愚見を注し止めて後代に之を加添す、株杭に驚き騒ぎて兎獣を尋ね求め智円扇に発して仰いで天月を見る非を捨て理を取るは智人なり、今末の論師・本の人師の邪義を捨て置いて専ら本経本論を引き見るに五十余年の諸経の中に法華経第四法師品の中の已今当の三字最も第一なり、諸の論師・諸の人師定めて此経文を見けるか、然りと雖も或は相似の経文に狂い或は本師の邪会に執し或は王臣等の帰依を恐るるか

 仏教経典に新訳と旧訳があることを、初めて知りました……兄弟抄に云く

後漢の永平より唐の末に至るまで渡れる所の一切経論に二本あり、所謂旧訳の経は五千四十八巻なり、新訳の経は七千三百九十九巻なり(御書1079ページ)

wikipediaによると、唐の玄奘三蔵による訳経を「新訳」(しんやく)と呼び、鳩摩羅什から新訳までの訳経を「旧訳」(くやく)、それ以前を古訳と呼ぶそうです。
「旧訳の経論を見て新訳の聖典を見ず或は新訳の経論を見て旧訳を捨置き或は自宗の曲に執著して己義に随い愚見を注し止めて後代に之を加添す」る諸宗の人師等をバッサリと切り捨てます。
「株杭に驚き騒ぎて兎獣を尋ね求め」の部分は、『韓非子』の中の「守株」という故事によるものと思われます。
更に、「諸の論師・諸の人師」は、法華経法師品第10の「已今当の三説」を知っているはずなのに、「相似の経文に狂い或は本師の邪会に執し或は王臣等の帰依を恐るるか」(自らが拠り所とする経典に似た内容が書かれていることに迷っていたり、自らの宗祖の間違った考えに執着していたり、王や臣下が帰依してくれないことを恐れるから」という理由で、自分たちの誤りを認めないではないか、と推測され、次に、「相似の経文」について、破折をされています。

夫れ以れば〜之を尋討せよ。

夫れ以れば月支西天より漢土日本に渡来する所の経論五千七千余巻なり、其中の諸経論の勝劣・浅深・難易・先後・自見に任せて之を弁うことは其の分に及ばず、人に随い宗に依つて之を知る者は其の義紛紕す、所謂華厳宗の云く「一切経の中に此の経第一」と、法相宗の云く「一切経の中に深密経第一」と、三論宗の云く「一切経の中に般若経第一」と、真言宗の云く「一切経の中に大日の三部経第一」と、禅宗の云く或は云く「教内には楞伽経第一」と、或は云く「首楞厳経第一」と或は云く「教外別伝の宗なり」と、浄土宗の云く「一切経の中に浄土の三部経末法に入りては機教相応して第一なり」と、倶舎宗成実宗律宗云く「四阿含・並に律論は仏説なり華厳経法華経等は仏説に非ず外道の経なり」或は云く或は云く、而に彼れ彼れ宗宗の元祖等・杜順・智儼・法蔵・澄観・玄奘・慈恩・嘉祥・道朗・善無畏・金剛智・不空・道宣・鑒真・曇鸞道綽・善導・達磨・慧可等なり、此等の三蔵大師等は皆聖人なり賢人なり智は日月に斉く徳は四海に弥れり、其の上各各に経律論に依り更互に証拠有り随つて王臣国を傾け土民之を仰ぐ末世の偏学設い是非を加うとも人信用を致さじ、爾りと雖も宝山に来り登つて瓦石を採取し栴檀に歩み入つて伊蘭を懐き取らば悔恨有らん、故に万人の謗りを捨て猥(みだ)りに取捨を加う我が門弟委細に之を尋討せよ。

 冒頭、様々な宗派の名前をあげ、それぞれが「自分達こそが正しい」と主張しているため、日本の思想が混乱している、と述べられています。また、それぞれの宗祖の名前を列記し、「皆聖人なり賢人なり智は日月に斉く徳は四海に弥れり」(皆、聖人であり賢人である。智慧は太陽や月のように輝き、徳は天下に及んでいる)と持ち上げた上で、その主張を信じるのは、宝の山に登っておきながら瓦礫を拾い、栴檀(香木)に近づいて伊蘭(悪臭を放つ草)を取るようなものであると断じ、そうなれば「悔恨有らん、故に万人の謗りを捨て猥りに取捨を加う我が門弟委細に之を尋討せよ」(後悔するであろう。ゆえに万人からどのように非難されたとしても、これらの宗派の主張を取捨しなければならない。そして、我が門下の者は、詳細に諸宗の主張について、研鑽すべきである)と厳命されています。

扶桑沙門日蓮之を述ぶ

 まず、始めに「扶桑(ふそう)沙門(しゃもん)日蓮之を述ぶ」とあります。

■扶桑=古代、中国で日の出る東海の中にあるとされた神木。また、それのある土地。転じて、日本の異称。(『大辞泉/小学館』より)
■沙門=出家者の総称。サンスクリット語のシュラマナに相当する音訳語で、勤息(ごんそく)、浄志(じょうし)などと漢訳する。剃髪(ていはつ)して善に努め、悪をなさず、身心を制御して悟りを得るために努力する人をいう。彼らは古代インドにおいて、正統的伝統的な思想家であるバラモンに対して、古来の階級制度やベーダ聖典の権威を否認した革新的な思想家であり、民衆のことばである俗語を使って教説した。仏教の比丘(びく)たちも沙門の一部。(『日本大百科全書/小学館』より)

 あえて、「扶桑沙門」とご自身のことを言われたのは何故か。今後、思索の対象としていきたいと思います。御書の中では、「本朝沙門」という記述が多いようです。本朝とは、「わが国の朝廷。転じて、わが国」(『大辞泉/小学館』より)ですので、「扶桑」も「本朝」も同じ意味かと思われます。
 上記にあげた沙門の意義からすれば、伝統的宗教観に対して、革新的な宗教観を示すという宣言なのかも知れません。

法華取要抄

 文永11年(1274年)5月24日、日蓮大聖人が53歳の時、身延から下総国(しもうさのくに=千葉県)の富木常忍(ときじょうにん)に与えられた書。略して取要抄といいます。
 十大部の一つで、御真筆は中山法華経寺にあります。また富士大石寺には日興上人及び日目上人の写本が存在します。

 文永11年3月26日、流罪を赦免(罪や過ちを許されること、なので適切かどうかは疑問)された日蓮大聖人は佐渡を出発して鎌倉へ戻られ、5月12日に甲斐国(かいのくに=山梨県)の身延山に入られているので、身延に入ってから12日後には執筆されていることになります。

 法華経の要中の要である三大秘法の南無妙法蓮華経こそ、末法弘通の本尊であることを明かされています。