『子供の死を祈る親たち』(押川剛)

子供の死を祈る親たち (新潮文庫)

子供の死を祈る親たち (新潮文庫)

我が家では、児童精神科医佐々木正美先生の『子どもへのまなざし』にしたがって育児をすると決めている。佐々木流の子育てとは、「子供の要求にはすべて答えよ、子供が要求していないことには、手も口も出すな」ということだ。本書に描かれた親御さんたちは、佐々木流と真逆の子育てをしてきた人たちに思える。ただ、佐々木流のように見えて、実は違う、という子育てもあるようで、これは落とし穴だなあと震え上がった。ちょっと書き抜いておく。

P61
「たとえば、自転車や勉強机など、桂一が使う物を購入するとき、『どれがいい?』と聞いておきながら、桂一が決めた物には嫌な顔をする。そして結局は、親の気に入った物を購入することになる。『友達を作れ』というわりには、相手の欠点をあげつらう話ばかりする。趣味やスポーツにしても、『何かやったら』と勧めながら、親の意に沿わなければ文句を言う。
そこに親としての信念があったなら、桂一も納得できたのかもしれない。しかし桂一が『なぜダメなのか』と尋ねても、明確な答えは返ってこなかった。しつこく尋ねれば、感情的に叱られるか、無視されるかという対応だった。」


p242〜243
「たとえば桃子さんは、幼少期にバレエやピアノ、英語教室など、習い事をいくつもしていた。両親はそれについて、『娘がやりたがることはなんでもやらせた』と話していた。だが桃子さん自身は、あくまでも『母親に言われたから、やっていた』と話す。
 持ち物にしても同じだ。桃子さんは子供の頃から、ブランド物の洋服や高級な玩具を与えられて育った。桃子さんにしてみれば、それは親の趣味であり、親が勝手にしたことだが、親の中では、『娘が欲しがる物は何でも与えた』という認識にすり替わっている。」

本当に、これは子供が求めていることなのか、それとも親の私たちが望んでいることなのか、ということに、常に意識的でなければなあ、と思った。『子どもへのまなざし』をもう一度読み返しておこう。

一つ、気になったこと。
引きこもりについては、斎藤環先生の本を随分読んだ。夫にも話を聞いた。二人とも、引きこもりや、その背後に精神疾患があったとしても、それが親のせいとは限らない、という。というか、原因は複合的な場合が多いので、一つに決められない。環境だけでなく、遺伝もあるし、本人の気質もあるし、あるいはまるで神様に選ばれたように統合失調症うつ病になる人もいる。親御さんに問題がある場合、治療が進まないということはあるけれど、子育てに失敗すると精神疾患になる、という見方はちょっと短絡的な気がする。原因探しをするよりは、治療をして、そのあとどういう風に生活をしていくか、具体的に詰めていくことの方が大事なんじゃないか、という。

地域移行の落とし穴の話は興味深かった。地域移行はそれまでの精神科病院への反動として出てきたもので、それはそれで意義のあることだけど、完全な地域移行にはそれなりに周到な準備が必要なのだろう。その準備の一つに、一般市民である自分たちの、精神疾患の人々への偏見や差別をなくすということがあるんだろう。

『夫のちんぽが入らない』(こだま)

夫のちんぽが入らない(扶桑社単行本版)

夫のちんぽが入らない(扶桑社単行本版)

なんか、すごい本を読んでしまった。いったいどういう障害でそうなるかわからないが、夫とだけ、性交ができないという。その上、教員時代、学級崩壊でうつ病(と思われる)を病み、免疫不全障害となる。夫は精神的に強い支えとなるパートナーであるのに、性交ができない。
我々夫婦も、同じではないが、似たような状況で、結局、不妊治療を選んだ。
病院の待合室で、人工授精の順番を待ちながら、あるいは妊娠判定を待ちながら、ソファーから滑り降りて、跪いて、いや、床にひれ伏して祈りたいと思った長い月日を生々しく思い出した。子供ができれば有頂天で、その日々を忘れがちだ。でも、忘れちゃいけない、絶対に忘れちゃいけないと改めて思った。
そしてもう一つ、田房永子さんはじめ、この世代(30代後半から40代前半)は、どういうわけか、母親の影響が強い。自分もその世代に入る。高度成長期あるいはバブル期の専業主婦というのは、非常にストレスフルな状況に置かれていたのではないかという気がする。第3次ベビーブームが来ず、少子化が始まった理由は、ひょっとしたら、この母親と父親たちにあるのではないかという気がする。

心に沁みた言葉

P195

子を産み、育てることはきっと素晴らしいことなのでしょう。経験した人たちが口を揃えて言うのだから、たぶんそうに違いありません。でも、私は目の前の人がさんざん考え、悩み抜いた末に出した決断を、そう生きようとした決意を、それは違うよなんて軽々しく言いたくはないのです。人に見せていない部分の、育ちや背景全部ひっくるめて、その人の現在があるのだから。それがわかっただけでも、私は生きてきた意味があったと思うのです。そういうことを面と向かって本当は言いたいんです。言いたかったんです。母にも、子育てをしきりに勧めてくるあなたのような人にも。

「美しい」ってなんだろう?―美術のすすめ (よりみちパン!セ 26)

「美しい」ってなんだろう?―美術のすすめ (よりみちパン!セ 26)

カバーをはずすと、カバー裏に美術品の大きさ比較がカラーでプリントされている。すごいコストがかかっている。これで1400円ってすごい。
森村さんの言葉は時々とても勇気づけられる。本書でもっともはげまされた部分。

P108〜110

「ものまね」のすすめ
世の中ではオリジナリティのたいせつさが強調されることがおおいと思います。他人のものまねではなく、自分独自の世界を持つべきだ、個性的であれ、そのようにお説教されたことはありませんか。
 私の考えかたは、ちょっとちがいます。まずはものまねをしろ、と私は言いたい。なんでもいいんです。あんなふうな生きかたをしたいと思えるひと、いいなあと感動できる絵、あんなふうに書けたらいいなあとなんども読みかえしてみたくなる小説、なんでもかまいません。そういうあこがれの対象を見つけたら、それをおおいにまねることです。さいしょに言ったように、「まねる」ことは「まなぶ」ことにつながるのですから。

 でも、まねたらそれでOKというわけではありません。まねた世界になにかをつけくわえたり、ちがう角度からながめたりしてみてください。画家マネがしたことはそういうことでした。
 さあ、ではこれで終わりかというとまだまだです。なにかをまねることで生まれたあなたの世界に、さらに変化をつけていかねばなりません。こうかな、いやああかなといういろいろな思いが生まれてくるはずですから、こんどはそれらをたいせつにしつつ、アレンジをくわえるのです。
 まねをした世界をてがかりに、いわば、まねのまね、そのまたまねのまね、と続けていく。こういう一歩一歩の「まねる」歩みが、ついにはもとの世界とはまったくちがう新たな世界を、知らないあいだにうみだしていくことになる。

 科学的な発明や発見、芸術的な独創性、こういったものは、とつぜん生まれるわけではないのです。すごいなあ、いいなあと感動できる先輩たちの業績に影響され、それらをまねて、いろいろやっていくうちに、いままでになかった新しい世界が開けてくるのです。
 無から有は生まれません。まずは、「すばらしい!」とすなおに感動できる世界を見つけだしてください。そしてそれをまねてください。すべてのはじまりはそこにある。私はそう信じています。

チェルノブイリの祈り 未来の物語(スベトラーナ・アレクシエービッ

チェルノブイリの祈り――未来の物語 (岩波現代文庫)

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『教師の資質 できる教師とダメ教師は何が違うのか? 』諸富祥彦