おもしろかった本2023年

今年は、読めた月と全然読めなかった月の差が激しかった。
前半は、大した量ではないけど、大江健三郎を集中して読んでいた。当然まだ未読作品は残っている。亡くなったからって読み出してどうすんだという気もするが。
そして1冊何かを選ぶなら、やっぱりバルト『テクストの楽しみ』かな。読んでいる間のワクワク感半端なかった。頭の中でイメージとイメージ、イメージと言葉、言葉と言葉、が結びつき続ける感じ(想像界象徴界のたえまない接続?)。

坂口恭平『けものになること』
坂口さんの小説は初めて読んで、その縦横無尽さに感動。他を読みたいと思いつつなかなか手が出ない。『建設現場』か『家の中で迷子』のどちらかを次は読みたい。

アナ・チン『マツタケ 不確定な時代を生きる術』
昨年末から読み始め年明けに読み終わった。ともかく雑多で、博覧的?な本。

深澤直人『ふつう』
鼻につくくらいまでに研ぎ澄まされている。

大江健三郎『われらの狂気を生き延びる道を教えよ』
「生け贄男は必要か」という、自分にとっての大江健三郎ベスト短編に出会うことができた。これをベストにするというのもどうかと思うが。

青山真治『宝ヶ池の沈まぬ亀Ⅱ ある映画作家の日記2020‒2022 ―または、いかにして私は酒をやめ、まっとうな余生を貫きつつあるか』
ともかくこの本を読み終えた時の、放心状態というか、何も考えられなくなった時のことを覚えている。

立ち直り直し続ける、というのはえらく婉曲な言い回しだがどうもそのようになる。もしかすると立ち直るということはとうとう訪れず、今後も繰り返し立ち直りをやり直しながら前へ進む、ということのような気がしてならない。(p344)

大江健三郎『水死』
恐るべき強靭さで書き連ねられていくモチーフ。そしてどうやらこのモチーフをずっと抱え続けていたと思われ、常軌を逸してるだろと思った次第。しかしそれが小説家なのかもしれないから別に逸してないのか。

坪内祐三『本日記』
全くの偶然で手にとって、とはいえ本を手に入れることは常に偶然性の営為ではあるけど、ともかく読んでいる間ひたすら共感し続けられた、そのし続けられたことがすこし怖かったくらい。ツボちゃんほどの知識量、貪欲さはわたしにはないけど。それにしても多分、今思えば再読だった気もするが、他の日記だったのかもしれず、記憶は曖昧。

アラン・ロブ=グリエ『弑逆者』『反復』
なぜか今年2冊のロブ=グリエを読むことができた。読んでる最中のおもしろさ、読み終わった後の何を読んでたかわからなさ。

マルセル・プルースト失われた時を求めて5 第三篇 ゲルマントの方へⅠ』『失われた時を求めて6 第三篇 ゲルマントの方へⅡ』『失われた時を求めて7 第四篇 ソドムとゴモラⅠ』
今年も!読み切ることが、当然のようにできなかった。いつ終わるんだ。ただこれまでと違うのは、プルーストの筆致、今作の展開が自分の身に染み込んでいるので、いつでも読み進めを再開できるという自信が備わったということ。今年は何を読んでも、例えばロブ=グリエでも大江でもウルフでも、そして何よりナボコフも、プルーストを想起してしまい、というかこれら全ての作品、作家はプルーストを前提として小説を書いてるんだなと、めちゃくちゃ当然のことに気づいた。はっきり言って、どんな小説よりおもしろい、とわたしには思える。まだ読み終えてないけど。


『世界』2023年8月号
ツイッターで入手困難という知らせを見なかったら買わなかったし読まなかった、と恥ずかしながら書かせていただく。てかこれを毎月買って、読み切ってる人がいるのか?内容厚すぎ深すぎて読んでいてめちゃくちゃ疲れた。

伊藤彰彦『仁義なきヤクザ映画史』
映画制作の闇、いやもしかしたら光、映画館で放たれる光とは違う別の光についての本。前者と違い後者の光の中では偽物ではなく本物の死がある。

東浩紀『訂正可能性の哲学』
これは別にディスではなく書くが、極限まで構築しきった哲学の理論から、紆余曲折あって、この"言い訳"に満ちた哲学ができあがったのは、なんだか感慨深い。「訂正可能性」にも「哲学」にも両方"言い訳"というルビがふれる。つまり『言い訳の言い訳』?

トーマス・ベルンハルト『消去』
がんばって読み、おもしろかったが、当分ベルンハルトはいいかな…と思いました。疲労感、徒労感、アンチヨーロッパ、アンチ近代社会。小説を書こうと思っても書けない、というのもまた『失われた時を求めて』じゃねえか!

兼本浩祐『普通という異常 健常発達という病』
兼本先生の本は毎度むずい。と言いながらちょこちょこ読ませていただいている。今作はタイトル通りなわけですけど。他者性、ラカン的な話とか。郡司ペギオ幸夫『やってくる』すぎることが書かれてたのですぎるなぁと思ってたら終盤で登場したのでやっぱりって感じ。

ヴァージニア・ウルフ『自分ひとりの部屋』
これもまたなぜか今更買って今更読んだ。もはやこれはただのウルフの小説だ。

各人は、状況次第で些末事だったり重要事だったりする他の用事にいつでも応じられるように、言わば気もそぞろになりつつ、やりかけのことを続ける。(p232)

佐々木敦による保坂和志(仮)』
保坂さんの放言がちょこちょこ読めてよかった。というか近年の保坂和志作品に何かを語るなんてとんでもなく難しいと思う。小説を書き始めたあっちゃんは真摯だ。

ロラン・バルト『テクストの楽しみ』
バルトも、毎回読んでおもしろいのだけど次が続かない。まだ読んでないものが山ほどあるが。喪の日記か声のきめ、どちらかを読みたいと思ってる。

『矢野利裕のLOST TAPES』
これにしても、佐々木のあっちゃんのやつにしても、文フリで売り出したものをあとから必死こいて入手しようとしてるから、いい加減文フリ行けよという話かな。矢野さんのECD追悼文を、ネットで何かのたびに読んでいるんだけど、それが今回書籍となったので、それを手元に置いておきたく買った。

片岡一竹『ゼロから始めるジャック・ラカン ─疾風怒濤精神分析入門 増補改訂版』
ラカンの本、ラカン自体も解説もそこそこ読んではきたが、よくわかっていないことが大半だったので、今回これを読んでなんとなく理解が進んだ気がした。気がしただけか?
また、精神病との対比でサラッと神経症について説明されておりそれがわかりやすかった。

ほそやゆきの『夏・ユートピアノ』
漫画を読んでないわけじゃないが、連載しているものが多いので、おもしろい本としてとりあげようと思うものとなると、そんなに数がない。そんな中、本作は度肝抜かれるすごさだった。こういうすごさ、洗練、センスの良さは、自分にとっては漫画でしか得られないものだ。

最後にこの本をあげる。来年は読み終わりたい。

2023年によく聴いた音楽

ベストアルバム云々みたいなタイトルがしんどくなったのでやめた。シンプルに。

アルバムは、聴いたら良さがわかるR&B、みたいなのが多くて、そういうものに関しては、輪にかけてあまり言うことがない。順位はつけてないけどしいて上位のものを選ぶなら、Sampha、トラヴィス、JPEGMAFIA & Danny Brown、5lack、ジャネールかな。

Sampha『Lahai』
吃り、澱み、突っかかる音、リズムの上を浮遊する、わたしの身体に近しく響くこもった歌声。

JPEGMAFIA & Danny Brown『SCARING THE HOES』
ひたすらのちうちまわり、暴れ回る。アバンギャルドでフリーキー。サンプリングのセンスしかり、時空が歪みきってる。しかしなんつータイトルなんだ。

5lack『Try & Error』
クセが強く、最早こぶしが効いてると言えるくらいの歌心を感じるラップ、ニヤニヤしてしまう。こういうイルさを求めてヒップホップを聴いている。トラックもトバしてる。リリックのささやかで絶妙なボースティングも、2023年のスラック(わたしの一個下)を思って、グッときてしまった。『My Space』 『Whalabout?』(共に2009年)から14年…わたしの14年…。

JJJ『MATTUB』
激クールで男前すぎる。

野口文『botto』
なにがなんだかわからないままに見つけ、聴いたアルバム。今でもなんだかよくわかってない。誰なんだ。良いです。ばらばらな曲、バラバラなラップ。

KIRINJI『Steppin' Out』
日本で一番アクチュアルでポリティカルな音楽をやってる人(たち)かもしれない。「説得」「ほのめかし」の恐ろしさ(その2曲を並べるセンス!)。それでいてすさまじくポップ。

NORIKIYO『犯行声明』
今年一番聴いたラップかも。全曲ひたすら同じことを言っている。同じことを繰り返し、言い方を変えてひたすら言い続けるのがヒップホップなのか?言い換えて駄目押し。わかるまで何度でも言う。無論わかることのない相手なので言うことは無くならない。

Janelle Monáe『The Age of Pleasure』
現代の(あえて使いますが)ブラックミュージック として全く隙がない。俳優もやって音楽もこれなのすごいな(バカの感想)。

Black Milk『Everybody Good?』
ひたすらにスムースでムーディ。

cero『e o』
オリジナルすぎ、似たような音楽やってる人たちがいなすぎる。複数のジャンル同士の境界を跨いで、そのどれにも、どこにも居座らず動き続けてる。インスト版もよかったです。

崎山蒼志『i 触れる SAD UFO』
崎山くん、いや崎山さんなりのR&B、ソウル、ダンスミュージックなので最高。これまであまりハマれなかったけどこれはよかった。サンプルなのかわからんけど、わけわからん音がたくさん使われてて良い。

NCT DOJAEJUNG『Perfume - The 1st Mini Album』
このくらい(?)がいいんです。良いビートに次ぐ良いビート。やっぱり韓国語の響きはビート感強い。ひたすらアゲてくれた。

SAW『AZMATIC』
最初に聴いた瞬間うれしくて笑ってしまった。わたしの大好きな2000年代のスモーキーで不穏なラップミュージックをちゃんと今やるの好きすぎる。

billy woods & Kenny Segal『Maps』
なんか、キモかっこいい。変なトラックに変なラップ。

Kwaku Asante『Inside Out』
アルバムも出てたんだけど、こっちをよく聴いた。ソウルフルで良い。

TOMOO『TWO MOON』
いわゆるファースト特有の、全曲はずれなしのアルバム。TOMOOさんの歌声はシリアスで似てる人がいないオンリーワンな感じがする。

bringlife『Bringlife the movie vol.1〜Return to Ofuna〜』
泣けてくるマジの今の日本のリアルがある。駿サンプリングとかやばいねぇ。

田我流『OLD ROOKIE EP.1』
田さんのリリックは自分にとってかなり共感でき、ともかくめちゃくちゃかっこいい。それでいて少し情けなくもあり、逞しくもある…。

Travis Scott『UTOPIA』
1曲目が流れた途端きたきた!とテンション爆アガり。わたしは、現代のUSヒップホップにはこういう奇天烈さを求めています。

reina『You Were Wrong』
なつかしさを覚えます。

Kassa Overall『ANIMALS』
よくわかってないが、1曲の中の展開、使われてる音がコロコロ変わっていくこのむちゃくちゃさに飽きることなくずっと聴いてられる。

左右『Songs for ASU NO AH』
サブスク解禁が今年だったので自分にとっては今年の新譜ということで。なんだかんだで通年聴いていた。当たり前だけどシャッフルでこのアルバムの曲が流れるたびハッとする。歌詞が"今"すぎる。

ANARCHY『My Mind』
一番好きなラッパー(のひとり)。何かとんでもないことが起こってるが、それをはっきりとわからせない、不穏さを匂わせるリリック、というのもヒップホップの文化において大切なものだというのをあらためてわからせてくれる。こういうアタック感?が強いトラックでラップしてくれるのがいい。

Walker『Good Man』
しかしこのアーティスト名、適当すぎない!?めっちゃ検索しづらいな。いや、それを目的としてるなら申し訳ないけど。
と、いうことは曲とは関係なく。ベニー・シングスみたいですね、とか言うと元も子もない。でもそんな感じ。ベニー・シングスが好きな人は聴いたらいいと思う。ブルーアイドソウルってことなのかね?なんかよくわかりません。

Nas『Magic 3』
最初に聴いた時あまり引っかからず流してしまったけど後から聴いたらやっぱりよかった。毎年選んでますね。これは最早ただのファンだな。「Japanese Soul Bar」ってタイトルかっこよすぎ。

Bruno Major『Columbo』
なんだか泣けますねぇ。

JIHYO『ZONE』
今年一番繰り返し聴いたK-POP

イハラカンタロウ『Portray』
こういうリッチなポップスが聴ける幸せ。

dawgss『INORI』
センスいい!

松下洸平『R&ME』
聴いた瞬間あまりに良くてたまげたねぇ。クオリティの高い、自分なり(まさに「&ME」!)のジャパニーズR&B、ソウルを実現するプロデュース力高すぎる。

Campanella『Mi Yama』
ビシビシキマりまくるラップと浮遊感がありつつソリッドなトラック、かっこよすぎ。

シングルでいうとこんな感じです。こうして並べたらヒゲダンと藤井風くんばっかりだ。あとアニソン。でも多分一番聴いたのは「風を切って」。

Reol「切っ先」

Awich, NENE, LANA, MaRI, AI & YURIYAN RETRIEVER「Bad Bitch 美学 Remix」

野呂佳代「肩にインコ」

宇田川別館バンド「つつみ込むように・・・feat.木村イオリ」

KID FRESINO「that place is burning feat. ハナレグミ

tofubeats「自由」

Official髭男dism「TATTOO

YOASOBI「アイドル」

NORIKIYO & 田我流「風を切って」

Official髭男dism「ホワイトノイズ」

Kawaguchi Yurina×ガンバレルーヤ「Cheeky Cheeky」

森 & Shinichi Osawa「YAZAWA

Ayumu Imazu「HONEYCOMB」

松本美定「光線」

藤井風「Workin' Hard」

TOMORROW X TOGETHER, Jonas Brothers「Do It Like That」

三浦大知「能動」

タニタツヤ「青のすみか」

Midnight Grand Orchestra「夜を待つよ」

音田雅則「fake face dance music」

Official髭男dism「日常」

SEKAI NO OWARI「最高到達点」

サザンオールスターズ「Relay〜杜の詩」

三宅健「Ready To Dance」

前園ケイジ「SO SO」

Ado「クラクラ」

Creepy Nutsビリケン

岬なこ「スイートサイン」

藤井風「花」

Official髭男dism「SOULSOUP」

OZROSAURUS「Players' Player feat. KREVA

梅田サイファー「アマタノオロチ」

のん「Beautiful Stars」

若手芸人HIPHOP同好会「アピールタイム」

最後はこのアルバムを載せて終わります。

常識では考えられないビートたけしの"ビークー"(北野武『首』)

ビークー、じゃなくて『首』、というタイトルで思いつくのはやっぱり、仕事を辞める時の「クビ」だ。漫才のオチとして「やめさせてもらうわ」というフレーズがあるが、もちろん東京の漫才ではあまり見られない。どっちかというと相手に「やめなさい」と言う感じか。多分ツービートもやってなかっただろう。本作は、やめる気がない、やめるとしたら死ぬしかない人々の話だ。劇団ひとり浅草キッド』における北野武が言う、「おもしれえ死に方して笑わしてやるよ」というセリフを想起する。閑話休題

それにしても本作は北野映画史上、最も「車まわした」映画じゃないだろうか。めちゃくちゃ車まわさせてたなぁ、たけしさん。実際に車まわしたり、まわさせたりしてた『アウトレイジ』より、『首』の方が車まわさせてたな。そしてなぜか、ガキ使における遠藤たけしによる、結果的にたけし軍団の誰もたけしに従わず、誰も車をまわさないという奇妙な事態を描くことになってしまう、過剰に反復されたモノマネを想起する。またしても閑話休題

…というか、わたしの語ることは全て閑話なんですが、それはそれとして上記内容は、どれもわたしの身に染みついている「お笑い」的な話題で、そこからとてつもなく無理やり映画の話をするならば、暗黒舞踏(のようなもの?)、能、タップといった、身体と直接連動し、外部によって時間的にも空間的にも切断されず、運動そのものの姿が観客の前にあらわになる表現を出さずにいられないのは、これまた身一つで、語りだけで表現する(ものだと自身で規定している)お笑い芸人として、監督がシンパシーを感じているからかもしれない(劇団ひとり監督作品にも同様のものを感じる)。

それにしても、秀長、官兵衛といる時に声を張り上げる秀吉、あんまり笑い的に安定してない布陣の時に気遣ってるたけしさんじゃん、と思ってしまったな。
そういう意味では私が考えるキャスティング、この映画に出ている人で当てはめるなら、秀長は劇団ひとり、官兵衛は荒川良々だろう。でもそれやるとあまりにおもしろくなりすぎてしまうから自重したのだろう(?)。
…あと、まさかとは思うが、官兵衛=安住紳一郎、とかがあったんじゃないかな。まぁ、わかんないっすけど…。

そして、お笑いにおいても、映画においても、北野武がことあるごとに、様々なエピソードに擬態させ、または変奏して語る、最も成功した瞬間に、全てを台無しにするやらかしを起こす、という出来事(の妄想)が、本作でも繰り返されることになる。
そしてわたしはなぜか、劇中には存在しない腹上死を幻視してしまう。『アウトレイジ』にはあったか?でもあれは、女性が死んだのか…。
つまり、極上の快楽を得た次の瞬間に事切れる、というイメージだ。その時人間は、永遠の快感を得ることができるのだろうか?

抱きしめるということは相手を死に至らしめることが可能になる、ということでもある。お互いを刀で刺しあう、「刺し違える」ことも起こりうる。刺すものが棒状であることにも含意がある、としか言いようがない、陰陽の形を模して死体を晒す、新左衛門と間宮のエロティックな死に様。
接近という現象は親密さと拒絶、労りと暴力を同時に含み、実現する。さらに、そうして近寄った相手を殴ることはつまり、最早、相手に殴られたいという願望を示すことと同義だ。仕返しされたい、刺した相手に刺されたい、与えた傷を自分に転移させたい(血だらけで傷ついた口に貪りつく信長!)という欲求。さらに果ては相手も不要となり、自分で自分の腹を切り、首を落とす。
しかしこうした現象は、ある固定され、閉鎖された関係性の中でしか成り立たない。だから、その構造の部外者たる茂助や秀吉にとっては、武士たちの奇妙な死に方は自慰行為でしかなく、それゆえ、はっきり見ることもせず、見たとしても呆気にとられて理解に苦しむだけで、その行為に価値を見出したりなどしない。だから、首を蹴り飛ばすこともできるわけだ。

ただ、安易に二項を立てて、それらを対立させたいわけではない。本作の二項、ないし二極の、結局のところどちらにおいても、生命は軽んじられ、問題解決の一番簡易な方法は死しかない。その死が、自己の成功のために蹴落とすべき他者のものなのか、自分自身をも含んでしまっているか、の違いはある。「どうせお前、死ぬけどな」と半笑いで、まるで気軽に友人に話しかけるがごとくつぶやく秀吉と、「人間すべて遊び」であると怒り狂って怒鳴りちらす信長(そして、自ら死に追いやろうとする檻の中の想い人へきんに君ばりの暗黒微笑を向け、近代と断絶した武士の思想を語り、「わかんないよ!」と泣きつかれる光秀 a.k.a. 闇シロさん…)。
そうして、本作も当然、北野映画における軽口、唆しの系譜に連なることになる。言葉によって容易く状況は悪化し、人が死ぬ。
教唆煽動の筋道は、立ちすぎていてよくわからなくなる、または、その筋道が開示されておらず、事後的に語られるがゆえに、あらかじめ筋道を理解した上で見ることができない、というような感じだ。どちらにせよややこしい。

『レジェンド&バタフライ』に続いて本作も、見ていてスコセッシ『沈黙-サイレンス-』(のグロテスクさ)を思い起こさずにはいられなかった。いやそれはもしかして、大島渚なのかもしれないが…それは自分は不勉強のためよくわからない。終盤の森の中のシーンは少しだけ『イングロリアス・バスターズ』のようでもある。
タランティーノにも北野武にも、ともかく何もかも根絶やしにする、という願望が潜んでいるように思える。そう言いつつもタランティーノは、どこかで次の世代に何かを残そうとしてはいるけど(それがたとえ私生児であっても)。あ、『シン・仮面ライダー』っぽいカットはマジでそうだったと言わざるを得ない。あそこは武さんが(東宝スタジオの編集室で?)シンカメ見て真似たのか?

ところで、完全に風雲秀吉城すぎる、川を渡る時に運ばれる秀吉が、運ばれながら、息も絶え絶えで、ゆるやかに嘔吐するシーンが、何かしこりのように、頭の中に残ってる。疲れ、死が間近に迫っているような不吉さ……。

《映画の冒頭シーンのところで入ってくる人々は「ほんの少しの見逃しですんだ」かもしれないが、すでに着席している側は「大切な大切なファーストシーンの場を乱され」ている》のか?

《映画の冒頭シーンのところで入ってくる人々は「ほんの少しの見逃しですんだ」かもしれないが、すでに着席している側は「大切な大切なファーストシーンの場を乱され」ているのだ。》というツイッターのつぶやきを見て、批判とかではなくあくまでこれをきっかけとして自分で考えてみた。

映画が、その誕生から、《大切な大切なファーストシーンの場》があると考えていた人々のためのメディアであったかと言われれば多分そんなことはなかった。むしろ《冒頭シーンのところで入ってくる》ような人々が主たる対象者であった気がする。
たとえば本当に《大切な大切なファーストシーンの場》があると考えられていたならば、シアターの扉が施錠されてもいい。曲の途中の入場を制限されるクラシックのコンサートのようであってもよかった。だが、原始の映画館(おそらく「館」ですらなかっただろう)から今日に至るまで、おそらくそのようなことは行われていない。
別に上映途中に入ってくることを肯定するわけではないし、自分が入ってこられた側ならイラっとするかもしれない。

…しかしここで自分を「入ってこられた」側と書くことの奇妙さがあるが、それはまた別の問題か。ここにおいて、ある観客は、映画=映画館=自分、と全てを同一化してる。我々は、同じスクリーンを前にして観客同士で共感し連帯することなくむしろいがみあうのか?いやむしろ、同じスクリーンではなく観客それぞれの個別のスクリーンがあるだけかもしれない。脱線した…。

ただ、《映画の冒頭シーンのところで入ってくる》ことを、さも一般論的に、ないし常識的にあり得ない、とするような、ないし、映画は"ハイ・アート"である(もちろんそんなことはない)かのように取り扱う言説に抵抗があるだけだ。前述のツイッターのつぶやきがそうである、とまでは言い切れないけど。
このつぶやきの当人の方はどうやら作り手側の人っぽいので、自分の大切な作品をそんな「消費」の仕方してほしくない、ということかもしれない。1秒も見逃してはならない芸術作品のように「鑑賞」してほしい…みたいな?
ただ、腰を据えて見る、見てほしい、という考えに対して、腰を据える(ことが可能である)ことの特権性、というのもあるな、と思ったりする。そんなもんに特権性とか言いたくないし、誰でも好きな時に腰を据えられる社会になってほしいが。
そして、家の小さなテレビで、NetflixだのAmazonプライムビデオだのディズニープラスだので映画(らしきもの)を見ている自分を肯定したいだけかもしれない。

それはそれとして(なにが「それはそれとして」なのか)、一般的な映画館、などは存在せず、あるのは「個別の映画館たち」だと言ってしまいたくなる。映画にも事情があるように、観客にも事情がある。そして映画は一回性のメディアではない。だからこそ"ハイ"になり得ない。

仮初に集う(宮﨑駿『君たちはどう生きるか』)


死者と再会することはできる、だがわたし(あなた)が望む姿形、場所でのそれではないし、またそれは一時的でしかないため再び彼らとは別れなければならない、そしてそれがたとえ虚構であったとしても、わたし(あなた)が確かに会ったと思いさえすれば良い。『(彼らは死んだ、では)君たちはどう生きるか』(「では」の代わりに「/」でもよいだろう)。
と、こう書くと、これでこの映画についての話は終わってしまう。これ以上書くことがない、どん詰まり。
2018年のこと、そして2019年のことをここで想起するのは、あまりに敬意を欠いているだろうか?本作中に現れる、人々がまるで、その熱さで溶けてしまうような燃え盛る炎、その炎に包まれた死者との交感は、あまりにも恐ろしい。

この後に、無理矢理書き継ぐなら(そもそも、この世の全ては「無理矢理書き(引き)継ぐ」ことでしかない)、とりあえずまずは、本作の「着替え」について、になる。
冒頭、急いで飛び出さねばいけないところで、主人公の眞人は、寝巻きから着替えるために一旦部屋に戻る。
それから中盤、またしても眞人は、今度は速さだけではなく、誰にも気づかれないよう静かに部屋を出ていかなければいけない時にも、着替えて出立の支度をする。
下着を身に付けてからシャツを羽織る。ズボンを引き上げる。耳に残るのは、ベルトの金具がたてる音。

この2つのシーンの共通点は、いずれも、「母(たち)」の捜索に出発する前である、ということだろう。ではその、捜索される「母(たち)」はどうなるのか?
無理矢理と言った以上、強引に続けるならば、この「着替え」は、前者は葬送、後者は生誕の儀式のための行為なのだろうか。儀式の前に身なりを整えている?
そうして、死せる母親へのオブセッション、が、儀式≒アクションの中で、その当の死せる母親自身のアシストによって、生ける母親へのそれと置き換えられることとなる。

いや、もちろん目的は、キャラクターデザインの統一、なのだろうが、それならばそれで、いやむしろ、それだからこそより印象深い。
より効率よく作り上げることと、しかしそれゆえに「手数」が増えてしまうこと。それでも、この作品は描くことをやめない。描かないという選択肢ははなからない。

出発の準備は着替えだけでは終わらない。道具の調達もそうだろう。
弓矢を手作りする一連のアクションも、ここを描かずしてなにを描くのかと言わんばかりに、いささか強迫的すぎるとも思えるくらいのボリュームが割かれている。しかしこれを強迫的だと感じる方が問題なんだろう。この物作りの描写こそが、次の画、次の展開を導くからだ。物を作らねば、手を動かさねばその物がこの世界に現出することはない、という当たり前すぎることを思う。

押し黙って、観客に気づかれないように、いつのまにか決断し行動し始める少年の、一つの動作は、分割されずにひとつながりのままでそこにある。
そうして作られ、放たれた矢が異なる空間同士を貫き、串刺しでひとつなぎにする。

そして、研ぐシーンすら省かれることのない肥後守から、本作の営為にならってほとんど連想ゲームに近い形で、眞人の扱う刃物が登場する別の場面を繋げたい。鳥のくちばしに空いた穴を埋めるための木片作り、そして、巨大魚の解体。いずれも自分の意志ではなく、他者のための、生物との変則的な触れ合いとも言える行為。命を奪ったり、何かを傷つけるわけでもない。武器のようで武器でない…といえば、そもそも眞人の作った矢も、思い通りに動かない、標的を仕留め損ねるものにしかならなかったし、彼が持ち出して、結果粉々に砕け散ってしまった木刀のことも思い出すことになる。これら未達成の暴力は、それぞれ奇妙な破壊と再生のイメージを提示する。

そうして準備し、出発した眞人が向かう先は、どこでもない場所だ。存在しない、というよりむしろ、場所ではない、非-場所としての場所。
そうであるにも関わらず、いやもしかすると、そうであるからこそ、そこで起こることが、そこ以外の世界全てに影響を及ぼすような、世界全ての時間全てに関わることができる、恐るべき場所。
そこで、建っていることと建っていないことが両立してしまうような、奇怪な異形の建築物たちが次々に現れる。常に崩壊一歩手前、ないし、崩壊しかかっている、またはすでに崩壊している、仮構の建築。
そして、ここから過去作品を思い起こさないことは不可能だろう。建築映画としての宮﨑駿作品。

ただ、もしかすると本作のそれらは、建物ではないのかもしれない。例えば、巨大な本棚、つまり知識の、もしくは無数の出入口の集合体。それも一時的なもの。その瞬間集まり、次の瞬間にはばらばらにときほぐされてしまう。テーブルの上に、危ういバランスで重ねられた積み木のように。

集まって固まることと、ばらばらになり崩れること。集約と分散。今作ではーーと言いながらもちろんここでも過去作品を想起せざるを得ないがーー、水、岩石、木材、砂、土、魚、蛙、妖精、鳥が、ひたすらに集まっては散り散りになる。たとえば、映画ではなくて実際の、磯辺のフナムシが、集まってこちらに寄ってくるが、人間の動きにびっくりしてあっという間に離れていってしまう時のような。
その繰り返しに感じるのは粘り強さだ。ある一つの物体を観察して描写し、それが2つになり、3つになり、と数が増えるごとに同じことを繰り返し、その増えていくこと自体に、逆に減っていき、小さくなっていくこと自体に対しても同様。これらの過程に徹底的に付き合うその様は、なんというか、執念深い。

物体や生物が集まる場所は、その大きさ、量に見合っておらず、狭い。明らかに全員が通りきる大きさではない出口を、大勢のインコが、自分たちの身体を押し込むようにして通ろうとする。ひとところに集まってぎゅうぎゅう詰めになり、密集した肉と毛と羽が変形して圧縮される身体たちが、出口から溢れ出て解放される、その一連の変化、動き。

彼らは、自分たちの身体の大きさがわからないかのように、小さい空間にその身を押し込める。逆を返せばここでは、自分の大きさ以上のものを受け止める、という事態が起こっている。建物の広さにおさまりきるはずのない内容物。そして、人間一人が抱えるレベルを超えた知性。それは、地球、この世界の外からやってきて、この世界以上の量、深さ、広さを持っている。
もちろんこの「人間」や「世界」を眞人に置き換えれば、その知性を継承するか否か、そもそも継承可能なのか、という問いが立ちあがってくるし、さらに別の名前に置き換えることでまた違った意味合いにすることも可能だが、それはまぁ、他の人たちがいくらでもやっているだろうから、ここではやらない。

ところで。同一と思われるくらいよく似ている二つの物(人)が、全くの別物(別人)であること、また、今作で言えば、産屋である石室から現実世界へ戻ろうとする息子の誘いを母親が拒否する、といった、息子の側からしたら理不尽であると思える拒絶(しかしここの場合は、もしかすると出産拒否の隠喩かもしれず、そうなると一概に理不尽とも言いきれないが)の行為、突然屋敷に運び込まれる大量のキャノピーといったような、突如として日常に持ち込まれる異物としての工業的、「工場」的(「産業」的)物体、前述のような空間の歪み、などといったモチーフ群から、カフカ、という名前を導き出すのは容易い。容易すぎてボールが止まって見えるくらい(?)。さらにポーのゴシック小説や、ホーソーンの奇怪な出来事だけが転がっているような短篇(これはもう「ウェイクフィールド」なんだけど)を思い起こしたりもする。今作に宿っているのは19世紀的な不可解さなのか?

…しかし、こうして書いてきて、自分の、アニメーションについて語る言葉の貧困さにたちすくむしかない。
その代償として多義化が発生している、と書けば見栄えはいいが、そんなことはなく、ただ単に寄せ集めで、とりとめがなくなってしまっているだけだ。しかも尻すぼみだし。そしてそれを、この作品に応じて、とするのは、あまりにも…。

あと不敬ついでに(?)書きますが、名前が「眞仁」だったらとんでもないな、とは思った。は?

『受苦の時間の再モンタージュ』/2つのものを1つにすること


過去の自分が為した出来事によって、今の立場や仕事が失われてもよいのか、もっとはっきり言ってしまえば、このいじめ「ごとき」でキャリアを奪われるなんてひどい、割りに合わない、という考えと、このいじめはさすがにひどいから、なにかしら罰則が与えられないとだめだろう、という考え、この2つがある。
この場合、前者も後者も、いじめの程度が問題になっている。
しかし、いじめの程度というのものをはっきり確定できるのか?たとえば、加害者と被害者それぞれで受け取り方は異なるだろう。
じゃあ殺人はどうか?殺人を犯した人間は新しい仕事ができるのか。どれくらいの殺人なら「セーフ」なのか。刑務所入ってたらOKなのか。
と、考えると結局、この類の問題は、まだ、人類が総体的に扱えるタイプのものじゃないのではと思えてくる。つまり、一般化できるものではない、ということ。人類の知性ではまだ無理である。
と、なると、個別の案件として対応するしかない、となる。
謝罪だって忘却だって無視だって仕返しだって、全部そう。すべて一般化できない。これをしたら絶対に解決、とかもない。解決もないかもしれない。それが個別化である。
というか、いじめというものが、かなり一般化しづらい、というかできないんじゃないかとすら思える。犯罪として扱うことの難しさとかを考えると(いや暴行なんだけど、というのもわかるけど)。

だから、一連の出来事に関して、当事者でない人々ができるのは、いじめ自体、実際に起こしたことより、その起こしたことの扱いの問題とするしかないのでは。いじめを取り扱った雑誌の記事自体とか、喋り方とか、文体とか、そういうこと。
つまり、現時点では、全てが過去の出来事であって、もう文章しか存在しないのだから、これはテクストの問題である、といえる。というかテクストで(取り扱う)しかない。さらに言えば、実は人類には、それしかできないんじゃないだろうか。

さらに、おそらく、一連のキャンセルを呼び起こしたのはいじめ自体ではなく(いじめ自体と皆思っていて、本人もそう思ってるかもしれないが)、その取り扱い方なのではないか。テクストによって誘発されたものだった、と。
誰も気づいてないことに俺が気づいた!とか言いたいわけではないけど。でも、そうした取り違えが起こってるように見える。

…まぁ、今回のことに関しては、ですが。「キャンセルカルチャー」そのものについてはまた別の話。

いじめ自体を問題としている、と多くの人が認識してしまうのは、いじめ自体とその取り扱い方、が、それぞれが表に出てきた瞬間、詳らかになった瞬間に同化し見分けがつかなくなるから。でも、出現する瞬間、の一歩手前では、それらは、2つのもの、別々のものなのだ。

ここで、開会式の映像で使われているモンタージュを思い出した。2つの別のものを1つにしてしまう、重ねてしまう、同じものと扱ってしまうこと。
あの映像では(あの映像でも)、まさしく、音楽と音楽でないもの(スポーツ)が一緒にされていた。まぁ本来、オーケストラの動き自体を音楽そのものと指し示すことはできないから、ある種の安直さでもって、あそこではそうなっていた、と言えるにすぎないが。

話は元に戻る、もしくはズレるけど、問題になっていた記事において、いじめの被害者は不在のまま、加害者と編集者が被害者と同化してしまっていた。それもまた、2つのもの(別れているもの)を1つにしてしまっていた、ということだ。

2つのものを、2つのもののままにしておけばよかったのに、人類は、2つの異なるもの(映像、テクスト、人、事件)が1つであると偽装すること、をやりたがる。これまでの歴史において、幾度となくやりたがってきた。
2つの別のもの、が2つであること、そのままにしておくことが、人間にはできないかもしれない。本来であれば2つのままにしておいても一向にかまわないものを、1つにせざるをえない、という欲望によって、重ねる(重なる)ことを我慢できない。

なぜかといえば、モンタージュとはエンターテイメントであるから、としか(わたしには)言えない。おもしろくなってしまうから、だ。スパイク・リー『ブラック・クランズマン』、における『國民の創生』を想起する。おもしろくしてしまうことには弊害があり、多くの人を傷つけて貶めるかもしれない、しかしそれでもなお、我々は、おもしろくすることを、おもしろがることをやめることができない…。

とか、まるで誰にも責任がないように書いていますけど、そんなことないっすよねぇ!?ともなって、結論を先送りさせていただくしかないのだった。

なお、ジョルジュ・ディディ=ユベルマンの本は読んだことはありません。

ツイッター雑感


実際に、ではなく比喩として、ツイッターが使えなくなり、使う気も起きなくなったので見る頻度が減った。とはいってもまだ1日目なので明日以降自分の気持ちがどうなるかはわからない。
じゃあ他のもの、って言われてもよくわからない。正しいものにしかベットする気がない、というわけではないけど、とはいえ、この場合の正しさや誤りがどういうものなのか(勝ち負け、でもいいけど)、それもまたわからないので何もする気が起きない。その、成功と失敗を区別したくない、どちらかに与したくない、というのはただの怠惰だなと思う。勤勉さとは、決断し、常に自分の立ち位置を取り決めていくことだ。

そもそも、ツイッターというものの存在を発端に何かを真剣に考えるという気が起こらない、ということかもしれない。ツイッターはいつかは終わる。いやもちろん、終わるものにこそ真剣に向き合うべきだという話もあるが。
で、例えば、…本は無くならない、なんてことを思ったりもするし。…でもそれはほんとうか?本も無くなってしまうのが現代なんじゃないか。じゃあ何が残るか、というか、「何も残らない」のが現代なのかもしれない。no legacyの時代。時代というか、世界というか、今を含むこれから先の時間・空間がすべてそうなる。それしかないならそれでいい、とするしかない、のか。肯定するでも否定するでもなく、選択肢もなく、ただ、付き従うだけ。岩船山で爆発を背にしたり顔でこちらをみるイーロンに?(なぜか浮かんでるイメージ)

あと、青いバッジがつくのが恥ずかしいけど、課金するのもやぶさかじゃない。これは、日本人が、ちょっとした水たまりがあるとすぐ硬貨を投げ入れてしまうようなノリです。あの無為さは嫌いじゃない。

そして、どうやら、無駄なことをつぶやいて、それで人のツイッターHPを消費させてしまうらしいので、もう有益なことしかつぶやけない。自分も確かに、有益なことを得たいと思っていたからしょうがない面もある。しかし無益なものと有益なものの区別がつかないのにも良さがあった…のか?これってポストトゥルースの問題か?

有益?