ゲーム的ファンタジーの源流試論

https://m-dojo.hatenadiary.com/entry/20150314/p3
 こちらの記事を興味深く読みまして、コメントつけようと思ったのですが、長くなったので、単独記事で。


 日本における、ファンタジーの受容が、おおむね、ドラクエ発であり、ゲーム特有の不条理な部分にツッコミを入れたり、解釈を与えたりといった、大喜利で、あったことは間違いありません。「ドラクエもの」というのも、ほぼほぼ正しいでしょう。

 月刊少年ガンガンが大きな発信源とありますが、より正確には、エニックスより発売されたドラクエ4コマシリーズが大人気で、そのヒットを受けて、月刊少年ガンガンが創刊され、ドラクエ4コマ、「魔法陣グルグル」、「南国少年パプワくん」等に広がっていったと言うのが正確かと思います。

 ドラクエの影響は非常に大きいですが、ドラクエが唯一ということもなく、それ以前ですと、パソコンゲームのほうで、様々な翻訳物、国産物のCRPGが発売されていました。『ザ・ブラック・オニキス』(1984)とかですね。並行して「ロードス島戦記」(1986-)から始まる、TRPGの系譜もあります。
 漫画では月刊コミックコンプなどが、そうしたCRPG、TRPGのコミカライズや、そうした世界観の作品を多数掲載していました。『ソーサリアン』シリーズ、『イース』『クソゲー戦記 ドラゴンサーガ』等々。これらの作品にも、先に述べた「ゲーム上の不条理な部分への大喜利」は入っています。

 文字媒体だと、CRPGを意識したパロディ的作品として、矢野轍「ウィザードリィ日記」や、押井守「注文の多い傭兵たち」も重要です。

 ライトノベルでは、「ロードス島戦記」から始まるファンタジーブームの中で、「実際に経験値とかある世界」の「フォーチューン・クエスト」、ファンタジーのお約束にゲーム的なツッコミを入れる「スレイヤーズ」などがパロディ性を持って登場します。

 さて、これらの源流ですが、ここで言う「ファンタジーのお約束」とは何かと言えば、ドラクエ、さらに遡って「ウィザードリィ」や「ウルティマ」、さらにその元である「ダンジョンズ・アンド・ドラゴンズ」などの「ファンタジー・ゲーム」のお約束と言い換えてよいかと思います。

 有名どころからいきますと、初期のCRPGであるウィザードリィシリーズには、ヴォーパル・バニーやホーリー・グレネードといったものが登場し、これはモンティ・パイソンズ・ホーリーグレイルのパロディです。モンティ・パイソンズ・ホーリーグレイル自体、騎士道ファンタジーのパロディであり、多重に「ファンタジーのお約束を茶化す」ノリが見てとれます。

 ざっくりとした話ですと、60~70年代にアメリカで「指輪物語」が大流行し、ファンタジーブームが来ます。王道ファンタジーが流行るほどに、それの解体・パロディも流行し、さらに、そこにゲームという要素が加わります。
 世界初のテーブルトークロールプレイングゲームである「ダンジョンズ・アンド・ドラゴンズ」が74年に発売され、これまた世界的に大流行し、このD&Dの世界設定、種族、職業等々が、ウィザードリィドラクエ等々の源流となっていきます。

 余談ですが、「バスタード」シリーズが、なぜパロディかというと、D&D的な世界観を踏襲した上で、(当時の)D&Dドラクエのお約束である「魔法使いは、呪文が強いけど、その分、肉体は弱く庇ってもらう存在」というのを、ひっくり返すところから始まっているからです。

 同作品は、D&Dから、強く影響を受けており、D&Dの版権モンスターを作中に使って怒られた事件(鈴木土下座ェ門を参照)などがあり、コマ欄外に時々書いてある「う・ん・ち・く」も、ほとんどが、D&Dの世界設定から引っ張られてます。

「バスタード」がファンタジーとして始まり、後半にSF設定が入ってくるのは、実はこれも一つの伝統です。「ファンタジーの魔法とかを解釈して説明をつけたらSFになる」ネタは、元祖D&Dから始まり、「ウィザードリィ」や「ウルティマ」に受け継がれる定番のネタです。80年代のゲームの影響を受けたファンタジー作品でも、よくありました。

 余談が長くなりました。さて、日本におけるファンタジーの受容が「ゲームの不条理な部分に対する大喜利」と書きましたが、視点を広げると、これは、ゲームそのものがもつ性質とも考えられます。

 ゲームというのは、プレイヤーに様々な可能性、選択肢、視点を与えます。例えばファンタジー小説だと「世界を救うための勇者」はかっこいいものとして描かれますが、これをゲームにして遊ぶと「無謀に突撃して、全滅しまくって王様に怒られる勇者」とか、逆に「ひたすらスライムだけを虐めるセコい勇者」「死ぬ寸前まで(HPでも1)元気な勇者」とかがプレイ体験として生まれる。「ファンタジー小説の勇者」に対するパロディが自然と発生します。

 要するに、ネタ元が「かっこいいファンタジー小説」であっても、それをゲームにして普通のプレイヤーが遊んでいくと、それだけで「勇者ヨシヒコ」っぽくなっていくわけです。

 ゲームにすることは、物語の様々な要素を解体し、再現することであり、プレイされることで、様々な発展、ツッコミどころが生まれるわけで、パロディと非常に相性がいい。
 先に述べたウィザードリィの例もそうですし、その元になるD&Dも、様々なパロディやSF設定が初期から入っています。

 源流を辿るなら、ファンタジーゲームは、その初期から、「ファンタジー作品およびファンタジーゲームのお約束のパロディ」を含んでいる性質のものであり、そうしたファンタジーゲームに影響を受けた作品は、意識するとしないにかかわらず、ほぼ不可避的に、パロディ的性質を持っていると言えるでしょう。

自発核分裂について

臨界とか自発核分裂とか

今回、東電で、キセノンが発見されて、「臨界か?」「いや自発核分裂だった」という話になりましたが、「自発核分裂ってなに?」「それってヤバいの?」という疑問を見かけたので、簡単にまとめるものです。ツッコミ歓迎。

原子ってなに?

ちょっと話をさかのぼって、まず原子って何?ってところから。


宇宙にある物質は、様々な原子がつながってできています。
原子同士がつながったり離れたりすることで、様々な物体ができます。
たとえば、おいしそうなハンバーグは、おおざっぱに炭素や水素、酸素、窒素といった分子が組み合わさってできています。
これを焼きすぎて黒焦げになった場合も、原子の内訳はだいたい同じで、ただ繋がり方が変わっているだけです。*1


地球上にある無数の物体は、すべて原子の組み合わせでできており、たとえばこれを煮たり焼いたり焦がしたり溶かしたりしても、原子そのものは全く変化しません。*2

核分裂ってなに?

では、原子は絶対に変わらないのか、というと、そういうことはありません。
原子は、陽子と中性子でできている原子核と、その周りにくっついた電子で、出来ています。
この原子核が壊れる、変化する場合も、確かにあります。


普通の物質、たとえば、炭素とかの原子核は、非常に安定していて、滅多なことでは壊れません。
それでも無茶苦茶な圧力をかけると、原子核自体をぶっ壊すことができます。
あるいは、ほうっておいても壊れる可能性はゼロではないので、ものすごーーーく気長に待っていると(どれくらい気長かというと、百億年とかを平気で超える場合もあるくらい)、そのうち、一個くらい壊れるかもしれません。
いずれにせよ人間がやるには、あまり現実的ではありません。


なので、原子炉とかでは、もっと不安定な原子核を使います。
たいていの原子核は、中性子と陽子が一対一か、中性子がちょっと多いくらいで出来ていますが、たまに中性子がもっと多かったりするのがあります。これらを「同位体」と言います。
普通の炭素は中性子6個、陽子6個で出来ていますが、中性子7個の炭素や、中性子8個の炭素もあります。
こうした同位体は、普通の炭素に比べるとバランスが悪いので、壊れやすくなります。


さらにバランスが悪くなると、いいかげんに積んだ積み木の山のように、ほっといても、どんどん壊れるものがあります。
こういうのを「放射性物質」と言います。


ちなみに、さっきも書いたとおり、「ものすごーく長い目で見れば多くの物質の原子核は、そのうち壊れる」と考えられるので、「放射性物質」とは、「人間が集めて観測できる範囲で、壊れる物質」と言い換えてもいいでしょう。


はい、そこでようやく最初の話に戻りますが、「自発核分裂」とは、この、不安定な放射性物質が、勝手に壊れてゆくことを言います。*3

ほっといても壊れることと臨界

放射性物質が壊れるときは、様々な粒子(放射線)と、エネルギーを放出します。このエネルギーを熱として取り出して使うのが原子炉の原理です。


さて、放射性物質は、「自発核分裂」として、ほっといても分裂しますが、これだけだと、あまりまとまったエネルギーにはなりません。
そこで手を加えて、うまくいっぺんに分裂するようにするわけです。


自発核分裂原子核が壊れる時、原子核によっては、中性子という粒子が飛び出します。
この飛び出した中性子が他の不安定な原子核に当たると、なにせ不安定なので、そこで原子核が壊れます。
壊れた原子核からまた中性子が飛び出して、他の原子核に当たることもあるでしょう。
これがうまく続くと原子核が一挙に連鎖して壊れてゆきます。これを連鎖反応と言います。


この連鎖反応が、ちゃんと継続している状態のことを「臨界」と言います。

東電第二で起きていたこと

さて、連鎖反応をちゃんと制御して臨界させ続けるというのは結構大変なことです。
具体的には放射物質を狭いところに密閉して、きちんと並べ、温度を管理する必要があります。


現在、東電の所内では、温度が下がっており、中性子を他の放射性物質にぶつからないように吸収してくれるホウ素を沢山入れており、単純に考えて、残りの燃料が大きく核分裂するような臨界が起きるというのは、極めて考えにくい状態です。


今回、キセノンが発見されたことも、自発核分裂の結果だったことが発表されました。
今までも自発核分裂によってキセノンは作られ続けていたのだけど、それが今回、はじめて観測できた、というわけですね。


これまで書いたことでわかるとおり、自発核分裂というのは、放射性物質がある場所では、ずっと起きていることです。
放射性物質を完全に取り除かない限り、自発核分裂が起きていること自体は通常のことで、特に何かリスクのある変化があったわけではないと考えられます。

まとめ

1.不安定な物質は、ほっといても勝手に壊れる(自発核分裂
2.原子炉が、不安定な物質を燃料として使ってるので、自発核分裂が起きてるのは、通常の状態。
3.原子炉内では、それが連鎖しない限り害はない。

*1:もちろん密封してない限り、水分が蒸発してしまうとか色々変化はありますが、おおざっぱな話ね

*2:逆に言うと、これが薬や微生物などで、放射性物質を変化させられない理由です。生物や薬が行うのは、原子を組み合わせる化学反応であって、原子自体を変えることはできないのです。

*3:より正確には、放射性物質の崩壊の全部が核分裂と呼ばれるわけではないのですが、細かい話なんで、とりあえず置いとかせていただきます。気になる方は、もう少し詳しく調べてください。

半減期について

プルトニウム検出に伴って、半減期という言葉が取りざたされてるが、中には、微妙な話も多いようなので、簡単に、おさらい。


※わかりにくいところがあったら、ご指摘ください。
※わかってる方は、おかしいこと言ってたら、ご指摘ください。
※というわけで、コメント欄もあるようだったら参照ください。

放射性物質とは

まず、放射性物質について。
物質は原子で出来ている。元素記号とかで出てくる、C(炭素)とかH(水素)とかFe(鉄)とか、そういうもの。


で、原子というのは、基本的に変わらない。鉄は、ほっといても、いつまでたっても、鉄のままである。
だけど中には不安定な原子があって、ほっとくと変化したりする。
こうした物質を、放射性物質と呼ぶ。


なぜ変わるか。


原子は、中性子と陽子がくっついた、原子核と、電子とで出来ている。
原子核中性子と陽子の数にはバランスがあって、おおざっぱに、1:1から、中性子がちょっと多いくらいがバランスが取れている。


たとえば、炭素は、中性子6個、陽子6個で出来ていて、これが一番バランスがいい。


なんだけど、この炭素に、無理やり、中性子をくっつけていくと、中性子8個、陽子6個の炭素も、できたりする。
こういうのは、無理に積んだ積み木みたいなもので、そのうち崩れて、バランスが良い状態に変化してゆく。


中性子8個、陽子6個のバランスの悪い炭素が崩れると、中性子7個、陽子7個の窒素になって、ついでに余った電子一個(ベータ線)を放出する。
こんな風に、バランスが崩れたときに、「余って飛び出す」のが放射線で、放射線を出すようなバランスが悪い物質が、放射性物質という*1 *2

半減期

さて、半減期とは何か?


バランスが悪い物質は、放っておくと、そのうち崩れるが、崩れる速度というものがある。
バランスがすごく悪いものは、どんどん崩れるし、そうでもないのは、なかなか崩れないというわけだ。


半減期とは、「原子の半分が崩れるまでの平均時間」である。
原子が100個あったら、50個崩れ終わるまでの時間である。


半減期が短い原子というのは、だから、「どんどん崩れて、どんどん放射線を出す原子」であり
半減期が長い原子というのは、だから、「なかなか崩れないので、めったに放射線を出さない原子」なのだ。


プルトニウム239の半減期が2万4千年というのは、「それくらい滅多にしか放射線を出さない」とも捉えられるわけだ。

量が大切

放射線の危険性は、以下の3点で決まる。

  1. 出ている放射線の種類
  2. 単位時間あたりに、どれだけ出しているか
  3. どれくらい長く出ているか
  4. 吸引した場合、体の中にどれくらい残るか*3


要するに、放射線の種類と量で決まるわけだ(※ちなみに量がグレイ。種類による人体への影響も計算したのがシーベルト)。


仮に「同じ強さ(シーベルト/時)の放射線が出ている」のであれば、半減期が長い原子は、その量の放射線がずっと出続けるので、長いほどヤバい。
逆に「同じ原子数の放射性物質がある」のであれば、半減期が長い原子は、放射線を少ししか出さないので、長いほど安全である。


つまりプルトニウム半減期が長い、というだけでは、危険かどうかはわからないというわけだ。


もちろん、プルトニウムが安全な物質というわけはなく、それらが検出されたことには問題があるが、重要なのは、総合的な放射線の量である。*4

ローンの支払い

要は、「半減期が2万4千年だよ。こわいね!」というのは、
「2万4千年ローンだよ、こわいね!」と言うようなもんだ。


そういう時は、まず「月々いくらなの?」と聞き返そう。


借金の合計が同じなら、ローンが長いほど月々は安くなる。
月々1円なら、2万4千年ローンでも、あんまりこわくないだろう。
逆に、3ヶ月ローンであっても、月々10万だったら、そっちのほうがイヤだろう。


そういうところを押さえないで議論している人がいたら、眉につばをつけておこう。

*1:物によっては、1回崩れるだけでは、完全に安定した原子にならず、さらに何度も崩れて放射線を出すようなものもある。

*2:自然にバランスが崩れた場合以外でも、人為的に、すごい力をかけて無理やり原子をくっつけたり、壊したりする時にも、放射線は出る。

*3:体の中に入っても、すぐトイレから出ちゃうようなものなら影響は少ない。一方で、骨とかにすぐ吸収されて、長く体内に残るようなものは、その分の影響が出るというわけだ。また呼吸で肺に吸い込むか、食事で食べるかでも差が出る。だいたい解ると思うが、肺に入るほうが、外に出にくくて害が大きいようだ。もちろん量が前提なのは言うまでもない。

*4:もちろん単位時間あたりの強さも、それなりに効いてくる。たとえば月々1万円の10年ローン(合計120万円)なら普通に払えるけど、一括払い100万円はムリだよ! みたいな場合もあるというわけだ。

Aの魔法陣リプレイブック 〜ガンパレード・マーチ篇〜 発売

本当に長らくお待たせしました。
Aの魔法陣リプレイブック 〜ガンパレード・マーチ篇〜』が、4/2に発売になります!

いや本当にお待たせしまして申し訳ない(←元凶の一)。


ガンパレードマーチは、世界を襲う謎の生命体にして人類の天敵「幻獣」と、負け戦続きで学徒動員に至った「学兵」たちが、ついに前線に立って戦うSFミリタリーなストーリーで、「戦場における少年少女」がメインイメージですが。


今回は、なんと鈴木銀一郎氏をお迎えし、老練な智将の指揮に、おなじみの面々(是空、小太刀、三輪、海法)が頑張ってついてゆくという趣向になっております。


プレイして思ったのは、鈴木銀一郎氏の温かみです。


芝村&いつものメンツのAマホセッションは、


・エキセントリックなキャラを持ち出すPL(注1)
・圧倒的な物量をぶつける芝村SD
・飛び交う悲鳴と怒号
・「呪われよ芝村。地獄に落ちろ」
・「はぁ? 聞こえんなぁ」


なことになるのが多いんですが、今回は、血も涙もない敵量と無慈悲な戦場はいつものままに、戦争の深淵を見つめて、いつもにこにこと笑う(注2)氏の温かみに励まされて、味のあるセッションになったと思います。


ゲーム的には、おおむねTRPGっ子である是空、小太刀、三輪、海法の面々と、シミュレーション世代でTRPGにも造形の深い芝村、鈴木のプレイングが絡み、シミュレーションでミリタリーな部分と、TRPGでヒロイックな部分が全開で展開する面白い内容に。


ストーリー的な面からいうと、今回は、ガンパレードマーチの重要ポイントである「熊本城攻防戦」と、それに続く「銀環作戦」をメインにおいて、幻獣との戦争がどこから来て、どこへ行くのかを、様々な視点で、軍事的、社会的、政治的、そして伝説的な面から描いてゆきます。善行や厚志、舞といった5121のお馴染みのメンツも登場しますよ。


松本テマリさんの繊細なイラストも載って、4月2日に発売です。
よろしくお願いします。


注1:そりゃおまえだけだという説はさておく。
注2:にこにこと笑う、である。戦場のストレスで壊れたプレイヤーがゲラゲラ笑いだすのと一緒にしてはいけない。

ワーサムと増田本について

経緯

ツイッター田中秀臣さんの意見に返信をつけたところ
http://togetter.com/li/8636
はてな匿名ダイアリーに、それを批判する内容が載りました。
http://anond.hatelabo.jp/20100314225437
経済学者の稲葉振一郎さん id:shinichiroinabaが、

shinichiroinaba 大体あってる、が匿名は印象悪いよね。ということで肯定的に紹介しときます。 2010/03/16

と、はてブコメントで書かれています。
匿名の記事の場合、書いてる人に意見が届くかどうか微妙なので(既に読んでないかもしれない)、どうしようかと考えていたのですが、稲葉さんもご覧ということで、こちらの立場の説明をば。

コミックコードは誰が作った?

以下、引用部は、上記はてな匿名ダイアリーの記事より。

しかし実証性無視のアメコミおたくたちは、ワーサムと国家が悪いと自分たちをイノセントなものとして描く。

「アメコミおたく」の一人として言いますが、私は、ワーサムと国家が一方的な加害者で、出版社が一方的な被害者である、と、思ったことはありません。


コミックコードの中には「タイトルにhorrorやterror、crimeとつけてはいけない」という条文があります。
これは、当時、隆盛を極めていたECコミックスの看板が「Crime Suspense Stories」「The Vault of Horror」といったタイトルであったことと対応していまして、コミックコードはライバル潰しの内ゲバ、あるいは、そこまでいかないでも、一部を明確に生け贄に差し出す意図が読めるわけです。
このような事情があるので、出版社もお互いへの、読者への加害者の部分もある、と、私は理解しています。


まとめをご覧いただければわかると思いますが、上記については最初から書いています。
私が引っかかったのは「しかしこのワ―サム問題も、日本の自称マニアたちにはまったく受け入れられてないw いまだに実証以前で思いこんでるだけw」という田中氏の発言です。
匿名氏も勘違いしておられるようですが、出版社が一方的な被害者であるとは思っていませんし、そうでないと書いているつもりです。
それがまず第一点。

ワーサムの主張を歪めて反論をしたアメコミ業界のディビッド・フィンらの画策。
そしてその歪めた反論に合わせる形で自分たちの都合がいいようにアメコミ業界がコミックスコードを導入し、ワーサムに責任を押し付けた。

出版社がイノセントでないのは当然として、この事実認識は、無理があります。


まず、ワーサム他が、出版社に圧力をかけました。
そうした社会的圧力に対応する形で業界はコミックコードを導入ました。
業界はワーサムの言うことを100%受け入れたわけではありません(100%受け入れたくないから自主規制するわけですね)。


その結果、ワーサムからすればコミックコードは「業界が自分たちの都合がいいようにでっちあげたコード」となり、そんなものについては責任を負いかねる、となるでしょう。
一方業界からすれば、「ワーサムが圧力をかけてきたせいで自主規制したんだ」とワーサムの責任を求めようとする。
普通に考えて、これは、どちらの言い分にも、それなりに根拠があるでしょう。


業界の行動に行きすぎはあったかもしれません。またコミックコードが自主規制である以上、先にも書いたようにコミックコードの結果については業界自体も責任や反省すべき点はあるでしょう。
けれどその一方で、ワーサムおよびコミック規制派に、コミックコードの責任がない、というのはさすがに無理があります。

自主規制と法的規制について

さて上記のワーサムの話に、田中秀臣氏は以下のような補足をしています。

非実在青少年問題で、なぜ田中はワ―サム問題を持ち出してきたか、どうも理解されたないのでひとことでいうと、「民間」の自主規制御が国や地方自治体の規制よりも必ず望ましいという命題はないということ(反対も同じ)。ワ―サム問題というかコミックコード問題はそのひとつの例証。
hidetomitanaka
2010-03-15 20:17:02
だから報道などで都が規制すると「民間」の自主規制を損ねるという反対意見があるが、それはよくよく中味をみないと反対意見を一方的にこの点で正当性があるとは僕には思えない。まあ、あんまりいうと法案賛成派に勘違いするアホもでてくるからw、ここでオルソンの意見も参照にしたいがやめとく
hidetomitanaka
2010-03-15 20:20:01
数日前ここでこの問題やったときの数名からの感情的な反応に正直げんなりしているから。たぶんまだこの問題をそこそこ客観的に議論する土壌のないまま、双方がイデオロギーと既得権と政治運動で激突していると思う。

さて、民間の自主規制が、国の自治体の規制に比べて常に優れているわけではない、というのは、大変に同意するものです。
「感情的な反応」というのは私の場合、「しかしこのワ―サム問題も、日本の自称マニアたちにはまったく受け入れられてないw いまだに実証以前で思いこんでるだけw」と言った部分へのものです。
反発が起きたのは事実の指摘ではなくて、田中氏の決めつけに対するものではないかと思います。

増田本について

かつての田中さんとの議論についても、匿名ダイアリー氏がまとめています。

松山「アメコミは善役と悪役が固定してるストーリーなんて嘘だ!ウルヴァリンは元々『超人ハルク』の悪役だった!」


田中氏ら「ウルヴァリンは『超人ハルク』じゃなくて『X-MEN』で正義の味方になったんだよね?別の漫画でキャラが再利用されてもそれはストーリーの中で善悪が固定されてるってことにはかわないよね?何かひとつの漫画の中で善悪が入れ替わった例ってあるの?」

まずは古くて重要なキャラクターとして、「Vision」をあげておきます。
悪のロボット・ウルトロンに作られたアンドロイド・ヴィジョンは、ヒーローチーム、アベンジャーズの敵として作られ、送り込まれました。
だが、アベンジャーズとの説得によって改心し、その一員となり、その後、敵に操られたりとか、人類の平和のために、全てのコンピュータを支配しようとしたりといった話もあります。


次にハル・ジョーダンです。
ハル・ジョーダンは、グリーンランタンシリーズにおいて、長きに渡って主役を務めたキャラです。
宇宙警察組織グリーン・ランタンの地球代表として選ばれたジョーダンは、後にグリーンランタン組織の腐敗に絶望し、グリーンランタン組織の力を奪って破壊し、全ての歴史を書き替えようとします。
それを巡って、文字通り、宇宙を巻き込んだ戦いが勃発します。


こうした話は、メジャーなイベントとしては、ほぼ毎年恒例、小さいタイトルの中の小さいイベントなら、毎月、数十の話の中で進行中です。悪人が善人を目指す話も、善人が悪の魅力に堕ちる話も沢山あります。


別にこれは、アメコミが正義について深く掘り下げているから、では、必ずしもありません。
日本の漫画でも同じだが、連載でマンネリが来たら、味方か敵が裏切るのは、盛り上げの定番だからです。なので、中には、ひどい話、あからさまに話題作りのために無理矢理作ったような話もたくさんあります。


ただ、そうやって読者の求めるものを積極的に提供する中から、面白い表現、深い表現も生まれてゆく、というのは日本の漫画とも同じです。
たとえば、「正義の対立」という話であれば、アメコミではスーパーマンの正義と、バットマンの正義が常に対比され、考えられてきました。
理想主義で人を信じるスーパーマンと、現実主義で悪を知るバットマンの対立は、極初期から対比、対立があります。
政府の犬となったスーパーマンに、アナーキストバットマンが立ち向かう「ダークナイトリターンズ」は、その最も有名なもので、また、この作品は、日本のファンやクリエイターにも大きく影響を与えました。

松山「…。「子供を戦争で敵を殺せるようするためにアメコミ会社が勧善懲悪コミックス・コードを導入した」ってのは陰謀論だ」


田中氏ら「仮説ってわかるかな。こう書いてあるよね。(引用する)」

さて、コミックコードについてですが、まず当時のアメリカが、マッカーシズム赤狩り旋風吹き荒れる時代だったというのがあります。国全体が、保守的な空気を目指していたわけです。そこには無論、朝鮮戦争の影響もあったでしょう。
コミックが青少年を堕落させているというのも、当然、その空気の中にありました。
ワーサムは、そうした空気に、精神科医としての立場からお墨付きを与えました。彼の果たした行為が、どこまで影響があったかは議論できるでしょうが、とまれ、時代の空気の後押しがあったことは確かです。
そういう意味では、例えばワーサムがいなくても別の形で別の誰かがコミック反対運動を行った可能性は高いでしょう。
なので、「ワーサムの責任ばかりにするのではなくて、朝鮮戦争へ向かう時代の空気も考慮すべき」ということであれば、それはその通りです。


一方、増田本に書いてあるのは、「出版社の知的エリートは朝鮮戦争で勝つために、アメリカが正義で勧善懲悪が正しいというのを一般大衆にすり込もうとした。そのため、そうした単純な正義が欺瞞と知りつつも、コミックコードを制定した」というものです。


さすがにこれは、陰謀論というか、ある種の被害妄想ではないかと思います。


もちろん、コミックに関わっている人間の中には、それは「アメリカの正義を大衆にすり込むため」に出版してた人もいるかもしれませんが、ただ、そのためにコミックコードを作った、とまで言ってしまうと、飛躍が大きすぎるでしょう。
その根拠として増田本の中であげられているのは、「コードを構成する条項の大部分が、性や暴力に関する表現より、善と悪、敵と味方を峻別することを強要する内容だからだ」という一点のみです。
1954年のコミックコードの倫理規定を抜粋します。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B3%E3%83%9F%E3%83%83%E3%82%AF%E3%82%B9%E5%80%AB%E7%90%86%E8%A6%8F%E5%AE%9A%E5%A7%94%E5%93%A1%E4%BC%9A

犯罪者への共感を抱かせたり、法と正義の執行力への不信を促したり、犯罪者を模倣する願望を他人に与えるような手法で、犯罪を表現するべきではない。
犯罪が描写される場合には、汚らわしく卑劣な行為として描かれるべきである。
犯罪者を魅力的に描いたり、模倣する願望を抱かせるような地位を占めさせるような表現を行うべきではない。
いかなる場合においても、善が悪を打ち負かし、犯罪者はその罪を罰せられるべきである。
過激な暴力場面は禁止されるべきである。残忍な拷問、過激かつ不必要なナイフや銃による決闘、肉体的苦痛、残虐かつ不気味な犯罪の場面は排除しなければならない。
いかなるコミック雑誌も、そのタイトルに「horror」や「terror」といった言葉を使用してはならない。
あらゆる、恐怖、過剰な流血、残虐あるいは不気味な犯罪、堕落、肉欲、サディズムマゾヒズムの場面は許可すべきではない。
あらゆる戦慄を催させたり、不快であったり、不気味なイラストは排除されるものとする。
悪との取り引きは道徳的な問題を描写する意図でのみ使用あるいは表現されるべきであり、いかなる場合でも、悪事を魅力的に描いたり、また読者の感受性を傷つけることがあるべきではない。
歩く死者、拷問、吸血鬼および吸血行為、食屍鬼カニバリズム人狼化を扱った場面、または連想させる手法は禁止する。
冒涜的、猥褻、卑猥、下品、または望ましくない意味を帯びた言葉やシンボルは禁止する。
いかなる姿勢においても全裸は禁止とする。また猥褻であったり過剰な露出も禁止する。
劣情を催させる挑発的なイラストや、挑発的な姿勢は容認しない。
女性はいかなる肉体的特徴の誇張も無しに、写実的に描かねばならない。
不倫な性的関係はほのめかされても描写されてもならない。暴力的なラブシーンや同様に変態性欲の描写も容認してはならない。
誘惑や強姦は描写されてもほのめかされてもならない。
性的倒錯はいかなる暗示的な形であっても、厳密に禁止とする。
いかなる製品の広告においても、けばけばしい効果を狙った裸体や猥褻な姿勢は容認しないものとする。着衣の人物であっても、健全さや倫理を攻撃あるいは否定する手法で表現される物は禁止とする。

犯罪を肯定的に書いてはいけない。
エロすぎるのはダメ。
変態的なものを肯定的に書いてはいけない。
オカルト・猟奇はダメ。
という感じになるでしょうか。
私の感覚だとほとんどの項目は「日本でも普通にでてきそうだなぁ」というものです。特に戦争を前に、アメリカの正義を意図しているようには見えません。


また増田本が、この主張を、控え目な仮説として「こういう風にも考えられる」的に述べた部分はありません。強固で明白な主張として書かれています。

nk12ら「部分的に間違ったところがあるので、この本は全部間違い。それを認めない人間は反証可能を無視している」


田中氏「反証されているかどうか理論的に考えて見ましょう」

こちらのですが、私のどの発言をどう要約したのか、さすがにわかりません。

規制緩和と市場

この件については、私も書き方が悪くて誤解を招いた部分があると思います。いい機会なので、説明を。
以下、
http://itok.asablo.jp/blog/2006/06/09/398858
よりの抜粋

さて、次ですが、「競争原理は“必ずしも”文化の多様性と矛盾しない」というのは、特に誰も反対しない、当たり前のことだと思います。
(中略)
実際には、増田氏は、日本の漫画と、アメコミを対比することで、事実に基づいた検証をされようとしているわけです。
そこにおいて、「アメコミには集団ヒーローがいない」「コミックコードは朝鮮戦争厭戦ムードを抑えるため」といった事実に基づいた主張をされてる以上、その事実が正しいかどうかを確かめる必要は、充分にあると思います。
(後略)

このエントリーにも再掲載した書評は海法さんが当たり前と書かれたことに最大の評価を与えているわけです。これはまあ、市場の機能といわれるものが一見すると当たり前であっても、経済学者からみると現実には成立しがたくなおかつなかなかうまい機構に思えること、そしてそれをある特定分野に適用して史観の形にまで発展させられたらさらに魅力を増すこと、という私の評価の現われです。この史観をコミックやアニメの世界で徹底して適用したものを私はあまり知らないのです(例えば中野先生の『マンガ産業論』も経済学的な史観とはやはり違うように思えるのです、それがマイナス評価になるというわけではありません念為)。


ですので経済学の基本原理が当たり前である、ということと、それを史観にまで成長させることは別個の問題と思えます。自明なことの論証が決して陳腐ではないことと同じなのです。

ここで、田中氏は、「一見当たり前の理論」を、「特定分野にあてはめて、史観の形にまで発展させたこと」を増田本について評価しています。


自明で当たり前とされているような理論を、現実に基づいて論証するのは大切である、ということですね。
市場と規制の関係という経済の理論を理論を現実にあてはめて論証する、ということでしたら、規制によって実際の市場がどうなったかを論証するものだろう、と、私は理解しました。
コミックコードの前後で、コミックの売り上げや種類のどのような影響があったのか。
その時、他の経済条件は、どうであったか?
国民の所得は、子供の数は、紙の値段は、流通の変化は?
それらを総合してはじめて、「コミックコードは、コミック市場にこれこれの変化を生み出した」という史観を作ることができます。
逆に、そうした事実を無視した「史観」というのは、研究としては史観の名に値しないのではないか、と。

コミックコードと市場

さてアメコミ市場は、60年代に大きな盛り上がりがあり、シルバーエイジと呼ばれていました。コミックコードは段々に有名無実化してゆくが、シルバーエイジのコミックは、そうした規制はあまりありません。


コミックコードの関連で考える場合、「コミックコード後、50年代にコミックの市場は低迷したが、60年代には盛り上がった」ということになり、「一見」矛盾します。史観としてコミックコードと市場について語るのであれば、これは、きちんと調べるべきポイントでしょう。


もちろん、これ単体で、「規制が市場を縮小する」という理論の反証にはなりません。ですが、それは検証が必要ないという話ではありませんね。


どうやらそのへんで、誤解が生じた見たいで、私の視点からすると、上記のように「というわけだから事実を調べるのが大事」と書いたところ、田中さんの返答が「規制で市場が縮小するのは当然だから、調べる必要なし。必要があるというなら、市場規制で市場が広がる理屈を示せ」という話になりました。
「史観として確立するために事実を調べるべき」というつもりの発言が「調べなければ規制が働いているかどうかわからない」という意味に取られたようで、ここは私の書き方も悪かったので申し訳ないと思っているところです。

さておきまして、稲葉氏、田中氏におかれましては、史観を作る上の論証について、どのようにお考えかをあらためて教えていただければ、ありがたいです。

増田本について

先日、「なのは」の劇場版を見て来ました。
頑なで冷酷な敵対者がいる時、日本型ヒーローはどうするか?
「なのは」では、心を閉ざす相手に対しても、ひたすらその人を信じ、近づき、名前を呼ぶことで、頑なな心を溶かすヒーローが描かれていました。
もちろん、こうした話は日本だけではない。世界中にあるでしょう。


増田氏の「日本型ヒーローが世界を救う!」という本では、繰り返し、アメリカ文化の欠点が、日本文化の長所に対比されています。
増田氏の本に描かれるアメリカ文化は、頑固で一方的で冷たく理知的な存在です。


ですが、日本型ヒーローは、それを断罪してはこなかったと思うのです。
どうして相手はそう考えるのか。こちらの知らない理由があるのではないか。わかりあうにはどうすればいいか。信じる心、熱い心で相手の心を溶かすのが、いわば、王道でしょう。


もちろん「相手の立場を理解するんだ」という態度にも傲慢さは潜みます。気を付けなければ、それは単なる上から目線になりかねない。
考えて見れば、アメリカからは日本も似たように見えているかもしれません。たとえば部外者お断りの内輪の了解で閉鎖している社会、と、いったように。


いずれにせよ、そこにおいてすべきなのは、糺弾ではない。
事実を見すえながらも、相手を信じ、向かい合い、名前を呼んで手を差しのべることではないかと思うのです。
私が日本の漫画から(アメリカの、世界中のお話から)学んだのは、そういうことです。

で、結局、坂本君はどうなったの?

http://itpro.nikkeibp.co.jp/article/Watcher/20061206/256081/
一つ上のヒューマンマネジメントだそうです。

各種トラックバックを見てると、「俺が坂本君だったら、会社の仕事は上司の顔色だけみてテケトーにやることにするか、早々に転職するかどっちかに決める」と言っております。で、俺も、坂本君だったら、そうするだろうなぁと思うんですが。

この記事の筆者に聞きたいのは、「今、坂本君はどうしてるんですか?」という一点ですね。
これを行ったのが何ヶ月、あるいは何年前かわかりませんが、その坂本君に、この記事を見せてみてほしい。
もしかしたら、「あぁ、これは痛いことだったけど参考になった。このせいで今の自分がある」と言ってくれるかもしれない。もちろん、そうでないかもしれない。

人を育てる時に、5分後の結果だけ見ていてもしょうがないでしょう。気になるところです。