アイアンクロー

小学生のときのプロレスはいつもいつも金曜夜八時三菱電機提供のTVでしたが、二度だけ力道山のリングを見たことがあります。嬉しかったなあ。外人レスラーのトップはジェス・オルテガだったでしょうか。そのころすでにオルテガを凌駕する「鉄の爪」をもつ凄いプロレスラーがいるという噂は聞いていたように覚えています。それ以来「アイアンクロー」はフリッツ・フォン・エリックの代名詞としてしっかり脳裡に刻まれています。そんなわけでノスタルジックな気分に誘われ早々に映画館に足を運びました。

調べてみるとフリッツ・フォン・エリックがはじめて来日したのは一九六六年十一月、当時わたしはもうプロレスから離れていたけれど、高名なプロレスラーの来日の話を聞き、あるいはTV観戦したかもしれませんが確かではありません。

もっとも映画の重きは家族一体となってチャンピオンをめざしたエリック一家が遭わなければならなかった災厄であり、「呪われた一家」と囁かれたエリック家の子供たちの運命にあります。

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一九八0年代はじめ元AWA世界ヘビー級王者のフリッツ・フォン・エリックに育てられた次男ケビン、三男デビッド、四男ケリー、五男マイクの兄弟は、父の教えを受けプロレスラーとしてデビューし、やがて六男のクリスも参戦します。ところが三男のデビッドが世界ヘビー級王座戦への指名を受けたあと日本でのプロレスツアーで急死します。これを機にエリック家はまるで災いが押し寄せるような事態となり、いつしか「呪われた一家」と呼ばれるようになっていきます。

すでに長男ハンスは不慮の事故により早世、デビッドは日本で急死、ケリー、マイク、クリスは自殺、健在なのは次男のケビンだけでした。この事態に家族のありようがどのように介在しているのか、そこのところが問いかけとなっています。

エンドロールでは、いまケビン夫妻は牧場を経営し子供、孫たちと大家族で暮らしているとテロップが流れます。このあと浮かんだのが「うちつけにしなばしなずてながらへて/かかるうきめをみるがは(ママ、さ)びしさ」という良寛の歌でした。文政十一年(一八二八年)越後を襲った大地震に際しよんだもので、地震で死なず、なまじ生きながらえたために、こうした辛いありさまを見なければならない、との意で、生きてるに越したことはないけれど生き長らえたために寄せてくる哀しみもある。良寛を介してえらく偏った解釈をしているかもしれませんが、ケビンに対するわたしの忖度です。

(四月九日 TOHOシネマズ日比谷)

 

英語のノートの余白に(13) 文末の前置詞をもう一度

一九五五年にリリースされたアルバム「ヘレン・メリルウイズクリフォード・ブラウン」に収めるYou'd Be So Nice to Come Home To (作詞作曲コール・ポーター)はジャズヴォーカルの名唱と評価され、長らく「帰ってくれたらうれしいわ」や「帰ってくれればうれしいわ」の邦題で親しまれてきた。ところが、いつのころからかその訳はおかしいと指摘されるようになった。

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和田誠『いつか聴いた歌』の単行本が文藝春秋社から刊行されたのは一九七0年代だったと思う。ここでは「帰ってくれれば嬉しいわ」とあったのが一九九六年に文春文庫に入った際には「帰った時のあなたは素敵」の曲名に改められていた。

このかんの事情について和田誠は《LPの解説で、この曲は「帰ってくれたら嬉しいわ」と訳されていた。ぼくは(そして多くの人が)その翻訳を何の疑いもなく受け入れていた。二十年近くたってから「あれは誤訳である」というエッセイを読んでぼくは愕然とした。「帰ってくれればうれしいわ」だと「私」が家にいて「あなた」が外にいることになる。本当は外にいるのは「私」で、私が帰ったら「あなた」がいることが嬉しい、というのが正しい訳だということである。》と述べている。

英文法的には文末にToがあると帰るのは「私」で、家には「あなた」がいることになるという。わたしはこれについて「英語のノートの余白に(10)」(2023/12/5)で話題にしたが文法的に明確な説明はできなかった。そこで《家をめざして(文末のto)、帰ったとき、そこにあなたがいたら、暖炉のそばにいてくれたらどんなにか嬉しいだろう、といったふうに解釈しているが、完璧に理解したのかと問われると自信はない。》と書かざるをえなかった。

ところが先日、里中哲彦『日本人のための英語学習法』(ちくま新書)を読んでいると、この曲名が扱われていてそこに解があったのである。まず里中氏の例題を見てみよう。

He is not easy to please.を文頭をItにして書き換えるとIt is not easy to please him.となる。彼を満足させるのは容易ではない。彼は気難しい人だ。もうひとつ

English is easy to learn for many Europeans.はIt is easy to learn English for many Europeans.となる。多くのヨーロッパ人にとって英語は学びやすい。

そこでYou'd Be So Nice to Come Home To.はIt would be so nice to come home to you.となる。こうして「あなたが待っている家に帰れたら、(私は)どんなに嬉しいことだろう」である。

『日本人のための英語学習法』が呼び水となったのか、Wikipediaにある曲の解説にはこうあった。

《原題は、コール・ポーターらしいとも言えるが、英語文法的にはかなりまわりくどい表現となっている。/日本語訳する際に問題となりやすいのは最後の「come home to」の「to」である。これはTough構文と呼ばれるもので、文頭の「You」が「come home」の目的語になっている表現であり、原題を言い換えるならば「It would be so nice to come home to you.」となる。家に帰るのは「私」ということになる。》

ネットではこの曲の歌詞を訳した小沢理江子さんが「Jazz&Popsボーカリスト 小沢理江子のブログ」に《実はこの曲の訳についてはさまざまな論争があります。/まず、最初のタイトル部分をどう訳すか?いったい帰るのはあなたなのか私なのか?本当は

『あなたがいるハズのところに、私が帰れたら素敵だわ』という訳が正しいとか。

 この曲が戦争で帰りたくても帰れない兵士の間で人気になったという事実を考えると、こちらの訳のほうが正しいのでは?と解釈して、今回はそう訳しました。》と書かれていた。

おなじくブログ「Interlude by 寺井珠重 ジャズクラブの片隅から…」には《You'd Be So Nice to Come Home To.の末尾の‘To ’ は目的語を導く前置詞、なのに目的語自体がないのは、それが主語と同じだから。こういう場合は、目的語を入れてはだめ。受験英語サイトを見ると、そういうのは「欠落構文」と呼ぶらしい。》《次によくわからないのが ’Come Home To You‘ということばの意味。‘come home’なら’家に帰る’だけど、そこに‘To you’が付くとどうなるの?私が調べた英和辞書には、イディオムとしての適切な説明はなかった。そこで、ネイティブ用の便利な無料辞書サイト、The Free Dictionary.comを調べてみる。すると、以下のような記述が!

come home to someone or something

to arrive home and find someone or something there.( 帰宅して、’to’以下の人、あるいはそれ以外の何かを見つけること) これだ!‘Come Home To You’とは、「自分の家に帰ると、あなたが居る。」という意味だったのだ。》

『いつか聴いた歌』にはこの曲について、本当は外にいるのは「私」で、私が帰ったら「あなた」がいることが嬉しい、というのが正しい訳だと、あるアメリカ人に話したところ「私は二人一緒に家に帰る歌だと思ってた」と言ったとあるから、Tough構文とか欠落構文はときにアメリカ人をも迷わせるのかもしれない。

文末の前置詞が悩ましいのに変わりはないけれど、それでもようやくYou'd Be So Nice to Come Home Toの英文解釈はこれですっきりした。なんだか愁眉を開いた気分である。

東京マラソン2024

三月三日。東京マラソン2024を走り、なんとかフィニッシュできた。

一月末に風邪をひいて腹具合が悪く、ようやくよくなったと思ったら次には喉にきて鼻水、咳が出るようになり、風邪が抜け切るのを待ってトレーニングを再開したものの肝心の距離を延ばす練習は不十分のままで、当日は無理せず楽しみながら行けるところまで走ろうと考えていたが、案に相違してのフィニッシュだった。

SNSに従妹から「体調が万全ではないのに、凄いです!!お疲れさまでした。まだまだ、頑張れますね」と書き込みがあり「ありがとうございます。今回は執念の完走と思っていただければありがたいです」と返事した。自己満足とは承知しているが、正直いまの率直な気持で、これからの走りに繋げたい。

帰宅して銭湯へ行き身体を癒した。毎度のことながらレースのあとの銭湯は泣きたくなるほどありがたい。

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ウエアは上下とも黒の暖かめのもの。一度でもトイレへ行くと時間のロスが大きく、これを着たのは正解でした。

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三月四日。起床してスマホを見ると大学で同級生だったD氏から「今年も出場されたのですね。お元気ですね!同年代としては驚異的です!十歳下の友人が先日、大阪マラソンのハーフに出て、歳を弁えず、などと言うので、あなたの例を挙げさせて貰いましたら、驚いてましたよ」とおたよりがあり、「ありがとうございます。ちょっと前まではフルでもハーフでもマラソンは完走できなくなれば終わりと思っていましたが、年齢を重ねるにつれて、こんなチャレンジと楽しみを完走できなくなったといって手放すのはもったいないと考えるようになりました。そう思って見ていると、とくにフルマラソンではfun running で行けるところまで走ってみようとしていらっしゃる方がけっこういるようです。加齢とともに頭脳を鍛えるのはますます困難になりますが身体を鍛えるのはいま少し余地がありそうです」と返信した。

写真は景品のメダルとウェア。ふだん着るにはちょいと恥ずかしいな。

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ところで昨日のレースでは何ヶ所かでウクライナ国旗が振られ、また台湾の旗と「加油!」(ファイト!)のボードが掲げられていて、せめてもの心配りでウクライナには手を振り、台湾には手を振るとともに中国語で「台湾、いいぞ!」とエールを送った。なおウクライナについては《ウクライナから義足ランナーのロマン・カシュプールさん(27)とユーリ・コズロフスキーさん(41)が東京マラソンに参加した。2人とも、2014年から始まったロシアによるウクライナ東部への軍事侵攻で、戦闘中、地雷や手投げ弾で片足のふくらはぎから下を失った。今回は、昨年2月に東部ルハンスク州で戦闘中に負傷し、脊髄(せきずい)損傷を負ったデニス・ドスージーさんの治療用装置の費用を集めるため、大会に参加した。ウクライナは原則18~60歳未満の男性の出国を禁止しているが、2人は障害者であることなどを理由に来日した》との記事があった。

午後は上野へ出てスタバで本を読み、音楽を聴き、TOHOシネマズで映画を観て半日を過ごした。音楽は鈴木章治とリズムエース+ピーナッツ・ハッコーの「鈴懸の径」から入り、鈴木章治の別バージョン、他のアーティストによる演奏と大好きな「鈴懸の径」のオンパレードそして映画は マ・ドンソクの 痛快編「犯罪都市 NO WAY OUT」だ。 マラソン明けの身体と心にゲージュツ作や問題作はなじまない。

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ネットに2022年11月場所で大相撲力士を引退した豊山東京マラソンを走った記事があった。

《大相撲の元幕内・豊山の小柳亮太氏(30)が3日、東京マラソンに出場し、初めてのフルマラソン挑戦で見事完走。「血ヘド吐きながら頑張りました!」と振り返った(中略)両足を引きずりながら、手元の時計で5時間31分53秒でゴール。「本当に血ヘド吐きながらって感じで、大変でしたけど完走できてよかった」と晴れやかな表情だった。今回の挑戦の経緯について、昨年10月に行われた東京レガシーハーフでマラソンデビューを果たした。2時間8分25秒で完走し、「イケるなと思って、東京マラソンに出場しました」と語った。小柳氏は現役時代の体重は180キロを超えていたが、引退後約80キロの減量に成功し、現在の体重は105キロ。》

ちなみにわたしは昨年の東京レガシーハーフが2時間7分36秒、今回の東京マラソンが6時間34分51秒。昨年のような筋肉痛こそなかったけれど、後半の後半は足が上がらなくなり、ここで元豊山関と1時間余の差がついた。

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寺田寅彦を追悼した文章や回想記を集成した『近代作家追悼文集成[25]寺田寅彦』(ゆまに書房平成四年)を読み終えたところで久しぶりに寅彦の随筆を読みたくなり、その前に寅彦がモデルとされる水島寒月をフィーチャーしながら『吾輩は猫である』を、そしてよい機会だからと奥泉光『「吾輩は猫である」殺人事件』を再読、そうして内田百閒『贋作吾輩は猫である』に進み、全集のおなじ巻に『東京焼尽』が収められていたのでこれも読み、寅彦の随筆は保留となっている。ほんと渡辺真知子のヒット曲「迷い道」にあるように、ひとつ曲り角ひとつ間違えて迷い道くねくね、である。

水島寒月君には橋の欄干から飛んだら川ではなくて橋の上に落ちたエピソードがある。これは漱石、虚子、四方太、鼠骨、寅彦たちで飯を食っていた折り、鼠骨が語ったエピソードだと、寺田寅彦が「高濱さんと私」に書いている。ある新聞記者が吾妻橋から投身しようと欄干から飛んだら後向きに飛んで橋の上に落ちたそうで、これが『猫』では寒月君の話になった。『猫』には寺田寅彦が提供した首吊りの話をはじめ、漱石ならびに友人、弟子たちの談論風発のなかからいろんな話題が取り入れられていて、こうした『猫』の周囲を迷い道くねくねしてみるのも一興である。

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何回目かの『吾輩は猫である』では、長い顔にヤギのような髭を生やした哲学者然とした八木獨仙が苦沙味先生にレクチャーするところがいちばん印象に残った。

「寡人政治がいかんから、代議政体にする。代議政体がいかんから、又何かにしたくなる。川が生意気だつて橋をかける、山が気に喰はんと云つて隧道(トンネル)を掘る。交通が面倒だと云つて鉄道を敷く。夫で永久満足が出来るものぢやない」

「西洋の文明は積極的、進取的かも知れないがつまり不満足で一生を暮らす人の作った文明さ。(中略)山があつて隣国へ行かれなければ、山を崩すと云ふ考を起す代りに隣国へ行かんでも困らないと云ふ工夫をする。山を越さなくとも満足だと云ふ心持ちを養成するのだ」。

「交通が面倒だと云つて鉄道を敷く」なんてくだりは在来線は不便だからと新幹線をつくり、新幹線網が出来たと思ったら、次は整備新幹線なるものが必要だという。作らなければ財政負担はなく金はかからないが、作るとなると金がいる。そのために政治家は推進アクセルを踏んで自分の功績にする。そうしているうちに少子高齢化が進み、乗客は減り、やがて経営危機に陥るかもしれない。やれやれ。

吾輩は猫である』には物語とともに、逸民たちの座談、人物論、文明論、随筆などいろんな要素が入っている。風呂敷のような重宝さで、しかしこのような便利さを漱石は手放してしまい、残念ながら以後の作品の基調はお堅い物語となった。

一九0七年(明治四十年)四月夏目漱石は一切の教職を辞して朝日新聞社に入社した。高浜虚子はこの入社を機に、これまでは「道楽半分」であった創作が「是非とも執筆せねばならぬ職務」となったため創作に感じていた気ままや楽しみの度合は減退したと述べている。漱石が熊本で少し習った謡をふたたび稽古するようになったのは朝日入社のころだったし、晩年には絵を描いたり詩作に励むようになった。「氏も道楽なしには日を暮す事の出来ない人であったようである 。大学の先生をしている間は創作が道楽であった 。創作が本職になってからは謡や絵や詩が道楽となった 」のである。

朝日新聞には『虞美人草』『坑夫』『文鳥』『夢十夜』『三四郎』などが続々と連載された。その文業を讃えながらも虚子のいう「大学の先生をしている間は創作が道楽」だったころに書いた『吾輩は猫である』のような作品をもっともっと読みたかったといささか残念な気持もある。

なお漱石の謡についてはこんな逸話がある。ある日、寺田寅彦漱石の謡を初めから終いまで黙って聞いていたが 、済んでから 、先生の謡はどうかしたところが大変拙いなどと冷評を加えた 。そうすると漱石氏は 、拙くない 、それは寅彦に耳がないのだ 、などと負けず応酬した。寅彦はまた漱石の謡を巻舌だと言ったこともある。流儀は熊本で加賀宝生を習っており、再度の稽古では宝生新を師として下宝生を謡った。

ついでながらわたしのふるさと高知とご縁のある方で、わがベストスリーは寺田寅彦(東京で生まれ高知で育った)、京極純一(おなじく生まれは京都)、父竹内綱が高知の人だった関係で高知を選挙区としていた吉田茂吉田茂総理大臣には高知からやって来た陳情団を、おれの職ではないと追い返したという、わたしの好きな挿話がある。息子の吉田健一は熱烈愛読する文士だ。坂本龍馬についてはよく知らずいずれ勉強します。

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三月十六日。帝国劇場の昼の舞台で「千と千尋の神隠し」を鑑賞、座席は一階中央の前方で、あらためてお誘いまたチケットを手配していただいた友人に感謝だった。千尋役は橋本環奈、上白石萌音川栄李奈福地桃子が交互出演していて、わたしたちが観たのは橋本環奈ヴァージョンだった。

ご存知のように、物語は千尋という少女が 両親と引っ越し先に向かう途中、トンネルから不思議の世界へ迷い込むところからはじまる。その世界は、台湾の九份を感じさせる街で、九份大好きな当方としては、舞台でどのようなセットが組まれるかたのしみだった。期待どおり雰囲気のある装置で、それにライトが効果的で雰囲気が出ていた。

全二幕、開演十三時、終演十六時五分、あいだに二十五分の休憩という長丁場ながら幕が開くとたちまち時間は意識から消え、舞台に見入った。劇中は姿を隠していたが、フィナーレで登場したオーケストラの生演奏も心地よいものだった。舞台がはねたあとは一同四人、銀座に出て蕎麦屋さんで一献また歓談とハッピーな一日でありました。

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翌朝目が覚めてボケーとしていると「千と千尋の神隠し」の舞台と「油屋」という湯屋が浮かんだ。千尋は湯婆婆という魔女のもとで千という名を与えられ、湯屋で働かされる、この湯屋の屋号が「油屋」で、湯婆婆の語るところによるとここは八百万の神々が疲れを癒しに来るお湯屋だった。

湯屋とは別に「油屋」という旅館があり、軽井沢で堀辰雄立原道造またかれらと親しい作家たちが定宿としていた。わたしの父が亡くなって、葬儀をお願いしたのは「油屋」という葬儀社だった。灯火用、髪油、醤油などの油類を売っていた店が何かのきっかけで暖簾はそのままに旅館や風呂屋や葬儀屋に商売替えしたのか。ちょっと気になる「油屋」さんなのだ。

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三月二十四日。大相撲三月場所は尊富士が靭帯のけがを押して土俵に上がり、新入幕での優勝という偉業を達成した。この日、NHKテレビの解説を務めた伊勢ヶ濱親方は「靭帯が伸びていますからね。本来は相撲はとれないですよ。でもこれを止めたら、止めたほうも後悔しますし、止められたほうも後悔しますよね」と語った。まさしく名言ではないか!

大相撲中継がはじまるまでの午後のひととき、 ちくま文庫の新刊、日影丈吉『ミステリー食事学』を読み終えた。「女と毒薬」「凶器としての食品」と禍々しい雰囲気からスタートしラストは「食べ物の行きつくところ」として「落とし紙の経済学」「便器の構造学」「便所怪談」を話題にして、遺漏なく一気通貫、首尾一貫の食事学だった。

オビは「ミステリファン最善の古今東西"グルメ随筆"」「異色の名著、堂々復刻!」、書名は「ミステリー」、オビは「ミステリ」としたのは初出が「ハヤカワ・ミステリ・マガジン」連載だったから気を遣ったのだろう。

「復刻!」とあるように本書は「現代教養文庫」の一冊だった。単行本『味覚幻想』(1974年)が現代教養文庫に入ったのが一九八一年で、そのころだっただろう、この文庫を買ったが、忙しさにとりまぎれ、すこし読みかけてそのままとなり売却もしくは散逸してしまった。食事学に向かうゆとりを欠くわたしであったがいまは余裕たっぷりの無職渡世である。余裕は時間のことでお金ではないので、念のため。

アテネ・フランスを卒業後、フランスに留学し、帰国後はフランス料理の研究指導にあたったこともある作家の食事本らしく書中には多彩な蘊蓄と凝った料理が詰まっている。そこでイタリアで買ったトリュフ塩も少くなっているので通販に注文し、わたしはテレビの相撲に向かった。

漱石と相撲

『近代作家追悼文集成[25]寺田寅彦』(ゆまに書房平成四年)に収める鈴木三重吉「寺田さんの作篇」に、ある日夏目先生のところへ伺うと、先生は「今寺田が帰つたところだがね、僕がアインシュタインの原理といふのは大体どういふことかねと聞いたら、それは話したつて先生には分らないな。と言つたよ」と苦笑されたとあった。

あっけらかんとした人間関係であり、安倍能成が、漱石門下での寺田寅彦の扱いは「お客分格」で、夏目先生は若い者たちの美点と長所とを認められたけれども、寺田さんに対する尊敬は別であったと述べているのはこうしたところにも現れているようだ。

鈴木三重吉は寅彦の人間像について、われわれの周囲の、すべての自然、人間、人間生活に関する普通の現象について科学的、思索的であり、そこにはナイーブでヒューマンな抒情詩的な感性が同居していると論じた。

また随筆については、むつかしい科学方面の学者は、文芸方面ではこみいったむつかしい理屈なぞ微塵もいったことがなく、特徴的なのは科学的頭脳、個性的な着目と追求、それをわかりやすく説く、と指摘している。そういえば寅彦自身、科学者と呼ぶ合理主義者のほうがふさわしいといっていた。

残念なのはわたしが寅彦の科学方面の著作を読めない、読んでも理解できない点で、ここは悔しまぎれに漱石とおなじく、と書いてなぐさめとしておこう。

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内田百閒『追懐の筆 百鬼園追悼文集 』(中公文庫)によると小説家、児童文学者また児童文化運動に尽力した鈴木三重吉は「頬の皺のひだが深く、意地の悪い顔」をしていて、 秋山好古大将によく似ていたそうだ。百閒は一時期陸軍士官学校に勤務していたから秋山大将の顔はよく知っていた。

その『追懐の筆 百鬼園追悼文集 』の森まゆみさん執筆の解説に「寺田寅彦は一八七八年高知生まれ、熊本の五高時代からの漱石の最も年長の弟子である。兄弟子という感じかもしれない」とあった。ふるさと高知のわたしの家は寅彦の育った家とそれほど遠くなく、長年ここが寅彦の生家だと思い込んでいたが、何かで寅彦は高知県出身だが出生地は東京と知った。

「明治十一年十一月二十八日 東京市麹町区平川町五丁目で生まれた」『寺田寅彦全集 文学篇』第十八巻年譜

ついでの話になるけれど、内田百閒は秋山好古大将の自宅のある目白台の高田老松町の屋敷町を友人と酔って練りいた騒いた際、ご近所に何かの翻訳をした方がいて「おいおい、ここだぜ」「ここが日本一の誤訳の大家のお住まひだよ、わつははは」と騒いだ。

ここのところで森まゆみさんの解説に「この家がどこで誰か私は分かるが、あえて書かないでおく」とあった。自分の持ってる知識だけど読者には教えてあげない、こんな書き方をするのなら、はじめから話題にするほうがおかしい。そもそも触れるべきではなく、嫌味な感じしか残らない。

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二月五日。ようやく風邪が抜け、ランニングを再開した。三月三日の東京マラソンはリタイアを織り込んだ出場となるが、fun runningもまたよいではないか。

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もうひとつ『近代作家追悼文集成[25]寺田寅彦』の話題を。

圓地文子が「寺田先生の『高さ』」に「背の高い先生が頤を少し上向けた特徴のある姿勢で、真直ぐに街を歩いていらつしやるお姿がはつきり心に浮ぶと、私は先生のいらつしやらない世の中を、少し色あせたと思ふ程、わびしい雰囲気に閉ぢられてしまふ。」と書いている。

作家の的確な表現が心を打ち、わたしもわびしい雰囲気に閉じられてしまうほどだ。

その「頤を少し上向けた特徴のある姿勢で、真直ぐに街を歩いていらつしやる」ひとがある日の銀座の街を「(映画館の)邦楽座を出て例の橋を渡りながら西の方を見ると、雨上りの空に夕やけがして、スキヤ橋の上に紫色の富士山のシルエットが浮き上り両岸のビルデングが蒼く紫に美しい色彩のマッスとなつて重畳して居た。(中略)一人でニヤニヤしながら裏通りをくゞつて松坂屋の前迄出た頃は暮色蒼然、街頭の燈光水の如くであつた」と、教え子で海外留学中の藤岡由夫に宛てた手紙に書いている。このあと、ホームシックを起こしてはいけないと続くけれど、こんな文章を読まされたら郷愁は増してしまいます。

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手許に『ワードパワー英英和辞典』という辞書がある。名前の通り英英辞典に和訳がついている。増進会出版社刊2002年2月初版第1刷。便利な辞典だが絶版になっていて、「日本の古本屋」のサイトでかろうじて一冊見つけて購入した。語義や例文のほかにカコミのツッコミ記事があり、これが面白い。

以下泥棒について。thief(通常、暴力を働かないでこっそりと物を盗む人に対していう。そのような犯罪はtheft〈窃盗〉という)。robber (銀行や店などから盗みを働き、暴力または脅迫をすることが多い)。burglar (多くは夜に家や店などに侵入して物を盗む)。

shoplifter (店が開いているときに押し入り、金を払わないで物を持っていく)。mugger(路上で人から盗みを働き、暴力または脅迫をする)。俗に泥棒は人類最古の職業の二つのうちの一つとされているからか、用語法も厳格である。ついでながら物を盗むのはsteal、強奪はrob。

もうひとつ。riceは一語で日本語の「もみ、稲苗、稲、米、飯」に相当し、生育の各段階、さらに調理後まで表す。対して日本語の牛肉に相当する英語はbeefだが牛の部位によってchuck, brisket, fillet, plate, flank, rib, sirloin, shank, roundといったふうに細かい分け方で呼ばれる。米食中心の食文化と肉食中心の食文化がそれぞれ言葉に反映している。

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戦時中、溝口健二監督は「元禄忠臣蔵」を撮ったのは知っていたものの、フィルムの有無を含め、それ以上のことは知らず、わたしには幻の名画だった。ところが先日U-NEXTを眺めていると「元禄忠臣蔵」前篇、後篇が(1941、1942年)あり、さっそく視聴に及んだ。

原作は劇作家真山青果、脚本は原健一郎と依田義賢。前篇は討ち入り前、後篇は討ち入り後だから討ち入りのチャンバラは中抜き、皆無という大胆な構成なのに、アクション大好きなわたしでも惹きつけられた。流麗なカメラワーク、練られたセリフ(フィルムが古くいささか聞き取りにくいけれど)、松の廊下をはじめとするセットなどなど。

ワンシーン、ワンカット、長回しの凝った映像は流麗にして格調高く、これぞ溝口健二なのだった。ラストをまえにとつじょお小姓姿に身をやつした高峰三枝子が登場し、切腹に臨む磯貝十郎左衛門との悲恋のエピソードが描かれる。戦意高揚映画として製作された作品にこのシーンを組み入れたのは溝口の硬骨漢ぶりの表れなのだろうか。さっそく真山青果の原作を古書店に注文した。

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日中戦争が勃発したのは一九三七年七月七日。山中貞雄召集令状が届いたのは八月二十五日、続いて小津安二郎が九月十日に近衛歩兵第二連隊に歩兵伍長として入隊した。小津の入隊の前日には壮行会が催され、入隊当日は日の丸の小旗がうち振られるなか小津は連隊に歩を進めた。見送りのひとりに田坂具隆がいて、まもなく自分も応召されるだろう、ならばそれまでにぜひともよい作品を撮りたいと心に誓った。それが一九三八年一月に公開された「五人の斥候兵」だった。尾形敏朗小津安二郎 晩秋の味」(河出書房新社)にある「五人の斥候兵」の製作エピソードで、この作品がAmazon Prime Videoにあった。「元禄忠臣蔵」に引き続いてのお宝発掘である。

日中戦争の初期。その部隊は二百人の半数まで失いながらも攻略を終えた。そうして軍曹と部下四名が敵軍の現状を探る任務に就き、敵のトーチカを発見したがかれらはすでに敵軍に四方を囲まれてしまっていた。

劣化の激しい作品ながらカメラワークがとてもよい。ただし陸軍賛美と戦意高揚色が強くて、キネ旬一位の評価は相当に時代が作用していると思った。もっともわたしが見たのは戦後米国に接収され一九六八年に返却された新版公開版でオリジナルフィルムは現存していない。

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丸谷才一の創作集『横しぐれ』は一九七五年(昭和五十年)講談社から刊行されている。わたしが『笹まくら』を読み感銘を受けたのは七十年代もだいぶん終わりのほうだったから「横しぐれ」(初出は「群像」昭和四十九年八月号)を手にしたのはおなじころか八十年代はじめだったと思う。

語り手の父と、父の友人の黒川先生とが、太平洋戦争がはじまった前年の晩秋初冬のある日、道後の茶店で行き会った酒飲みの乞食坊主がいて、ひょっとすると種田山頭火(1882-1940)ではなかったか、といったところからはじまる推理また追跡劇の色彩をもつ名篇で、わたしはこの小説で無季自由律俳句を旨とした山頭火という俳人と、その関係でおなじ荻原井泉水門下の無季自由律俳句をよんだ先人尾崎放哉(1885-1926)を知った。

しかしながら尾崎放哉についてはときに気になるばかりで四十年以上が過ぎ、ようやく先日、吉村昭『海も暮れきる』でその生涯をたどることができた。一高、東大出身の学歴エリートながら生命保険会社を二度しくじり、妻に去られ、流浪の身となった風狂俳人である。

『海も暮れきる』に併せて石川桂郎俳人風狂列伝』(河出書房新社、元版は昭和49年角川選書)を参考とした。本書で扱われた俳人は目次順に高橋鏡太郎、伊庭心猿、種田山頭火、岩田昌寿、岡本癖三酔、田尻得次郎、松根東洋城、尾崎放哉、相良万吉、阿部浪漫子、西東三鬼の十一人、高橋、岩田、岡本、田尻、相良、阿部は名前さえ知らなかった。また、どうしてこの人がここにはいっているの!?と意外だったのが松根東洋城だった。

松根東洋城(まつね とうようじょう、1878~1964)については漱石門下の優等生のイメージがあったが、この人には瞠目の女性問題があり「列伝」にランク入りしたのだった。

漱石門下では、平塚らいてうとの自殺未遂事件ほかいくつかの女性スキャンダルがあった森田草平がいるがもうひとり大物がいたことになる。

松根東洋城は一高から東大、転じて京大法科を卒業、一九0六年宮内省に入り式部官、書記官、会計審査官等を歴任し、一九一九年退官した。早期退官の原因はおなじ宮内省式部官の某男爵の妻との不倫だった。

俳人風狂列伝』には東洋城も相手の夫人も真剣な恋であり、東洋城は自分の人生まで賭けた恋だったとあるが、このあと「ただ女癖の悪さについては、男爵夫人の場合とちがってのちのち種々の女性問題を起こしている」と記述されている。

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松根東洋城の不祥事はさておき、漱石門下いちばんのお騒がせ、森田草平漱石との相撲をめぐるやりとりが松浦嘉一「木曜会の思い出」(『漱石追想岩波文庫所収)にある。漱石相撲ファンで、よく足を運んでいて、あるとき草平が「相撲を面白く見ている人は、大抵、満足な生活を果している人ばかりのような気がするね。僕は、金に少しも苦労がない人達ばかりのような気がするが、どうです、先生」といえば漱石は「そうだろうよ。九州あたりから業々、見にくる人もあるんだからね。すると、又馬関あたりの芸者が、その人の跡を追って、東京へやってきて、一緒に相撲を見ているんだからね。世の中にはいろんな酔狂があるもんだね。僕は相撲を見ていて、時々、果して人生はこれでいいものかと思うね、あははは……」と答えた。

わたしはここ数年、東京での本場所の一日は国技館へ通っていて、自分では相撲ファンのはしくれと任じている。ビールを飲みながら相撲を観戦するのは至福のひとときで、大一番は別だが、仕切りの時間は心をゆるく、ゆったりしてくれる。「果して人生はこれでいいものかと思うね」という方には「よいのですよ」と答えておこう。

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 二月二十九日。東京マラソンのエントリーに東京ビッグサイトへ行って来た。ここはわが家からずいぶん遠い。自宅から上野まで歩き(20分)、山手線で新橋へ(8分)、そうしてゆりかもめ東京ビッグサイト駅へ(22分)、これに乗り換えと待ち時間が加わる。毎度のことながらホントやれやれで、本番より疲れるのじゃないかという気になる。エントリー会場では観光を兼ねたとおぼしい外国人ランナーがずいぶん多くいたようだった。

来年、わたしは後期高齢者に分類される。ずいぶんとタイムは落ち、レースとりわけフルマラソンは厳しい。以前は長距離走は完走できなかったら終わりと考えていたけれど、だんだんと、むやみに完走にこだわらず行けるところまで行ってみようといった気持が強くなってきている。

高齢者のスポーツのありかたについてはあれこれ考えているがなにしろ空前絶後、はじめての体験なので見極めをつけるのは難しい。

三楽

幕末、越前国国学者歌人橘曙覧(たちばなあけみ)の「独楽吟」は「たのしみは艸のいほりの筵敷きひとりこころを静めをるとき」にはじまる五十二首の連作で「たのしみは~とき」という型で繰り返される。

「たのしみは妻子むつまじくうちつどひ頭ならべて物を食ふ時」

「たのしみは朝起きいでて昨日まで無かりし花の咲くを見る時」

日常の生活でふと覚えた幸福感を素直に詠んだその詠みぶりは時代を問わず読者の琴線に触れる。このような生活のさまざまな場面で心の襞に感じたたのしみを抽象かつ窮極に表現しようとするとき古人は三つに括ることが多かったようだ。

「およそ人の楽しむべき事、三あり。一には身に道を行ひ、ひが事なくして善を楽しむにあり。二には身に病なくして、快く楽しむにあり。三には命長くして、久しく楽しむにあり。富貴にしても此三の楽なければ、真の楽なし」と述べたのは貝原益軒で、人生のたのしみは三つがほどよいらしい。

俗に「飲む、打つ、買う」だとか「酒と女と煙草をやめて百まで生きた馬鹿もいる」という。下世話に過ぎるがいずれも三楽であって、どれかひとつだけとなると中毒に堕すようで不気味だし、色と欲のふたつとしてもおさまりが悪い。

「飲みくひも色も浮世の人の慾程よくするが養生の道」(水野沢斎)というところが妥当なところだろう。

中国は宋の時代、趙季仁という人は、世にある素晴らしい人と書と山水を知り尽くしたいと願った。人とのまじわり、読書、自然の三つを人生のたのしみとしたのである。まことに均衡がとれていてそのぶん優等生の答を見るような気がしないでもない。

永井荷風が「葷斎漫筆」で「人生老後の清福」との条件をつけて挙げているのが読書とお茶と熱燗だ。いずれも伴侶を必要としないところがよく、妻妾の愛は恃むに足りず、子孫は憂苦執着の種、朋友も生きているあいだはまだしも亡くなればそれまで、上の三つはその点で都合がよいというところが荷風らしい。

奇矯なのは江戸時代、会津藩保科正之の家中にあった儒臣小櫃与五右衛門の挙げる三楽だ。酒を飲むとうれしきこと三つと口にする五右衛門に周囲が問いつめたところ、好きで貧乏に生まれて贅沢を知らぬがひとつ、軽い身分に生まれて煽てられることもなく、悪いときには悪いと直言してくれるのがひとつ、いまひとつは大名に生まれなかったことを挙げた。そのわけは、大名なれば民の嘆きを忘れて逸楽奢侈をもっぱらにする、それを避けられるのがまことにうれしいと応じた。保科正之これを拳拳服膺して名君となったという講釈は儒教政治思想のエンターテイメント化という点でみょうに忘れがたい。

「軽い身分に生まれて煽てられることもなく」について付言すれば、この反対に重い身分に生まれて、子供のときから煽てられ、父のあとを継いで大名になったが、ある出来事をきっかけに、煽てを自覚しなければならなかった。偶然にも家臣の陰口、本音を聞いてしまったのである。その人がどのような事態を迎えなければならなかったか。菊池寛の小説「忠直卿行状記」はそこのところを描いてすこぶる興味深い。

 

 

 

平山周吉『小津安二郎』

はじめて平山周吉という活字を目にしたときは本名かペンネームか知らなかった。ペンネームだと映画「東京物語」で笠智衆の役名をそのまま用いたのだからおもしろいワザを使ったものだと感心したが、ちょいと胡散臭さも感じた。

いまはペンネームと知っている。著者の単著一覧をみるとさいしょは『昭和天皇─「よもの海」の謎』(新潮選書)で、二0一四年の刊行だから、平山周吉はこのすこしまえから用いたと推測される。

その後、どういう人なのか気になりながらその文業に接することもなかったところ、過日草思社から刊行された『昭和史百冊』を読んで胡散臭さは吹き飛んだ。文献の博捜はただならず、それらの的確な要約と引用をもとに自身の見解を示してぐいぐいと引っ張ってくれる昭和史本で、このほど読んだ『小津安二郎』はさらなる渋い光を放っていた。これまでに知ったところでは平山周吉氏は一九五二年東京生まれ、ご自身語るところの雑文家、昭和史に関する資料、回想、雑本の類を収集して雑読、積ん読していて、江藤淳の電子本全集の編纂にたずさわっているとの由である。

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さて本書『小津安二郎』、自身の不勉強を棚上げしていえば博覧強記と新資料の続出に驚き茫然となった。

そのひとつ。寺田寅彦エイゼンシュテインのいわゆるモンタージュ理論連句を繋げた映画論を書いたのはよく知られている。これにつき小津安二郎は「故寺田寅彦博士もいわれていたが、連句の構成は映画のモンタージュと共通するものがある」と「キネマ旬報」(昭和二十二年四月)で述べた。この「いわれていた」は小津が本を読んだのか、それとも寅彦が小津に直接語ったものか、どちらにもとれる。

これを著者は不明のままにしておかなかった。なんと俳句雑誌「玉藻」(昭和三十一年三月)所収の渡辺才子「映画と俳句、写生文ー小津安二郎監督を訪ねて」に小津が「私は一度連句をテーマにして何か作って見度いとかねがね思っているのですけどね。亡くなった吉村冬彦さん(寺田寅彦)が私にそれで是非作ってみないかと薦めた事がありましたがねえ。(中略)製作費や何かの点で会社がうんと云わないでしょう」と語っているのを見出したのだった。書簡の可能性も排除できないが小津と寅彦はじかに会ったことがあるとするのが妥当であろう。

小津、寅彦とも日記をつけていたが記載はなく、日付は定かでない。想像するに小津が「東京の合唱」(一九三一年)「大人の見る繪本 生れてはみたけれど」(一九三二年)で高い評価を受けたころ出会った機会があったような気がする。なお「玉藻」の主催者は高浜虚子の次女、星野立子。インタビューは一九五六年一月公開「早春」の撮影時だから前年の慌ただしい合間に行われたものであろう。

なお小津の日記一九三五年七月二十八日には寺田寅彦吉村冬彦)『蛍光板』、同年十月二十八日には『蒸発皿』の購書記録がある。後者は 一九三三年十二月に岩波書店から刊行されていて「映画の世界像」「教育映画について」「映画芸術」など映画論を多く収めている。寺田寅彦が亡くなったのは小津が本書を入手した年の十二月三十一日だった。

もうひとつ。小津の遺作となった「秋刀魚の味」では、題名の秋刀魚ではなく鱧が強い印象を残す。ささやかな旧制中学校の同窓会の席で、漢文の先生だった東野英治郎がお椀に魚をみて教え子たちに、この魚はなんという魚かな、と訊ねたところ鱧ですよと答が返ってくる、すると東野が「魚へんに豊か」と空中に文字を書く。なのになぜ秋刀魚か。

その解答は尾形敏朗小津安二郎 晩秋の味』(河出書房新社二0二一年)にあった。ここで尾形氏は森岩雄稲垣浩の回想を引用しながら、山中貞雄佐藤春夫「秋刀魚の歌」を暗唱していて、語りはじめるとその酒席にいた小津もいっしょに唱和したと述べている。「秋刀魚の味」には亡友山中貞雄の面影が秘められていたのだった。

ちなみに「落第はしたけれど」のサブタイトル「大学の四月なかばは/椎の木のくらき下かげ」は佐藤春夫の「ためいき」の「紀の国の五月なかばは/椎の木のくらき下かげ」をもじったもので、「ためいき」も小津の愛誦詩だった。

さて平山氏は『小津安二郎』について「小津と小津映画を昭和史の中に置いて見るという方法」をとったと述べている。昭和史のなかの小津はふたつの重大な経験をした。ひとつは戦争と従軍であり、もうひとつは盟友山中貞雄の戦病死だった。

日中戦争が勃発したのは一九三七年年七月七日。小津安二郎は九月十日に召集され近衛歩兵第二連隊に歩兵伍長として入隊し、上海から南京へ、さらに武漢三鎮へと赴いた。一九0三年(明治三十六年)の生まれだから平山氏が言うように「最長老の戦中派」だった。いっぽう山中貞雄は小津の召集に先立つ二週間前、「人情紙風船」が封切られた八月二十五日に召集令状が届いた。そのとき山中は手が震えて煙草に火がつけられなかったそうだ。内心はともかく「ちょいと戦争に行ってきます」と言い残して出征した小津とは対照的だった。山中貞雄の震えは予感めいた気持も作用していたのだろうか、一九三八年九月十七日河南省開封市で二十八歳の若さで戦病死した。

小津の戦争従軍体験また「小津と小津映画を昭和史の中に置いて見るという方法」を踏まえて戦後の小津作品を解析した平山氏にその作品群は「多くの無念の受け皿」と映った。

麦秋」では原節子演ずる紀子の結婚のプロセスが描かれ、「東京物語」では家族そして親と子のありようが取り上げられた。そこを貫通するいちばん大事なテーマは「憐れな敗戦国」の「精神風景」であり、そのことは小津の他の作品にも及んでいる。

「多くの無念の受け皿」に残されたのは戦争で埋没させられた死者、山中貞雄や戦友たちへの鎮魂の譜、戦争と死者の記憶の密封の拒否であった。

昨二0二三年は小津安二郎生誕百二十年、歿後六十年にあたっていた。すでに小津の文業と談話、小津を知る方の証言や回想はこれから先、出たとしてもわずかなものであろう。いっぽう田中眞澄氏のご尽力により『小津安二郎・全発言一九三三~一九四五』『小津安二郎戦後語録集成』『全日記 小津安二郎』といった基本資料も編纂整備された。田中氏の歿後となったが戦後の小津とコンビを組んだ脚本家野田高梧がその別荘、雲呼荘に備え、来訪者も自由に書き込んだ『蓼科日記』の小津関連箇所のすべても『蓼科日記抄』として刊行された。これらを基礎に今後はより精緻な、また新しい視点から小津作品は読み解かれてゆくだろう。

小津安二郎』は現時点で望みうる最大の情報量とそれを踏まえた小津作品の解読の試みである。

ただ本書にも難点がある。小津ファンを自認してきたわたしはページを繰りながら自身の至らなさを痛感し、小津のなにを見、なにを読んできたのかと無力感に苛まれたのである。

固唾を呑んで観た「ゴールド・ボーイ」

「ゴールド・ボーイ」を観ているうちに「仁義なき戦い」は撮影中ヒット間違いなしとさっそく会社は第二作の準備をしていたという話を思い出しました。そしてこの作品も続作があって然るべきだと確信しました。何回か固唾を呑んだあとのラストシーン、ここでケリをつけるのはもったいないと思っていたらエンドロールのあとに「ゴールド・ボーイ2」の前宣伝が出ました。

原作は中国の紫金陳というベストセラー作家の代表作のひとつ(中国語の原題を書くとネタバレになりますので止めておきます)とのことですが、もしも続篇がなければそれ用に改編しちゃっていいぞとわたしは勝手にOKを出していました。

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沖縄でホテルやリゾート施設などを幅広く運営している富豪の経営者夫妻が崖から突き落とされ死亡します。犯人は夫妻の一人娘の夫(岡田将生)で、夫婦ともに二十代、結婚して日は浅いが関係は悪化している。

おいおい早くもネタバレかなんて言わないで。これは物語のはじめで犯人や犯行の様子を明かす、犯人探しとは異なるプロットが特徴の倒叙ミステリーの手法です。だから犯人はやがて追い詰められてゆく、そのサスペンスで観客を引っ張って行くのだろうと推測したけれどそうじゃなかった。

犯人は人知れず突き落とし、警察は事故として処理し、完全犯罪に成功したはずだったのですが、突き落とすところがたまたま少し遠めの海岸沿いで写真を撮っていた中学生たち(羽村仁成、星乃あんな、前出耀志)のデジカメに小さく映っていたのです。しかもそのときカメラを操作していた少年は誤って動画モードにしていました。

どうやら倒叙ミステリーの基本、枠組みからは大きく逸れてゆく気配です。もちろんよい意味で。そして犯人と三人の中学生とその保護者、警察が絡んで騙し騙されに転じ、裏切り裏切られが重なるうちに犯罪は拡大再生産されます。ここから先はミステリーを紹介するマナーに反しますのであしからず。なお黒木華江口洋介北村一輝松井玲奈たちがしっかり脇を固めています。

「香港パラダイス」(1990年)、「就職戦線異状なし」(1991年)、「卒業旅行 ニホンから来ました」(1993年)など毎度楽しんでいた金子修介監督作品でしたがその後は怪獣映画を撮ることが多くなり、しばらくご無沙汰でした。でもここで大満足、やってくれました!