「萌える」という行動の安牌っぷり

○「萌える」とは

 萌えるという行動は、一般的な意味として一人のキャラクターに対してその風体や性格に対する好みを語るということである。

 それは一見、じぶんの好みを表出するとても主体的な行動だと思っていたのだけど、どうも違うらしい。

 最近、知人に「けいおん」の話を聞く機会があったのだが、なんと「けいおんは便利」らしい。

 どういうことか聞いてみると、「あのキャラが可愛い」と言っておけば話が通じるから基礎教養として抑えておくということらしい。

 まるでニュースで「最近物騒ですねえ」というように、けいおんを見ているらしい。

 この会話に置いて「萌える」という行動は単なる自分のスタンスの違いだけであり、そこに作品に対する評価は一切入り込んでいない。
 まあ入り込む必要がない作品であるという性質をけいおんは持っているけども、それはなかなか衝撃的であった。

 それとともに、現代の「スタンスを持つことの難しさ」にも思い当たる。
 漫画家の島本和彦がこのように言っていた。


「スカイライダーはよくできた作品ではない。しかし誰かに馬鹿にされるとそれは違うと言いたくなる」


○アンチに対するアンチ。信者に対するアンチの問題

 日頃作品に対して、あまり積極的に論じるほど価値観を持っていないが、人に極端な反応をされると反発したくなるという心理がある。

 人気そのものに対しての違和感であったり、そのテーマの読み取り方の違いであったりする。

 これは一時期ネットで流行した『魔王「勇者よ私のものになれ」勇者「断る!」』に対しての論争でもうかがい知れる。

http://togetter.com/li/23854

 >これは別の云い方をすれば「ある作品にかこつけて自分のいいたい/やりたいことを表明する」ということであって、作品そのものとの批評的な向き合い方ではない。まおゆうネオリベ論争あたり、そういう問題に足を踏み込んでいるような気がする。

 この「いいたいこと/やりたいことを表明する」という行為と、作品自身の評価というラインは非常に判別しづらい。たとえ発言者に自分の思想を押し付ける意図はなくとも、そう受け取ってしまえるという現実がここにはある。

 さらに作品論は「難しい話」になっていく。実際に作品をプレイしなければわからない説明をしなければならず、聞き手に対するフックが少ない。
 つまり一定以上の作品理解がなかれば「ノレない」のだ。


○「萌える」という行動の安定性

 しかし「萌え」はそれを超える。
 キャラクターの持つ記号性によって表現された、テンプレートのキャラクター性は、作品の内実よりずっと読み取りやすい。たとえ本編を見なくても、その内実を語れるという点において「けいおん!」はまさに、うってつけのツールである。

 これはもう「殺人はいけない」というレベルの前提条件であり、まさしく新しいニュース的な「無難な話」であるといえる。

 それから察するに「萌える」という行動は、自分の考えを表出すること無く作品を語れる、とても便利なツールであると言える。
 つまり作品を語るという行為において、最もベターな語り口であり、主体的に「萌え」という側面を選んでいるのではなく、それによって無用な反発を避けるための作品愛の表出だということになる。

「キャラ萌え」でしか安全に作品を語り得ない。それに、悲しさを覚えつつ、でも洗練された作品語りの作法なんかなあと思ってしまいました。

 ああ。フェルトたん可愛いよ。一番可愛いのはダブルオークアンタだけど!